最後に手ぬぐいを「”ちゃんと”使った」のは、いつだったでしょう? 私の場合、真っ先に思い浮かんだのは、中学生の時。体育の剣道の授業で、「面」の下に手ぬぐいを巻いたときでした(笑)。
それ以来、ハンカチ代わりに使うことはあっても、日々の暮らしに欠かせないものだったかと聞かれれば、ちょっと困ってしまいます。タオルがある。ハンカチもある。台所にはふきんもあります。手や汗を拭うだけなら、今の暮らしに手ぬぐいはなくても困らないのかもしれません。
ところが不思議なことに、わが家には10本ほどの手ぬぐいがあります。友人からもらったものもあれば、知り合いのダイビングショップの周年記念にもらったものもあります。普段から全部を使っているわけではありません。それなのに――なぜか捨てようとは思わない。広げてみれば、そこには柄があり、色があり、その一枚をもらったときの人や場所の記憶まで、ふっとよみがえってきます。
考えてみれば、不思議な布です。細長い木綿の、ただの一枚の布。それなのに日本人は、手を拭くだけでは飽き足らず、頭に巻き、物を包み、部屋に飾り、季節を描き、洒落を忍ばせ、ときには人生の節目まで一枚の布に染めてきました。
江戸時代には、山東京伝が手ぬぐいの図案を競う催しを開き、現代ではクリームソーダやパンダ、コーヒー豆まで手ぬぐいの世界に遊んでいます。そして真打へ昇進する落語家は、自分だけの一枚を職人とともにつくります。
なぜ私たちは、こんなにも一枚の布で遊びたくなるのでしょう? そして、使わなくなった一枚まで、なぜか愛おしく感じてしまうのでしょう?今回は『美の壺』をきっかけに、江戸から現代へ受け継がれてきた図案と職人の技、そして暮らしの中で自由に姿を変える手ぬぐいを訪ねながら、「ただの一枚の布が、なぜこんなにも愛おしいのか」その小さな謎を、ゆっくり解いてみたいと思います。
【放送日:2026年8月19日(水)19:30 -20:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年8月25日(火)19:30 -20:00・NHK-BS】
【放送日:2026年8月26日(水)8:00 -8:30・NHK-BSP4K】
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そもそも手ぬぐいって何?──「拭く」だけでは終わらなかった一枚の布
「そういえば、手ぬぐいって何に使うものだったっけ?」
あまりにも身近な名前なのに、改めて聞かれると少し考えてしまいます。手ぬぐいというくらいですから、もちろん基本は「拭う」ための布。手や顔を拭き、汗をぬぐう。けれど、日本人はこの細長い一枚の布を、それだけでは終わらせませんでした。
頭にかぶる。首に巻く。物を包む。台所で使う。掃除にも使う。祭りでは鉢巻きになり、仕事場では汗を受け止め、剣道では面の下で頭を覆います。一枚の布なのに、使う場所によって次々と役割が変わっていくのです。
ハンカチとは、どこが違う?
現代の暮らしで「拭く」ことだけを考えれば、ハンカチやタオルがあります。ならば、手ぬぐいでなければならない理由は何なのでしょう?
手ぬぐいは一般に細長い木綿の布で、伝統的なものは端を縫わず、切りっぱなしになっています。薄く、乾きやすく、折ったり、巻いたり、結んだりしやすい。必要なら裂いて使うことさえできます。
一方、ハンカチは「手や汗を拭くもの」、タオルは「水分をよく吸い取るもの」として、その役割がかなりはっきりしています。ところが手ぬぐいには、それほど明確な役割がありません。言い換えれば、何に使うかを決めるのは、手ぬぐいではなく使う人。ここに、この一枚の布が長く愛されてきた理由の一つがありそうです。
「何にでもなれる」という不思議
用途が決まっていない。普通なら、それは少し不便なことのようにも思えます。ところが手ぬぐいの場合、その曖昧さが逆に”自由”を生み出しました。今日は汗を拭く。明日はお弁当を包む。気に入った柄なら、部屋に飾って眺めてもいい。使い込んで古くなれば、最後は掃除に使うこともできます。
一枚の布を前にして、「さて、今日はどう使おうか」と考える余地が残されているのです。便利な道具が増え、それぞれの用途に特化したものが身の回りにあふれるようになった現代でも、手ぬぐいが消えなかったのは、この「何にでもなれる自由」があったからなのかもしれません。
そして日本人は、やがてその自由を「使い方」だけでは飽き足らず、「柄」でも楽しむようになっていきます。
ただ手を拭くだけの布なら、無地でも十分なはずです。それなのに、そこへ季節を染め、洒落を忍ばせ、自分だけの図案まで競うようになった。
一枚の布を前にすると、どうやら私たちは遊びたくなってしまうようです。その遊び心が花開いた江戸の町へ、次は少し時代をさかのぼってみましょう。
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江戸っ子は一枚の布でも遊ぶ──山東京伝と「手ぬぐい合わせ」
ただ汗を拭くだけなら、無地の布でも困りません。それなのに、そこへ柄を染める。季節を描く。洒落を忍ばせる。そしてとうとう、「誰の手ぬぐいが一番面白いか」まで競い始める。どうやら江戸の人たちは、一枚の布をただの実用品のままにはしておけなかったようです。
山東京伝が開いた「手ぬぐい合わせ」
江戸時代の戯作者・山東京伝が主宰したという「手ぬぐい合わせ」。人々が趣向を凝らした手ぬぐいの図案を持ち寄り、その面白さを楽しんだ催しです。考えてみれば、なんとも贅沢な遊びです。競うのは高価な絵画でも、美しい着物でもありません。日々、手や汗を拭うために使う一枚の木綿布。
けれど、身近なものだからこそ、「だったら、ちょっと面白くしてみよう」そんな気持ちが生まれたのかもしれません。目立てばいいというものでもない。分かる人が見れば、「なるほど」と笑ってしまう。柄の中に意味を隠したり、言葉を図案に置き換えたり、ほんの少しひねりを利かせたりする。
すべてを説明してしまうのではなく、気づいた人だけが楽しめる。そこには、江戸の「粋」と呼びたくなるような遊び心が見えてきます。
「拭くもの」から「見せるもの」へ
こうして手ぬぐいは、実用品でありながら、少しずつその人らしさを映すものにもなっていきました。どんな柄を選ぶのか。どんな意匠を面白いと思うのか。どんな一枚を人に見せたいのか。今なら洋服やバッグ、スマートフォンのケースを選ぶ感覚に、少し似ているのかもしれません。
同じ手ぬぐいでも、持つ人によって選ぶ柄が違う。そこに、その人の好みや洒落っ気がちらりとのぞく。手ぬぐいは、いつしか「自分を表す一枚」にもなっていったのでしょう。
江戸の遊び心は、今も続いている
そう考えると、『美の壺』に登場する現代の手ぬぐいも、急に江戸と近く見えてきます。クリームソーダ。パンダ。コーヒー豆。題材だけを見れば、もちろん江戸にはなかったものばかりです。
でも、「こんなものを手ぬぐいの柄にしたら面白いんじゃない?」という発想そのものは、山東京伝たちが楽しんだ時代と、それほど遠くないのかもしれません。
時代が変われば、描かれるものも変わる。けれど、一枚の布を見つめながら、「ここに何を描こう?」と考える楽しさは変わらない。何にでもなれる布だから、何を描いてもいい。だから人は、遊びたくなる。
そして、その遊びを本当に一枚の手ぬぐいへ染め上げるためには、もう一人欠かせない人がいます。思いついた図案を、布の上へ形にする人。次は、細長い一枚の布を「小さなキャンバス」に変えてしまう、型染めの世界をのぞいてみましょう。
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1:3の小さなキャンバス──細長い布に世界を描く型染めの技
手ぬぐいを一枚、目の前いっぱいに広げてみます。すると改めて気づくのが、その不思議な形です。正方形でもなければ、一般的な絵画のような長方形でもない。
およそ1:3という、ずいぶん細長い一枚の布です。もしここへ「絵を描いてください」と言われたら、私たちは少し困ってしまうかもしれません。ところが型染めの作家にとって、この細長さは不自由であると同時に、想像力を刺激する面白い舞台になります。
細長いからこそ、生まれる図案がある
例えば、たくさんの生きものを横へ横へと並べてみる。同じ小さな模様をリズミカルに散らしてみる。一つの図案を繰り返しながら、布の端まで物語を続けてみる。あるいは、あえて何も描かない余白をつくる。普通のキャンバスとは違う1:3の形だからこそ、「この細長い世界を、どう使おう?」というところからデザインが始まります。
制約があるから、工夫する。工夫するから、その作家にしか生み出せない表現が生まれる。手ぬぐいの形そのものが、図案を生み出すきっかけになっているのです。
染めるからこそ生まれる、布の表情
そして手ぬぐいの面白さは、図案だけではありません。描いた絵をそのまま印刷するのではなく、型を使い、染料を布へ染み込ませて模様をつくる。そこには紙や画面に描く絵とは違う、染めものならではの表情があります。布の繊維へ色が入り、表にも裏にも図案が現れる。線や色には、どこか人の手を感じさせる柔らかさが残ります。
少しくらい揺らいでもいい。むしろ、そのわずかな揺らぎまで一枚の表情になる。同じ図案で染められた手ぬぐいでも、機械でまったく同じものを複製するのとは少し違う温かさが感じられるのは、そんなところに理由があるのかもしれません。
「ただの布」が、小さな世界になる
面白いのは、手ぬぐいを使っているときには、必ずしも図案の全体が見えないことです。首に巻けば、一部分しか見えない。物を包めば、柄は折り重なる。畳んでしまえば、ほんの一角しか見えません。ところが一枚をぱっと広げると、「ああ、こんな世界だったんだ」と初めて分かる。
魚が泳いでいたり、動物たちがこちらを見ていたり、季節の草花が続いていたり、江戸の洒落が隠されていたり…。一枚の細長い布の中に、作り手が考えた小さな世界がちゃんと収まっています。だから手ぬぐいは、「使うもの」であると同時に、「眺めるもの」にもなれるのでしょう。
そして気に入った一枚なら、汚れてきても、少しくたびれてきても、なかなか手放せない。そこまで来ると、もう単なる木綿の布ではありません。自分が好きな小さな世界を、一枚持っている。そんな感覚に近いのかもしれません。
けれど、手ぬぐいは美術館の壁に飾るためだけに生まれたものではありません。巻いてもいい。包んでもいい。拭いてもいい。飾ってもいい。せっかく自由な一枚なのですから、使い方だって自由でいい。次は、そんな手ぬぐいを日々の暮らしへ軽やかに取り入れて楽しむ人のもとを訪ねてみましょう。
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使い方は、自分で決める──暮らしを遊ぶ手ぬぐい
美しい柄の手ぬぐいを手に入れたら、どうしましょう? 汚したくないから、大切にしまっておく? 額に入れて、部屋に飾る? もちろん、それも一つの楽しみ方です。でも手ぬぐいは、もともと美術館の壁に飾るためだけに生まれたものではありません。
拭いて、包んで、巻いて。人の暮らしの中で使われてきた布です。美しさを眺めるだけではなく、毎日の暮らしの中へ連れていく。そこに、手ぬぐいならではの楽しさがあるのかもしれません。
数百枚の手ぬぐいと暮らす雅姫さん
モデルの雅姫さんは、数百枚もの手ぬぐいを集めているといいます。けれど、ただコレクションして眺めているだけではありません。台所で使う。お弁当に使う。お茶の時間にも使う。その日の暮らしに合わせて、一枚を選びます。
考えてみれば、なんとも贅沢な遊びです。高価な器を毎日取り替えるわけでも、大がかりに部屋を模様替えするわけでもありません。一枚の手ぬぐいを替えるだけ。それだけで、いつもの台所やお弁当、お茶の時間の表情が少し変わります。
「今日はどれにしよう」という小さな楽しみ
例えば、お弁当を包むとき。包むという役割だけなら、どの布でも果たせます。でも、「今日は、この柄にしよう」と一枚を選ぶ。春なら花の柄。暑い日なら涼しげな柄。ちょっと元気がほしい朝なら、思わず笑ってしまうような柄。使う人の気分によって、同じ一日でも選ぶ手ぬぐいは変わります。
ここには、効率や便利さとは少し違う豊かさがあります。なくても困らない。でも、あると少し楽しい。それこそが『美の壺』のタイトルにある、「日々を楽しく」ということなのかもしれません。
美しいからこそ、使ってみる
使えば、汚れます。洗えば、少しずつ風合いも変わります。新品のころと同じ姿ではいられません。それでも、使い続ける。これはどこか、暮らしの中で使われる道具に美を見いだしてきた、民藝にも通じる感覚のように思えます。
美しいから、しまっておくのではなく、美しいからこそ、毎日の暮らしで使う。そして使うほど、その一枚に自分の時間が重なっていく。新品だった手ぬぐいが少しくたびれて、柔らかくなり、いつの間にか手になじんでいる。その変化まで含めて、その人だけの一枚になっていくのでしょう。
正しい使い方なんて、なくてもいい
ここまで手ぬぐいを見てくると、一つ面白いことに気づきます。どうやら手ぬぐいには、「これが正しい使い方です」と決めること自体が、あまり似合わないようなのです。汗を拭いてもいい。お弁当を包んでもいい。台所で使ってもいい。首に巻いてもいい。お気に入りなら、ただ眺めたっていい。
一枚の布を前にして、「今日は、どう使おう?」と考えるところから、もう遊びは始まっています。江戸の人たちは、手ぬぐいに何を描くかで遊びました。現代の私たちは、その一枚をどう使うかでも遊べます。何にでもなれるから、使い方は自分で決める。それが、何百年たっても手ぬぐいが古びない理由の一つなのかもしれません。
けれど手ぬぐいには、もう一つ不思議な役割があります。自分で使うだけではなく、誰かへ渡す一枚になることです。人生の節目に、自分だけの図案を染める。そして、その一枚を大切な人たちへ手渡していく。次は、真打昇進という大きな節目を迎える落語家・春風亭一花さんと職人がつくる、「自分だけの手ぬぐい」を訪ねてみましょう。
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人生の節目を一枚に染める──春風亭一花さんの「自分だけの手ぬぐい」
手ぬぐいには、「使う」だけではない、もう一つの役割があります。誰かに渡すことです。旅のお土産に。店の周年記念に。祭りや催しの記念に。そして、人生の大切な節目に。一枚の布にその日の思いを染め、誰かに手渡す。すると手ぬぐいは、ただの実用品から「記憶を分け合う一枚」へと変わっていきます。
真打昇進という節目を、一枚の図案に
『美の壺』では、真打昇進を迎える落語家・春風亭一花さんが、職人とともにオリジナルの手ぬぐいをつくる様子を訪ねます。落語家にとって、大きな節目となる真打昇進。その記念となる一枚に、何を描くのか。どんな色にするのか。そして、どんな「自分らしさ」を忍ばせるのか。
出来上がった手ぬぐいは、本人だけが大切にしまっておくものではありません。人の手へ渡っていきます。受け取った人は、その一枚を使うかもしれない。飾るかもしれない。あるいは大切にしまって、何年か後にふと広げるかもしれません。
そのとき、「ああ、これは一花さんが真打になったときの手ぬぐいだった」と、あの日のことを思い出す。手ぬぐいは、一人の「記念」を、誰かの「記憶」へ渡すことのできる不思議な道具なのです。
記念は、いつか記憶になる
考えてみれば、記念品というものは世の中にたくさんあります。けれど、もらった瞬間はうれしくても、その後どう使えばいいのか分からず、戸棚の奥へしまわれてしまうものもあります。その点、手ぬぐいは少し気楽です。使ってもいい。飾ってもいい。しまっておいてもいい。
そして何年たっても、広げればそこに図案が残っています。店の名前。その土地に暮らす生きもの。誰かが考えた洒落。人生の節目を表す意匠。それらを見た瞬間、その一枚を手にしたころの風景まで、ふっと戻ってくることがあります。
手ぬぐいに記憶が染め込まれているわけではありません。けれど私たちは、一枚の布に触れることで、自分の中にしまっていた記憶を取り出すことができるのです。
ただの一枚の布が、なぜ愛おしい?
ここまで手ぬぐいを訪ねてきて、最初の問いへ戻ってみましょう。ただの一枚の布が、なぜ愛おしいのでしょう。手ぬぐいは、何にでもなれる布でした。だから人は、使い方で遊びました。江戸の人々は、そこへ洒落や図案を染めて遊びました。
型染めの作家は、1:3の細長い世界に美しい景色をつくりました。そして私たちは、その一枚を暮らしの中で使い、ときには大切な人へ渡します。そうして時間がたつほどに、最初はただの木綿だった一枚に、少しずつ別のものが重なっていきます。
もらった人。訪ねた場所。一緒に笑ったこと。何度も繰り返した、なんでもない一日。新品の手ぬぐいは、きっと一番きれいです。でも、長く手元に残った一枚には、新品にはないものがあります。自分が過ごしてきた時間です。
だから、少しくたびれても捨てられない。というより――捨てられないのではなく、愛おしい。引き出しの奥に、しばらく使っていない手ぬぐいが眠っていたら、久しぶりに一枚、広げてみてはいかがでしょう。
そこに描かれているものより先に、「ああ、これは、あのときの……」と、忘れていた風景がよみがえってくるかもしれません。一枚の布は、今日も何も語りません。けれどその前で、私たちの記憶のほうが、そっと語り始めるのです。
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