島を去る人、島へ来る人、ここに残る人|短い夏がつなぐ利尻・礼文【新日本風土記】

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北海道の北の果て。稚内から船に乗り、日本海へ出ると、やがて二つの島が見えてきます。利尻島と礼文島。中央に利尻山がそびえる丸い火山島・利尻島と、その隣に南北へ細長く伸びる礼文島。冬になれば雪と厳しい寒さに包まれる北の島にも、短い夏がやって来ます。

その季節になると、島にはいつもとは少し違う風が吹き始めます。利尻島へやって来るのは、京都大学の学生たち。漁の最盛期を迎えた利尻昆布を干すため、遠く京都から海を渡ってきます。かつて北前船によって北海道の昆布が京都へ運ばれていたことを思えば、なんだか不思議です。

かつては昆布が利尻から京都へ。今度は若者たちが、京都から利尻へ。遠く離れた二つの土地は、時代が変わっても昆布によって結ばれているのです。

けれど、夏が終われば学生たちは島を去っていきます。そして島から船に乗るのは、外から来た人だけではありません。利尻や礼文で生まれ育った若者たちの中にも、進学や就職をきっかけに故郷を離れていく人がいます。島を去る人がいる。島へ来る人がいる。そして――ここに残る人がいます。

高校の同級生たちが故郷を離れていくなか、島を支える定期航路の甲板員になった青年。海でウニを獲りながら、遠く鳥取から伝わったという一本角の「麒麟獅子」を通して、地域のつながりを結びなおそうとする若者。彼らはなぜ、この島で生きる道を選んだのでしょう。

離島で暮らすことを考えるとき、私たちはつい「不便」という言葉を思い浮かべます。店が少ない。進学先や仕事の選択肢も限られる。海が荒れれば、船が欠航することもある。とりわけ長い冬を迎える北海道の離島で暮らし続けることは、決して簡単なことではないでしょう。

だから、島を離れることは悪いことではありません。外の世界へ行ってみたい。学びたいことがある。やってみたい仕事がある。そんな若者が島を出ていくのは、ごく自然なことです。それでも一方で、「ここで生きていく」という道を選ぶ人もいます。

NHK『新日本風土記』「利尻・礼文」が描くのは、北海道の二つの島を行き交う人々の、短い夏の物語です。昆布を干すため島へやって来る人。新しい人生へ向かって島を去る人。海を渡る船で、その両方を見送る人。そして、島の海で働き、祭りを受け継ぎながら、ここで暮らしていく人。

船が着けば、誰かがやって来ます。船が出れば、誰かが去っていきます。けれど、その船を見送ったあとにも、島の暮らしは続いていきます。夏が終われば、観光客も学生たちも少なくなり、やがて北の島には長い冬が訪れます。それでも、ここで暮らしている人がいる。

なぜ人は島を去るのでしょう。なぜ人は島へやって来るのでしょう。そして――なぜ人は、この島に残るのでしょう。利尻・礼文を吹き抜ける短い夏の海風を追いながら、島を行き交う人々と、そこに残る人々の人生を見つめてみたいと思います。

【放送日:2026年8月31日(月)22:00 -23:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年9月1日(火)20:00 -21:00・NHK-BS】
【放送日:2026年9月6日(日)6:00 -7:00・NHK-BSP4K】

【放送日:2026年9月7日(月)17:00 -18:00・NHK-BS】

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夏になると、京都から若者がやって来る~利尻昆布がつなぐ海の道

北海道の北端、稚内から海を渡った先に浮かぶ利尻島。島の中央には、標高1721メートルの利尻山がそびえています。海から眺めれば、まるで一つの山がそのまま島になったような姿。そんな北の島にも、短い夏がやって来ます。

そして夏の海岸では、利尻を代表する風景の一つが見られるようになります。昆布干しです。早朝から海へ出て採った昆布を浜へ運び、一本一本広げて太陽の光で乾かしていく。利尻昆布の漁期は短く、天候にも左右されます。

晴れた日に一気に作業しなければならないため、漁の最盛期には多くの人手が必要になります。その浜で汗を流している人たちの中に、ちょっと意外な若者たちがいます。京都大学の学生です。

京都から利尻まで、およそ1000キロ以上。大学の夏休みに、わざわざ北海道の北の島までやって来て、昆布を干す。海洋生物の研究でも、大学の実習でもありません。彼らは本当に、昆布干しのアルバイトをするために利尻へやって来ます。

この取り組みが始まった背景には、昆布漁の最盛期に人手を確保したい島の漁師と、京都大学の卒業生とのつながりがありました。学生たちは島で共同生活をしながら、昆布漁を手伝います。夏の間だけ島へやって来る、若い働き手です。けれど、どうして京都なのでしょう。

その答えを探してみると、利尻と京都には、ずっと昔から一本の「海の道」があったことに気づきます。その道を渡っていたものこそ、昆布でした。

江戸時代から明治時代にかけて、日本海を行き交った北前船。北海道で採れた昆布は船に積まれ、日本海を南へ運ばれていきました。そして敦賀などを経て京都や大阪へ届き、上方の食文化を支えていきます。なかでも利尻昆布は、澄んだ上品なだしが取れることで知られ、京都の料理と深く結びついてきました。

湯豆腐。千枚漬け。懐石料理。素材の味を生かす京料理にとって、昆布から取るだしは欠かすことのできない存在です。遠く離れた北海道の海で育った昆布が、京都の味を作ってきたのです。そう考えると、現在の光景が少し不思議に見えてきます。

かつては、利尻から京都へ、昆布が渡っていった。そして今は、京都から利尻へ、若者たちが渡ってくる。時代が変わり、海を渡るものの方向は逆になりました。それでも二つの土地をつないでいるのは、やっぱり昆布です。

そもそも「利尻昆布」という名前ですが、利尻島だけで採れる昆布というわけではありません。主な産地は利尻島や礼文島、そして稚内周辺。北海道にはほかにも、函館周辺の真昆布、日高地方の日高昆布、知床・羅臼の羅臼昆布など、それぞれの海に特徴のある昆布があります。そのなかで利尻・礼文の海が育ててきたものが、利尻昆布なのです。

学生たちは、その昆布を浜に並べます。一本。また一本。夏の日差しの下で、漁師たちと一緒に汗を流します。彼らにとっては、ひと夏のアルバイトなのかもしれません。けれど島の側から見れば、短い漁期を支えてくれる大切な人手でもあります。

そして学生たちにとっても、普段暮らしている京都とはまったく違う場所で働き、島の人たちと暮らす時間になります。やがて夏が終われば、彼らは京都へ帰っていきます。ずっと島に住むわけではありません。それでも、誰かがやって来ることで島の暮らしが支えられることがあります。

離島というと、私たちは「人が出ていく場所」というイメージを持ちがちです。けれど島には、外からやって来る人もいます。働くために。旅をするために。誰かに会うために。そして、ときにはその土地に新しい風を運ぶために。

短い夏。利尻の浜へやって来た京都の若者たちは、昆布を干し終えれば、また海を渡って帰っていきます。その一方で、この海で一年を通して暮らしている若者もいます。昆布と同じ海に潜り、夏の短い漁期に海底を見つめる若者です。狙うのは――ウニ。

ところが、このウニ。今でこそ利尻・礼文を代表する高級食材ですが、昆布の側から見れば、ちょっと困った存在でもあります。なぜなら、ウニは昆布を食べてしまうからです。ウニに食べられた昆布には穴が開き商品価値も下がってしまいます。

昆布を食べる“厄介者”ともなり得るウニが、なぜ今では昆布と並ぶ北の島の名物になったのでしょう。次は少し海の中へ潜って、利尻・礼文の人たちが海とともに作ってきた暮らしを見てみたいと思います。

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昆布を食べるウニが、なぜ島の名物になった?~利尻・礼文の海で生きる

利尻・礼文を代表する海の幸といえば、何を思い浮かべるでしょう。前の章で見た「利尻昆布」。そして、もう一つ。ウニです。

利尻昆布を食べて育ったウニは、今では利尻・礼文を代表する高級食材として知られています。礼文島の香深漁協でも、利尻昆布を食べて育ったエゾバフンウニやキタムラサキウニを島自慢の海産物として紹介しています。

昆布を食べて育つから、おいしいウニになる。そう聞けば、「なるほど。利尻昆布があるから、おいしいウニも育つんだ」と納得してしまいそうです。ところが――。昆布を採る漁師の側から見れば、話はそれほど単純ではありません。

ウニは、その大切な昆布を食べてしまう生き物でもあるからです。では、昔から利尻の人たちはウニを「おいしい海の幸」として大切にしてきたのでしょうか? 調べてみると、意外な歴史が見えてきました。利尻富士町が発行した広報誌には、「ウニ今むかし」と題した興味深い記録があります。

現在では利尻島の代名詞ともいえるウニですが、漁獲されるようになったのは昭和10年代以降だったとされています。さらに、生のウニが現在のように商品として広く扱われるようになったのは、冷蔵・冷凍設備が普及した昭和40年代後半ごろから。それ以前には、塩漬けにした「粒ウニ」として出荷されるのが主流でした。

つまり、利尻のウニが現在のような高級な名物になった歴史は、意外なほど新しいのです。では、それ以前の利尻の海を支えていたものは何だったのでしょう。江戸時代から知られていた利尻昆布とともに、島の漁業を大きく支えていたのが、ニシンでした。

明治から大正にかけて利尻島ではニシン漁が盛んになり、最盛期には大量のニシンが水揚げされました。島外から多くの出稼ぎ漁師もやって来て、島にはニシン漁を中心とした集落や暮らしが作られていきます。ところが昭和に入ると、ニシンは次第に姿を消していきます。

利尻島では昭和30年ごろを境にニシン漁が衰退。それに伴って島の漁業は、昆布やウニ、アワビなど、沿岸に根づいて暮らす生き物を利用する漁業へと大きく変わっていきました。そこでウニは、「昆布を食べる生き物」から、「島の暮らしを支える海の幸」へ少しずつ立場を変えていったのです。

しかも、なんとも面白いことがあります。ウニがおいしくなる理由の一つが、その利尻昆布を食べて育つこと。なのです。昆布にとってみれば、食べられてしまう相手。人間から見れば、その昆布を食べるからこそ価値のある海の幸。同じ海の中にある関係も、人間がどこから見るかによって、まったく違って見えてきます。

現在の利尻・礼文では、昆布とウニのどちらも大切な漁業資源です。だからこそ、ただ獲ればいいわけではありません。海の中に昆布がなければ、ウニを含め、そこで生きるさまざまな生き物の環境にも影響します。昆布を育てる。ウニを獲る。

海の状態を見ながら、その恵みを暮らしへつないでいく。利尻・礼文の漁師たちは、そんな海との付き合いを続けています。『新日本風土記』に登場する若いウニ漁師も、その海で生きる一人です。短い夏。小さな舟で海へ出て、海底をのぞきながらウニを探す。

そこにあるのは、「北海道のおいしいウニ」という観光客から見える姿だけではありません。海の変化を見つめながら、そこで暮らしを立てていく人の仕事があります。そして利尻の漁業の歴史を振り返ってみると、島の暮らしは決して一つの形のまま続いてきたわけではないことが分かります。

かつて島を支えたニシンは、やがて姿を消しました。その後、昆布やウニなどを中心とする漁業へ変わっていきました。そして現在も、海と人との関係は変わり続けています。島に残るということは、昔と同じ暮らしをそのまま守ることではないのかもしれません。

海が変われば、仕事も変わる。人が減れば、暮らし方も変わる。それでも、その場所で生きていく方法を探していく。利尻・礼文の人々は、そうやって北の海とともに暮らしを作ってきたのでしょう。

そして、人が変わりながら島の暮らしをつないできたことを示すものが、海の中だけではなく、陸にも残っています。番組に登場するウニ漁師の青年が取り組んでいる、一本角の「麒麟獅子」。実はこの獅子舞、北海道で生まれたものではありません。遠く離れた鳥取から、この北の島へ伝わってきたものです。

なぜ鳥取の文化が、利尻・礼文にあるのでしょう。その答えにもまた、かつて海を渡って島へやって来た人々の歴史がありました。

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島を出る若者、船に残る若者~定期航路がつなぐ人生

島に生まれ育った若者にも、いつか自分のこれからを考える時がやって来ます。進学するのか。働くのか。そして――この島に残るのか、島を出るのか。利尻島や礼文島のような離島では、その選択がとてもはっきりした形で現れます。島の中には高校卒業後のすべての進学先や仕事があるわけではありません。

学びたいことがある。やってみたい仕事がある。もっと広い世界を見てみたい。そう考えて島を離れる若者がいるのは、ごく自然なことでしょう。『新日本風土記』に登場する一人の青年も、そんな同級生たちを見てきました。

高校を卒業し、それぞれが自分の道へ進んでいく。故郷を離れる人もいます。そんななかで青年が選んだのは、島を支える定期航路の甲板員になることでした。ここが、なんとも象徴的です。島を出ていく人を乗せる船に、島に残った若者が乗っている。

夏になれば、昆布干しのアルバイトをするためにやって来る学生を乗せることもあるでしょう。観光客がやって来ます。島で暮らす人が用事のために海を渡ります。進学や就職で島を離れる若者も乗ります。そして、故郷へ帰ってくる人もいます。同じ船の中に、「行ってきます」と「ただいま」が乗り合わせている。離島の定期船とは、そんな場所なのかもしれません。

なぜ青年は甲板員という仕事を選んだのでしょう。なぜ同級生たちと同じように島を離れるのではなく、この海を渡る仕事を選んだのでしょう。その理由は、私たちが想像だけで決めることはできません。番組の中で青年自身が語る言葉に耳を傾けたいと思います。

ただ、青年の仕事を見つめていると、一つ気づくことがあります。離島にとって船とは、島を出るための乗り物であると同時に、島で暮らし続けるための乗り物でもあるということです。海に囲まれた島でも、船があれば外の世界とつながることができます。

人が来る。人が帰ってくる。必要なものが運ばれてくる。そして島で暮らす人も、必要なときには外へ出ることができます。「島に残る」という言葉から、私たちはつい、そこに留まり続ける姿を想像してしまいます。けれど甲板員になった青年は、毎日のように海を渡ります。

港を離れれば島を出て、仕事を終えれば、また島へ帰ってくる。島に残りながら、外の世界と島をつないでいるのです。そう考えると、「出る」と「残る」は、本当は反対の言葉ではないのかもしれません。島を出た若者だって、故郷とのつながりがなくなるわけではありません。

進学しても。就職しても。遠く離れた町で家庭を持っても。いつか船に乗れば、また島へ帰ってくることができます。一度島を出てから、何年か後に戻ってくる人もいるでしょう。外で暮らしながら、故郷と関わり続ける人もいるでしょう。

だから離島の未来を考えるとき、「若者をどうやって島に引き留めるか」だけを考えるのは、少し違うのかもしれません。若者には、それぞれの人生があります。島を出る自由もあれば、島に残る自由もある。そして、一度出たあとに帰ってくる自由もあります。

大切なのは、その間を結ぶ道がなくならないこと。島を出るときには、「行っておいで」と送り出せる。そして、いつか帰ってきたときには、「おかえり」と言える。利尻・礼文では、その道が海の上にあります。今日も定期船が港を離れます。誰かを島から送り出し、誰かを島へ連れてくるために。その甲板には、ここで働くことを選んだ若者がいます。

島を去る人がいる。島へ来る人がいる。そして、その両方を運ぶ船に残る人がいる。離島を支えるということは、すべての人を島に留めておくことではないのかもしれません。人が自由に行き来できる道を残しておくこと。その道の先に、いつでも帰ることのできる故郷があること。

短い夏の海を渡る定期船は、今日も人と人を、そして島とそれぞれの人生をつないでいます。そして島で暮らす若者たちがつなごうとしているものは、航路だけではありません。

礼文島には、遠く離れた鳥取から海を渡ってきたという、一風変わった獅子舞があります。一本の角を持つ、「麒麟獅子」。今度は船を降りて、ウニ漁師の若者がこの祭りを通してつなぎ直そうとしている、島の人と人との絆を見つめてみたいと思います。

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遠い鳥取から、なぜ麒麟獅子が礼文へ?~祭りが人をもう一度つなぐ

礼文島の夏を歩いていると、海だけでは説明できない不思議な文化に出会います。一本の角を持つ、勇ましい獅子。鳥取の伝統芸能「麒麟獅子(きりんじし)」です。北海道の最北に近い礼文島で、なぜ鳥取の伝統芸能が受け継がれているのでしょう。

その答えは、今から100年以上前の海にありました。明治から大正にかけて、利尻・礼文ではニシン漁が大きく発展します。豊かな漁場を求めて、本州各地から多くの漁師や開拓者が北の島へ渡ってきました。鳥取県も、その一つです。

故郷を離れ、遠い礼文島で暮らし始めた人たちは、仕事だけを持ってきたわけではありません。祭りも、踊りも、故郷の記憶も、一緒に海を渡ってきました。その一つが、麒麟獅子だったのです。こうして見ると、礼文島は「最果ての島」というより、むしろ人が集まり、文化が交わる港だったことが分かります。

昆布が京都へ運ばれたように、人も文化も海を渡ってきたのです。けれど、祭りは受け継ぐ人がいなければ、静かに途切れてしまいます。人口が減り、若者が島を離れていくなかで、祭りを続けることは決して簡単ではありません。

『新日本風土記』に登場する若いウニ漁師は、その麒麟獅子を受け継ごうとしています。彼にとって祭りは、昔の文化を保存するためだけのものではないのかもしれません。練習をすれば人が集まる。祭りの日には、久しぶりに顔を合わせる人がいる。子どもが大人の姿を見て、「来年は自分もやってみたい」と思う。そうやって、人と人とのつながりが少しずつ生まれていきます。

麒麟獅子
麒麟獅子

地域の絆とは、大きな言葉ではなく、同じ時間を一緒に過ごす理由なのかもしれません。祭りは、その理由を毎年つくり続けてくれる存在です。そして、ここで受け継がれているのは「鳥取の祭り」だけではありません。海を渡ってきた人たちが、この島で暮らし、この島の人になり、やがて礼文島の文化として育ててきた祭りです。

故郷を離れた人が、新しい故郷で根を張る。その姿は、どこか昨日私たちが書いた「第二のふるさと」という言葉とも静かに響き合います。人は土地を選び、土地もまた人を育てていく。麒麟獅子が舞う礼文島には、そんな時間の積み重ねが息づいていました。

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夏が終わっても、島の暮らしは続く~去る人、来る人、ここに残る人

北海道の北に浮かぶ、利尻島と礼文島。短かった夏が、少しずつ終わろうとしています。利尻の浜で昆布を干していた京都大学の学生たちも、やがて島を離れていきます。ひと夏をともに過ごした人たちと別れ、船に乗って京都へ帰る日がやって来ます。

港から船が出ていく。島が少しずつ遠くなる。それは確かに、少し寂しい光景です。けれど、この物語を「別れ」で終わらせる必要はないのだと思います。なぜなら、船は出ていくだけではないからです。今日、誰かを乗せて島を離れた船は、海を渡って戻ってきます。そこには、別の誰かが乗っています。

初めて島を訪れる人かもしれません。久しぶりに故郷へ帰ってくる人かもしれません。そしてまた次の夏には、新しい若者たちが昆布を干すために海を渡ってくるかもしれません。島では、人が行ったり来たりしています。今回の『新日本風土記』に登場した人たちも、そうでした。

京都から利尻へやって来た学生たち。高校を卒業し、故郷を離れていく若者たち。その人たちを運ぶ定期航路で働くことを選んだ青年。礼文の海でウニを獲り、麒麟獅子を通して地域をつなごうとする若者。

去る人がいる。来る人がいる。ここに残る人がいる。けれど、その三つは、きれいに分けられるものでもないのでしょう。島を出た人が、いつか帰ってくることがあります。ひと夏だけやって来た人が、この島を忘れずにいることもあります。そして島に残った人だって、船に乗って外の世界と行き来しながら暮らしています。

人の人生は、「出る」と「残る」の二つだけではありません。その間には、何度も海を渡る道があります。だから、島を出ることは、故郷を失うことではありません。そして島に残ることも、外の世界から離れることではありません。大切なのは、自分がどこで、どう生きていくのかを選べること。その選択の先に、「ここが自分の故郷だ」と思える場所があることなのかもしれません。

やがて夏が終わります。利尻昆布の浜も静かになり、夏のにぎわいは少しずつ遠ざかっていきます。そして北の島には、長い冬がやって来ます。吹雪の日もあるでしょう。海が荒れ、船が出られない日もあるでしょう。私たちが旅番組で目にする、花が咲き、海が輝く美しい季節だけが、島の暮らしではありません。

島の暮らしは、夏で終わらない。観光客が少なくなっても。学生たちが帰っても。祭りが終わっても。そこで暮らしている人たちの毎日は続いていきます。

朝になれば仕事へ行く。海へ出る。船を動かす。家族と食卓を囲む。誰かと話す。雪をかく。春を待つ。そうして長い冬を越えれば、また島に短い夏がやって来ます。

昆布が海で育ち、ウニ漁が始まり、港には船が入ってきます。そしてまた、誰かが島へやって来ます。もしかしたら、以前この島を訪れた人が帰ってくることもあるでしょう。故郷を離れた若者が、「ただいま」と船を降りる日もあるかもしれません。

島の物語には、終わりがありません。人が入れ替わりながら、仕事が変わりながら、受け継ぐ文化の形も変わりながら、それでも暮らしは続いていきます。『新日本風土記』「利尻・礼文」が見つめたのは、そんな北の島を吹き抜ける、ひと夏の風景でした。

島を去る人。島へ来る人。ここに残る人。誰か一人が、島の未来を背負っているわけではありません。それぞれが自分の人生を生きながら、少しずつ島と関わっていく。その積み重ねが、利尻・礼文という場所をつないでいるのでしょう。

船が港へ入ってきます。甲板から島を見る人がいます。港から船を見る人がいます。そして、その向こうには利尻の山と、礼文の海があります。今年の夏も、やがて終わります。でも――島の暮らしは、明日も続いていきます。


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