海の記憶が眠る幻の石|来待石がつなぐ出雲と松江藩の物語【あさイチ】

月照寺の大亀 BLOG
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島根県・宍道湖の南岸に広がる来待(きまち)の地。この地で採れる「来待石」は、一見すると素朴な石材に見えます。しかし、その中には1400万年前の海の記憶が静かに眠っています。1400万年前といえば日本列島が大陸を離れた時期に近い時代です。

火山灰や砂が海底に積もって生まれた来待石からは、サメの歯や貝類の化石、さらには1300万年前に絶滅した哺乳動物・パレオパラドキシアの化石まで発見されています。まさに来待石は、はるか太古の海を今に伝える地球の記録なのです。

その魅力は地質学的な価値だけではありません。江戸時代には松江藩によって「御止石(おとめいし)」と定められ、藩の許可なく持ち出すことができない特別な石となりました。松江城の石段や水路、石灯籠や狛犬などにも使われ、その美しさと加工のしやすさから全国へと広まっていきます。

今回の「あさイチ」では、そんな来待石の魅力に注目。1400万年前の海から生まれ、出雲の歴史と文化を支えてきた幻の石の物語をたどります。

【放送日:2026年6月15日(月)8:15 -9:55・NHK-総合】

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1400万年前の海が生んだ石|来待石はどのように誕生したのか?

島根県松江市宍道町周辺で採れる来待石は、約1400万年前の海の底で生まれた石です。現在の宍道湖の南岸一帯には、かつて海が広がっていました。その海底に火山活動によって運ばれた火山灰や砂が積み重なり、長い年月をかけて固まることで形成されたのが来待石です。

地質学的には「凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)」と呼ばれ、火山由来の成分を多く含んでいることが特徴です。そのため比較的加工しやすく、石でありながら温かみのある質感を持っています。

来待石が特別なのは、その中に太古の海の記録が残されていることです。採石場周辺からはサメの歯や貝類、樹木の化石が見つかっており、さらに約1300万年前に絶滅した哺乳動物・パレオパラドキシアの化石も発見されています。

来待石は単なる建築資材ではありません。1400万年前の出雲の海を今に伝える「地球の記録」でもあるのです。また、その恵みは現在にも受け継がれています。採石や加工の際に生まれる来待石の石粉は、島根を代表する伝統工芸である石州瓦や石見焼の釉薬の原料として利用されています。

海底で生まれた石が、時を超えて焼き物や瓦の美しさを支えているのです。来待石の物語は、石が誕生した瞬間で終わりません。1400万年前の海から始まったその歴史は、人々の暮らしや文化へと受け継がれながら、今も静かに続いています。

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化石が語る太古の出雲|来待石に眠る海の記憶

来待石の魅力は、その美しい石肌や加工のしやすさだけではありません。この石の中には、1400万年前の出雲の風景が静かに閉じ込められています。

来待石が採れる大森-来待層(島根県松江市の主に宍道湖南岸の来待地区周辺に分布する、約1,400万年前の地層)からは、サメの歯や貝類、樹木の化石などが数多く発見されています。それらは、この地域がかつて海に覆われていたことを物語る貴重な証拠です。

現在の宍道湖周辺を歩いていると想像しにくいかもしれませんが、7000年ほど前まではこの地には豊かな海が広がっていました。その海では魚たちが泳ぎ、貝が生息し、さまざまな生き物が命をつないでいたのです。

さらに大森-来待層からは、約1300万年前に絶滅した哺乳動物・パレオパラドキシアの化石も発見されています。カバにもアザラシにも似た不思議な姿を持つこの動物は、日本の中新世を代表する大型哺乳類のひとつとして知られています。

こうした化石は、来待石が単なる石材ではなく、太古の自然環境を記録した「地球の記録媒体」であることを教えてくれます。

私たちは石を見ると、つい建築や工芸の材料として考えてしまいます。しかし来待石は、そのはるか前に海の底で生まれ、多くの生命の営みを見つめてきました。石の中に眠る化石たちは、1400万年前の出雲から届いた小さなメッセージなのかもしれません。

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松江藩が守った幻の石|御止石となった理由

1400万年前の海から生まれた来待石は、やがて人々の暮らしの中で重要な役割を担うようになります。特に江戸時代になると、その価値はさらに高まりました。

来待石は比較的柔らかく加工しやすい一方で、時間の経過とともに硬さを増していくという特徴を持っています。そのため石灯籠や狛犬、石仏などの彫刻から建築資材まで、幅広く利用されるようになりました。こうした優れた性質に注目したのが松江藩です。

江戸時代、来待石は「御止石(おとめいし)」に指定され、藩の許可なく藩外へ持ち出したり販売したりすることができなくなりました。それは単なる石材ではなく、藩の重要な資源として守るべき価値があったからです。

松江城の石段や水路枠にも来待石が使われており、城下町の景観や人々の暮らしを支える存在となっていました。もし来待石がなければ、私たちが今目にしている松江の風景も少し違ったものになっていたかもしれません。

地球が生み出した石は、やがて藩の財産となり、人々の生活や文化を支える存在へと変わっていきました。「御止石」という名前には、その価値を守り受け継ごうとした松江藩の思いが込められているのです。

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城から灯籠まで|暮らしを支えた来待石

松江藩によって守られた来待石は、やがて城下町のさまざまな場所で活躍するようになります。その用途は実に幅広く、城の石段や水路枠といった建築資材から、石灯籠、狛犬、石仏にまで及びました。

来待石が重宝された理由のひとつは、その加工のしやすさにあります。採石されたばかりの来待石は比較的柔らかく、職人が思い描く形へと削り出しやすい性質を持っています。しかし時間が経つにつれて硬さを増し、丈夫な石材へと変化していきます。

この特徴は、細かな彫刻と耐久性の両方を求められる石工たちにとって大きな魅力でした。松江の町を歩けば、今でも来待石が使われた数多くの建造物や石造物に出会うことができます。

朝ドラ「ばけばけ」の舞台としても注目される月照寺には、巨大な亀の像が残されています。松江の町を歩くと、このように来待石が使われたとされる石造物に出会う機会も少なくありません。

松江城の石段としても人々の足元を支え、神社や寺では灯籠や狛犬として参拝者を見守り続けています。来待石は特別な場所だけでなく、人々の日常にも深く根付いていました。

地球が生み出した石は、職人の手によって形を変え、やがて町の風景そのものになったのです。そこには単なる建築資材を超えた、地域の歴史と文化を支える力が宿っています。

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日本海を渡った出雲の石|全国へ広がる来待石文化

江戸時代後期になると、来待石は出雲の地を越え、日本各地へと広がっていきます。その背景にあったのが、日本海航路の発達でした。加工しやすく、美しい風合いを持つ来待石は、石灯籠や狛犬、庭園石材などに姿を変え、船によって各地へ運ばれるようになります。

特に「出雲唐獅子」と呼ばれる来待石製の狛犬は高い人気を集めました。力強くも親しみやすい表情を持つその姿は、多くの神社や寺院で愛され、今も各地に残されています。

また、庭園文化が広がる中で、来待石は灯籠や飛び石などにも用いられました。石工たちの技術と来待石の加工しやすさが結びつき、多彩な石造物が生み出されていったのです。

1400万年前の海で生まれた石は、やがて海を渡る存在になりました。出雲の大地から切り出された石は、日本各地の町や寺社、庭園へと広がり、その土地の風景の一部になっていったのです。来待石の歴史は、単なる石材の歴史ではありません。それは出雲の文化や技術、人々の思いが全国へ運ばれていった物語でもあるのです。

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海の記憶を未来へ|来待石が伝える地球と人の物語

来待石の歴史は、1400万年前の海から始まりました。火山灰や砂が海底に積もり、長い時間をかけて石となる。その中にはサメや貝、そして太古の生き物たちの記憶が刻まれています。

やがて人々はその価値に気づき、石を切り出し、城を築き、灯籠を作り、暮らしの中で活かしてきました。松江藩が守った御止石は、地域の文化を支える存在となり、日本海を越えて全国へと広がっていきます。

来待石は単なる建築資材ではありません。そこには地球が育んだ時間と、人々が受け継いできた歴史の両方が刻まれています。今も松江の町を歩けば、石段や灯籠、神社や寺院の石造物など、さまざまな場所で来待石に出会うことができます。

私たちはそれらを何気なく眺めていますが、その石は1400万年前の海を知る存在なのかもしれません。遠い昔の自然が生み出した石が、人の手によって文化となり、今も暮らしの中に息づいている。

来待石の物語は、地球の歴史と人の歴史が静かに重なり合う場所にあります。そしてその海の記憶は、これからも松江の風景の中で語り継がれていくのでしょう。

モニュメントミュージアム来待ストーン

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