400年続く宿場町・千住は、なぜ今も若者を惹きつけるの?|日光街道に息づく「変わり続ける町」の魅力【新日本風土記】

千住大橋 BLOG
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江戸時代、日光街道を行き交う旅人たちでにぎわった宿場町、千住。隅田川を行き交う舟には、江戸の暮らしを支えるさまざまな荷物が積まれ、街道には商人や旅人が行き交っていました。舟運と陸運が交わるこの町には、人と物だけでなく、富や文化も集まってきたのです。

それから400年。かつての宿場町は、今やいくつもの鉄道路線が乗り入れる交通の要衝となり、若者たちにも人気の街になりました。昔ながらの商店街には新しい店が生まれ、古い商家に残された掛け軸や屏風絵は、今も人々の暮らしの中で大切に使われています。

そして、江戸時代から続く青物市場の心意気を受け継ぐ葱商がいる一方で、学生や地域の人々が力を合わせ、新しいアートを生み出しています。

400年もの歴史があるのに、なぜ千住は古びないのでしょうか? そこには、昔からのものを守るだけではなく、新しいものを受け入れながら、自分たちの町を育ててきた人々の姿がありました。NHK『新日本風土記』「日光街道 千住」をたどりながら、変わり続ける宿場町の魅力を訪ねてみたいと思います。

【放送日:2026年10月26日(月)22:00 -23:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年10月27日(火)20:00 -21:00・NHK-BS】
【放送日:2026年11月1日(日)6:00 -6:59・NHK-BSP4K】

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  1. 千住は、なぜ江戸最大の宿場町になったの?
    1. 千住大橋が変えた、江戸の北の玄関口
    2. 舟でも陸でも運べる、便利な町だった
    3. 江戸四宿で最大の町へ
    4. 江戸の食卓を支えた「やっちゃ場」
  2. 千住で作っていないのに、なぜ「千寿葱」なの?
    1. もともと千住は、ネギの産地でもあった
    2. おいしいネギを見抜く「葱商」の目
    3. 焼けば甘く、刻めば香り立つ
    4. 千住が売っていたのは、ネギだけではなかった
  3. 千住の商家は、なぜ古い屏風や掛け軸を今も「使う」の?
    1. 商売で栄えた町には、文化も集まってきた
    2. 掛け軸も屏風も、もともとは暮らしの道具だった
    3. 「使う」ことは、傷めることではないの?
    4. 本当に受け継ぐべきものは、何だろう?
  4. 江戸の宿場町が、なぜ若者のアートの街になったの?
    1. 江戸の商人たちが育てた「文化の町」
    2. 大学がやってきて、町に新しい風が吹いた
    3. 「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」
    4. 若者だけでは生まれない、千住のアート
    5. 変わり続けるから、400年続いてきた?
  5. 千住は、なぜ若い家族にも選ばれる街になったの?
    1. 400年前の交通の要衝は、今も便利な街だった
    2. 都会なのに、どこか肩の力を抜いて暮らせる
    3. 子育て支援だけで、若い家族は集まるの?
    4. 「人気の街」と「住み続けたい街」は違う
    5. 子育てが終わったら、その街を離れてしまう?
  6. 子育てが終わっても、千住は「帰ってきたい街」でいられるの?
    1. 子育てが終わったら、町との関係も終わるの?
    2. 懐かしい町が「知らない町」になってしまう
    3. 変わっても、変わらない風景がある
    4. 千住の400年を支えてきたのは、建物だけではない
    5. 「また、ここで暮らしたい」と思える町へ
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千住は、なぜ江戸最大の宿場町になったの?

江戸時代、日光街道の最初の宿場町として栄えた千住。現在の北千住駅周辺を歩くと、昔ながらの商店街や細い路地に、宿場町だった頃の面影を感じることができます。でも、そもそも千住は、なぜこれほど大きな宿場町になったのでしょうか。その答えは、「街道」と「川」が交わる場所にありました。

千住大橋が変えた、江戸の北の玄関口

1594年、徳川家康の命によって隅田川に千住大橋が架けられました。それまで川が人々の往来を隔てていた場所に橋ができたことで、江戸と北関東・東北方面を結ぶ陸上交通が便利になったのです。そして1625年、千住は日光街道の最初の宿場町として整備されました。

江戸・日本橋を出発した旅人が、最初に宿を取る場所。それが千住宿だったのです。日光街道は、徳川家康を祀る日光東照宮へ向かう重要な道でもありました。参詣する人々や商人、荷物を運ぶ人足たちが行き交い、千住は江戸の北の玄関口として発展していきました。

松尾芭蕉の『奥の細道』にも旅立ちの際、千住で詠んだ別れの句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」(ゆくはるや とりなきうおの目はなみだ)は有名です。

舟でも陸でも運べる、便利な町だった

千住が栄えた理由は、街道だけではありません。もう一つの大きな存在が、隅田川をはじめとする水運でした。江戸時代、米や野菜、薪などの大量の荷物を運ぶには、舟が欠かせませんでした。千住には周辺の農村から農産物が集まり、街道や川を通じて江戸の町へと運ばれていきました。

もちろん、すべての荷物が千住で舟から陸へ積み替えられたわけではありません。舟のまま江戸の市場へ向かう荷物もあれば、陸路で運ばれるものもあったでしょう。大切なのは、千住には、物を集め、仕分け、さまざまな場所へ送り出せる条件がそろっていたということです。

現代の北千住駅にJR、地下鉄、私鉄などが集まっていることを考えると、交通の要衝という町の役割は、400年たった今も変わっていないのかもしれません。

江戸四宿で最大の町へ

千住は、品川、内藤新宿、板橋と並ぶ「江戸四宿」の一つでした。その中でも千住宿は、江戸時代後期には家数・人口ともに最大の宿場町へと成長します。

旅人が泊まる旅籠、荷物を運ぶ問屋、食べ物を商う店。人が集まれば商売が生まれ、商売が盛んになれば、さらに人が集まる。そんな循環が、千住という町を大きくしていったのでしょう。

そして、商売で財を成した人々の中には、書画や俳諧を楽しみ、芸術家たちと交流する商人も現れました。千住は、単なる交通の中継地点ではなく、独自の文化を育てる町にもなっていったのです。

江戸の食卓を支えた「やっちゃ場」

そんな千住のにぎわいを象徴するのが、青物市場でした。江戸の大消費地を支えるため、周辺の農村から野菜が集まってきます。市場には売り手と買い手の声が飛び交い、威勢のよい商いが繰り広げられていました。

この青物市場は「やっちゃ場」と呼ばれ、千住を代表する商業文化として発展していきます。そして、そこで扱われた野菜の中に、千住の名前を今に伝える一本のネギがありました。「千寿葱(せんじゅねぎ)」です。

でも、不思議なことに、現在の千寿葱は、必ずしも千住で栽培されたネギではありません。それなのに、なぜ「千寿葱」と呼ばれるのでしょうか。その名前には、千住の市場を支えてきた葱商たちの、長い歴史と誇りが隠されていました。

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千住で作っていないのに、なぜ「千寿葱」なの?

千住の青物市場「やっちゃ場」で、長く扱われてきた野菜の一つがネギでした。その名も「千寿葱(せんじゅねぎ)」。千住と聞けば、千住で栽培されたネギだと思ってしまいますよね。

ところが、現在の千寿葱は、必ずしも千住で作られたネギではありません。埼玉県や千葉県など、さまざまな産地から集められたネギが、千住の葱商によって選び抜かれているのです。では、なぜ「千寿葱」という名前なのでしょうか?

もともと千住は、ネギの産地でもあった

実は、かつての千住周辺では、ネギの栽培も盛んに行われていました。江戸の人口が増え、野菜の需要が高まるにつれて、ネギの栽培は周辺の農村へと広がっていきます。やがて千住は、ネギを生産する場所というよりも、各地から集まるネギを取引する市場として重要な役割を担うようになりました。

ここで思い出すのが、有田焼と伊万里焼の関係です。佐賀県の有田で焼かれた磁器が、伊万里の港から積み出されたことで海外で「伊万里焼」と呼ばれるようになったように、商品の名前は必ずしも生産地だけで決まるわけではありません。

千寿葱もまた、千住という市場の名前と、そこで培われた商いの歴史を受け継いでいるのです。ただし、江戸東京野菜として知られる伝統的な品種群の「千住ネギ」と、現在の高品質なネギのブランドである「千寿葱」は、区別して考える必要があります。

おいしいネギを見抜く「葱商」の目

では、千寿葱は、普通のネギと何が違うのでしょうか?
深谷ねぎといえば、白く長い部分の柔らかさや甘み。下仁田ねぎといえば、太く短い姿と、加熱したときのとろけるような甘さが魅力です。一方、千寿葱の特徴は、特定の品種や産地だけで決まるものではありません。大切なのは、ネギを選ぶ葱商の目利きです。

良いネギは、白い部分の葉が何重にも巻き、内部までしっかり詰まっています。見た目の太さだけではなく、持ったときの重み、葉の巻き具合、締まり、みずみずしさ。そうした違いを見極めながら、葱商たちは一本一本の品質を判断してきました。

つまり、千寿葱とは、ネギの名前であると同時に、千住の葱商が積み重ねてきた信用の名前でもあるのです。

焼けば甘く、刻めば香り立つ

千寿葱の魅力は、料理にしたときにも現れます。生のまま刻めば、ネギらしい香りと辛みが楽しめます。一方、焼いたり煮たりすれば、甘みが増して柔らかくなる。身がしっかり詰まったネギは、加熱しても形を保ちやすいという特徴もあります。

だから、蕎麦の薬味にも、焼き鳥にも、鍋料理にも使われてきました。しかも、料理によって求められるネギは違います。蕎麦屋なら、刻んだときの香りや量。焼き鳥屋なら、串に刺したときの太さや、焼いたときの食感。鍋料理なら、煮込んだときの甘みや柔らかさ。

葱商は、ただ高品質なネギを売るだけでなく、料理人が何を求めているのかを理解して、それに合うネギを選ぶ仕事も担ってきたのです。

千住が売っていたのは、ネギだけではなかった

考えてみれば、これは不思議な商売です。ネギは、全国の畑で作られています。それでも、わざわざ千住の葱商から仕入れたいと思う料理人がいる。それは、ネギそのものだけでなく、選ぶ人の経験や技術にも価値があるからなのでしょう。

これは、下関のフグにも似たようなことが言えるかもしれません。「下関のフグ」と聞くと、下関の海で獲れたフグを思い浮かべますが、実際には全国各地から集められたフグも多く扱われています。下関がフグの町として知られるようになったのは、単に漁場に恵まれていたからではありません。

長い年月をかけて培われた目利きの技術や、専門の職人による加工技術、そして全国の産地と消費地を結ぶ流通の仕組みがあったからです。千寿葱も、下関のフグも、産地の名前というより、そこに集まる人々が育ててきた「信用の名前」なのかもしれません。

おいしいものを作る人がいて、その価値を見極め、さらに高めて届ける人がいる。私たちの食卓に並ぶ一品には、産地だけでは語り尽くせない、人々の技と歴史が詰まっているのです。

江戸時代から続く青物市場には、産地と料理人を結びつける商人たちがいました。そして、その商人たちが積み重ねてきた信用が、千寿葱という名前に残っているのです。

千住という町の財産は、物だけではなく、人が受け継いできた技にもある。そう考えると、千寿葱は、400年続く宿場町の歴史を象徴する存在なのかもしれません。

そして千住には、商人たちが後世に残した、もう一つの財産がありました。古い商家の蔵に眠る、掛け軸や屏風絵です。ところが千住の人々は、それらを単にしまって守るのではなく、今も「使う」ことで受け継いできたといいます。いったい、どういうことなのでしょうか?

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千住の商家は、なぜ古い屏風や掛け軸を今も「使う」の?

千住の青物市場で受け継がれてきたのは、野菜を見極める商人たちの技術だけではありませんでした。江戸時代、日光街道の宿場町として栄えた千住には、商売で財を成した商家が数多く生まれました。そして、その商家の蔵には、今も古い掛け軸や屏風絵などが残されています。

でも、ここで少し不思議に思うことがあります。何百年も前の貴重な美術品なら、傷まないように大切にしまっておく方がよいのではないでしょうか。ところが、千住の人々は、それらをただ保存するのではなく、「使う」ことで次の世代へ受け継いできたといいます。いったい、どういうことなのでしょうか?

商売で栄えた町には、文化も集まってきた

江戸時代の千住は、旅人や商人が行き交う、にぎやかな宿場町でした。街道沿いには旅籠や商店が立ち並び、青物市場では毎日のように活発な取引が行われていました。商売が盛んになれば、町には富が蓄積されていきます。

そして、経済的なゆとりを持つようになった商人たちの中には、書画や俳諧などの文化を楽しむ人々も現れました。千住には、江戸琳派の絵師として知られる酒井抱一や、文人画家の谷文晁らと関わりを持った文化人たちの足跡も残されています。当時の商人にとって、芸術は単なる贅沢品ではなかったのかもしれません。

絵を鑑賞し、俳句を詠み、文化人たちと交流する。そうした時間は、商売とは別の形で人と人を結びつけ、町の文化を豊かにしていったのでしょう。

掛け軸も屏風も、もともとは暮らしの道具だった

ところで、掛け軸や屏風は、最初から美術館の展示室に飾るために作られたものではありません。掛け軸は、床の間に飾って季節の移ろいや客人へのもてなしを表現するもの。屏風は、部屋を仕切ったり、風を防いだりする実用的な役割を持ちながら、室内を華やかに彩るものでもありました。

つまり、どちらも人々の暮らしの中で使われてきたものなのです。春には春らしい絵を、秋には秋の風情を感じさせる掛け軸を飾る。客人を迎えるときには、とっておきの屏風を広げる。

そうして美術品を使うことは、季節を楽しみ、人をもてなし、家の文化を伝えることでもありました。千住の商家にとっても、古い掛け軸や屏風は、単なる財産ではなく、暮らしの記憶を受け継ぐ存在だったのでしょう。

「使う」ことは、傷めることではないの?

もちろん、古い美術品を使い続ければ、傷んでしまう危険もあります。紙や絹は光や湿気に弱く、掛け軸を何度も掛けたり巻いたりすれば、少しずつ負担がかかります。

だからこそ、貴重な文化財には、適切な保存や修復が欠かせません。ただ、大切に保存することと、暮らしから切り離してしまうことは、必ずしも同じではないのかもしれません。

掛け軸を飾る季節を知っている人がいる。屏風を広げる場面を覚えている人がいる。その絵が、誰から誰へと受け継がれてきたのかを語れる人がいる。そうした知識や記憶は、物をしまっておくだけでは、次の世代に伝わらないこともあるでしょう。

千住の人々が美術品を「使う」ことを大切にしてきたのは、作品そのものだけでなく、作品とともにあった暮らしや文化も残したかったからなのかもしれません。

本当に受け継ぐべきものは、何だろう?

千寿葱を選ぶ葱商の技術も、商家に伝わる掛け軸や屏風も、形はまったく違います。けれど、どちらにも共通することがあります。それは、ただ持っているだけでは、その価値を次の世代へ伝えられないということです。

ネギの目利きは、実際にネギを手に取り、選び続けることで磨かれます。掛け軸や屏風も、その意味を知り、適切に扱い、人々の暮らしや行事の中で親しむことで、文化として生き続けていきます。

伝統とは、昔のものを変えずに残すことだけではなく、その価値を今の暮らしの中で生かし続けることなのでしょう。そして千住には、そんな考え方を、まったく新しい形で実践しようとしている人たちがいます。

古い宿場町を舞台に、学生や若い芸術家、そして地元の「千住っ子」たちが一緒になって取り組むアート活動です。江戸時代の商人たちが育てた文化の町は、今、どんな新しい表情を見せているのでしょうか?

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江戸の宿場町が、なぜ若者のアートの街になったの?

古い掛け軸や屏風絵を、ただ保存するのではなく、使いながら受け継いできた千住の人々。そこには、美術品そのものだけでなく、その裏側にある物語も大切にしようとする心が感じられます。

誰が描いたのか。誰が手に入れたのか。そして、どんな人たちが、その絵を囲んで語り合ってきたのか。モノと一緒に物語も語り継ぐことで、文化財は今も人々の暮らしの中で生き続ける。そんな千住に、今度は新しい表現を持った若者たちが集まるようになりました。江戸時代の宿場町だった千住が、なぜ現代アートの舞台になったのでしょうか。

江戸の商人たちが育てた「文化の町」

江戸時代の千住には、商売で財を成し、書画や俳諧を楽しむ商人たちがいました。彼らは芸術家たちと交流し、作品を手に入れるだけでなく、文化を楽しむ場を育てていきました。考えてみれば、芸術は一人の才能だけで成り立つものではありません。

作品を作る人がいて、それを楽しむ人がいる。場所を提供する人がいて、活動を支える人がいる。そうした人々のつながりがあってこそ、文化は町に根づいていくのでしょう。千住には、そんな土壌が江戸時代からあったのかもしれません。

大学がやってきて、町に新しい風が吹いた

現代の千住を語るうえで欠かせないのが、大学の存在です。2006年には東京藝術大学の千住キャンパスが開設され、2012年には東京電機大学の東京千住キャンパスも誕生しました。かつて旅人や商人が行き交った町に、今度は学生たちが集まるようになったのです。

ただし、大学ができたからといって、それだけで町が芸術の町になるわけではありません。大学の中で作品を作ることと、町の人々と一緒に文化を育てることは、また別の話です。千住で面白いのは、学生や芸術家たちが、大学の外へ出て、町そのものを表現の舞台にしていることでした。

「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」

千住では、2011年から「アートアクセスあだち 音まち千住の縁」というアートプロジェクトが始まりました。東京藝術大学や足立区、地域の人々などが関わり、音楽や現代アートを通して、人と人、人と町を結びつけようという取り組みです。

その活動の舞台は、美術館やコンサートホールだけではありません。商店街や路地、身近な公共空間など、普段の暮らしの中にも広がっていきました。作品を鑑賞するだけではなく、町を歩き、人と出会い、ときには一緒に作品づくりに参加する。そこでは、芸術を作る人と見る人の境界も、少しずつ変わっていきます。

町の人々が、芸術の観客であると同時に、文化を生み出す仲間にもなっていく。そんなところに、千住のアート活動の面白さがあるのでしょう。

若者だけでは生まれない、千住のアート

そして、この活動を支えているのが、昔から千住に暮らしてきた人々です。地元の「千住っ子」と呼ばれる人たちが、学生や芸術家たちと一緒になって、町での活動に取り組んでいます。若い芸術家が新しいアイデアを持ち込んでも、町の人たちが受け入れてくれなければ、実現できないこともあるでしょう。

一方、地元の人たちだけでは、思いつかなかった表現もあるかもしれません。昔からの町の記憶を知る人と、新しい発想を持つ人。その両方が出会うことで、千住ならではの文化が生まれていくのです。これは、江戸時代の商人たちが芸術家と交流していた姿にも、どこか似ている気がします。

もちろん、当時の旦那衆による文化活動と、現代の参加型アートは同じものではありません。それでも、文化を町の外から眺めるのではなく、自分たちの暮らしの中に迎え入れるという姿勢には、時代を超えて通じるものがあるのではないでしょうか。

変わり続けるから、400年続いてきた?

歴史のある町というと、古い建物や町並みを、できるだけ昔のまま残すことが大切だと思いがちです。日本中には「古い町並み」と銘打った観光地があちこちにありますが、もちろんそれも大切なことです。

でも、町は博物館ではありません。そこには毎日の暮らしがあり、新しい住民がやってきて、子どもが育ち、時代とともに人々の仕事も変わっていきます。もし、昔の姿を守ることだけにこだわっていたら、町はいつか、暮らす場所ではなく、眺めるだけの場所になってしまうかもしれません。

千住の人々は、古いものを受け継ぎながら、新しいものを迎え入れてきました。江戸時代には商人たちが芸術家と交流し、現代では学生や地域の人々が一緒にアートを生み出している。400年続いてきたのは、変わらなかったからではなく、変わることを受け入れてきたからなのかもしれません。

そして、そんな千住の魅力は、芸術の世界だけにとどまりません。古い商店街や路地が残る一方で、都心へ通いやすく、大学もあり、新しい店も増えている。今では、若い世代や子育て中の家族にとっても、暮らす場所の選択肢となっています。では、千住はなぜ、若い家族にも選ばれる街になったのでしょうか。

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千住は、なぜ若い家族にも選ばれる街になったの?

江戸時代には旅人や商人が集まり、現代では学生や芸術家たちが新しい文化を生み出している千住。そんな千住は、今では若い世代からも注目される街になっています。

北千住駅にはいくつもの鉄道路線が乗り入れ、都心への通勤や通学にも便利。駅の周辺には商業施設が集まる一方、少し歩けば昔ながらの商店街や住宅街が広がっています。でも、ここで一つ気になることがあります。交通が便利で、買い物がしやすければ、それだけで「暮らしやすい街」になるのでしょうか。

400年前の交通の要衝は、今も便利な街だった

北千住駅には、JR常磐線、東京メトロ日比谷線・千代田線、東武スカイツリーライン、つくばエクスプレスが乗り入れています。東京の中心部へ向かうにも、埼玉や茨城方面へ出かけるにも便利な場所です。考えてみれば、これは江戸時代の千住にも通じる特徴です。

かつては日光街道と隅田川が交わる交通の要衝として、旅人や商人たちが集まりました。そして現代では、街道や舟に代わって鉄道が人々を運んでいる。交通手段は変わっても、人々が行き交う場所であることは、400年間変わっていないのです。

ただし、交通が便利な街は、千住だけではありません。では、千住ならではの魅力は、どこにあるのでしょうか。

都会なのに、どこか肩の力を抜いて暮らせる

北千住駅の周辺には、大型商業施設や飲食店が立ち並び、学生や買い物客でにぎわっています。ところが、駅から少し離れると、昔ながらの商店街や細い路地、古い商家の面影を残す建物にも出会えます。

新しい店の隣に、何十年も続く店がある。学生たちが行き交う道の先に、昔から暮らす人々の日常がある。千住には、大都市の便利さと、下町らしい暮らしの風景が共存しているのです。

もちろん、下町だからといって、誰にとっても静かで暮らしやすいとは限りません。駅前の混雑や住宅事情など、実際に暮らしてみなければわからないこともあるでしょう。それでも、便利さだけではない、人の暮らしが見える街並みに魅力を感じる人もいるのではないでしょうか。

子育て支援だけで、若い家族は集まるの?

千住がある足立区では、妊娠・出産から子育てまで、切れ目のない支援を目指した施策が進められています。保育サービスの充実や、子ども・若者の成長を支える取り組みも、その一つです。子育て中の家庭にとって、こうした行政の支援は大切な判断材料になるでしょう。

ただし、足立区全体の子育て支援が充実していることと、千住に若い家族が増えていることは、必ずしも同じ意味ではありません。実際にどれだけの家庭が千住を選び、どのくらい住み続けているのかは、人口や転出入の動きも見なければわかりません。そして、子育てのしやすさを決めるのは、制度だけではないはずです。

子どもが安心して歩ける道があるか。近くに遊べる場所があるか。困ったときに相談できる人がいるか。毎日の買い物や通院に無理がないか。子育て支援の充実と、子どもを育てやすい生活環境。その両方がそろってこそ、家族にとって暮らしやすい街になるのではないでしょうか。

「人気の街」と「住み続けたい街」は違う

近年、観光地として人気が高まった街では、訪れる人が増える一方で、交通渋滞や混雑が住民の負担になることもあります。観光客にとっては魅力的な街でも、そこで毎日暮らす人にとっては、不便に感じる場面があるかもしれません。

これは、観光地に限った話ではありません。人気の住宅地でも、新しい住民が増えれば、交通や学校、保育施設などに新たな負担が生まれることがあります。大切なのは、人を呼び込むことだけではなく、そこに暮らす人々の生活を、どう守っていくかということなのでしょう。

千住がこれからも魅力的な街であり続けるためには、新しくやってくる若い世代と、昔から暮らす人々の両方にとって、心地よい場所であることが大切なのかもしれません。

子育てが終わったら、その街を離れてしまう?

そして、もう一つ考えておきたいことがあります。子育てのために街を選んだ家族も、やがて子どもが成長すれば、暮らし方が変わっていきます。子どもたちは進学や就職で家を離れ、結婚して新しい家庭を築く人もいるでしょう。

親たちも年齢を重ね、子育ての便利さより、医療や買い物、地域とのつながりを大切にするようになるかもしれません。そのとき、千住はどんな街であってほしいのでしょうか。

子育て中だけ便利な街なのか。それとも、子どもが大人になっても、親が年齢を重ねても、暮らし続けたいと思える街なのか。若い家族に選ばれることは、町の未来への入り口にすぎないのかもしれません。本当に大切なのは、その先です。

千住で育った子どもたちが、大人になったときに「もう一度、あの街で暮らしたい」と思えるかどうか。400年続いてきた宿場町は、これからも次の世代に選ばれ続けることができるのでしょうか?

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子育てが終わっても、千住は「帰ってきたい街」でいられるの?

江戸時代には旅人や商人が集まり、現代では学生や若い家族にも注目される千住。日光街道の宿場町として栄えた頃から400年。交通手段も、町並みも、そこに暮らす人々の生活も、大きく変わりました。それでも千住には、昔ながらの商店街や商家の文化、そして新しいものを受け入れる人々の姿が残っています。

では、これから先の千住は、どんな街になっていくのでしょうか。ここで考えてみたいのは、「若い人が住みたい街」と「大人になって帰ってきたい街」は、同じなのだろうかということです。

子育てが終わったら、町との関係も終わるの?

若い家族にとって、子育て支援が充実していることは、住む場所を選ぶ大切な理由の一つです。保育園や学校・病院が近くにあり、買い物や通勤にも便利で、子どもを安心して育てられる。そんな環境を求めて、新しい町に移り住む人もいるでしょう。

でも、子育ての時間は永遠には続きません。やがて子どもたちは成長し、進学や就職のために町を離れていきます。結婚して、別の場所に家庭を築く人もいるでしょう。それは、ごく自然なことです。だからこそ、若い世代を呼び込むことだけを町づくりの目標にしてしまうと、いつか同じ課題に直面するかもしれません。

大切なのは、子どもたちが成長したあとも、その町とのつながりを持ち続けられることではないでしょうか?

懐かしい町が「知らない町」になってしまう

人は、生まれ育った町の何を覚えているのでしょうか。通った学校や、友達と遊んだ公園。毎日のように歩いた道や、家族と買い物に出かけた商店街。それらは特別な観光名所ではなくても、その人にとっては、かけがえのない風景です。

ところが、久しぶりに故郷を訪れたとき、山が削られ、道が付け替えられ、昔の町並みがすっかり姿を消していたら、どうでしょう。便利になったことは理解できても、そこに自分の思い出を重ねられなくなることがあるかもしれません。

生まれ育った場所なのに、どこか知らない町に来たような気がする。町が発展することと、そこに暮らした人々の記憶が受け継がれることは、必ずしも同じではないのです。

変わっても、変わらない風景がある

もちろん、町が昔のままであればよいというわけではありません。古くなった道路や施設は、安全で使いやすいものに変えていく必要があります。暮らす人々の年齢や生活が変われば、町に求められるものも変わっていくでしょう。

大切なのは、何を変え、何を残すのかということなのかもしれません。昔からの道筋や商店街が残っている。懐かしい建物の隣に、新しい店ができている。子どもの頃には不便だった場所が、今は暮らしやすくなっている。そんな町なら、久しぶりに帰ってきた人も、昔の自分と今の自分を自然に重ね合わせられるのではないでしょうか。

町の姿が少しずつ変わっても、その町らしさまで失われるわけではない。千住が400年かけて受け継いできたものにも、そんな強さがあるように思えます。

千住の400年を支えてきたのは、建物だけではない

千住には、江戸時代から続く青物市場の歴史があります。千寿葱を選び抜く葱商たちは、長い年月をかけて培われた目利きの技術と信用を受け継いできました。古い商家では、掛け軸や屏風絵を、ただしまっておくのではなく、暮らしの中で使いながら伝えてきました。

そして現代では、学生や芸術家、地元の千住っ子たちが一緒になって、新しい文化を生み出しています。そこに共通しているのは、古いものをただ残すのでも、新しいものにすべて置き換えるのでもないということです。

受け継いだものに、今を生きる人々が新しい価値を加えていく。そうして町の物語が、少しずつ書き足されてきたのでしょう。考えてみれば、千住の魅力は、建物や街道の形だけにあるのではありません。その場所で暮らし、働き、文化を育ててきた人々の記憶が、次の世代へ渡されていること。それこそが、400年続く町の財産なのかもしれません。

「また、ここで暮らしたい」と思える町へ

千住で育った子どもたちも、いつか大人になります。進学や就職で町を離れ、さまざまな場所で暮らすようになるでしょう。そして、ある日ふと、生まれ育った町を思い出すことがあるかもしれません。

昔、家族と歩いた商店街。友達と遊んだ路地。学校からの帰り道に見上げた空。久しぶりに訪れた千住には、知らない店が増え、新しい建物が建っているかもしれません。それでも、どこかに懐かしい風景が残っていて、町の人たちが変わらず暮らしている。

そして、子どもの頃にはなかった新しい楽しみや、暮らしやすさも生まれている。そんな町だったら、どうでしょう。「懐かしいな」と思うだけではなく、「今度は自分の家族と、ここで暮らしてみたい」と思う人もいるかもしれません。

もちろん、故郷に戻ることだけが、町とのつながり方ではありません。遠くに暮らしていても、時々訪れたり、町の行事に参加したり、そこで育った記憶を誰かに語ったりすることもできるでしょう。大切なのは、離れた人にとっても、今暮らしている人にとっても、千住が自分の居場所の一つであり続けることなのだと思います。

日光街道の最初の宿場町として歩み始めてから、400年。千住は、旅人を迎え、商人を育て、文化を受け継ぎ、新しい世代を受け入れてきました。これからも町は変わり続けるでしょう。けれど、その変化の中に、いつか帰ってくる人のための懐かしい風景が、少しでも残っていてほしい。

400年続く町とは、400年前の姿を守り続ける町ではなく、400年後にも「ここで暮らしたい」と思う人がいる町なのかもしれません。そんな未来を願いながら、日光街道の宿場町・千住の物語を閉じたいと思います。


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