色とりどりの糸を、丸い球体へ幾重にもかけていく。花のようにも、星のようにも見える幾何学模様。秋田県由利本荘市には、そんな美しい「本荘ごてんまり」が受け継がれています。
球体の三方から長い房を垂らした姿は、まるで小さな芸術品。部屋に飾ったり、贈り物にしたり。今では「見るもの」として親しまれている手まりですが――。
考えてみれば、不思議です。「手まり」って、もともとは遊ぶものだったんですよね。手のひらから地面へ落とし、弾ませる。また手のひらへ戻ってくる。かつて子どもたちが遊んでいた「まり」が、どうしてこんな美しい工芸品になったのでしょう?
私にも、少しだけ手まりの記憶があります。かつて明治生まれの祖母が趣味で手まりを作っていました。実家にもいくつももらった記憶がありますが、今も残っているのかどうかは分かりません。
祖母の手まりには、本荘ごてんまりのような立派な房は付いていなかったように思います。それでも、丸い球体の上へ色糸で模様を作っていく姿は、どこかよく似ています。
祖母は、どこでその作り方を習ったのでしょう。どんな模様を作ろうかと考えながら、糸を選んでいたのでしょうか。そんなことを、今になって少し考えます。
そして、もう一つ。祖母が作っていたころには、手まりはすでに私たち子どもの遊び道具ではありませんでした。私自身、手まりで毬つきをして遊んだ記憶も野球をした覚えもありません。遊ぶならゴムボールがある。ゴムまりがある。実際、小学生の頃は軟式テニスの柔らかいゴムボールが一般的でした。
やがてテレビゲームも登場する。子どもの遊びから「手まり」が姿を消していったとしても、それほど不思議ではありません。ところが――。手まりそのものは、消えませんでした。遊び道具としての役割を失ったあとも、人は糸を巻き、美しい模様を作り続けました。
秋田県由利本荘市では、昔ながらの手まりの技から、昭和30年代に新しい発想を取り入れた「本荘ごてんまり」が生まれました。材料を変え、色を変え、昔の手まりにはなかった三方の房まで付ける。そして現在では、さらに小さくなった手まりが――。ピアスやストラップなどのアクセサリーになっています。
2026年9月30日放送の『あさイチ』中継では、秋田県由利本荘市から、そんな「てまりアクセサリー」が紹介されます。大きなごてんまりを飾る場所はなくても、小さな手まりなら耳元で揺らすことができる。バッグに付ければ、一緒に街へ出かけることもできる。
……あれ?そう考えると、これは単に、「伝統工芸を小さくしたら、かわいいアクセサリーになりました💕」という話だけではなさそうです。
かつて子どもの手の中で弾んでいた手まり。遊ばれなくなったあと、美しい工芸品になった手まり。そして今、身につけるアクセサリーになって、もう一度人と一緒に動き始めた手まり。形も、材料も、使い方も変わってきました。それでも私たちは、今もそれを「手まり」と呼んでいます。
だったら――。遊ばなくなった「手まり」は、なぜ消えなかったのでしょう? そして、その歴史をたどっていけば、もう一つの問いにも出会いそうです。「伝統を守る」って、昔と同じものを作り続けることなのでしょうか。祖母が作っていた手まりを少しだけ思い出しながら…。秋田・由利本荘で今も糸を巻き続ける人たちの手を、訪ねてみたいと思います。
【放送日:2026年9月30日(水)8:15 -9:55・NHK-総合】
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「手まり」って、もともと飾るものじゃなかったの?
「手まり」と聞いて、何を思い浮かべるでしょう?色とりどりの糸で、美しい幾何学模様を描いた丸い工芸品。床の間や棚に飾られていたり、お土産屋さんで見かけたり。……と言っても。若い世代なら、「そもそも手まりって、何?🤨」なのかもしれません。
そりゃそうでしょう。今の子供ならそもそも「毬つき遊び」なんてやったこともないかもしれません。「手毬唄」と聞いてもなんのことやらさっぱりわからない人もいるでしょう。でも昭和の頃までは、♪あんたがったどっこさ肥後さ肥後どっこさ♪なんて手鞠唄を歌いながら道路で毬つき遊びをする子供の姿も見られたんですよ(笑)
「明治は遠くなりにけり」どころか「昭和」もずいぶん遠くなり、手まりで遊んでいた時代そのものが、ずいぶん遠くなってしまいました。でも、「手まり」という名前の通り――。もともとは手で遊ぶ「まり(ボールのこと)」でした。
手まりの歴史は古く、由利本荘市観光協会によると、1223年には「手鞠会」が盛んに催されたという記録があり、もともとは遊び道具として使われたとされています。恐らく飛鳥時代の蹴鞠(けまり)の頃から宮廷などでは貴族のたしなみや教養として伝えられてきたのでしょう。
そして本荘周辺でも、昔の人たち(飛鳥時代ほど昔ではありません💦)は身近にある材料から手まりを作っていました。その一つが、山菜のゼンマイです。食べる部分ではなく、先端についている綿毛を丸めて芯にする。その上に、機織りをしたときに残った糸を巻き、さらに木綿糸で模様をかがっていったといいます。
江戸時代中期から後期になると、ハマグリの殻を木くずで包み、さらに真綿で包んで色糸を巻いたものも作られていました。ゴムボールどころか、ホームセンターも手芸店もない時代です。「まりが欲しいなら、自分たちの身近にあるもので作る」そんなところから始まったのでしょう。
だから、現在の本荘ごてんまりを見ると――。ちょっと不思議なんです。色鮮やかな糸。精緻な模様。そして何より特徴的なのが、球体の三方から垂れ下がった、大きな房。……これで毬つきしたらきっと、バッサバッサするよね(笑)
実は、この三方の房は昔の子どもたちが遊んでいた手まりに最初から付いていたものではありません。現在の「本荘ごてんまり」は、昭和30年代に昔からの手まりの技法へ新しい発想が加わって生まれたもの。三方の房も、その過程で加えられた本荘ごてんまり独自の特徴です。
由利本荘市も、現在の姿を「本荘の手まりの手法と新しい発想」が合わさって誕生したものと説明しています。つまり――。私たちが今、「昔ながらの伝統工芸だなぁ」と思って眺めている姿は、昔の女の子たちが遊んでいた手まりとは、ずいぶん違うのです。
では、いつ変わったのでしょう?その大きなきっかけの一つが、ゴムまりの登場でした。由利本荘市観光協会によれば、明治30年代にゴムまりが普及するまで、手まりは盛んに作られていました。その後、ゴムまりが広がると、手作りのまりは遊び道具として次第に使われなくなっていきます。
考えてみれば当然です。ゼンマイの綿を集める。丸める。糸を巻く。模様をかがる。そこまでして「まり」を作らなくても、よく弾むゴムまりが手に入る。遊び道具として考えれば、新しいものへ置き換わっていくのは自然なことだったのでしょう。
だったら――。手まりは、ここで消えてしまってもおかしくなかったはずです。遊ぶ人がいなくなった。本来の役割を失った。それなのに、本荘では人々が手まりを作ることをやめませんでした。いや正確には――、手毬は「遊ぶもの」であることを、やめたのです。
ここから、手まりのちょっと不思議な第二の人生が始まります。子どもの手の中で弾んでいた「まり」は、どうして美しい工芸品になったのでしょう? そして、遊び道具として必要とされなくなったのに――。どうして「手まり」そのものは消えなかったのでしょう?
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遊ばなくなった「手まり」は、どうして消えなかったの?
ゴムまりの普及によって、「遊び道具」としての役割を失っていった手まり。それなら、そのまま昔の遊びとして消えていっても不思議ではありません。ところが、本荘ではそうなりませんでした。時間を少し進めて、昭和30年代…。
このころには、手まりを手作りする人そのものが、ほとんどいなくなっていました。そんな中、1959年ごろ、本荘市内の料亭「甚能亭」で働いていた斎藤ユキノさんと児玉八重子さんが、寺に残されていた古い菊花模様の手まりを手がかりに、製作技法を復元します。
さらに偶然、その料亭には石沢地区に残っていた「かけまり」の技法を受け継ぐ女性の娘も働いていました。そこで、別々に残されていた手まりの技が出会います。
そして1961年。本荘の手まりに、大きな転機が訪れます。秋田国体です。本荘市は卓球とソフトボールの会場となり、訪れた人たちへの記念品として、「土地がらを現わしている昔ながらの“ごてんまり”」を贈ることにしました。
製作されたごてんまりは、本荘に宿泊していた国体チームの監督たちへ贈られ、それぞれの土地へお土産や記念品として持ち帰られていきました。すると、その美しさが評判になります。これが、本荘のごてんまりが全国へ知られていく大きなきっかけになったといいます。
なるほど。これは確かに、記念品として相性がよさそうです。食べ物なら、食べたらなくなる。でも、ごてんまりなら残ります。しかも、その土地で受け継がれてきた手仕事です。家や職場へ持ち帰って飾れば、「これは秋田国体へ行ったときにもらったものなんだ」という、旅の記憶にもなる。
……もしかしたら、どこかの校長室にも飾られて、「いやぁ、うちの学校は秋田国体でね……」なんて自慢話のお供になっていたかもしれません。でも、ここからが面白いところです。全国へ持ち帰られたごてんまりが評判になると、東京の百貨店などからも注文や問い合わせが寄せられるようになります。
ところが――。作れない。正確には、昔ながらの作り方では、求められるだけの量を作ることが難しかったのです。そこで本荘では、ごてんまりを商品として作れるようにするための工夫が始まります。手に入りにくくなっていたゼンマイ綿は、もみ殻へ。刺繍糸は、色鮮やかで扱いやすいリリアンへ。
そして作り方を伝える講習会も開かれ、多くの人が技術を身につけていきました。やがて土産物として販売されるようになり、「本荘の人たちが作っているのだから」と、「本荘ごてんまり」という名前も生まれます。つまり、国体は単に「手まりを有名にしたイベント」ではなかったんですね。
遊ばれなくなり、消えかけていた手まりに、「土地を伝える記念品」という新しい役割を与えた。遊び道具ではなくなった。でも今度は、飾るもの。贈るもの。旅の記憶を持ち帰るもの。として必要とされるようになったのです。
そして1970年には、本荘市内の内職者の67.5%がごてんまり作りに携わるほどまでに広がったといいます。
……すごいですよね。「遊ばなくなったから消えた」のではありません。遊ばなくなったから、別の使い道を見つけた。もしかすると、それが手まりが生き残った理由の一つだったのかもしれません。
ところが――。ここで、もう一つ不思議なことに気づきます。現在の本荘ごてんまりを象徴する、あの華やかな三方の房。実はこれも当然、昔から変わらず受け継がれてきたものではありません。商品化を進める中で、作り手たちは伝統にこだわらない自由な発想で房を付け、新しいごてんまりを作っていきました。
由利本荘市も、現在の本荘ごてんまりは、昔からの手まりの技法と「新しい発想」が合わさって昭和30年代に誕生したものだと説明しています。……あれ?「伝統工芸」なのに、昔と違うものを作っちゃったの?
材料を変える。用途を変える。形まで変える。それでも私たちは現在、それを立派な「本荘ごてんまり」と呼んでいます。だったら――。「伝統を守る」って、変えないことなのでしょうか?それとも…、変えたからこそ、残ったものもあるのでしょうか?
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「伝統」は、変えたほうが残るの?
昔の材料を使う。昔の作り方を守る。昔と同じ形を作り続ける。それが「伝統を守る」ということ――。私たちは、なんとなくそう考えてしまいます。でも、本荘ごてんまりの歴史を振り返ると、少し違った姿が見えてきます。
遊び道具だった手まりは、ゴムまりの普及によって遊ばれなくなりました。そこで終わらなかったのが、本荘の手まりでした。昔の技法を復元する。秋田国体をきっかけに、土地を伝える記念品にする。材料を変える。色鮮やかなリリアンを取り入れる。そして、昔の手まりにはなかった三方の房まで付ける。
つまり本荘ごてんまりは、「昔と同じものを守ったから残った」だけではありません。むしろ、その時代の人たちが、「今だったら、どんな手まりが喜ばれるだろう?」と考え続けた結果、現在の姿になったともいえそうです。
考えてみれば、これは伝統工芸だけの話ではありません。どれほどいいものを作っても、存在を知ってもらえなければ手に取ってもらえない。知ってもらえても、「きれいだけど、うちには置く場所がないなぁ」と思われたら、そこで終わってしまうかもしれません。
現代なら、さらに難しくなります。スマートフォンの小さな画面の中では、世界中の商品や作品が次々と流れていく。「かわいい」「欲しい」「誰かに見せたい」そんな気持ちを生み出せるかどうかが、昔以上に大きな意味を持つ時代になりました。
だから今、伝統工芸の作り手たちが考えているのは、「昔のものを、どう保存するか」だけではないのでしょう。「今の暮らしの中に、どう居場所をつくるか」ということなのかもしれません。
それは、本荘ごてんまりが昭和30年代にやっていたこととも、どこか似ています。国体の記念品として持ち帰ってもらえるものにする。土産物として欲しくなるものにする。色鮮やかな材料を使う。飾ったときに美しく見えるよう、三方に房を付ける。
当時は「バズる」なんて言葉はありませんでした。でも、やっていることを現代の言葉に置き換えれば、「どうしたら、この手まりを欲しいと思ってもらえるだろう?」というマーケティングを考えていたともいえます。
そして面白いのは――。そのとき誰かが考えた「新しい手まり」が、何十年か経った今では、「伝統的な本荘ごてんまり」になっていることです。
新しいものは、最初から伝統だったわけではありません。誰かが試して、誰かが作って、誰かが欲しいと思って、それを次の人がまた作る。その繰り返しの先で、いつの間にか「伝統」と呼ばれるようになる。だったら――。伝統と革新は、本当に反対なのでしょうか?
変えないことで守られるものもあります。糸をかける技。手仕事の細やかさ。長い時間をかけて受け継がれてきた模様。そうしたものまで、流行に合わせて何でも変えてしまえばいいわけではありません。でも一方で、大きさ、材料、用途、デザイン、届け方…。時代に合わせて変えられるものもある。
もしかすると伝統とは、「全部を変えないこと」ではなく、「何を残して、何を変えるのか」を考え続けること
なのかもしれません。そして由利本荘では、今この瞬間にも――。
👵「ピアスは作ったべ」
👵「ストラップもあるべ」
👵「んだば次は何やるべ?」
なんて話している人がいる……かもしれません(笑)
でも、そのくらい自由に、「次の手まり」を考える人がいる限り、手まりはまだ変わっていける。そして2026年の『あさイチ』が紹介する「てまりアクセサリー」も、その長い変化の途中にあるものなのでしょう。では――。大きなごてんまりを、今度はどうしてこんなに小さくしたのでしょう?
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大きな「ごてんまり」を、どうして小さくしたの?
本荘ごてんまりといえば、大きな球体に色鮮やかな糸で模様を描き、三方に長い房を垂らした華やかな姿。部屋に一つ置けば、それだけで目を引きます。でも――。現代の暮らしを考えると、ちょっと困ったこともあります。
「きれいだけど……どこに飾ろう?💦」
床の間がある家は少なくなりました。大きな飾り棚を置かない家も増えました。一人暮らしの部屋なら、なおさらです。どれほど美しい伝統工芸でも、「欲しい」と思ってもらうだけでは足りません。その人の暮らしの中に、置ける場所がなければならない。
そこで、ごてんまりは小さくなりました。手のひらよりも、もっと小さく。バッグに付けられるチャーム。スマホストラップ。そして――。耳元で揺れるピアス。面白いことに、これは2026年の若い世代の楽しみ方とも重なっています。
バッグへチャームやキーホルダーをいくつも付ける「じゃら付け」が若い女性を中心に広がり、スマートフォンのストラップも、実用品であると同時にファッションの一部として新商品が作られ続けています。つまり今は、大きなものを家に飾って眺めるだけではなく、小さなものを自分の身近な場所に置く。そんな楽しみ方が、一つの選択肢になっています。
耳に付ける。バッグに付ける。スマートフォンと一緒に持ち歩く。あるいは職場のデスクの片隅に、小さく飾る。ごてんまりを小さくするというのは、単なる「ミニチュア化」ではありません。現代の暮らしの中に、ごてんまりが入れる場所をつくること。そんな意味もあるのかもしれません。
しかも――。これは本荘ごてんまりにとって、初めてのことではありません。遊び道具として必要とされなくなったときには、工芸品へ。国体では、土地を伝える記念品へ。土産物として売るためには、材料や作り方も工夫する。そして現代では、小さなアクセサリーへ。
その時代、その時代で、「今の人なら、どうしたら手に取ってくれるだろう?」を考えてきたようにも見えます。ただし――。ここには難しさもあります。2026年にチャームが人気だからといって、2027年も同じとは限りません。
今日「かわいい!」と言われたものが、来年には売り場の隅に山積みになって残っていることだってある。流行というものは、ときどき驚くほど早く潮目が変わります。かつて朝ドラ『ちゅらさん』の中でも、「ゴーヤーマン」が人気を見込んで大量生産され――。不良在庫になりました🤣
もちろんドラマの中の話ですが(笑)、商品を作る側からすれば笑ってばかりもいられません。「これが売れる!」と思った瞬間には、もう次の流行が始まっているかもしれない。だから大切なのは、「小さくすれば正解」でも、「ピアスにすれば若者に売れる」でもない。
その時代に暮らす人が、「これなら私のそばに置いておきたい」と思える形を探し続けることなのでしょう。そして――。ここまで手まりの歴史をたどってきて、ちょっと面白いことに気づきます。昔の手まりは、子どもの手の中で弾んでいました。ところが工芸品になったごてんまりは、部屋に飾られ、動かなくなりました。
そして今。小さくなって、ピアスになる。バッグに付く。人と一緒に街へ出る。手まりが、もう一度動き始めた。もちろん昔のように、地面で弾むわけではありません。でも、人が歩けば耳元で揺れる。バッグに付ければ、一緒に旅をする。
遊び道具だったころとはまったく違う方法で――。手まりは、もう一度「人のそば」に戻ってきたのかもしれません。では、その先は? ごてんまりはこれからも、ピアスやチャームのままなのでしょうか。それとも今ごろ由利本荘のどこかで、「さて、次は何やるべ?」と考えている人がいるのでしょうか?
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「手まり」は、もう一度、人と一緒に歩き始めた?
昔、手まりは動いていました。
子どもが手のひらから落とせば、地面で弾む。また手のひらへ戻ってくる。誰かの手から誰かの手へ渡りながら、遊びの時間を一緒に過ごしていました。
やがて、ゴムまりが登場します。手作りのまりで遊ぶ人は少なくなり、本荘の手まりも「遊び道具」としての役目を終えていきました。それでも、手まりは消えませんでした。
昔の技をもう一度たどり、材料を変え、色を変え、三方に美しい房を付け、本荘を訪れた人が持ち帰る工芸品になりました。子どもの手の中で弾んでいた手まりは、いつしか部屋の中で静かに飾られるものになったのです。
そして2026年。その手まりが、また小さくなっています。耳元で揺れる。バッグに付いて街を歩く。身近な場所に、ちょこんと飾られる。昔のように地面で弾むわけではありません。けれど――。手まりは、もう一度、人と一緒に動き始めた。そんなふうにも見えます。
もちろん、アクセサリーにすれば未来永劫安心、というわけではありません。今人気のものが、来年も人気とは限らない。流行は突然やってきて、驚くほど早く去っていくことがあります。だから、「今はこれが売れる!」と流行を追い続けることだけが、伝統を残す方法ではないのでしょう。
たくさん売れる年がある。あまり売れない年もある。新しいものを作ってみたけれど、思ったほど手に取ってもらえないことだってあるかもしれません。それが宮崎の椎葉村に伝わる「のさり」です。「すべては神様からの贈り物」。Let It Be。神様のなすがままに…。
それでも、「じゃあ、次は何を作ってみようか」と、また糸を手に取る。焦らず、慌てず。昔から受け継いだものを眺めながら、ときどき少しだけ新しいことを試してみる。そうやって本荘の手まりは、長い時間を歩いてきたのかもしれません。
考えてみれば、私の祖母もそうでした。祖母が作った手まりが、今も実家に残っているのかどうかは分かりません。たくさんもらったはずなのに、いつの間にか見かけなくなってしまったものもあります。
大きな手まりは、ずっと取っておくには少し場所を取ります。暮らしが変われば、残しておけないものだってあります。でも不思議なことに――。手まりを作っていた祖母の姿は、残っています。
次はどんな模様にしよう。どんな色の糸を使おう。祖母もまた毎日、そんなことを考えながら新しい模様を探していたのでしょう。そう思うと、「文化が残る」ということと、「同じ物がずっと残る」ということは、少し違うのかもしれません。
物は、いつかなくなることがあります。材料も変わります。使い方も変わります。流行だって変わります。それでも誰かが、「今の私なら、こんな手まりを作ってみたい」と思って糸を手に取れば、そこからまた続いていく。
遊び道具だった手まり。秋田国体の記念品になった手まり。床の間や棚を彩った手まり。そして、小さなアクセサリーになった手まり。姿はずいぶん変わりました。それでも、その丸い球体の上では、今も誰かの手が一本一本、糸を重ねています。
もしかすると、伝統とは一本の長い糸のようなものなのかもしれません。途中で色が変わってもいい。模様が変わってもいい。ときには少し途切れそうになってもいい。誰かがその続きを手に取れば、またそこから新しい模様を描くことができる。
だから――。遊ばなくなった手まりは、消えなかった。変わらないものを守りながら、変えられるものを変えてきたから…。
そして今。耳元で小さく揺れる本荘ごてんまりを見ていると、かつて子どもの手の中で弾んでいた手まりが、長い長い寄り道をして――もう一度、人と一緒に歩き始めた。そんな気がするのです。
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