北アルプス・穂高連峰に抱かれた涸沢。秋になると、谷を埋め尽くすナナカマドやダケカンバが赤や黄色に染まり、その錦秋の景色を求めて多くの登山者が長い道のりを歩いてきます。
上高地から涸沢までは、およそ15キロ。梓川の流れに沿って明神、徳沢、横尾へ。そこから梓川を離れ、いよいよ本格的な山道へと入っていきます。けれど、山へ来た人すべてが、その先にある頂を目指しているわけではありません。
涸沢を今回の山行の目的地にする人もいる。天候や体調を見ながら「今日はここまで」と決める人もいる。そして、一度は山を諦めながら、20年という歳月を経て、もう一度ここまで歩いてくる人もいます。「ここまで」という言葉には、ときどき「その先へ行けなかった」という響きがあります。でも、本当にそうなのでしょうか?
頂上に立った瞬間だけが、山ではない。冷たい空気の中を一歩ずつ歩いたことも、道の途中で見上げた岩峰も、誰かと交わした言葉も、そして「ここまで来られた」と振り返る時間も――すべてが、その人の山なのだと思います。
NHK『小さな旅』「山の歌 秋『彩りの谷へ~北アルプス 涸沢~』」は、紅葉に染まる涸沢を訪ねます。20年ぶりにこの場所へ戻ってきた人。登山者を迎える場所を守り続ける人。そして、それぞれの思いを胸に山道を歩いてきた人たち。
今回は錦秋の涸沢を歩きながら、「どこまで行ったか」ではなく、「ここまで、どんな道を歩いてきたのか」を見つめてみたいと思います。それぞれの「ここまで」には、その人だけの山があるのです。
【放送日:2026年8月28日(金)21:30 -21:59・NHK-BS8K】
【放送日:2026年8月31日(月)17:30 -18:00・NHK-BS8K】
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第一章 「ここまで」だって15キロある~上高地から涸沢へ続く長い道
涸沢への旅は、北アルプスの玄関口・上高地から始まります。目的地までは、およそ15キロ。数字だけを見ると簡単に感じるかもしれませんが、15キロといえば、ちょっとしたハイキングなら一日歩いて満足できるほどの距離です。
しかも涸沢へ着いたら終わりではありません。帰りには山を下り、上高地まで戻ってくれば往復でおよそ30キロになります。けっして「ここまで」と軽く言える道のりではありません。
上高地を出発すると、しばらくは梓川の流れに寄り添うように道が続きます。明神、徳沢、そして横尾へ。私も以前、初冬のこの道をハイキングで横尾まで歩いたことがあります。観光客の姿も少なくなった季節。木々の間を歩きながら眺めた梓川の流れは美しく、冷たい空気まで澄み切っているように感じられました。
そして歩いていくうちに、木立の向こうから巨大な岩壁が姿を見せます。前穂高岳の屏風岩です。山の中に巨大な壁を立てたような岩肌を見上げると、「山を眺めに来た」というより、いつの間にか自分のほうが山の懐へ入り込んでしまったような、不思議な感覚になります。

やがて横尾へ。ここまでは梓川に沿った比較的穏やかな道ですが、涸沢を目指す人たちは、ここから進む方向を変えます。梓川の流れと別れ、本格的な山道へ。そして、さらに何時間も自分の足で登った先に、穂高連峰の峰々に抱かれた涸沢カールが待っています。

秋にはナナカマドやダケカンバが赤や黄色に染まり、頭上には穂高の岩峰と青い空。その景色を見るために、登山者は一歩、また一歩と歩いてきます。でも考えてみれば、その人たちが見てきた「山」は、涸沢に着いて初めて始まったわけではないのでしょう。
上高地を出た朝の空気。梓川の流れ。木立の向こうに現れた岩峰。徳沢や横尾で交わした言葉。少し疲れて立ち止まった道端の景色。15キロを歩けば、その途中にもたくさんの小さな物語があります。
だから涸沢へたどり着いて、「今日はここまで」とザックを下ろす。それは「ここで終わってしまった」ということではありません。ここまで歩いてきたからこそ、出会えた景色がある。山の旅は、目的地に着いた瞬間だけにあるのではなく、そこへ向かって歩いた一歩一歩の中にも、もう始まっているのです。
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第二章 山頂へ行かなければ、登山じゃない?~涸沢を目的地にする人たち
長い道のりを歩いて涸沢へたどり着いたころ、山の一日はもう夕方へ向かっています。高い峰々に囲まれたカールでは、太陽もやがて山の向こうへ。朝の上高地を出発したときとは違う、少しひんやりとした空気の中で、登山者たちはザックを下ろし、今日一日の歩みを終えます。
もちろん、その先には穂高の頂があります。北穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳――。3000メートル級の峰々を目指す人にとって、涸沢は山頂へ向かう途中の大切な拠点です。けれど、すべての人がその先へ行くわけではありません。
紅葉の涸沢を見るために、ここを目的地として歩いてくる人もいます。山へ何度も通っている人だって、いつも山頂を目指すとは限りません。天候を見て、体調を考えて、その日の気分にも耳を澄ませながら、「今日はここへ行こう」と目的地を決める。考えてみれば、それはとても自然な山の楽しみ方なのかもしれません。
上高地でも同じです。河童橋の周辺には、穂高の山々を眺めながら記念写真を撮り、散策を楽しむ人たちがたくさんいます。ほんの少し先まで歩けば、人の声も次第に遠ざかり、梓川と森に包まれた静かな上高地に出会えるのに――。そんな景色を知っていると、つい「もう少し歩けばいいのに」と思ってしまいます。
でも、河童橋から穂高の岳沢を眺めて、「今日はこの景色を見られたから、よかった」そう思って帰る人がいてもいい。河童橋が目的地の人もいる。明神まで歩く人もいる。横尾で引き返す人もいる。涸沢の紅葉を目指す人もいる。そして、その先の頂へ向かう人もいる。どこまで行ったから偉い、というものではありません。
山頂に立つ喜びがあるように、山頂へ行かないからこそ過ごせる時間もあります。
「もっと先へ」と歩き続けることだけが、山を楽しむ方法ではないのでしょう。自分が行きたい場所を決め、そこまでの道を歩き、たどり着いた場所で景色を眺める。そして、「今日は、ここまで来られてよかった」と思えたなら。そこが、その人にとっての山の目的地なのだと思います。
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第三章 20年ぶりの「ここまで」~孫と歩いた道に重なる人生
一度でも、その先へ歩いたことがある人には、見えてしまう景色があります。上高地の河童橋に立てば、その先に続く明神や徳沢への道を思い出す。横尾まで来れば、ここから梓川と別れて涸沢へ向かう道があることを知っている。
そして、かつて山を歩いていた人なら、遠くに見える峰を眺めながら、自分が歩いた道や、その先で出会った景色まで思い出すことがあるのかもしれません。『小さな旅』で出会う男性も、かつて山を歩いていた一人です。けがをきっかけに登山を諦め、それから20年。長い時間を経て、男性はもう一度、涸沢を目指します。
背中を押してくれたのは、孫でした。20年という歳月は、山の時間からすればほんの一瞬なのかもしれません。穂高の峰々はそこにあり、秋が来れば木々は色づき、涸沢には今年も紅葉の季節がやってきます。けれど、人の20年は違います。身体も変わる。暮らしも変わる。家族にも新しい時間が積み重なっていく。そして、かつて自分が歩いていた山へ、今度は孫と向かう。
同じ涸沢へ続く道であっても、それはもう20年前と同じ旅ではありません。若いころなら、もっと先にある峰を見ていたかもしれない。けれど今は、一歩ずつ歩きながら、「また、この道を歩いている」ということそのものが、かけがえのない時間になっているのではないでしょうか。
山から離れていた20年間も、立ち止まっていた時間ではありません。仕事をした日もあったでしょう。家族と過ごした日もあったでしょう。うれしいことも、思うようにならないこともあったかもしれません。そうやって一日ずつ生きてきた時間の先に、孫と歩く今日があります。
だから、20年ぶりにたどり着いた涸沢で振り返る「ここまで」には、上高地から歩いた15キロだけではなく、その20年間までも重なって見えるような気がします。一度は諦めた山へ帰ってくること。それは、昔の自分を取り戻すことではないのでしょう。
今の自分だから出会える山へ、もう一度会いに行くこと。20年前にはいなかった孫と並んで眺める紅葉は、きっと昔と同じ色ではありません。山は変わらずそこにあっても、人は時間の中を歩き続けています。だからこそ、同じ場所を訪ねても、そこにはいつも新しい景色が待っているのです。
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第四章 「もっと上へ」だけが頑張ることじゃない~山と相談しながら歩く
若いころなら、「もっと上へ」と夢中になって歩くのも楽しいものです。少しでも速く。少しでも遠くへ。そして、目の前に頂が見えれば、あそこまで登ってみたい。昨日より今日、今日より明日へ。そんなふうに自分の力を試しながら歩く時間があってもいいのでしょう。
若い身体は、ときにその無茶さえ受け止めてくれます。けれど、歳月を重ねれば身体も少しずつ変わります。昔なら何でもなかった登りで息が切れたり、長い距離を歩いた翌日に疲れが残ったり。そこで「昔はできたのに」と思うこともあるかもしれません。
でも、昔の自分といつまでも競争しなくてもいいのではないでしょうか。山では、自分だけで目的地を決めることはできません。雲が広がってきた。風が強くなってきた。思ったより身体が重い。今日はなんとなく調子が出ない。そんな日には、予定していた頂を諦めて引き返すこともあります。
反対に、空はどこまでも青く、身体も軽い。もう少し先まで行ってみようと思える日もある。登山者は自分の身体に耳を澄ませ、空を見上げ、目の前にある山と相談しながら歩きます。だから「今日はここまで」と決めることは、必ずしも挫折ではありません。
むしろ、山と長く付き合っていくために覚えていく、大切な歩き方なのでしょう。それは、歳を重ねていくことにも少し似ています。若いころには、誰かより先へ行くことや、何かを成し遂げることが楽しかった。競争することが、自分を前へ進ませてくれた時期もあります。
けれど、いつまでも同じ身体で、同じ速さで歩き続けることはできません。そんなとき、「あと、どこまで行けるだろう」と失っていくものを数えるのではなく、「今の自分なら、何を楽しめるだろう」と考えることができたら。山との付き合い方は、もっと長く、もっと豊かになるのかもしれません。
かつては山頂を目指した山で、今日は涸沢の紅葉を眺める。いつかそこまで歩くことが難しくなったら、横尾から岩峰を見上げてもいい。さらにいつの日か、河童橋から穂高を眺めながら「あの山を歩いたな」と思い出す日が来るかもしれません。
どれかが優れていて、どれかが劣っているわけではありません。そのときの自分にできることの中で、そのときにしか味わえない山を楽しむ。「もっと上へ」と歩くことだけが、頑張ることではないのでしょう。
ときには立ち止まり、歩いてきた道を振り返る。そして目の前にある景色を眺めながら、「さて、今日は何を楽しもうか」そう笑えることもまた、長い人生を歩いてきた人だけが身につけられる、ひとつの豊かさなのかもしれません。
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最終章 それぞれの「ここまで」に、山はある~歩いてきた道を振り返る場所
長い道のりを歩いて涸沢へたどり着いたら、いったんザックを下ろしてみる。目の前には、3000メートル級の穂高の峰々。秋には赤や黄色に染まった木々がカールを彩り、その向こうには岩峰が空へ向かってそそり立っています。
その景色を眺めるための展望テラスを、長年守り続けている山小屋の主人がいます。何時間も歩いてきた登山者が、ようやく腰を下ろす場所。そこではきっと、山頂を目指しているときとは少し違った時間が流れているのでしょう。
温かいものを飲みながら穂高を眺める人。仲間と今日歩いてきた道を話す人。ただ何もせず、夕暮れの山を眺めている人。そして明日、さらにその先へ向かう人もいる。みんな同じ涸沢にいながら、それぞれ違う「ここまで」を歩いてきました。
考えてみれば、山ではいつも前ばかりを見ています。次の曲がり角まで。次の休憩場所まで。そして、あの頂まで。けれど、ときには立ち止まって振り返ってみると、自分が歩いてきた道の長さに驚くことがあります。
「あんなところから歩いてきたんだ」
その瞬間、目の前の景色だけでなく、そこへたどり着くまでに見たものや感じたことまで、ひとつの旅だったことに気づきます。それは人生でも同じなのかもしれません。若いころには、立ち止まっている時間がもったいないと感じることがあります。
もっと先へ行きたい。もっとたくさん経験したい。まだできることがある。そんな時間を夢中で駆け抜けることも、人生の大切な季節です。
けれど、少し歳月を重ねたら、ときには景色のいい場所で腰を下ろしてもいい。若い人たちが軽やかに先へ進んでいく姿を眺めながら、「いいなあ。楽しそうだな」と笑っていられる時間も、きっと悪くありません。
昔の自分と張り合う必要もなければ、若い誰かと競争する必要もない。自分は自分の道を、ここまで歩いてきたのですから。河童橋で穂高を見上げる人にも。横尾まで歩いてきた人にも。紅葉の涸沢を今日の目的地にした人にも。そして、その先の頂を目指す人にも。それぞれの「ここまで」に、それぞれの山があります。
大切なのは、いちばん高いところまで行ったことではなく、自分が歩いてきた道を、「楽しかった」と振り返れること。そして、今いる場所で目の前の景色を眺めながら、「ここまで来られて、よかったな」と思えること。そのあとに、まだ歩きたくなったら、また歩けばいい。涸沢の紅葉は、そんな私たちを急かすことなく、今年も穂高の懐で静かに色づいています。
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