鎌倉の極楽寺は地獄だったの?!慈善施設だったお寺とは誰のため?【ブラタモリ】

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こんにちは鳥巣です。2/10のブラタモリは鎌倉第2弾として鎌倉のお寺が特集されるようです。鎌倉のお寺といえば「建長寺」とか「長谷寺」とかが有名ですが、私が藤沢に住んでいた頃には「極楽寺」によく連れて行ってもらいました。当時の江ノ電・極楽寺駅は無人駅だったような気もしますが、極楽寺自体も小さなお寺でした。そんな極楽寺の歴史が気になったので、調べ直してみました。

極楽寺(鎌倉市観光協会公式サイトより)
極楽寺(鎌倉市観光協会公式サイトより)

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山側に多い鎌倉のお寺

8年ほど前の初期のブラタモリでも鎌倉が舞台になっていました。その時はJR横須賀線の北鎌倉駅寄りで、谷(ヤツ)の中にある浄光明寺の周りをブラブラしていたような気がします。

鎌倉のお寺ってどこも山の近くにありますが、これは平地の少ない鎌倉の地形もありますが、当時の人々の暮らしにも理由がありそうな気がします。

ご存知の通り、鎌倉は三方を山に囲まれた地形をしています。市街地から東西や北に向かって進むと、最後は切り通しや峠道の坂になります。

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軍事的には当然、外敵から鎌倉を守るために切り通しや峠の防御は大切だったはずですが、こういった土地(谷とか坂がつく地名)には、当時の被差別集落がありました。(と学生時代に鎌倉時代の鎌倉を研究していた友人が言っていました)

被差別というと、今では憚られる言葉ですが「穢多(えた)・非人(ひにん)」といった人々が暮らしていた場所です。

封建的身分制の最下層に位置づけられ、非人道的に身分や職業、住居を固定されて,穢多(えた)は皮革加工・死刑執行・斃馬牛の処理にあたらされていた人々、非人(ひにん)は乞食・犯罪・心中未遂、癩病などの人々を指していました。

こういった人たちは街中に住むことを許されずに、谷津(ヤツ)などに追いやられて暮らしていたそうです。そこでそういった人々の拠り所として切り通しや谷津の近くにはお寺が作られたそうです。

江ノ電・極楽寺駅のすぐ近くには、江ノ電で唯一のトンネルがあるほど極楽寺は急な山の上に建っています。

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極楽寺は地獄だった?!

極楽寺もその一つで、当時、処刑場の死体を処理したり行き場のない人々や癩病患者が集められて、あたかも”地獄”のようなところだったのだといいます。こんな場所にお寺が建てられたのは、死者を供養するためだったともいわれています。

そこに「忍性(良観房)」という高僧が、境内の中の道場に「寮病院」という病院施設や「非田院」という身寄りのない人を収容して救済する施設などの慈善施設を作ったところが今の極楽寺です。

「地獄を極楽のようにしよう!」ということで「極楽寺」と名付けられたとも言われています。

極楽寺往古図(江戸時代)
極楽寺往古図(江戸時代)

慈善活動に積極的だった忍性は、鎌倉幕府の執権だった北条氏の庇護を受けて、当時の鎌倉を代表する僧だったといいます。

最盛期の室町時代には現在の境内の裏手にある稲村ヶ崎小学校の敷地まで境内に含まれる大寺院でしたが、その後の火災や自然災害などで衰退してしまい、今は本堂と山門を残すのみとなってしまいました。

極楽寺

神奈川県鎌倉市極楽寺3-6-7
TEL:0467-22-3402
拝観時間:9:00〜16:30(宝物館は10:00〜16:00)
拝観料:志納(宝物館は300円)
開館日(宝物館):4/25〜5/25、10/25〜11/25のみ開館(雨天休館)
URL:https://www.trip-kamakura.com/place/135.html

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極楽寺のまとめ

山側に多い鎌倉のお寺

封建的身分制の最下層に位置づけられ、非人道的に身分や職業、住居を固定されていた人々は,街中に住むことを許されずに、谷津(ヤツ)などに追いやられて暮らしていたそうです。そこでそういった人々の拠り所として切り通しや谷津の近くにはお寺が作られたそうです。

極楽寺は地獄だった?!

極楽寺周辺には当時、処刑場の死体を処理したり行き場のない人々や癩病患者が集められて、あたかも”地獄”のようなところだったのだといいます。そこで「忍性(良観房)」という高僧が、慈善施設を作って、「地獄を極楽のようにしよう!」ということで「極楽寺」と名付けられたと言われています。

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