「あなたは、いつ大人になりましたか?」そう尋ねられたら、あなたは何と答えるでしょう。「二十歳になったとき」「高校を卒業したとき」「社会人になって、初めて給料をもらったとき」――。答えは人それぞれかもしれません。
日本では2022年から、民法上の成年年齢が18歳になりました。でも、18歳の誕生日を迎えた瞬間、それまでの自分と何かが変わるのでしょうか。そもそも、私たちは本当に「大人」になれたのでしょうか?
NHK『おとなりさんはなやんでる。』の「予測不可能な時代の子育て 哲学のススメ」では、子どもたちが「大人とは何か?」を考え、熊本地震を経験した中学生たちが「幸せとは何か?」という問いに向き合います。一見、別々に見える二つの問い。でも、そこには深いつながりがあるように思えます。
大人になるとは、正しい答えを知ることでしょうか。それとも、自分とは違う考え方があると知り、その声に耳を傾けられるようになることでしょうか。そして、親が子どもに願う「幸せ」は、本当に子ども自身が望む幸せと同じなのでしょうか。
未来がどうなるか分からないからこそ、子どもに自分が確かだと思っている答えを教えたくなる。でも、人生の正解をすべて知っている大人なんて、どこにいるのでしょう?今回は、子どもたちの素朴な問いを手がかりに、「大人になること」と「幸せになること」の関係を、親も子も一緒に考えてみたいと思います。
【放送日:2026年10月29日(木)20:00 -20:30・NHK-教育】
【放送日:2026年10月31日(土)22:30 -23:00・NHK-教育】
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「大人」って、何歳になったらなれるの?──子どもが見つめる大人の姿
「大人って、どんな人のこと?」
子どもにそう尋ねられたら、私たちは何と答えるでしょう。「自分で働いてお金を稼げる人」「自分のことは自分で決められる人」「自分の行動に責任を持てる人」。どれも、なるほどと思える答えです。
日本では18歳になると民法上の成人になります。選挙権も18歳から認められています。一方、お酒やたばこは今も20歳から。社会の制度を見ても、「大人」になる境界線は一つではありません。けれど、年齢や制度とは別に、私たちが日常で使う「大人らしい」という言葉には、もう少し違った意味が込められているように思います。
たとえば、自分の意見が通らなくても、相手の話を最後まで聞ける人。自分が間違っていたと気づいたら、素直に考えを改められる人。反対に、どれほど年齢を重ねていても、自分の考えだけが正しいと決めつけ、違う意見を頭ごなしに否定する人を見たら、私たちは「大人げないな」と感じることがあります。
そう考えると、大人になることと、大人らしく振る舞えることは、必ずしも同じではないのかもしれません。NHK『おとなりさんはなやんでる。』では、子どもたちが「大人とは何か?」という問いについて考えます。ここで興味深いのは、答えを出すのが大人ではなく、これから大人になっていく子どもたちだということです。
大人は、自分がすでに通り過ぎた道の先にいるつもりで、子どもに助言をします。でも、子どもの目には、大人たちはどのように映っているのでしょう。自由に好きなことを決められる人でしょうか。誰かを守る責任を背負っている人でしょうか。それとも、間違いを認めず、いつも自分の言うことを聞かせようとする人でしょうか。
子どもが考える「大人の姿」は、必ずしも大人自身が思い描く理想と一致しないはずです。そして、その違いに耳を傾けるとき、私たちは思いがけず、自分自身の姿を見つめ直すことになるのではないでしょうか。そもそも、「大人とは何か?」という問いへの答えは、一生変わらないものなのでしょうか?
子どもの頃には、働いてお金を稼ぐ人が大人に見えたかもしれません。社会に出れば、自分の判断に責任を持つことが大人の条件になるかもしれません。やがて親を支える立場になったときには、誰かの弱さを受け止めることに、大人らしさを感じるようになるかもしれません。
人生のどこに立っているかによって、「大人」の意味も少しずつ変わっていく。だとしたら、18歳や20歳という年齢は、社会が用意した一つの区切りではあっても、人としての成長の終着点ではないのでしょう。
大人とは、ある日突然完成する存在ではなく、何歳になっても少しずつ変わり続ける存在なのかもしれません。では、そんな大人たちは、子どもより長く生きているというだけで、人生の正しい答えを知っているのでしょうか。
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大人になったら、正しい答えが分かるの?──経験を重ねても迷い続ける私たち
子どもの頃、大人は何でも知っているように見えませんでしたか。困ったことがあれば答えを教えてくれる。迷ったときには進むべき道を示してくれる。少なくとも、子どもの自分よりはずっと多くのことを知っている存在。
ところが、いざ自分が大人になってみると、どうでしょう。仕事のこと、家族のこと、お金のこと、健康のこと。年齢を重ねるほど、むしろ簡単には答えの出ない問題が増えていくようにも思えます。人生経験を積めば、以前より上手に判断できることは増えるでしょう。過去の失敗が、次の選択を助けてくれることもあります。
けれど、経験が豊富であることと、自分の判断がいつも正しいことは、同じではありません。たとえば、親が子どもに「こうしたほうがいい」と助言するとき。その言葉には、子どもに苦労してほしくないという願いや、自分自身の経験から得た知恵が込められているのでしょう。
でも、親が歩いてきた人生と、子どもがこれから歩いていく人生は同じではありません。親にとってうまくいった方法が、子どもにとっても最善とは限らない。反対に、親が失敗した道の先に、子どもなりの可能性が開けていることだってあるはずです。
だからといって、大人の経験に意味がないわけではありません。大切なのは、その経験を「唯一の正解」として渡すのではなく、「自分はこう考えているけれど、あなたはどう思う?」と差し出せるかどうかではないでしょうか。
ここで、もう一つ考えてみたいことがあります。自分の考えをしっかり持つことと、他人の考えを尊重することは、両立できないのでしょうか。
私たちは、ときに「信念を曲げない人」を立派な大人だと評価します。確かに、周囲の意見に流されず、自分が大切にしているものを守る姿勢には価値があります。けれど、信念を持つことは、異なる意見を聞かなくてよいという意味ではありません。
相手の話を最後まで聞いたうえで、それでも自分は違うと思うこともあるでしょう。相手の考えに納得して、自分の判断を改めることもあるでしょう。どちらも、自分の頭で考えた結果なら、決して恥ずかしいことではないはずです。
むしろ、相手の意見を聞く前から「自分だけが正しい」と決めつけてしまったら、そこで考えることは止まってしまいます。もちろん、どんな意見でも無条件に受け入れる必要はありません。他人の尊厳を傷つけたり、自由を奪ったりする考え方には、反対することも大切です。
それでも、相手が何を考え、なぜそう考えるのかを知ろうとする姿勢まで、手放す必要はないでしょう。そう考えると、「大人らしさ」とは、迷わず答えを出せることではなく、自分の考えを持ちながら、その考えを問い直す余地も残しておけることなのかもしれません。
NHK『おとなりさんはなやんでる。』が取り上げる哲学対話も、誰かが正しい答えを教えるためのものではないのでしょう。
「大人とは何か?」という問いに、子どもと親が違う答えを出してもいい。大切なのは、どちらが勝つかではなく、なぜそう考えたのかを互いに聞き、考えを深めていくことです。そして、そんな対話を続けていると、やがてもう一つの問いに行き着くように思います。
私たち大人は、子どもに何を願っているのでしょう。立派な仕事に就くこと。経済的に自立すること。人に迷惑をかけずに生きること。
そのどれもが、親にとって大切な願いかもしれません。けれど、それらをすべて満たせば、その子は幸せになれるのでしょうか。そもそも、親が考える「幸せ」と、子ども自身が望む「幸せ」は、同じなのでしょうか?
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親が願う幸せは、子どもにとっても幸せなの?──誰のための「幸せ」なのか
「この子には、幸せな人生を送ってほしい」そう願わない親は、あまりいないでしょう。できれば苦労をせず、安定した仕事に就き、経済的に困らず、信頼できる人たちに囲まれて暮らしてほしい。そんな願いの背景には、親自身がこれまで経験してきた苦労や後悔があるのかもしれません。
「あのとき、もっと勉強しておけばよかった」
「もう少し安定した仕事を選んでいれば、こんな苦労をしなかったのに」
だからこそ、子どもには同じ失敗をしてほしくない。自分が歩いてきた道を振り返り、少しでも安全で確かな道を教えてあげたい。それは、親として自然な気持ちなのでしょう。けれど、ここで一つ、立ち止まって考えてみたいのです。
親が考える「幸せな人生」は、本当に子ども自身が望む人生なのでしょうか? たとえば、安定した会社に勤めることが幸せだと考える親がいたとします。その親にとっては、長く働ける職場や毎月決まった収入が、安心して暮らすための大切な条件なのでしょう。
でも、子どもは自分の好きなことに挑戦し、多少の不安定さがあっても、納得できる仕事を選びたいと思っているかもしれません。もちろん、好きなことを仕事にすれば必ず幸せになれるわけではありません。安定した暮らしを望むことも、決して古い価値観ではないでしょう。問題は、どちらの生き方が正しいかではないのです。
親が大切にしてきた価値観を、子どもも同じように大切にするとは限らない。その当たり前のことを、私たちは案外忘れてしまうのかもしれません。しかも、社会は変わり続けています。かつては将来の安定につながると考えられていた職業や働き方も、技術の進歩や経済の変化によって、その姿を変えていきます。
近年のAIの発展を見ても、子どもたちが大人になる頃、どんな仕事が生まれ、どんな能力が求められるのか、すべてを見通すことはできません。
だからといって、親の経験がまったく役に立たなくなるわけではありません。経験は、人生の選択肢を考えるための貴重な材料です。ただし、それは過去のある条件のもとで得られた知恵であって、未来のすべてに通用する答えではないのでしょう。
そして、「幸せ」の難しさは、子育てに限ったことではありません。たとえば、年老いた親が老人ホームで一日の大半を静かに過ごしているとします。子どもから見れば、「もっと外に出たり、友達と話したりしたほうが楽しいのではないか」と感じるかもしれません。でも、本人は静かな部屋で好きなテレビを見ながら過ごすことに、心地よさを感じているかもしれない。
もちろん、本当は外出したくても体が思うように動かず、諦めている可能性だってあります。だからこそ、外から見える姿だけで、その人が幸せか不幸かを決めることはできないのです。「私なら幸せだと思えない」と「その人は幸せではない」は、同じ意味ではありません。これは、親が子どもの将来を考えるときにも、そのまま当てはまるのではないでしょうか。
親が望む人生を歩まなかったからといって、その子が不幸になるとは限りません。反対に、親の期待どおりの学校へ進み、立派な仕事に就いたとしても、本人が満たされた気持ちで暮らしているとは限らないでしょう。そもそも、幸せは一度手に入れたら、ずっと同じ形で続くものなのでしょうか。
子どもの頃には、友達と遊ぶ時間が何より幸せだったかもしれません。若い頃には、夢を追いかけることに喜びを感じたかもしれません。家族を持ち、誰かを支えることが幸せになる時期もあれば、年齢を重ねて、一人で静かに過ごす時間が何より大切になることもあるでしょう。
人生の段階によって、「大人」の意味が変わるように、「幸せ」の形も変わっていく。そう考えると、親が子どもに渡せるものは、完成された幸せの設計図ではないのかもしれません。では、親は何も助言せず、子どもの選択にすべてを任せればよいのでしょうか。もちろん、そう単純な話でもありません。
子どもには、まだ知らない危険もあります。判断するための知識や経験が足りないこともあるでしょう。親が必要な情報を伝え、ときには危険から守ることも大切です。ただ、そのときにも「親の言うとおりにすれば幸せになれる」と決めつけるのではなく、「あなたはどう生きたいの?」と尋ねる余地を残しておきたいのです。
親の経験を伝え、子どもの考えにも耳を傾ける。互いに違う答えを持っていても、すぐにどちらかを正解にしない。そんな対話の中で、子どもは少しずつ自分なりの幸せを考え始めるのでしょう。そして親自身も、これまで当たり前だと思っていた幸せの形を、見つめ直すことになるのかもしれません。
では、人によって幸せの形が違うのだとしたら、大きな災害を経験した子どもたちは、「幸せ」という言葉をどのように考えるのでしょう。自分が経験したことのない苦しみに、私たちはどこまで思いを寄せられるのでしょうか?
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経験していない苦しみを、理解できるの?──熊本地震から考える幸せと想像力
大きな災害を経験した人と、経験していない人。その二人が「幸せとは何か?」と尋ねられたとき、同じ答えにたどり着くのでしょうか。NHK『おとなりさんはなやんでる。』では、熊本地震を経験した中学生たちが、「幸せ」という問いについて考えます。
災害によって日常が突然変わってしまう経験は、何を大切に思うか、何に喜びを感じるかという考え方にも、影響を与えることがあるのでしょう。けれど、同じ災害を経験したからといって、誰もが同じ気持ちになるわけではありません。失ったものも、守れたものも、その後に歩んできた道も、一人ひとり違うからです。
だからこそ、被災した人たちの「幸せ」を、私たちが勝手に一つの答えにまとめてしまうことはできません。では、災害を経験していない人には、その苦しみを理解することなどできないのでしょうか?
東日本大震災のとき、東京の職場でテレビを見ていた人がいました。ヘリコプターから映し出されたのは、宮城県亘理町のビニールハウスが、どす黒い津波に次々とのみ込まれていく光景。東京も震度5強の揺れでしたが、その人自身が津波に襲われたわけではありません。家を失ったわけでも、避難生活を送ったわけでもありません。
それでも、目の前の映像は大きな衝撃となり、その後しばらくは遊びや飲みに出かける気持ちにもなれなかったといいます。もちろん、その衝撃と、実際に被災した人の苦しみを同じものとして語ることはできないでしょう。けれど、自分が直接経験していない出来事にも、人は心を揺さぶられることがあるのです。
阪神・淡路大震災の直後に神戸を訪ねたときも、東日本大震災のあとに石巻を訪ねたときも、2016年の熊本地震から一年ほどたった熊本を歩いたときも、テレビで見た光景とは違う現実がそこにありました。壊れた建物、傷ついた街並み、かつての日常を想像させる風景。
その場所に立つことで、被害の大きさが、単なる数字やニュースではなく、自分の目の前にある現実として感じられたのです。ただし、現地を訪ねたからといって、そこで暮らしていた人の気持ちがすべて分かるわけではありません。同じ場所に立っても、そこで何を失い、何を守ろうとしたのかは、本人にしか語れないことがあるからです。
それでも、知らないままでいることと、知ろうとすることの間には、大きな違いがあるように思います。被災地を訪ねる。復興の様子を見守る。その土地で作られたものを買う。そうした行動が、失われたものを元に戻せるわけではありません。けれど、遠く離れた誰かの暮らしを、自分とは無関係な出来事として片づけない。一つの関わり方にはなるのでしょう。
ここで、最初の問いに戻ってみたいと思います。「幸せとは何か?」という問いに、経験の違う人たちは、どう向き合えばよいのでしょう。
災害を経験していない人が、被災した人に向かって「生きているだけで幸せでしょう」と言ったとしたら、どうでしょう。もしかしたらその言葉に励まされる人もいるかもしれません。でも、失ったものの大きさや、今も続く困難を思えば、そんな簡単な言葉では受け止めきれない人もいるでしょう。
反対に、被災した人はいつまでも悲しみの中にいるはずだと、周囲が決めつけることも違うはずです。笑ったり、遊んだり、新しい楽しみを見つけたりすることも、その人自身の人生なのですから。
苦しみを経験した人にも、幸せを感じる自由がある。そして、幸せの形を他人に決められない自由もある。それは、災害を経験していない私たちにも共通することではないでしょうか。
哲学対話では、誰かの答えをすぐに正しい、間違っていると判断するのではなく、「どうしてそう考えたの?」と尋ねます。同じ「幸せ」という言葉を使っていても、その言葉に込められた経験や願いは、人によって違うかもしれないからです。
そして、相手の話を聞いたからといって、すべてを理解できるとは限りません。それでも、分からないことを認めながら、もう少し知ろうとする。自分の経験だけでは判断できないことがあると気づき、相手の言葉に耳を傾ける。
それは、子どもだけでなく、大人にも必要な姿勢なのだと思います。私たちは、人生のあらゆる出来事を自分で経験することはできません。だからこそ、異なる経験を持つ人と話し、自分には見えていなかった世界を想像することが大切なのかもしれません。
他人の痛みを完全に理解することはできない。けれど、理解できないからといって、想像することまで諦めなくていい。では、そんなふうに答えの出ない問いと向き合うことは、子どもたちの未来にどんな力を育てるのでしょうか。そして、親はそのために、何を教え、何を一緒に考えればよいのでしょう。
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子どもに答えを教えるより、一緒に問い続けてみない?──親子の哲学が育てる「ブレない軸」
子どもに何かを尋ねられたとき、私たち大人は、つい答えを教えたくなります。
「それは、こういうことだよ」
「そんなことをしたら、将来困るよ」
「お父さんやお母さんの言うとおりにしておけば、間違いないから」
もちろん、子どもが知らないことを教えるのは、大人の大切な役割です。危険なことから守らなければならない場面もあります。けれど、世の中には、知識を身につければ答えが分かる問題ばかりがあるわけではありません。
「大人とは何か?」
「幸せとは何か?」
「どう生きるのが、よい人生なのか?」
こうした問いに、誰もが納得する一つの正解を用意することは、簡単ではないでしょう。それなのに、私たちは人生経験を重ねるうちに、自分が見つけた答えを、いつの間にか誰にでも通用する正解だと思い込んでしまうことがあります。
子どもに苦労してほしくない。できるだけ幸せになってほしい。そんな親の願いが強いほど、「こうすれば大丈夫」という答えを、早く渡したくなるのかもしれません。でも、その答えは、本当に子ども自身が見つけたものでしょうか?
NHK『おとなりさんはなやんでる。』が取り上げたのは、親子で哲学的な問いを考えるという試みです。哲学と聞くと、難しい本を読んだり、昔の哲学者の言葉を覚えたりすることを想像するかもしれません。けれど、親子の哲学対話は、もっと身近なところから始められるのでしょう。
たとえば、子どもが「大人って、自由でいいよね」と言ったとします。そこで「大人には責任があるんだから、そんなに甘くないよ」と答えてしまえば、話は終わってしまうかもしれません。
でも、「どうして大人は自由だと思うの?」と尋ねてみたら、どうでしょう?
「だって、好きな時間に寝られるし、好きなものを買えるから」
そんな答えが返ってくるかもしれません。
それなら今度は、「自由って、好きなことを何でもできることなのかな?」と、一緒に考えてみる。子どもは自由について考え、大人は自分が当たり前だと思っていた責任や制約について、改めて考えることになるでしょう。
これは、どちらかが相手を言い負かすための会話ではありません。互いの答えを持ち寄り、その答えの向こう側に、もう一つ問いを見つけていく時間なのです。番組では、哲学対話を通じて、予測不可能な時代を生きるための「ブレない軸」を育てることがテーマになっています。
でも、ここで少し考えてみたいのです。「ブレない軸」とは、一度決めた考えを、何があっても変えないことなのでしょうか。もしそうだとしたら、新しい事実を知っても、違う経験を持つ人の話を聞いても、自分の考えを変えてはいけないことになってしまいます。それでは、ただ頑固になることと、どこが違うのでしょう?
むしろ大切なのは、自分が何を大切にしているのかを知り、その理由を自分の言葉で考えられることだと思うのです。そして、知らなかったことを知ったときには、考えを改めることもできる。
ブレない軸とは、答えを変えないことではなく、答えを問い直す姿勢を失わないことなのかもしれません。それは、子どもだけに必要な力ではないはずです。親だって、これから初めて経験する出来事に出会います。
社会が変わり、技術が変わり、家族のあり方が変わる。AIのような新しい技術によって、これまで当たり前だった仕事や学び方が変わっていくこともあるでしょう。そんなとき、過去の経験だけで、すべてを判断することはできません。
だからこそ、大人も「分からない」と言っていいのだと思います
「お父さんにも、まだ答えは分からないな」
「お母さんはこう考えているけれど、あなたはどう思う?」
そう言えることは、大人として頼りないことなのでしょうか?
まったく逆かもしれません。自分の知らないことを認め、相手の考えに耳を傾け、それでも考えることをやめない。それは、何歳になっても必要な、人としての強さなのではないでしょうか。ここまで私たちは、「大人とは何か?」という問いから出発して、「幸せとは何か?」を考えてきました。
子どもが思い描く大人の姿と、実際に大人になった私たちの姿。親が子どもに願う幸せと、子ども自身が望む幸せ。そして、自分が経験していない苦しみを前にしたとき、私たちにできること。どの問いにも、簡単な答えは見つかりませんでした。でも、それでいいのかもしれません。
答えがすぐに出ないからこそ、誰かと話す意味がある。自分とは違う考えに出会うからこそ、昨日まで気づかなかったことに気づける。親が子どもに教えるだけでなく、子どもの言葉から親も学ぶ。そうして一緒に考え続けるうちに、最初の答えよりも、もう一歩先の答えに近づけることがあるのでしょう。
もちろん、それだって最後の正解とは限りません。いつかまた、新しい経験や誰かの言葉によって、考えが変わるかもしれない。それでも、自分の頭で考え、他人の言葉に耳を傾け、何度でも問い直していくことはできます。
そう考えると、子どもに本当に渡したいのは、未来を間違えずに歩くための地図ではないのかもしれません。道に迷ったとき、自分で考え、誰かと語り合い、もう一度歩き出すための力。そして、その力を育てるために、親も子どもと一緒に学び続けていく。
「大人って、何歳になったらなれるの?」
最初に投げかけたこの問いに、今もはっきりした答えはありません。でも、もしかしたら、大人になるとは、もう答えを知っている人になることではなく、何歳になっても、新しい問いに向き合える人になることなのかもしれません。
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