白い器に、藍色で描かれた草花や風景。飾り気は少ないけれど、どこか温かみがあって、毎日の食卓にもよく似合いそうです。ところが、同じ「古伊万里」の名で呼ばれる器の中には、鮮やかな赤や金で埋め尽くされた、目を見張るほど豪華な大皿もあります。いったい、どうしてこんなに違うのでしょうか?
そもそも、古伊万里という名前にも、ちょっと不思議なところがあります。日本で初めて磁器がつくられた土地として知られるのは、佐賀県の有田。それなのに、なぜ「有田」ではなく「伊万里」と呼ばれるのでしょう。さらに、その歴史をたどると、佐賀藩の鍋島家がつくらせた特別な器や、庶民の食卓を支えた長崎県の波佐見焼まで登場します。
同じ肥前の地で生まれながら、それぞれに異なる役割を担ってきた磁器たち。そして、その一部は海を越え、遠いヨーロッパの王侯貴族をも魅了しました。
NHK『美の壺』のテーマは、「素朴に 華やかに 古伊万里」。白と藍の染付から、赤や金が輝く色絵の器まで、その奥深い美しさを紹介します。しかも、古伊万里は美術館で眺めるだけのものではありません。300年前の器にスコーンを載せて、今の暮らしの中で楽しむ人もいるのだとか…。
かつて宮殿を飾った器と、毎日の食卓に寄り添う器。その間には、どんな歴史があるのでしょうか。素朴な青と華やかな赤。ふたつの色を手がかりに、肥前の磁器が歩んできた物語をたどってみたいと思います。
【放送日:2026年10月28日(水)19:30 -19:59・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年11月2日(月)13:00 -13:30・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年11月3日(火)19:30 -20:00・NHK-BS】
【放送日:2026年11月4日(水)8:00 -8:30・NHK-BSP4K】
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有田で焼いたのに、なぜ「伊万里」と呼ぶの?
古伊万里という名前を聞くと、佐賀県伊万里市で焼かれた器だと思うかもしれません。ところが、江戸時代の古伊万里の主な生産地は、隣の有田でした。
有田は、日本で初めて磁器の本格的な生産が始まった土地として知られています。その歴史は、今からおよそ400年前にさかのぼります。豊臣秀吉による朝鮮出兵のあと、肥前には朝鮮半島から多くの陶工が渡ってきました。その中のひとりが、李参平(りさんぺい)、日本名を金ヶ江三兵衛と呼ばれる陶工です。
李参平らは、有田の泉山で磁器の原料となる良質な陶石を見いだし、17世紀初め、有田で磁器づくりを発展させていきました。それまで日本で広くつくられていた陶器とは異なり、白く硬く、薄く仕上げることもできる磁器。中国から輸入されていたような美しい白磁を、日本でもつくれるようになったのです。
ところで、ここでひとつ不思議なことがあります。有田の周辺には、伊万里、波佐見、三川内、唐津など、焼き物の産地が集まっているのです。どうして、この地域にこれほど多くの窯が生まれたのでしょうか?
その理由のひとつは、焼き物に適した土地の条件にありました。磁器の原料となる陶石があり、山の斜面には登り窯を築くことができました。さらに、朝鮮半島から伝わった技術を持つ陶工たちが、肥前各地で焼き物づくりを発展させていきます。
ただし、すべての産地が同じ器をつくっていたわけではありません。唐津では主に陶器が、有田や波佐見、三川内では磁器が発展し、それぞれの土地に異なる焼き物の文化が根づいていきました。そして、もうひとつ重要だったのが、海です。
有田は内陸にあります。そこで、有田で焼かれた磁器は、陸路で伊万里の港へ運ばれ、船に積まれて海外や全国各地へ届けられました。つまり、器が生まれた場所は有田でも、買い手のもとへ届くときには「伊万里から来た焼き物」だったのです。こうして、伊万里焼という名前が広く知られるようになりました。
やがて肥前のほかの地域でも磁器が盛んにつくられるようになると、産地が異なっていても、広く「伊万里焼」と呼ばれるようになります。現在、江戸時代につくられた肥前の磁器を「古伊万里」と呼ぶのは、そんな歴史があるからなのです。
さらに17世紀半ばになると、中国の政治的混乱によって、中国磁器の海外輸出が不安定になります。そこで、オランダ東インド会社が注目したのが、日本の磁器でした。有田を中心とする肥前の磁器は、長崎を経てヨーロッパへと渡り、遠い異国の人々を魅了していきます。
けれど、海を渡った古伊万里は、最初から赤や金で飾られた豪華な器だったわけではありません。初期の磁器は、白地に藍色で文様を描いた、素朴な染付が中心でした。それが、どうして王侯貴族の宮殿を飾るほど華やかな器へと発展していったのでしょうか?
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古伊万里の青は、なぜ赤と金に変わったの?
古伊万里と聞いて、どんな器を思い浮かべるでしょうか。白い磁器に、藍色で草花や風景を描いた素朴な器。それとも、赤や金で華やかに飾られた、大きな皿や壺でしょうか。実は、どちらも古伊万里の代表的な姿なのです。では、なぜこれほど印象の違う器が生まれたのでしょう。
その答えは、磁器づくりの技術と、器を求める人々の変化にありました。有田で磁器づくりが始まった17世紀初め、主流だったのは「染付(そめつけ)」です。白い素地に、呉須(ごす)と呼ばれるコバルトを含む顔料で文様を描き、透明な釉薬をかけて高温で焼き上げます。
すると、白い磁器の表面に、美しい藍色の文様が浮かび上がります。初期の伊万里焼は、厚みがあり、絵付けにもどこか素朴な味わいがありました。
ところが、1640年代になると、有田で新しい技術が生まれます。「色絵(いろえ)」です。一度焼き上げた磁器の釉薬の上から、赤や緑、黄色などの絵具で彩色し、比較的低い温度でもう一度焼き付ける方法でした。初代酒井田柿右衛門が赤絵の焼成に成功したという伝承も、この時代のことです。
これによって、それまで藍色が中心だった磁器の世界に、鮮やかな色彩が加わりました。しかし、色が増えたからといって、すぐに器全体が派手になったわけではありません。17世紀後半に発展した「柿右衛門様式」では、乳白色の美しい素地に、赤を中心とした色絵が描かれました。
特徴的なのは、余白の美しさです。白い空間をたっぷり残し、その中に草花や鳥などを繊細に描く。華やかな色を使いながらも、どこか静かで上品な美しさがありました。

そして、古伊万里の姿をさらに大きく変えたのが、海外からの需要です。17世紀半ば、中国の政治的混乱によって中国磁器の輸出が不安定になると、オランダ東インド会社は日本の磁器に注目しました。有田で焼かれた器は、伊万里港から長崎へ運ばれ、そこからヨーロッパへと渡っていきます。
当時のヨーロッパでは、東洋の磁器は非常に貴重なものでした。王侯貴族にとって、美しい磁器を所有することは、富や権威を示すことにもつながったのです。
やがて17世紀末、古伊万里には、赤や金をふんだんに使った「金襴手(きんらんで)」と呼ばれる華やかな様式が広がります。藍色の染付に、赤や緑などの色絵、さらに金彩を重ねる。器の表面を細かな文様で埋め尽くした大皿や壺は、食器というより、宮殿を飾る美術品のような存在でした。
もっとも、豪華な古伊万里を求めたのは、ヨーロッパの王侯貴族だけではありません。日本国内でも、経済力を持つ商人や富裕な町人たちが、華やかな器を楽しむようになっていきます。つまり、古伊万里の赤や金は、技術の進歩だけで生まれたものではなかったのです。
新しい色を使えるようになった職人たちと、豪華な器を求める人々。その両方が出会ったことで、古伊万里の世界は大きく広がっていきました。でも、ここで忘れてはいけないことがあります。赤や金の器が生まれたからといって、藍色の染付が姿を消したわけではありません。
素朴な青の器も、変わらずつくられ続けました。華やかな器を飾って楽しむ人がいる一方で、毎日の食卓で使いやすい器を求める人もいたのです。古伊万里の青が赤に変わったのではなく、青の世界に赤や金が加わった。そう考えると、古伊万里の美しさが、少し違って見えてきませんか。
そして、同じ肥前の地には、一般の市場向けとは異なる、特別な目的でつくられた磁器もありました。佐賀藩の鍋島家が、将軍家などへの贈答品としてつくらせた「鍋島焼」です。
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鍋島藩は、なぜ特別な磁器をつくらせたの?
古伊万里が海を越え、ヨーロッパの王侯貴族を魅了していたころ。同じ肥前の地では、一般には売られない、特別な磁器もつくられていました。それが「鍋島焼」です。鍋島焼をつくらせたのは、佐賀藩を治めていた鍋島家でした。目的は、徳川将軍家への献上や、諸大名への贈答です。
江戸時代、大名にとって将軍家への贈り物は、単なる贈答品ではありませんでした。藩の格式や技術の高さを示す、大切な役割も担っていたのです。そこで佐賀藩は、優れた陶工たちを集め、最高級の磁器をつくらせるようになります。
17世紀半ばには有田で将軍家への献上品がつくられ、やがて伊万里の大川内山に御用窯が設けられました。大川内山は、周囲を山に囲まれた谷あいの土地です。藩はこの場所で磁器づくりを厳しく管理し、技術や製品が外へ流出するのを防ごうとしました。
窯のある地域への出入りを管理するため、関所まで設けられたといいます。そして、鍋島焼の最大の特徴は、採算を度外視してつくられたことでした。一般の市場で売る器なら、材料費や手間、販売価格を考えなければなりません。
ところが、鍋島焼は将軍家などへの献上品です。優れた材料を選び、熟練した職人が時間をかけて仕上げる。そこでは、売れる値段よりも、完成した器の美しさや精度が重視されたのです。
では、鍋島焼はどんな器だったのでしょうか。代表的なものに、藍色の染付に赤・緑・黄の色絵を加えた「色鍋島」があります。古伊万里の金襴手のように金をふんだんに使うのではなく、限られた色彩を巧みに組み合わせ、洗練された文様を描きました。

また、藍一色の濃淡で美しさを表現する「藍鍋島」や、翡翠色の釉薬が美しい「鍋島青磁」もつくられています。つまり、将軍家に献上するほどの器だからといって、必ずしも豪華な金色で飾られていたわけではないのです。むしろ、限られた色の中で、どこまで美しく表現できるか。そこに、職人たちの技術と美意識が注がれていました。
そして、鍋島焼には、もうひとつ興味深い特徴があります。器の表だけでなく、裏側や高台にまで、細かな文様が描かれているのです。高台に櫛の歯のような線を並べた「櫛高台(くしこうだい)」も、鍋島焼を鑑賞する際の見どころのひとつです。将軍家に贈る器だからこそ、目立たないところにも手を抜かない。そんな職人の誇りが感じられます。

一方、同じ肥前でも、長崎県の波佐見では、まったく違う方向に磁器づくりが発展していました。将軍家に贈る特別な一枚ではなく、多くの人が毎日の食事に使う器。そこにも、鍋島焼とは異なる美しさがあったのです。
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波佐見焼は、なぜ庶民の食卓に広がったの?
江戸時代、佐賀藩の鍋島家は、将軍家への献上品として特別な磁器をつくらせていました。一方、同じ肥前の地にありながら、まったく違う方向へ発展した焼き物があります。長崎県の波佐見焼です。波佐見は、江戸時代には大村藩の領地でした。
ここでも17世紀初めには磁器づくりが始まり、当初は海外向けの製品もつくられていました。ところが、17世紀後半になると、状況が変わります。中国での政治的混乱が落ち着き、中国磁器の輸出が再開されると、日本の磁器は海外市場で厳しい競争に直面しました。そこで波佐見の窯元たちが目を向けたのが、日本国内の庶民の暮らしだったのです。
当時、庶民が使っていた食器には、木製の椀や陶器などがありました。磁器は丈夫で、汚れやにおいが付きにくいという利点がありましたが、まだ誰もが気軽に買えるものではありませんでした。それなら、手頃な価格で、毎日の食事に使える磁器をつくろう。波佐見では、そんな需要に応えるため、大量生産の仕組みが発達していきます。
山の斜面には、複数の焼成室を連ねた巨大な登り窯が築かれました。なかには、全長150メートルを超えるものまであったといいます。一度に大量の器を焼くことで、生産効率を高め、価格を抑えることができたのです。さらに、器づくりの工程を職人たちが分担し、安定した品質で大量に供給する仕組みも整えられていきました。
こうして生まれた代表的な器が、「くらわんか碗」です。少し厚手で、白地に藍色の素朴な文様を描いた茶碗。華やかな装飾はありませんが、丈夫で使いやすく、価格も手頃でした。
ところで、「くらわんか」という、ちょっと変わった名前はどこから来たのでしょう? その舞台は、大坂の淀川です。江戸時代、淀川を行き来する船に小舟を近づけ、食べ物や酒を売る商人たちがいました。「餅くらわんか! 酒くらわんか!」そんな呼び声から、そこで使われていた器が「くらわんか碗」と呼ばれるようになったといいます。
揺れる船の上でも扱いやすい、どっしりとした形。気取らず、毎日の食事に使える器です。やがて波佐見焼は、こうした庶民向けの磁器を大量に生産する産地として発展し、全国各地へと広がっていきました。
面白いのは、鍋島焼と波佐見焼の違いです。鍋島焼は、将軍家への献上品として、最高の美しさと技術を追求しました。一方、波佐見焼は、多くの人が買える価格と、毎日使える丈夫さを追求しました。どちらも優れた磁器ですが、目指したものは違っていたのです。
そして、波佐見焼の素朴な藍色の器には、豪華な金襴手とはまた違う美しさがあります。白いご飯を盛っても、煮物を盛っても、料理を引き立ててくれる。使う人の暮らしに寄り添う美しさです。古伊万里の世界には、王侯貴族を魅了した華やかな器がありました。けれど、同じ肥前の磁器文化は、庶民の毎日の食卓も豊かにしてきたのです。
では、そんな昔の器を、現代の私たちはどう楽しめばいいのでしょうか。300年前の古伊万里に、スコーンを載せてみる。そんな自由な使い方も、案外、器をつくった職人たちは喜んでくれるのかもしれません。
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300年前の古伊万里に、スコーンを載せてもいいの?
300年前につくられた古伊万里の皿。美術館の展示ケースに並んでいたら、思わず足を止めて見入ってしまいそうです。そんな貴重な器に、焼きたてのスコーンを載せる。ちょっと驚いてしまいませんか。もし割ってしまったら、どうするのでしょう。
そもそも、骨董品を普段の食卓で使ってもいいのでしょうか。NHK『美の壺』では、古伊万里を現代の暮らしの中で自由に楽しむ人が登場します。
古伊万里にスコーン。日本の古い磁器と、イギリス生まれのお菓子。一見、意外な組み合わせですが、考えてみると、どこか不思議な縁を感じます。
江戸時代、古伊万里は海を越えてヨーロッパへ渡り、王侯貴族たちを魅了しました。そして今度は、ヨーロッパのお菓子が、日本の古伊万里の上に載せられる。300年の時を超えて、器と食べ物が出会うのです。もちろん、古い器なら何でも食卓に使えるわけではありません。ひびや欠け、修復の状態、釉薬の安全性など、確かめなければならないこともあります。
電子レンジや食器洗い乾燥機に入れることも避けたいところです。けれど、状態がよく、食器として安全に使えると確認された器なら、現代の暮らしの中で楽しむという選択肢もあります。
そもそも、古伊万里は最初から美術館に飾られるためだけにつくられたものではありませんでした。料理を盛るための皿。お茶を飲むための碗。人をもてなすための器。もちろん、海外向けの大きな壺や飾り皿のように、装飾を目的としたものもあります。
それでも、古伊万里の歴史をたどると、人々の暮らしとの深いつながりが見えてきます。有田では、白い磁器に藍色の文様を描く技術が育まれました。やがて赤や金を使った華やかな器が生まれ、海を越えてヨーロッパへ渡っていきます。佐賀藩の鍋島家は、将軍家への献上品として、細部まで美しさを追求した磁器をつくらせました。
一方、波佐見では、庶民が毎日の食事に使える丈夫で手頃な器が大量につくられました。同じ肥前の磁器文化でありながら、器に求められた役割はさまざまだったのです。そして、そんな器づくりの技術や美意識は、今も受け継がれています。
昔ながらの製法を大切にする作家たちがいる一方で、現代の暮らしに合う新しい器も生まれています。古いものを、そのまま守る。古いものから学び、新しいものをつくる。どちらも、焼き物の文化を未来へつなぐ大切な営みなのでしょう。
では、古伊万里の本当の美しさとは、何なのでしょうか? 赤や金で華やかに飾られた大皿には、見る人を圧倒する美しさがあります。けれど、白地に藍色で描かれた素朴な皿にも、料理を盛って初めて気づく美しさがあるはずです。豪華な器が美しくて、普段使いの器が劣っているわけではありません。美しさの形が、違うだけなのです。
そして、その美しさは、器をつくった人だけでなく、使う人によっても育まれていきます。300年前の古伊万里に、スコーンを載せる。そんな自由な楽しみ方も、器の新しい物語のひとつなのかもしれません。
器は、眺めることで美しくなることもあれば、使うことで美しくなることもある。素朴な青も、華やかな赤も…。400年近い時を経た今も、私たちの暮らしの中で、それぞれの美しさを静かに語り続けているのです。
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