朝、目が覚める。顔を洗って、ご飯を食べて、テレビの交通情報を見て仕事や学校へ向かう。夕方になれば家へ帰って、「今日の夕飯、何にしよう?」なんて考える。そんな一日の途中で、
「今日、日本が攻撃されるかもしれない」
と考えることは、どれくらいあるでしょうか。おそらく多くの日本人にとって、「国防」は毎日の暮らしから少し離れたところにある言葉です。
ときどき「日本人は平和ボケしている」なんて言われることもあります。でも――。世界中の人が戦争の心配なんてせず、「今日も平和だなぁ」と少しくらい“ボケて”いられる世界こそ、本当は一番幸せなのかもしれません。
今回の『真相の館』が取り上げるのは、そんな平和をどう守るのかという「国防」です。軍隊があれば、国は守れるのでしょうか? 軍隊がなければ、戦争はなくなるのでしょうか?
同盟、核抑止、国連、そして外交――。考え始めると、どこにも簡単な答えは見つかりません。だから今回は、最初から結論を決めないことにしました。ただ、一つだけ問いを持って『真相の館』へ入ってみたいと思います。
「国を守る」って、いったい誰を守ることなのでしょうか?
【放送日:2026年9月19日(土)20:30 -21:00・NHK-Eテレ】
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今日、あなたは「国防」について考えましたか?
今朝、目を覚ましたとき。「今日、日本が攻撃されるかもしれない」そう考えたでしょうか。
朝ご飯を食べて、仕事や学校へ向かう途中で、「もし戦争が始まったら、どこへ逃げよう」と考えたでしょうか。おそらく、多くの人はそんなことを考えずに一日を始めたのではないでしょうか。
私たちも同じです。今日の予定を考えたり、天気を気にしたり、夕飯は何にしようかと考えたり…。「国防」という言葉はニュースでは耳にしても、自分の毎日の暮らしとは、どこか離れたところにあるように感じます。そんな日本を、ときどき「平和ボケ」と表現する人がいます。
たしかに、平和がずっと続くと思い込み、世界で起きていることや将来起こりうる危機について考えなくなるのなら、その言葉が投げかける問いには耳を傾ける必要があるでしょう。でも、少しだけ逆から考えてみたいのです。戦争のことを考えずに暮らせることは、本当に悪いことなのでしょうか?
空襲を心配せずに眠れる。子どもを安心して学校へ送り出せる。スーパーへ行けば食べ物が並び、夜になれば家族と夕飯を食べられる。そして明日の予定を、当たり前のように考えられる。
もし世界中の人がそんな毎日を送って、「今日も平和だなぁ」と、少しくらい“平和ボケ”していられるのなら――。それはむしろ、人間がずっと望んできた世界なのかもしれません。
だから大切なのは、「平和ボケしている自分たちはダメだ」と責めることではなく、その平和な一日が、なぜ今日まで続いているのか。そして、どうすれば明日も続けられるのかをときどき立ち止まって考えることなのではないでしょうか。
海外の出身でいま日本に住んでいる人は言います。
「日本の一番魅力的なところはどこですか?」
「平和なところです!」
「夜に普通に出歩けて、小さな子供だけで学校に通えるなんて私の生まれた国では考えられません!」
そうなんです、日本人は普段意識もしていませんが、日本という国はびっくりするほど平和なんです。
ところで、そもそも「国を守る」とは、何を守ることなのでしょう。国土でしょうか?主権でしょうか?国家という仕組みでしょうか?もちろん、それらは国防を考えるうえで欠かせないものです。でも、その国土の上には人が暮らしています。ご飯を食べ、働き、笑い、眠り、大切な人と一緒に生きています。
だとすれば、「国を守る」という大きな言葉の先にあるものは、案外とても小さなものなのかもしれません。
今日も食べられること。
今日も眠れること。
今日も大切な人がちゃんと帰ってくること。
そんな「何も起きなかった一日」を、明日へつないでいくこと。
では、その当たり前を守るためには、何が必要なのでしょうか。外交でしょうか。国際協力でしょうか。それとも――。やっぱり、国を守るためには「軍隊」が必要なのでしょうか? 次はそこから考えてみたいと思います。
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軍隊がなければ、本当に平和になれる?
「戦争が嫌なら、軍隊をなくせばいい」とても分かりやすい答えです。武器を持つ人がいなければ、戦争も起こらない。世界中の国が同じ日に武器を置くことができるのなら、それで争いがなくなる――そんな未来を想像したくなる気持ちも分かります。
でも、ここで一つ難しい問題が出てきます。自分が武器を置いたとき、相手も同じように武器を置いてくれるのでしょうか?
平和な国として知られるスイスを見てみましょう。スイスは長く「永世中立」の国として知られています。ところが、その中立は「武器を持たない中立」ではありません。スイス政府は現在の自国の立場を「永世かつ武装した中立」と説明しています。
自ら他国間の戦争には参加しない一方、自国の領土と独立を守るための軍隊を持っています。男性には兵役義務もあります。つまり、「戦争に参加しないこと」と、「自分の国を守る力を持たないこと」は同じではない。少なくともスイスは、そう考えてきた国だと言えそうです。
もちろん、だからといって、「ほら、やっぱり軍隊があれば平和になる」と結論づけることもできません。軍隊を持っていても戦争になった国はあります。逆に、常備軍を持たず、別の安全保障の仕組みを選んできた国もあります。そして何より、軍隊を持つ目的が「戦争をするため」とは限りません。
スイス政府は、武装中立について、自国の領土を防衛できる態勢を持つことで中立の信頼性と実効性につながると説明しています。つまり発想としては、戦うために備えるというより、攻撃されたときに自分を守れるよう備えておくということなのでしょう。
ここで、国防について考える難しさが少し見えてきます。武器がなければ戦争にならない――とは限らない。でも、武器をたくさん持てば平和になる――とも限らない。
では、何のために軍隊を持つのでしょう。相手を倒すため?攻撃されたときに守るため?それとも――「攻撃しても得をしない」と相手に思わせ、そもそも戦争を始めさせないため?もし最後の考え方があるのだとしたら、ここから「国防」はさらにややこしくなります。
平和を守るために、武力を持つ。なんだか矛盾しているようにも聞こえます。でも、この矛盾のような考え方こそ、現代の安全保障で繰り返し登場する「抑止」という考え方につながっています。では――。軍隊が強くなればなるほど、戦争は起きにくくなるのでしょうか?
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軍隊が強ければ、戦争は起きない?
軍隊を持つ理由の一つが「戦争を起こさせないため」だとすれば、素朴な疑問が浮かびます。それなら、軍隊は強ければ強いほど平和になるのでしょうか?「攻撃しても勝てない」「攻撃すれば、自分たちも大きな被害を受ける」相手にそう思わせることで、攻撃そのものを思いとどまらせる。これが「抑止」という考え方です。
2026年のアメリカの国家防衛戦略も、自国軍を世界で最も強力な軍事力と位置づけ、「力による平和」を掲げています。強い軍事力によって戦争を抑止するという発想です。たしかに、それが機能している間は戦争は起こりません。しかし、ここには難しい問題があります。強い軍事力には、「使わせない力」だけでなく、「使える力」もあるからです。
2026年1月、アメリカはベネズエラ領内で軍事作戦を実施し、マドゥロ氏を拘束しました。アメリカ政府はベネズエラとの戦争ではなく、限定的な作戦だったと説明していますが、国連や欧州、中南米諸国(ブラジルなど)は、他国首脳の武力拘束や同意なき領域での武力行使は「国連憲章違反(主権侵害)」であると強く非難しています。
さらに2月には、イランに対する大規模な軍事作戦が始まりました。アメリカ政府は、イランの弾道ミサイルや海軍などの能力を破壊することを目的とした作戦だったと説明し、4月の停戦後には軍事目標を達成したと発表しています。
ここで私たちが考えたいのは、アメリカの行動が「正しかったか、間違っていたか」という○×問題ではありません。もっと根本的な問いです。戦争を防ぐために持っているはずの強大な軍事力は、どこから「戦争をするための力」に変わるのでしょうか。
そして、もう一つ問題があります。自分の国が「国を守るため」に軍備を強くしたとします。しかし、それを見た隣の国は、「こちらを攻撃する準備をしているのではないか」と考えるかもしれません。そこで隣の国も軍備を強化する。するとこちらは、「向こうが軍備を増やした。もっと備えなければ」と、さらに軍備を増やす。
お互いが自分を守ろうとしているだけなのに、お互いが相手を怖がるようになっていく。安全保障では、こうした状況を「安全保障のジレンマ」と呼びます。軍事力には、相手に「攻撃しても無駄だ」と思わせる面がある。その一方で、相手に「いつか攻撃されるかもしれない」と思わせる面もある。だから、「強い軍隊=安全な国」という単純な式にはならないようです。
では日本はどうでしょう。日本自身も自衛隊という防衛力を持っています。そして、さらに大きな力として頼っているものがあります。アメリカとの同盟、そして「核の傘」です。しかしもし日本が攻撃されたとき、アメリカは本当に日本を守ってくれるのでしょうか?――次は、そこを考えてみましょう。
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「核の傘」があれば、日本は安心なの?
日本の国防について考えていると、必ずといっていいほど登場する国があります。アメリカです。日本とアメリカは日米安全保障条約によって結ばれています。そして日本は、アメリカから「核を含む拡大抑止」の提供を受けています。いわゆる「核の傘」です。
2026年6月に行われた日米拡大抑止協議でも、アメリカは核を含むあらゆる能力を用いて日本を防衛するという約束を改めて確認しました。だったら安心――。と言いたいところなのですが、ここで一つ疑問が浮かびます。
アメリカも、一つの独立した国家です。当然ながら、日本のためだけに存在している国ではありません。アメリカにはアメリカの国民がいて、アメリカの経済があり、アメリカ自身の安全保障があります。実際、経済の世界を見れば、同盟国だからいつでも利害が一致するわけではないことが分かります。
2026年にもアメリカは自国の安全保障や国内産業などを理由に新たな関税政策を実施し、日本を含む国々もその対象になりました。一方で日本とアメリカは交渉を続け、関税をめぐる合意も結んでいます。もちろん、貿易と軍事同盟をそのまま同じものとして考えることはできません。
関税をかけたから、日本が攻撃されたときにも約束を守らない――そんなことは言えません。しかし逆に、「条約があるから、どんな状況でも必ず思ったとおりに守ってもらえる」と未来を断言することもできません。だから日米両政府は、首脳会談で防衛へのコミットメントを繰り返し確認し、2010年から「拡大抑止協議」という話し合いを続けています。
2026年にも2月と6月に協議が行われ、核政策だけでなく、危機時の意思疎通や日米間の調整について話し合われました。考えてみれば、不思議です。「約束がある」のに、なぜ何度も確認するのでしょう。おそらく国と国との同盟とは、一度交わした約束を額縁に入れて飾っておけば完成するものではないのでしょう。
「いざというとき、本当にこの約束は機能する」と相手にも、そして攻撃を考える第三国にも信じさせ続けること。それ自体が「抑止」の一部だからです。
そして、ここでも私たちは簡単な答えを出せません。アメリカを信用すればいい。アメリカを信用してはいけない。そのどちらかだけでは、国防を考えるには足りないように思えます。大切なのは、「同盟国がいるから安心」で思考を止めないこと。ではないでしょうか。
もし同盟が思うように機能しなかったら。もし大国同士の利害が衝突したら。もし世界の平和を守るはずの仕組みそのものが動かなかったら。そんなときのために、世界にはもう一つの大きな仕組みがあります。国際連合です。ところが――。その国連にも、私たちが最初に想像するほど単純ではない問題があります。
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国連は、戦争を止められるの?
軍隊だけでは不安。同盟国との約束にも、絶対はない。それなら最後に頼りたくなるのが、国際連合です。そもそも国連は、二度の世界大戦を経験した人類が、同じ惨禍を繰り返さないためにつくったはずの組織です。ところが、その中心で国際社会の平和と安全に大きな責任を負っている安全保障理事会には、少し不思議な仕組みがあります。
アメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシア。この5つの常任理事国には「拒否権」があります。重要な決議では、たとえ多くの国が賛成しても、常任理事国の一つが反対票を投じれば成立しないことがあります。そして、その矛盾が世界の前に露わになったのがウクライナでした。
2022年2月、ロシアによる軍事攻勢の停止などを求めた安保理決議案は、11か国が賛成しました。しかし、成立しませんでした。ロシア自身が常任理事国として拒否権を行使したからです。ガザでも、別の形で同じ問題が現れました。2025年6月、即時・無条件・恒久的な停戦などを求める決議案には、15か国中14か国が賛成しました。反対したのはアメリカだけでした。
それでも、アメリカが常任理事国だったため、決議案は成立しませんでした。アメリカにも、決議案がハマスを非難せず武装解除などを求めていないという反対理由がありました。ここで素朴な疑問が浮かびます。14対1でも、1のほうが勝つの?
民主主義の多数決に慣れた私たちから見ると、なんとも奇妙な仕組みに思えます。もちろん、拒否権にも歴史的な理由があります。第二次世界大戦後の国際秩序をつくる際、大国を国連という枠組みの中にとどめ、大国同士の直接衝突を避けながら国際安全保障を成り立たせようとした仕組みでもありました。
しかし、その大国自身が紛争の当事者になったり、当事国と強い利害関係を持ったりしたらどうなるのでしょう。世界の平和を守るために大国へ特別な力を与えた。ところが、その力によって世界が平和を守れなくなることがある。これは国連が抱える、とても大きな矛盾です。
だからといって、国連をなくせば戦争を止められるようになるわけでもありません。安保理は実際に数多くの決議を採択していますし、国連には安保理以外にも、難民支援、人道援助、保健、食料、教育などを担う多くの機関があります。では、安保理だけをつくり直せばいいのでしょうか。
常任理事国を増やす?拒否権をなくす?多数決にする?そうすれば今度は、大国が自国に不利益な決定にも従うのかという別の問題が出てきます。実際、拒否権をめぐる批判を受け、2022年からは常任理事国が拒否権を行使した場合、国連総会でその問題を議論する仕組みも導入されています。国連内部でも「今のままでいい」とされているわけではありません。
結局、ここでも私たちは答えにたどり着けません。軍隊にも絶対はない。同盟にも絶対はない。国連にも絶対はない。それでも私たちは、そのどれか一つを捨てれば平和になるほど単純な世界には暮らしていないようです。では――。どうしたら、戦争をしないで平和を守れるのでしょうか。
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結局、「国を守る」って誰を守ること?
ここまで考えてきましたが、結局のところ、私たちには「これが正しい国防です」という答えは見つかりませんでした。
軍隊がなければ平和になるとも言い切れない。
軍隊が強ければ安全になるとも言い切れない。
同盟国との約束も、未来のすべてを保証してくれるものではありません。
そして、世界の平和と安全を守るためにつくられた国連にも、大国の利害がぶつかれば動けなくなることがあります。では、どうすればいいのでしょう。
ここまで長いこと考えてきたのに、最後に出てくる言葉は、拍子抜けするくらい単純なものです。
「みんな、仲良くしようよ!」
子どもの喧嘩を止めるような言葉です。そんなことで戦争がなくなるのなら苦労はしない、と笑われるかもしれません。もちろん、現実の国際社会はそんなに単純ではありません。領土がある。資源がある。宗教や民族をめぐる対立がある。歴史がある。国家それぞれの安全保障や利害もあります。だから、ただ「仲良くしましょう」と呼びかけるだけで戦争を防げるわけではありません。それでも――。
そもそも私たちは、何のために軍隊や同盟や国連について考えてきたのでしょうか。戦争に勝つためでしょうか?相手の国を屈服させるためでしょうか?それとも、戦争をしなくても済む一日を、明日へつなぐためでしょうか。
考えてみれば、人間も生き物です。食べるものがある。安心して眠れる場所がある。大切な人と暮らせる。そして次の世代が育っていく。人間はそこに衣服を作り、家を建て、町をつくり、社会をつくり、国までつくってきました。
だとしたら「国を守る」という言葉の一番奥にあるものは、案外そんな普通の暮らしなのかもしれません。
今日も誰も戦場へ行かなかった。
今日も家族が帰ってきた。
今日も夕飯を食べられた。
そして眠る前に、「今日も平和だったなぁ」と思える。
そんな毎日を「平和ボケ」と呼ぶのなら――。世界中の人が安心して“平和ボケ”できる世界になればいい。もちろん、それを実現する方法については、きっとこれからも意見が分かれるでしょう。
軍事力が必要だと考える人もいる。外交をもっと重視すべきだと考える人もいる。同盟、国際協力、核抑止についても、それぞれ違う考え方があります。だから今回、答えを一つに決めることはできませんでした。
でも、方法について意見が違っても、「何を守りたいのか」まで見失う必要はないのではないでしょうか。地図に引かれた国境線の内側には、人が暮らしています。朝起きて、ご飯を食べて、学校や仕事へ行き、誰かを好きになったり、喧嘩したり、仲直りしたりしながら生きている人たちです。
そして国境の向こう側にも――。同じように今日の夕飯を考えている人がいます。「国を守る」って、誰を守ること?この記事の最初に置いた問いに、私たちはまだきれいな答えを持っていません。ただ一つだけ願えるとしたら。
明日も、世界のどこかで「戦場へ行く日」ではなく、「家へ帰る日」が増えてほしい。
そしていつの日か、「今日も平和だなぁ」そんな言葉さえ、わざわざ口にする必要がなくなるくらい――。平和が、当たり前になればいいのです。
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