千葉県北西部、利根川沿いに広がる田中調節池。つくばエクスプレスの車窓から見えるのは、どこまでも続くのどかな田園風景です。ところが、この田んぼには、もう一つの大切な役割があります。
利根川が大きく増水したとき、洪水を一時的に受け入れ、下流の街を守ること。つまり、せっかく育てた稲が、水に沈んでしまうこともあるのです。
戦後の食糧難のなか、パラオから引き揚げ、この土地を開墾した99歳の農家。そして、離農する仲間の田んぼを引き受け、豪雨と向き合う農業経営者。なぜ人々は、水に沈むかもしれない土地で、米を作り続けてきたのでしょうか。
今回の『小さな旅』は、千葉県の田中調節池を舞台に、洪水から街を守る田んぼと、その田んぼを守り続ける農家たちの物語をたどります。
【放送日:2026年10月25日(日)8:00 -8:25・NHK-総合】
【放送日:2026年10月30日(金)11:05 -11:30・NHK-総合】
【放送日:2026年10月31日(土)6:05 -6:30・NHK-BSP4K】
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田んぼなのに、なぜ洪水をためる場所なの?
千葉県柏市と我孫子市にまたがる、広大な田園地帯。つくばエクスプレスの車窓から見える田中調節池は、一見すると、どこにでもあるのどかな農村風景です。
ところが、この田んぼには、もう一つの大切な役割があります。それは、利根川が大きく増水したとき、洪水を一時的に受け入れて、下流の街を守ること。つまり、普段は米を育てる農地でありながら、いざというときには巨大な水の貯留場所になるのです。
もともと洪水と隣り合わせだった土地
田中調節池があるのは、利根川と鬼怒川が合流する地点の近く。昔から洪水の影響を受けやすい低地で、周辺には水がたまりやすい湿地や沼地が広がっていました。こうした土地を治水に役立てようと、田中調節池の整備が始まったのは1933年(昭和8年)のこと。
工事は戦争によって一時中断されましたが、戦後に再開され、1965年(昭和40年)までにおおむね整備されました。興味深いのは、戦後には調節池の整備と並行して、農地の開墾も進められたことです。洪水を受け入れるための土地でありながら、食糧不足を補うための田んぼとしても利用されるようになったのです。
洪水の水は、どうやって田んぼに入るの?
田中調節池には、周囲を囲む堤防のほかに、「越流堤(えつりゅうてい)」と呼ばれる、周囲より低く造られた堤防があります。普段は利根川の水が流れ込まないようになっていますが、川の水位が大きく上がると、この越流堤を越えて調節池の中へ水が入ります。
そして、洪水の一部を一時的にためることで、下流へ一度に流れる水の量を減らすのです。水位が下がれば、ためた水は排水施設などを通じて川へ戻されます。田中調節池は、近くにある菅生調節池、稲戸井調節池とともに、利根川下流域を洪水から守る役割を担っています。

普段は田んぼ、洪水のときは調節池
群馬県や栃木県などにまたがる渡良瀬遊水地も、洪水を一時的に受け入れる施設として知られています。ただし、広大なヨシ原や湿地が広がる渡良瀬遊水地とは違い、田中調節池では現在も米作りが営まれています。
下流の街を守るための土地で、私たちの食卓を支える米も作られている。この二つの役割が重なっているところに、田中調節池ならではの特徴があります。
では、洪水で水に沈む可能性がある土地を、人々はなぜ田んぼとして開墾したのでしょうか。その背景には、戦後の深刻な食糧難と、故郷へ帰ってきた人々の人生がありました。
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水に沈む土地を、なぜ田んぼにしたの?
洪水を防ぐために整備された田中調節池。それなのに、なぜ人々は、水に沈むかもしれない土地を田んぼとして耕すようになったのでしょうか? その理由を考えるには、戦後の日本が置かれていた状況を振り返る必要があります。
米が足りなかった時代
1945年(昭和20年)、長い戦争が終わった日本では、深刻な食糧不足が続いていました。戦争によって農業の担い手が減り、肥料や農機具も不足。海外からの食糧輸入も十分には回復せず、多くの人々が日々の食べ物を確保することに苦労していました。
現在のように、スーパーへ行けば当たり前に米が買える時代ではなかったのです。そんななか、国は食糧増産のため、各地で開墾や干拓を進めました。これまで農地として利用されていなかった土地も、貴重な食糧生産の場になっていきます。
田中調節池も、その一つでした。洪水を受け入れるために確保された広大な土地を、普段は田んぼとして利用する。それは、治水と食糧増産という、二つの切実な課題に応える土地利用でもあったのです。
パラオから引き揚げた99歳の農家
今回の『小さな旅』に登場するのは、戦後、パラオから日本へ引き揚げてきたという99歳の米農家です。故郷へ戻ったあと、この土地の開墾に汗を流したといいます。
戦争が終わったからといって、すぐに平穏な暮らしが戻ってきたわけではありません。生活を立て直し、食べ物を確保するためには、自分たちの手で土地を耕さなければならなかったのでしょう。
今では美しい田園風景が広がる田中調節池も、最初から豊かな田んぼだったわけではありません。水はけの悪い低地を農地として整え、毎年、稲を育てられる状態にしていく。そこには、長い時間と大変な労力が必要だったはずです。
そして、ようやく作り上げた田んぼにも、洪水で水没する危険が残っていました。それでも米を作り続けてきたのは、なぜなのでしょうか。
洪水の危険よりも、米を作ることが大切だった?
現代の感覚では、洪水で水没するかもしれない場所に田んぼを作るのは、ずいぶん危険な選択に思えます。けれども、食べ物が十分になかった時代には、土地を遊ばせておく余裕もなかったのでしょう。
もちろん、当時の農家がどのような条件で土地を耕し、洪水の危険をどう受け止めていたのかは、一人ひとり違ったはずです。ただ、そこには、今の私たちが忘れかけている切実な事情がありました。
洪水が来れば稲を失うかもしれない。でも、米を作らなければ、今日の暮らしを支えられない。その二つの現実の間で、人々は田んぼを耕してきたのではないでしょうか。
戦後の食糧難が過去のものになっても、田中調節池では米作りが続いています。99歳の農家が開墾した土地には、何十年にもわたる人々の汗と、暮らしの記憶が積み重なっているのです。しかし、その田んぼが洪水を受け入れたとき、育てている稲はどうなってしまうのでしょうか。
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洪水が来たら、育てている稲はどうなるの?
普段は田んぼとして使われている田中調節池。けれども、利根川が大きく増水すれば、調節池の中に洪水が流れ込みます。そのとき、農家が丹精込めて育てている稲は、どうなってしまうのでしょうか。
稲は水が好きでも、水没には弱い?
稲は水田で育つ植物です。だからといって、深い水の中に長時間沈んでも大丈夫というわけではありません。稲の葉や茎まで水没すると、光合成や呼吸に必要な働きが妨げられ、生育に悪影響が出ることがあります。特に、穂が出てから米が実る時期や収穫直前に被害を受けると、収穫量や品質が大きく低下するおそれがあります。
また、水が引いたあとも、泥や流木、ごみが残ったり、病気が発生しやすくなったりすることがあります。つまり、洪水が去ったからといって、すぐに元の田んぼへ戻れるとは限らないのです。
街を守るために水を受け入れたら、誰が補償するの?
ここで気になるのが、農家の損失を誰が負担するのかという問題です。田中調節池は、下流の洪水被害を軽減するための治水施設。しかし、その中には農家が耕す田んぼがあります。
実は、田中調節池では戦後、国が未開墾地を買収し、入植者や地元の農家に払い下げる形で農地の開拓が進められました。しかし単純に「国から土地を借りているのだから、水没しても仕方がない」という話ではありません。
では、洪水によって稲が被害を受けたら、国がすべて補償してくれるのでしょうか? 現在、日本には、自然災害による農作物の損失に備える「農業共済」や「収入保険」という制度があります。農業共済では、風水害によって米の収穫量が減少した場合などに、加入内容や被害の程度に応じて共済金が支払われます。
また、大規模な災害では、農地の復旧や営農再開を支援する制度が活用される場合もあります。ただし、田中調節池で洪水を受け入れた場合に、具体的にどのような補償や支援が適用されるのかは、個別の条件を確認しなければわかりません。
下流の街を守るという公共の役割と、そこで米を作る農家の経営をどう両立させるのか。これは、農家だけで解決できる問題ではないはずです。
水が引いても、農家の仕事は終わらない
仮に洪水によって稲が失われたとしても、農家には次の年の米作りがあります。田んぼに流れ込んだ泥やごみを取り除き、水路を整え、必要に応じて土の状態を確かめる。被害の大きさによっては、農業機械や施設の修理も必要になるでしょう。
収穫できなかった年の収入を心配しながら、次の作付けに向けて準備を進めなければなりません。洪水から街を守るための土地で、米作りを続けるということ。それは、水が引いたあとも田んぼに向き合い続けることなのかもしれません。
そして今、その田んぼを守る人たち自身にも、大きな変化が訪れています。高齢化によって農業をやめる人が増えるなか、仲間の土地を引き受け、農業法人を立ち上げた経営者がいるのです。
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仲間が田んぼを手放しても、なぜ米作りを続けるの?
洪水が去れば、川の水位は元に戻ります。けれども、水に沈んだ田んぼが、すぐに元どおりになるとは限りません。泥やごみを取り除き、傷んだ農業施設を直し、次の作付けに備える。たとえ被害に対する金銭的な補償があったとしても、失われた時間や労力まで戻ってくるわけではないのです。
田んぼを守るということは、洪水が去ったあとも、その土地で米を作り続けること。そこには、お金だけでは解決できない苦労があります。
農業を続けたくても、続けられない
戦後の食糧難の時代、人々は一枚でも多くの田んぼを作ろうと、土地を開墾しました。ところが、それから80年近くが過ぎた現在、日本の農業は別の問題に直面しています。農家の高齢化と後継者不足です。
米作りには、田植えや稲刈りだけでなく、水の管理や草刈り、農業機械の維持など、一年を通して多くの仕事があります。農業を続けたいという思いがあっても、年齢や体力、経営上の事情から、田んぼを手放さざるを得ない人もいます。
まして、洪水による被害や復旧の負担まで重なれば、農業を続けることはいっそう難しくなるでしょう。ただし、離農の理由は農家によって異なります。田中調節池での離農が、どの程度洪水被害と関係しているのかは、慎重に見ていく必要があります。
仲間の田んぼを引き受けるという決断
今回の『小さな旅』には、農業をやめる仲間の土地を引き受け、農業法人を立ち上げた経営者が登場します。自分の田んぼを守るだけでも大変なのに、ほかの農家が耕してきた土地まで引き受ける。それは、決して簡単な決断ではなかったはずです。
田んぼが増えれば、収穫できる米の量が増える可能性がある一方で、管理する水路や農業機械、必要な人手も増えていきます。そして田中調節池では、洪水によって広い農地が被害を受けるリスクも考えなければなりません。
それでも、なぜ仲間の田んぼを引き受けたのでしょうか。そこには、単に経営規模を大きくしたいという理由だけでは語りきれない、土地への思いがあるのかもしれません。
「農家の意地」は、田んぼを未来へ残すこと?
戦後、パラオから引き揚げてきた人々が、食べるために開墾した田んぼ。その土地を、今度は次の世代へ残そうとしている人がいます。時代は変わり、米作りを取り巻く環境も変わりました。それでも、この土地で米を作り続けたい。
仲間が手放した田んぼも、できることなら荒らしたくない。そんな思いが、農業法人を立ち上げる決断につながったのだとしたら、それこそが「農家の意地」なのかもしれません。しかし意地だけで農業を続けられるわけではありません。人手も、資金も、災害への備えも必要です。
農家の意地を支える仕組みがなければ、田んぼを未来へ残すことはできない。そして今年、その思いを試すように、千葉県を豪雨が襲いました。洪水を受け入れる土地で米を作り続ける農家は、自然の猛威とどう向き合ったのでしょうか。
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豪雨で田んぼが水に沈んでも、農家は立ち上がれるの?
2026年9月、台風25号に伴う記録的な大雨が千葉県を襲いました。県内各地で浸水被害が発生し、とりわけ北印旛沼の周辺では、堤防の決壊によって住宅や農地が広く水に浸かりました。
今回の『小さな旅』の舞台である田中調節池とは別の場所ですが、この災害は、洪水に遭った農家が直面する厳しい現実を浮き彫りにしました。
収穫直前の田んぼが水の中に
北印旛沼周辺では、稲刈りを目前にした田んぼまで冠水しました。報道によると、ある米農家では、長雨で稲刈りが遅れていたところへ堤防の決壊が重なり、収穫予定だった米の多くが水に沈んでしまったといいます。しかも、被害を受けたのは稲だけではありません。農業機械や倉庫も水没し、泥の片づけや設備の修理が必要になりました。一年かけて育てた米を失うだけでなく、翌年の米作りに必要な道具まで失ってしまう。洪水による農業被害は、その年の収穫だけで終わらないのです。
水が引いても、田んぼに戻れない?
さらに深刻なのは、水が引いたあとに残された問題です。北印旛沼周辺では、洪水によって流れ込んだとみられる特定外来生物「ナガエツルノゲイトウ」が、田んぼに繁殖していることも報じられました。ナガエツルノゲイトウは繁殖力が強く、農業用水路の流れを妨げたり、農作業に支障を及ぼしたりする厄介な水草です。
泥や流木を片づけるだけでも大変なのに、こうした植物への対策まで必要になる可能性があります。また、千葉県によると、北印旛沼周辺の農業用排水機場も浸水によって故障しました。
本格的な復旧には2年以上かかる見込みで、当面は仮設ポンプによって排水機能を確保する方針です。堤防の応急復旧が終わっても、農業を元どおりにするには、まだ長い時間がかかるのです。
「また米を作ろう」と思えるだろうか
自然災害による収穫量の減少には、農業共済や収入保険などの制度があります。けれども、補償を受けられたとしても、田んぼを片づけ、農業機械を直し、翌年の作付けを準備する仕事がなくなるわけではありません。高齢化や後継者不足に悩む農家にとって、その負担は決して小さくないでしょう。
被災した農家が、もう一度米を作ろうと思えるかどうか。それは、本人の意欲や努力だけでなく、復旧を支える人手や資金、地域の協力にも左右されます。
田中調節池で米を作り続けるということ
今回の『小さな旅』には、離農する仲間の田んぼを引き受け、農業法人を立ち上げた経営者が登場します。その経営者もまた、今年の豪雨への対応に追われたといいます。ただし、番組で取り上げられる被害の具体的な状況については、北印旛沼の災害とは区別して見ていく必要があります。
田中調節池は、そもそも洪水を受け入れる役割を持つ土地です。そこで米を作り続けるには、自然の脅威を理解しながら、農業経営を成り立たせなければなりません。
洪水から街を守る田んぼを、洪水のあとも守り続ける。それが農家の意地だとしたら、私たちはその意地に、どこまで頼ってよいのでしょうか。次の世代も安心して米を作れるようにするために、農家以外の私たちにも、考えるべきことがあるのではないでしょうか。
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洪水から街を守る田んぼを、誰が守るの?
利根川が増水したとき、洪水を一時的に受け入れ、下流の街を守る田中調節池。その土地では、戦後の食糧難の時代から、人々が米を作り続けてきました。
パラオから引き揚げ、開墾に汗を流した99歳の農家。そして、離農する仲間の田んぼを引き受け、農業法人を立ち上げた経営者。時代も、米作りを取り巻く環境も変わりました。それでも、この土地で米を作り続けようとする人たちがいます。
洪水から街を守るのは田んぼ。でも、その田んぼを守るのは?
田中調節池の田んぼには、二つの役割があります。一つは、私たちの食卓を支える米を作ること。もう一つは、洪水の水を一時的に受け入れ、下流の街の被害を軽減することです。
しかし、洪水によって稲が水没すれば、農家は収穫を失うかもしれません。水が引いたあとには、泥やごみの片づけ、農業施設の復旧、翌年の作付け準備が待っています。たとえ金銭的な補償があっても、それだけで田んぼが元どおりになるわけではありません。
街を守るための田んぼを、農家だけが守り続けなければならないのでしょうか。治水は、地域全体の命と暮らしを守るための公共事業です。だからこそ、農業を続ける人たちの負担についても、社会全体で考える必要があるはずです。
私たちにできる「買って応援、食べて応援」
では、農家ではない私たちに、何ができるのでしょうか? その一つが、千葉県産のお米を買って、おいしく食べることです。千葉県では「ふるさと千葉のお米プロジェクト」を通じて、県産米の購入による産地の応援を呼びかけています。
また、2026年の豪雨災害を受け、産地直送サイト「食べチョク」では、被災生産者の商品を購入したり、応援チケットを通じて支援したりする取り組みも行われています。もちろん、洪水で米を収穫できなかった農家にとっては、県産米を買うことだけが直接の支援になるとは限りません。
被災した生産者への寄付や、復旧を支える取り組みに目を向けることも大切でしょう。そして、災害が起きたときだけでなく、普段から産地や農家に関心を持つこと。それも、私たちにできる小さな応援なのだと思います。
「農家の意地」だけに頼らない未来へ
米の値段が上がれば、消費者の暮らしは苦しくなります。一方、米を安く買えることばかりを求めれば、生産コストをまかなえず、農業を続けられなくなる人もいるでしょう。
農家が安心して米を作り、消費者も無理なく買える。そんな仕組みをどう作っていくのかは、農家だけではなく、国や地域、そして私たち消費者にも関わる問題です。
戦後、人々は食べるために田中調節池を開墾しました。そして今、農家たちは仲間の土地を引き受け、洪水の危険と向き合いながら、米作りを未来へつなごうとしています。
それを「農家の意地」と呼ぶのなら、その意地は、決して農家だけが背負うべきものではないはずです。洪水から街を守る田んぼを、これからは私たちも一緒に守っていく。田中調節池の物語は、そんなことを問いかけているのかもしれません。
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