里いもといえば、出汁のしみた煮っころがしや、具だくさんの豚汁。お醤油や味噌との相性もよく、昔から日本の食卓を支えてきた身近な野菜です。ところが神奈川県開成町には、あまりのおいしさに広く親しまれながら、いつしか「幻」と呼ばれるようになった里いもがあります。
その名は「開成弥一芋(かいせいやいちいも)」。物語の始まりは明治36年(1903年)。一人の農家が寺の住職から譲り受けた、たった三個の種芋でした。
酒匂川の恵みを受けた足柄の地で育ち、かつては関東にも広まった弥一芋。しかし戦後、農業のあり方が変わるなかで栽培は衰え、食卓から姿を消しかけます。それから時を経て、地元の農家たちが復活させた伝統の味は、今、餃子やデニッシュ、さらにはフレンチへと新しい可能性を広げています。
おいしい里いもは、なぜ幻になったのでしょうか。そして、一度は失われかけた味を、人々はどのように未来へつなごうとしているのでしょうか。
『食彩の王国』で紹介された開成弥一芋を通して、一本の川と三個の種芋から始まった、100年を超える物語をたどります。
【放送日:2026年10月31日(土)9:30 -9:55・テレビ朝日】
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開成弥一芋は、普通の里いもと何が違うの?──酒匂川の恵みが育んだ、白くねっとりした伝統の味
里いもは、日本の食卓ではおなじみの野菜です。出汁を含ませた煮っころがし、具だくさんの豚汁、味噌仕立ての汁物。ひき肉と一緒に甘辛く煮てもおいしいし、うどんの具にしても、ほっとする味わいがあります。そんな身近な里いもですが、品種によって食感や風味がずいぶん違うことをご存じでしょうか?
神奈川県足柄上郡開成町で育てられている「開成弥一芋(かいせいやいちいも)」は、きめ細かな白い肉質と、しっとりした強い粘り、まろやかな甘みが特徴の伝統野菜です。
一般的な里いもにも、ほくほくしたものから、ねっとりしたものまでさまざまな品種があります。そのなかでも弥一芋は、なめらかで粘りのある食感が魅力とされています。出汁のきいた煮っころがしにすれば、口の中でほどけるような柔らかさと、里いもそのものの甘みを楽しめるのです。
では、なぜ開成町で、こうした里いもが育てられてきたのでしょうか。その背景をたどると、一本の川に行き着きます。酒匂川です。
暴れ川だった酒匂川と、足柄平野の農業
富士山の東側や丹沢山地などを水源とする酒匂川は、足柄平野を流れ、小田原市で相模湾に注ぎます。現在では豊かな田園風景を潤す川ですが、かつては何度も洪水を起こし、周辺の村々を苦しめてきた暴れ川でした。江戸時代には、小田原を治めた大久保忠世・忠隣らの時代から治水が進められ、その後も堤防の整備や川の管理が繰り返されてきました。
そして、この川の歴史を語るうえで忘れられないのが、二宮金次郎として知られる二宮尊徳です。尊徳は現在の小田原市栢山に生まれ、幼いころに酒匂川の洪水で家の田畑が被害を受けました。のちに農村の復興や農業経営の立て直しに力を尽くすことになる尊徳にとって、川の氾濫と農家の苦しみは、決して遠い世界の出来事ではなかったのです。
酒匂川は、ときに人々の暮らしを脅かしながら、一方で水と土を運び、足柄平野の農業を支えてきました。川が運んだ肥沃な土砂によって形づくられた土地に、人々が水路を整え、田畑を耕してきた。その長い積み重ねの上に、現在の開成町の農業があります。
水の豊かな土地で育った、ねっとりした里いも
里いもは、もともと水分を好む作物です。生育中に十分な水分が得られることは、芋の肥大や品質にとって大切な条件になります。ただし、水が多ければよいというわけではなく、畑の排水性や土壌の状態も重要です。酒匂川流域の開成町は、豊かな水と農地に恵まれた地域です。こうした環境のなかで、弥一芋は地域の農家に受け継がれてきました。
もっとも、弥一芋特有の粘りや甘みを、酒匂川の水や土壌だけで説明することはできません。品種そのものの性質に加え、栽培方法や収穫時期など、さまざまな条件が味わいに関わっているからです。
それでも、開成弥一芋を語るとき、酒匂川の存在を抜きにすることはできないでしょう。川と向き合いながら田畑を守ってきた人々がいて、その土地で里いもを育てる農家がいた。私たちが口にする一個の里いもには、そんな足柄の歴史も重なっているのです。
では、この土地で100年以上受け継がれてきた「弥一芋」という名前は、いったいどこから生まれたのでしょうか? その物語は、明治36年(1903年)、一人の男性が小田原のお寺で譲り受けた、たった三個の種芋から始まります。
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たった三個の種芋から、どうして関東に広まったの?──明治36年、高井弥一郎が始めた里いもの物語
開成町の伝統野菜「開成弥一芋」。その名前にある「弥一」とは、いったい何を意味しているのでしょうか?実は、土地の名前でも、里いもの形を表す言葉でもありません。一人の男性の名前に由来しているのです。
その人の名は、高井弥一郎(たかい・やいちろう)。物語は今から120年以上前、明治36年(1903年)の小田原へとさかのぼります。
小田原のお寺で出会った、三個の種芋
弥一郎は、現在の開成町金井島にあたる地域の瀬戸家に生まれました。明治33年(1900年)、小田原の高井家へ婿入りし、高井姓を名乗るようになります。それから三年後。親戚の法事で小田原の常念寺を訪れた弥一郎は、住職から珍しい里いもの種芋を譲り受けました。その数は、わずか三個。
住職が大和の国、現在の奈良県にあたる地域から持ち帰ったものだったと伝えられています。三個といえば、片手にも載りそうな数です。それが、のちに開成町の伝統野菜となる里いもの始まりだったのです。
おいしさが、人から人へ伝わっていった
弥一郎が譲り受けた種芋を育ててみると、できた里いもは、きめが細かく、粘りがあり、味わいのよいものでした。そのおいしさから、弥一郎は実家のある金井島や近隣の人々にも種芋を分け、栽培が広がっていったと伝えられています。
ここで面白いのは、里いもの増え方です。里いもは、一般に種子をまいて育てるのではなく、芋を種芋として植え付け、そこから新しい芋を育てます。つまり、収穫した芋をすべて食べてしまえば、翌年に植える分がなくなってしまうのです。
食べるための芋を残しながら、次の年の栽培に必要な種芋も確保する。そして、よい芋ができれば、近所の人にも分けていく。三個から始まった栽培が広がるには、そうした時間と人のつながりが必要だったのでしょう。やがて、この里いもは、弥一郎の名前にちなんで「弥一芋」と呼ばれるようになりました。
開成町から、関東の市場へ
弥一芋の評判は、金井島の周辺だけにとどまりませんでした。栽培は関東一円へ広がり、戦前には東京の市場でも扱われるほどになったといいます。現在では「幻の里いも」と呼ばれる弥一芋ですが、かつては地域を越えて流通していた時代があったのです。
ここには、少し意外な歴史があります。私たちは「伝統野菜」という言葉を聞くと、昔から限られた地域で細々と育てられてきた野菜を想像しがちです。けれども弥一芋は、明治時代に持ち込まれた三個の種芋から栽培が広がり、やがて関東の市場にも知られるようになった里いもでした。
いわば、当時のおいしさが人々に認められ、広まっていった野菜だったのです。その名前には、品種を広めた一人の男性の記憶が残されています。
受け継がれるのは、芋だけではない
弥一郎が三個の種芋を譲り受けたとき、120年以上先の未来に、自分の名前を冠した里いもが町の宝物になるとは想像していなかったかもしれません。けれども、種芋を育て、分け合い、翌年へと残していく営みが、弥一芋の歴史をつくってきました。
伝統野菜とは、ただ古いだけの品種のことではないのでしょう。その野菜を育てたい、食べたい、次の世代にも残したいと思う人々がいて、初めて伝統は続いていくのです。ところが、これほどおいしく、かつては関東にも広まった弥一芋が、戦後になると次第に姿を消していきます。
なぜ、おいしさで評判になった里いもが、「幻」と呼ばれるようになってしまったのでしょうか? その背景には、戦後の農業と、人々の暮らしの大きな変化がありました。
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おいしい里いもは、なぜ「幻」になってしまったの?──米作りへの転換と、戦後の農業が変えた畑の風景
明治36年(1903年)、高井弥一郎が三個の種芋から育て始めた弥一芋。そのおいしさは人から人へと伝わり、やがて関東一円に栽培が広がりました。白くきめ細かな肉質と、ねっとりした食感。煮物にすれば出汁を含み、まろやかな甘みが楽しめる里いもです。
ところが、これほど評判のよかった弥一芋が、戦後になると急速に姿を消していきます。なぜ、おいしい野菜が作られなくなってしまったのでしょうか。その理由を探るには、戦後の日本の農業がどのように変わったのかを考える必要があります。
食糧難の時代、農家は何を作ろうとしたのか
昭和20年(1945年)、長い戦争が終わった日本は、深刻な食糧不足に直面していました。米が足りず、サツマイモやカボチャなどの代用食が人々の空腹を支えた時代です。サツマイモは、米の代わりとなる食料として重要な役割を果たしました。戦時中から戦後にかけては、収穫量を重視した品種の栽培も進められています。
一方、酒匂川の流域に広がる足柄平野には、古くから水田がありました。かつては洪水を繰り返した酒匂川ですが、人々が長い年月をかけて堤防や農業用水を整え、米作りを支える土地を築いてきたのです。そして戦後、開成町では水稲作が重視されるようになり、弥一芋の生産量は大きく減っていきました。
ここで注意したいのは、当時の農家が必ずしも「里いもより米のほうが高く売れるから」という理由だけで作物を選んでいたわけではないことです。食糧政策、農業経営、労働力、土地の条件。農家の判断には、さまざまな事情が関わっていたはずです。
ただ、開成町の弥一芋が水稲作に押されて衰退したことは、開成町の資料にも記されています。かつて弥一芋を育てていた畑の風景は、戦後の農業の変化とともに変わっていったのでしょう。
おいしさだけでは、畑に残れなかった?
弥一芋が衰退した背景には、もう一つの変化がありました。他の里いも品種との競争です。戦後、農業や流通の仕組みが変わるなかで、農家にとっては、おいしさだけでなく、どれだけ効率よく収穫できるかということも重要になっていきました。
実際、弥一芋は米作りに加えて、収穫効率のよいほかの品種にも押され、生産が減少したと伝えられています。ただし、弥一芋が具体的にどの品種より何割収量が少なかったのか、あるいは病気に弱かったのかといった比較データは、確認できていません。それでも、ここには農業の難しさが表れています。
食べる人にとって「お腹がいっぱい」になって「おいしい野菜」であることと、農家にとって「作り続けやすい野菜」であることは、必ずしも同じではないのです。
いくら評判がよくても、栽培や収穫に多くの労力が必要で、ほかの作物のほうが安定して生産できるのであれば、農家が作付けを見直すことは十分に考えられます。それは、弥一芋の味が劣っていたということではありません。むしろ、おいしいという長所だけでは乗り越えられない時代の農業の現実があったということなのでしょう。
里いも作りには、今も人の手が必要だった
里いもは、収穫して終わりという作物ではありません。土の中から掘り出した芋には、親芋や子芋がついています。それらを分け、土を落とし、選別して、ようやく出荷できる状態になります。当時はこうした作業の機械化が難しく、人の手に頼る部分が多かったのです。
実際、復活後の開成弥一芋研究会でも、出荷作業の負担や後継者不足が課題となっていました。そこで2020年には、親芋から子芋を分ける作業を助ける分離機が導入されました。この機械の導入によって、手作業で行っていた分離作業の時間を、およそ4分の1に短縮できるとされています。
もちろん、これは現代の弥一芋栽培についての話であり、戦後の農家が同じ理由で栽培をやめたと直接証明するものではありません。それでも、里いもを作り続けるためには、おいしさだけでなく、農家の負担を減らす工夫も欠かせないことがわかります。伝統野菜を守るとは、昔の農法をそのまま続けることだけではないのです。
「幻」とは、種芋が完全に消えたという意味ではなかった
戦前には関東一円で栽培されていた弥一芋。しかし戦後、生産量は激減し、発祥の地である開成町でも、栽培を続ける農家はごくわずかになってしまいました。こうして、かつて多くの人に親しまれた里いもは、いつしか「幻の里いも」と呼ばれるようになったのです。
けれども、ここで一つ大切なことがあります。弥一芋は、完全に失われてしまったわけではありませんでした。わずかな農家が栽培を続け、さらに神奈川県農業技術センターでも、その系統が保存されていたのです。もし種芋がすべて失われていたら、同じ弥一芋を再び育てることは難しかったでしょう。
食べるための芋とは別に、次の年へつなぐための芋を残しておく。明治時代に弥一郎が始めた営みは、細い糸のようになりながらも、途切れずに続いていました。
そして平成の時代、その糸をもう一度太くしようと立ち上がった人々がいました。地元の農家たちです。2011年、彼らは「開成弥一芋研究会」を立ち上げ、失われかけた里いもの復活に動き始めます。あの時、おいしいだけでは生き残れなかった里いもを、今度はどうすれば未来へ残せるのか? ここから、開成弥一芋の新しい物語が始まります。
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消えかけた弥一芋を、誰が畑に取り戻したの?──種芋を守った人々と、開成弥一芋研究会の挑戦
明治36年(1903年)、高井弥一郎が三個の種芋から育て始めた弥一芋。かつては関東一円に広まりながら、戦後の農業の変化によって栽培が衰え、いつしか「幻の里いも」と呼ばれるようになりました。けれども、その物語は終わっていませんでした。
わずかながら栽培を続ける農家がいて、神奈川県農業技術センターにも種芋が保存されていたのです。その小さな命を、もう一度、開成町の畑へ広げよう。そんな思いから、弥一芋の復活に向けた取り組みが始まりました。
幻の里いもを復活させた、地元農家たち
平成23年(2011年)、開成町の農家たちが「開成弥一芋研究会」を立ち上げました。目的は、失われかけた伝統野菜を復活させ、そのおいしさを再び多くの人に届けること。まさに「食彩の王国」のテーマにもぴったりな物語です。神奈川県農業技術センターに保存されていた種芋も活用しながら、栽培を広げていきました。
ただし、種芋が残っていれば、すぐに昔のような生産量に戻せるわけではありません。里いもは、植え付けた種芋から育った芋を収穫し、その一部を翌年の種芋として残していく作物です。生産を増やすには、食べるための芋を出荷するだけでなく、次の年の栽培に必要な種芋も確保しなければなりません。
栽培する農家を増やし、品質をそろえ、種芋も確保して安定して出荷できるようにすることも必要です。研究会の活動は、単に昔の品種を畑に戻すことではなく、弥一芋をもう一度、農業として成り立たせるための挑戦でもあったのです。
農協職員から里いも農家へ──宮上透さんの決断
この復活の歩みを、当初は別の立場から見つめていた人がいました。宮上透さんです。宮上さんは、かつて農協の職員として、弥一芋の復活に取り組む農家たちの活動を取材していました。長く受け継がれてきた伝統野菜を守ろうとする人々の姿に接するうちに、宮上さん自身も、この里いもを通じて町づくりに貢献したいと考えるようになります。
そして、農協職員から里いも農家へ転身しました。今では、開成弥一芋研究会の五代目会長を務めています。ここが、今回の復活物語の面白いところです。弥一芋を守ろうとしたのは、昔から栽培を続けてきた農家だけではありませんでした。
その活動を外から見ていた人が、自ら作り手になり、次の世代へつなぐ役割を引き受けたのです。明治時代には、高井弥一郎が三個の種芋を譲り受け、周囲の人々へ広めました。そして令和の時代には、宮上さんたちが弥一芋を育て、その価値を新しい人々へ伝えようとしています。
時代も立場も違いますが、そこには一つの共通点があります。おいしいものを、自分たちだけのものにせず、次の人へ渡していこうとする気持ちです。
復活させるだけでは、伝統野菜は守れない
弥一芋の栽培が再び始まったからといって、それだけで未来が約束されたわけではありません。農家にとって大切なのは、作った芋をきちんと販売でき、翌年も栽培を続けられることです。そのためには、弥一芋のおいしさを知ってもらい、買ってくれる人を増やす必要があります。
開成町では、農家だけでなく、町や農協、県の関係機関なども協力し、弥一芋のブランド化や普及に取り組んできました。「開成弥一芋」という名前には、単なる品種名以上の意味があります。どこで、誰が、どのような思いで育てているのか。そうした背景も含めて、地域の農産物としての価値を伝えようとしているのです。
一方で、里いも栽培には手作業が多く、生産者の負担を減らすことも欠かせません。研究会では、親芋と子芋を分ける作業を助ける機械の導入など、省力化にも取り組んできました。昔ながらの味を守るために、新しい技術を使う。一見すると対照的ですが、これも伝統を未来へつなぐための大切な工夫なのでしょう。
次の世代に、弥一芋を知ってもらうために
そして、復活した弥一芋を未来へ残すには、もう一つ大切なことがあります。それは、次の世代に食べてもらうことです。どれほどおいしい野菜でも、その存在を知る人がいなくなれば、やがて食卓から遠ざかってしまうかもしれません。
だからこそ、地域の子どもたちに弥一芋を知ってもらう取り組みには、大きな意味があります。開成町では、学校給食にも弥一芋が取り入れられてきました。子どもたちが給食で食べた里いもについて、家に帰って家族と話す。
「今日の給食に、開成町で昔から作られている里いもが出たよ」
そんな小さな会話が、地域の食文化を受け継ぐきっかけになるかもしれません。そして今、弥一芋の可能性は、煮っころがしや汁物だけにとどまらなくなっています。
餃子の具になり、香ばしいデニッシュになり、フランス料理のシェフの手によって新しい一皿にも生まれ変わる。かつて三個の種芋から広まった弥一芋は、今度は新しい料理を通して、食べる人の輪を広げようとしているのです。
伝統を守るとは、昔の食べ方だけを残すことなのでしょうか。それとも、時代に合わせて新しいおいしさを生み出すことも、伝統を受け継ぐ方法なのでしょうか。その答えを探すために、次は開成町の厨房と食卓を訪ねてみましょう。
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伝統の里いもは、なぜフレンチやデニッシュになったの?──餃子と学校給食がつなぐ、次の100年の食卓
明治時代、たった三個の種芋から始まった開成弥一芋。一度は「幻」と呼ばれるほど栽培が衰えながら、地元の農家たちの手によって、再び開成町の畑に戻ってきました。けれども、伝統野菜の復活は、種芋を増やすことだけでは完成しません。
育てた里いもを、誰が、どのように食べるのか? そのおいしさを、どうすれば次の世代へ伝えられるのか? 今、開成町では、そんな問いへの答えが、さまざまな料理の中から生まれています。
里いもが餃子やデニッシュに?──広がる新しい食べ方
里いも料理といえば、まず思い浮かぶのは煮っころがしでしょう。出汁を含んだ柔らかな芋に、お醤油の香りがしみ込む。昔から親しまれてきた、日本の家庭料理です。
けれども、開成町では、弥一芋が意外な料理にも使われています。地元の「餃子屋ヒロ」では、弥一芋を使った餃子が人気を集めています。餃子の中に、里いもがごろっと入っているのです。一般的な餃子とはひと味違う、弥一芋ならではの食感が楽しめます。
一方、「やきたてパンの店 ラシーヌ」では、弥一芋を使ったデニッシュが作られています。サクサクとした香ばしい生地に、里いものしっとりした食感。和食のイメージが強い里いもが、パンの素材としても新しい魅力を見せているのです。
考えてみれば、里いもは、もともとさまざまな味つけを受け止めてくれる野菜です。出汁やお醤油、味噌との相性はもちろん、肉の旨みや油脂ともよくなじみます。煮物にも、汁物にも、炒め物にも使える。そう考えると、餃子やデニッシュへの挑戦も、決して不思議なことではないのかもしれません。
昔ながらの煮っころがしを大切にしながら、新しい料理にも使ってみる。食べ方の選択肢が増えれば、それだけ弥一芋を知る人も増えていくのでしょう。
フランス料理のシェフが見つけた、弥一芋の可能性
今回の『食彩の王国』では、さらに新しい料理への挑戦が紹介されました。開成町のフレンチレストラン「la Lune(ラ リュンヌ)」の坪井正則シェフです。
地元の食材を生かした料理を手がける坪井シェフが、弥一芋の持つ食感や風味に注目しました。フランス料理では、じゃがいもをピューレにしたり、肉や魚料理の付け合わせにしたりと、芋類をさまざまな形で使います。
なめらかで粘りのある弥一芋にも、そうした料理の技法を生かせる可能性があります。ただし、弥一芋の魅力は、じゃがいもの代わりになることだけではありません。独特のねっとりした食感と、穏やかな甘み。その持ち味をどう生かすかが、料理人の腕の見せどころなのでしょう。
番組では、家庭でも試しやすい材料を使った、手軽な里いもフレンチのアイデアが紹介されます。高級な食材をそろえなくても、いつもの里いもを少し違った料理にしてみる。そんな提案なら、家庭の食卓にも取り入れやすそうです。
伝統野菜だからといって、昔ながらの調理法だけにこだわる必要はない。新しいおいしさを見つけることもまた、その野菜の魅力を伝える方法なのです。
la Lune(ラ リュンヌ)
- 神奈川県足柄上郡開成町みなみ5丁目4−33 スワンナプーム1F
- TEL:0465-43-8178
- 営業時間:11:00~21:00
- 定休日:日、月曜
- URL:https://lalune0524.com/
学校給食で伝える、ふるさとの味
そして、この新しい料理への挑戦には、もう一人、大切な人が関わっています。開成町の小学校で栄養教諭を務める、柳川理沙さんです。柳川さんは、学校給食を通して、子どもたちに地元の食文化を伝えてきました。今回、弥一芋の新しいメニューを考えるために、坪井シェフを訪ねたのも、その取り組みの一つです。
学校給食には、家庭の食事とは少し違う役割があります。栄養のバランスを整えるだけでなく、子どもたちが地域の農業や食文化に触れる食育の機会にもなるのです。自分たちの町で育てられた里いもを食べる。
その名前が、明治時代に種芋を広めたこの土地の人に由来することを知る。そして、今も地元の農家が大切に育てていることを学ぶ。一皿の給食から、そんなふるさとの物語が見えてきます。
開成町は、子育てしやすい町づくりにも力を入れています。子どもたちが安心して育つ環境を整えることと、地域の食文化を次の世代へ伝えること。それぞれ異なる取り組みですが、どちらにも、これからの町を担う子どもたちを大切にする思いが感じられます。
もし、学校給食で弥一芋を食べた子どもが、家に帰って「今日の里いも、おいしかったよ」と話したら…。その一言が、家族の食卓に弥一芋を迎えるきっかけになるかもしれません。伝統野菜の未来は、そんな何気ない会話の中にもあるのでしょう。
三個の種芋から、次の100年へ
明治36年(1903年)。小田原のお寺で、高井弥一郎が譲り受けた三個の種芋。その里いもは、酒匂川の流れる足柄の地で育てられ、人から人へと広がっていきました。戦後には栽培が衰え、幻の里いもと呼ばれるようになりましたが、種芋を守り続けた人々がいました。
そして今、農家たちが再び畑を耕し、料理人が新しい食べ方を考え、学校の先生が子どもたちへその味を伝えています。昔と同じ料理を作ることだけが、伝統を守ることではないのでしょう。時代が変われば、暮らしも食卓も変わります。今の子供たちが皆、里芋の煮っころがしを好きだとも限りません。
煮っころがしだった里いもが、餃子になっても、デニッシュになっても、フランス料理になってもいい。大切なのは、そのおいしさを知る人がいて、また食べたいと思う人がいること。そして、来年もその芋を育てようと思う農家がいることです。
かつて、三個の種芋を譲り受けた一人の男性がいました。今度は、その里いもを食べた子どもたちが、いつか誰かに開成町の味を伝える番なのかもしれません。明治の三個の種芋から始まった物語は、令和の食卓で、まだ続いています。
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