禅は、なぜ答えを教えてくれない?|「分からない」の先にある心のかたち【美の壺】

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「禅とは何ですか?」
そう聞かれたら、あなたは何と答えるでしょう。座禅を組んで、心を無にすること。お寺の静かな庭を眺めること。あるいは、意味の分からないやり取りを指して、「まるで禅問答だね」なんて言うこともあります。

私たちも「禅」という言葉は知っています。でも、「では、禅とは何ですか?」と改めて聞かれると、途端に答えられなくなります。調べてみると、禅は坐禅などの実践を通して自分自身や物事の本質を見つめる、仏教の教えや修行だと説明されています。

なるほど。……でも、まだよく分かりません。そもそも、「自分自身を見つめる」って、何を見るのでしょう? 鏡を覗いたところで、そこに映るのは自分の顔です。

  • 「自分は何者なのか?」
  • 「どう生きればいいのか?」
  • 「自分はどう生きてきたのか?」

そんな問いを自分自身へ投げかけても、採点してくれる人はいません。もしかすると、最初から正しい答えなんてないのかもしれません。それなのに禅は、千年以上ものあいだ、人々に問いを投げかけ続けてきました。

『美の壺』「心そのもの 禅」では、その不思議な世界を、禅が生み出したさまざまな美から見つめます。京都・相国寺の枯山水。瑞龍寺で続けられる日々の掃除。白隠が描いた迫力あるだるま。禅僧たちが繰り返し描いてきた、ただ一つの「○」。そして、禅僧が死を目前にして書き残す「遺偈(ゆいげ)」

不思議なのは、そのどれもが、「これが禅です」とは教えてくれないことです。庭は黙ったままです。○も何も語りません。掃除をしても、そこに答えが書いてあるわけではありません。それでも人は庭を見つめ、○を描き、坐禅を組み、問い続けてきました。なぜなのでしょう。

もしかすると禅とは、答えを手に入れるためのものではないのかもしれません。答えが見つからない問いの前で、すぐに正解を探そうとせず、誰かの答えを借りることもせず、ただ、その問いと一緒にいる。そして、答えを探して右往左往している自分の心そのものを見る。そんなところに、「禅」への小さな入口があるのでしょうか?

今回は『美の壺』と一緒に、庭を眺め、だるまを見つめ、一つの○の前で立ち止まってみましょう。
目指すのは、「禅とは○○である」という正解ではありません。最後まで歩いても、やっぱり、「禅って、よく分からない」かもしれません。でも、その「分からない」が最初とは少し違って見えたなら。そこに、禅が答えを教えてくれない理由が、ほんの少しだけ見えてくるのかもしれません。

【放送日:2026年8月26日(水)19:30 -20:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年8月31日(月)13:00 -13:30・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年9月1日(火)19:30 -20:00・NHK-BS】

【放送日:2026年9月2日(水)8:00 -8:30・NHK-BSP4K】

<広告の下に続きます>

  1. 第一章 禅は、何をしようとしている?──「何も考えない」ことが目的なのか?
    1. 「考えない」と考えた瞬間、考えている
    2. あの「ピシッ!」は、煩悩を叩き出している?
    3. 「今、ここにいる」って、意外と難しい
    4. では、「自分を見る」とは何を見ること?
  2. 第二章 なぜ毎日、同じ場所を掃除する?──瑞龍寺の雑巾がけと「今ここ」
    1. きれいにすることだけが目的なら、昨日やったはず
    2. 掃除をしながら、明日の掃除はできない
    3. 雑念が浮かぶことまで、失敗にしなくていい?
    4. 昨日の自分を、今日きれいにするわけじゃない
    5. 禅は、日常の外にあるものじゃない?
  3. 第三章 庭も「○」も、なぜ答えを教えてくれない?──見る人の心がつくる禅の美
    1. 同じ庭なのに、見えるものが違う
    2. そして禅僧は、ただ「○」を描いた
    3. 「○は○です」では、ダメなのだろうか
    4. 答えを教えられた瞬間、問いは終わってしまう
    5. 「無心」とは、心をなくすことではないのかもしれない
    6. 庭を見ていたら、自分が見えてきた
  4. 第四章 なぜ、だるまの顔を描き続けた?──白隠と「自分を見る」ということ
    1. だるまは、何を見ている?
    2. 顔を描けば、その人が分かるのだろうか
    3. 「自分を見る」と、自分を採点することは違う
    4. 答えを知ることと、自分で見ること
    5. だるまを見ていたら、昔、通っていた天ぷら屋を思い出した
    6. 最後に、自分へ何を残す?
  5. 最終章 死ぬ直前、人は何を書き残す?──遺偈の前で「答え」を手放す
    1. 最後の言葉なら、「正解」が書いてある?
    2. 人生には、最後まで解答欄がない
    3. 「答えが変わる」ことまで受け入れてみる
    4. 禅は、なぜ答えを教えてくれない?
    5. 「無心に考え続ける」
    6. 「分からない」が、少し変わった
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第一章 禅は、何をしようとしている?──「何も考えない」ことが目的なのか?

「禅」と聞いて、最初に思い浮かぶのは何でしょう。静かな禅寺。足を組んで座る僧侶。目を閉じ、何も考えず、心を空っぽにする――。そんな姿を思い浮かべる人も多いかもしれません。私たちも、「座禅をして、心を無にする」という言葉を何となく使っていたりします。

では禅とは、頭の中から考えごとを全部追い出して、何も考えない状態になるための修行なのでしょうか? もしそうなら、なんだかものすごく難しそうです。試しに、「今から何も考えないぞ」と思ってみてください。その瞬間、「ちゃんと何も考えてないかな?」と考えてしまいます。……もう失敗です(笑)。

「考えない」と考えた瞬間、考えている

私たちの頭の中には、放っておいても次々と言葉が浮かびます。今日やらなければならないこと。昨日言われたこと。明日の予定。お腹がすいた。足が痛い。眠い。
「こんなこと考えちゃダメだ」
そして今度は、
「考えちゃダメだと考えている自分」
まで現れる。これを一つひとつ追い払って、完全に何もない状態をつくろうとしたら、むしろ頭の中は忙しくなってしまいそうです。だとしたら禅が目指しているのは、単純に「何も考えない人になること」ではないのでしょう。

あの「ピシッ!」は、煩悩を叩き出している?

坐禅というと、もう一つ印象的な光景があります。坐禅をしている人の肩を、僧侶が細長い棒で、ピシッ!と打つ場面です。あの棒は警策(きょうさく、またはけいさく)と呼ばれます。初めて見ると、「悪いことを考えたから叩かれたの?」「煩悩を追い出しているの?」なんて思ってしまいます。でも、そういう罰ではありません。

坐禅の途中で眠気が出たり、集中が乱れたりしたときに、姿勢や気持ちを整えるために用いられるものです。寺や宗派によって作法は異なり、自分から受ける意思を示す場合もあります。だから受けた人が合掌する姿も、「悪い心を退治してくれてありがとう」というより、「修行を助けていただきました」と考えたほうが近そうです。

そう考えると、あの「ピシッ!」の見え方もちょっと変わります。何かを追い出すためというより、今ここへ戻ってくるための合図。ヨガで瞑想している途中で眠くなって、「はい、意識を戻して」と声をかけられるのにも、少し似ているのかもしれません。

「今、ここにいる」って、意外と難しい

でも考えてみると、私たちは普段、体がいる場所と心がいる場所が一致していないことがよくあります。ご飯を食べながら仕事のことを考える。歩きながらスマートフォンを見る。お風呂に入りながら明日の予定を考える。布団に入ってから、「あのとき、ああ言えばよかったな」と昨日へ戻ってしまう。

体は「今ここ」にいるのに、心だけが昨日へ行ったり、明日へ行ったりしている。そう考えると、じっと座って、呼吸をする。自分の体を感じる。浮かんでくるものに気づく。それだけでも、普段とはずいぶん違う時間です。そんな時は決まって眠りにつけず、「不眠症になったかな?」なんて思ってしまいます。

禅が向き合おうとしているものは、「何も考えない状態」というより、次々と何かを考えている自分自身なのかもしれません。

では、「自分を見る」とは何を見ること?

ここで、また分からなくなります。自分の心を見る。今ここにいる。ありのままを見る。言葉にすると、何となく分かったような気がします。でも、「じゃあ、具体的に何をすればいいの?」と聞かれると、やっぱりよく分かりません。もしかすると、そこが禅の少し変わったところなのでしょう。

説明を聞いて、「なるほど、禅とはそういうものなのか」と理解するだけでは終わらない。実際に座る。実際に歩く。実際に掃除をする。自分の体を使って、繰り返す。『美の壺』に登場する富山・瑞龍寺では、住職が七堂伽藍を雑巾がけすることを日課にしています。

悟りについて難しい議論をするのではなく、雑巾を持って、床を拭く。昨日も拭いた床を、今日も拭く。そして、おそらく明日もまた拭く。なぜでしょう。そこに何かの「答え」が落ちているのでしょうか。それとも――。答えを探すこととは別の何かが、その行為の中にあるのでしょうか。

まだ、よく分かりません。でも少なくとも、禅とは、頭の中だけで答えを考えるものではなさそうです。だったら次は、考えるのを少しやめて、実際に手を動かしている人を見てみましょう。

次は第二章「なぜ毎日、同じ場所を掃除する?──瑞龍寺の雑巾がけと『今ここ』」です。そこには、最初の小さな手がかりが落ちているかもしれません。

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第二章 なぜ毎日、同じ場所を掃除する?──瑞龍寺の雑巾がけと「今ここ」

昨日きれいにした床を、今日も拭く。そして今日きれいにした床を、明日もまた拭く。考えてみれば、不思議なことです。『美の壺』に登場する富山県高岡市の瑞龍寺では、住職が七堂伽藍を雑巾がけすることを日課にしています。

禅の修行と聞けば、私たちはつい、静かに坐禅を組む。難しい禅問答に向き合う。心を「無」にする。そんな姿を想像します。ところが、ここで行われているのは、雑巾がけです。床に膝をつき、雑巾を持って、目の前の床を拭いていく。なんとも日常的な行為です。では、なぜそれが禅につながるのでしょう?

きれいにすることだけが目的なら、昨日やったはず

掃除の目的を、「汚れをなくすこと」だけだと考えてみましょう。昨日きれいに掃除したところが、まだ十分きれいなら、今日はやらなくてもいい。もっと効率よくやるなら、汚れたところだけ掃除すればいいでしょう。

ところが日課としての掃除は、それとは少し違います。昨日やったかどうかではなく、今日もやる。掃く。拭く。磨く。そして終わったら、また次の日が来る。完成しません。「これで一生分の掃除が終わりました」という日は、たぶん来ないでしょう。そこに、少し面白いものが見えてきます。

掃除をしながら、明日の掃除はできない

雑巾を持って床を拭くとき、できることはとても限られています。目の前の床へ雑巾を置く。手を動かす。汚れを見る。また動かす。明日拭くはずの床を、今日のうちに拭くことはできません。昨日の床へ戻って、もう一度拭くこともできません。自分が触れられるのは、今、目の前にある床だけです。

第一章で私たちは、「今ここにいる」ということを考えました。体はここにいるのに、心は昨日へ行ったり、明日へ行ったりする。でも雑巾をかけている間にも、やっぱり雑念は浮かぶでしょう。「お腹がすいた」「今日は暑いな」「あれをやらなくちゃ」それを無理やり追い出そうとするのではなく、それでも手は、きゅっ、きゅっと目の前の床を拭いている。

心がどこかへ行ってしまったら、また目の前へ戻ってくる。それを何度でも繰り返す。もしかすると「今ここ」というのは、どこか特別な境地へ到達することではなく、何度それても、目の前へ戻ってくることなのかもしれません。

雑念が浮かぶことまで、失敗にしなくていい?

坐禅をして、「何も考えないようにしよう」と思えば思うほど、いろいろなことが頭へ浮かんできます。それを、「また余計なことを考えてしまった」と失敗にしていたら、今度は「失敗した自分」が気になってしまいます。でも雑念が浮かぶのが、生きている人間として自然なことなのだとしたら。浮かんだことそのものを責める必要はないのかもしれません。

「あ、今こんなことを考えていたな」と気づいたら、また目の前へ戻る。雑巾を動かす。またそれる。また戻る。なんだか禅というものが、少しだけ人間臭く見えてきました。一度も心が乱れない人間になるのではなく、乱れたことに気づいて戻ってくる。だとしたら、毎日の掃除にも意味が見えてきます。

昨日の自分を、今日きれいにするわけじゃない

昨日どんなことがあったとしても、今日の床は今日拭く。明日のことが心配でも、今触れられるのは目の前の床だけ。そう考えると、掃除は過去を消すためでも、未来を完成させるためでもありません。今日、自分がここにいるから、今日の床を拭く。それだけです。でも、その「それだけ」を繰り返すことが、案外難しい。

私たちは何かをするとき、「これをやったら何が得られる?」「いつ終わる?」「何の役に立つ?」と、すぐに結果を求めます。ところが掃除は、きれいにしてもまた汚れます。食事をしても、またお腹がすきます。眠っても、また眠くなります。

生きることの多くは、一度やれば終わることではありません。それでも今日やる。そういう繰り返しの中に、人の暮らしはあります。

禅は、日常の外にあるものじゃない?

ここまで来て、最初に思っていた「禅」の姿が少しだけ変わってきました。禅とは、静かな寺で特別な人だけが行う、難しい精神修行。そう思っていました。でも雑巾がけまで禅につながっているのなら、禅は日常から離れるためのものではなく、むしろ日常そのものへ戻ってくるためのものなのかもしれません。

床を拭く。ご飯を食べる。歩く。座る。そのときやっていることを、そのときやる。……なんだ。それなら、ずいぶん簡単そうです。

でも実際にやってみようとすると、きっと頭の中では別のことを考えている。だからまた戻る。そしてまた戻る。禅の修行とは、案外そんなことの繰り返しなのでしょうか。まだ、分かりません。でも最初に想像していた、「何も考えない完璧な人間になる」という禅の姿からは、少し離れてきました。

では今度は、手を止めて、目の前にあるものを見てみましょう。『美の壺』に登場する相国寺の枯山水。そして禅僧たちが繰り返し描いてきた、一つの。庭も○も、こちらへ答えを説明してはくれません。なのに人は、そこに何かを見ようとします。次は、H2③「庭も『○』も、なぜ答えを教えてくれない?──見る人の心がつくる禅の美」へ進んでみましょう。

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第三章 庭も「○」も、なぜ答えを教えてくれない?──見る人の心がつくる禅の美

石があります。白い砂があります。その砂には、幾筋もの模様が描かれています。
京都・相国寺の枯山水を前にして、「これは何を表しているのでしょう?」と尋ねたくなります。海でしょうか、川でしょうか、山でしょうか、それとも、もっと深い何かを表現しているのでしょうか。できれば横に説明板でも置いて、「正解はこちらです」と書いておいてほしいところです。でも禅の庭は、そんなに親切ではありません。

ただ、そこにある。そして『美の壺』では、この庭が見る人の心模様によって姿を変えるものとして紹介されます。だとしたら私たちは、庭を見ているつもりで、実は別のものを見ているのかもしれません。

同じ庭なのに、見えるものが違う

雨の日に見る庭。よく晴れた日に見る庭。何かうれしいことがあった日に見る庭。大切な人と喧嘩をしたあとに見る庭。庭そのものは、それほど変わっていないでしょう。石は同じ場所にあり、砂もそこにあります。それなのに、

  • 「今日は穏やかに見える」
  • 「なんだか寂しく見える」
  • 「力強く感じる」

と、受け取るものは変わる。では変わったのは、庭なのでしょうか。それとも――庭を見ている自分なのでしょうか。ここで少し、禅が面白くなってきます。目の前にあるものを見ていたはずなのに、いつの間にか自分の心のほうを見せられているのです。

そして禅僧は、ただ「○」を描いた

さらに不思議なのが、禅画に描かれてきた円相(えんそう)です。紙の上に、筆で大きな○を一つ描く。それだけ。風景が描かれているわけでもありません。人物がいるわけでもありません。何かを説明する文章が添えられているとも限らない。ただ、○。

これを見せられたら、当然聞きたくなります。「これは何ですか?」悟りでしょうか。宇宙でしょうか。完全なものなのでしょうか。それとも「無」なのでしょうか。ところが『美の壺』の番組概要には、なんとも困った言葉があります。「○がまんじゅう!?」……まんじゅうでもいいの?🤣

「○は○です」では、ダメなのだろうか

私たちは何かを見ると、すぐ意味を知りたくなります。これは何? 何を表しているの? 作者は何を言いたかったの? そして説明を読んで、「なるほど。そういう意味だったのか」と安心する。

現代の博物館や美術館でも、絵画や彫刻、仏像や展示物を見もせずに、解説が書いてある案内板だけを食い入るように読んでいる人がいます。たぶん知識を蓄積することが楽しいのでしょう。でも別にそれが間違った見方とは思いません。

でもそこで、ちょっと立ち止まってみます。もし「この○は宇宙を表しています」と教えられたら、その瞬間から私たちは○を見るたび、「これは宇宙なんだ」と思うでしょう。それは理解したことになるのかもしれません。

でも同時に、それ以外のものを見る可能性を閉じてしまったとも言えます。だったら、意味を決めない○には、別の役割があるのかもしれません。
「これは何だろう」
と思った。
「まんじゅうみたいだな」
と思った。
「きれいだな」
と思った。
「なんだ、ただの○じゃないか」
と思った。

そのどれもが、○そのものについて語っているようでいて、実は、それを見た自分について語っている。だとしたら円相は、答えを見せる絵ではなく、見る人の心を映す鏡にもなり得るのでしょうか。

答えを教えられた瞬間、問いは終わってしまう

ここで、最初のタイトルへ少し戻ってみましょう。
「禅は、なぜ答えを教えてくれない?」
もしかすると理由の一つは、とても単純なのかもしれません。答えを教えてしまったら、そこで考えることが終わってしまうから…。
「○とは何ですか?」
「○○です」
「なるほど」
――終了。

でも、
「○とは何ですか?」
「…………」
となったら、こちらが考えるしかありません。○を見る。もう一度見る。分からない。また見る。そのうち、「どうして私は、こんなに答えを欲しがっているんだろう?」という別の問いまで現れる。あれ?いつの間にか、○の話ではなくなっています。見ているのは○なのに、見つめ始めたのは、自分の心です。

「無心」とは、心をなくすことではないのかもしれない

ここで、雑巾がけの話とも少しつながります。何か一つのことに黙々と取り組む。床を拭く。土を捏ねる。包丁を研ぐ。手を動かしているうちに、頭の中を占領していたさまざまな考えが、少し遠くへ行くことがあります。何も考えないように努力しているわけではありません。

むしろ、今やっていることを、ただやっている。禅の庭を見ることも、それに少し似ているのでしょうか。「正しい意味を理解しなくちゃ」と力むのではなく、ただ見る。○も同じ。ただ見る。そこで何かを感じてもいい。何も感じなくてもいい。まんじゅうに見えたっていいのかもしれません。

そう考えると、「無心」という言葉も少し違って見えてきます。心をなくしてしまうのではなく、心に浮かぶものをいちいち捕まえない。そんな状態を指しているのでしょうか。まだ、私たちには分かりません。でも、分からないまま○の前に立っていることが、さっきほど居心地悪くなくなってきました。

庭を見ていたら、自分が見えてきた

枯山水は何も説明してくれません。○も答えてくれません。それなのに、「何に見える?」「どう感じた?」と、こちらへ問いを返してくる。そして答えようとすると、自分の心が出てきます。だとしたら禅の美とは、美しいものを見せるだけの芸術ではなく、見る人自身をそこへ参加させる芸術なのかもしれません。

庭を見ていたはずなのに、自分を見ることになった。○について考えていたはずなのに、「自分とは何だろう」という問いが残った。……また、分からないものが増えてしまいました。

でも今回は、それでいいのでしょう。次に『美の壺』が見せるのは、白隠が描いた強烈なだるまの顔、そして禅僧の姿を伝える頂相(ちんそう)です。

○には顔がありませんでした。今度は逆に、人間の顔をじっと見てみます。そこに描かれているのは、その人なのでしょうか。では、「自分を見る」とは、いったい何を見ることなのでしょう。次は、第四章「なぜ、だるまの顔を描き続けた?──白隠と『自分を見る』ということ」へ進んでみましょう。

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第四章 なぜ、だるまの顔を描き続けた?──白隠と「自分を見る」ということ

大きな目。太い眉。こちらを睨みつけるような、強烈な顔。
江戸時代の禅僧・白隠慧鶴が描いた禅画には、そんな迫力のある達磨(だるま)が数多く登場します。かわいらしい縁起物として親しまれている、丸い赤色の「だるま」とはずいぶん印象が違います。

紙本着色 達磨図(出典:東慶寺)
紙本着色 達磨図(出典:東慶寺)

怖い。怒っている。こちらを見透かしているようにも見える。でも、どうして禅僧はこんな顔を描いたのでしょう。しかも白隠は、達磨だけでなく、禅の教えを伝えるさまざまな人物や題材を、時には漫画のような親しみやすさまで交えて描きました。難しい禅の教えを、難しい言葉だけではなく、絵によって人々へ伝えようとしたのでしょう。

だるまは、何を見ている?

達磨は、禅宗の祖とされる人物です。中国へ渡り、壁に向かって長い年月坐禅を続けたという「面壁九年」の伝説でも知られています。だから禅画に達磨が登場すること自体は、不思議ではありません。でも白隠の達磨を見ていると、妙な感覚があります。

こちらが絵を見ているはずなのに、向こうからこちらを見られているような気がする。「お前は何を見ている?」そんな問いを投げかけられているようにも感じます。もちろん、絵が実際に問いかけているわけではありません。

でも、そう感じたのなら――。それは達磨の心なのでしょうか。それとも、達磨を見ている自分の心なのでしょうか。また、さっきの枯山水や○と同じところへ戻ってきました。

顔を描けば、その人が分かるのだろうか

『美の壺』では、禅僧の肖像画である頂相(ちんそう)も取り上げます。そこには、一人の人間の顔があります。目。鼻。口。皺。衣。その姿をできるだけ具体的に残せば、「この人は、こういう人だった」と後世へ伝えられるような気がします。でも考えてみれば、顔を描いたところで、その人の心まで描けるわけではありません。

私たちだって毎朝、鏡を見ています。そこに映っているのは間違いなく自分です。でも鏡を一時間眺めたところで、「自分とは何者なのか」という問いの答えが見つかるわけではないでしょう。

名前があります。仕事があります。年齢があります。好きなものがあります。嫌いなものがあります。これまで経験してきたことがあります。それを全部並べれば、「自分」になるのでしょうか。

「自分を見る」と、自分を採点することは違う

ここで私たちは、また答えを出したくなります。
「私はこういう人間です」
「私はこんなふうに生きてきました」
「だから私の人生はこういう人生でした」
そうやって、自分自身にも説明をつけたくなる。学校のテストや就職の面接なら、それでいいのでしょう。問いがあり、解答欄があり、そこへ正しい答えを書けば○がもらえます。

でも、「あなたは何者ですか?」という問いには、解答欄がありません。採点する先生もいません。まして、「あなたは正しく生きましたか?」と聞かれたら、誰が正解を決めるのでしょう。自分でしょうか。他人でしょうか。それとも、そもそも正解なんて存在しないのでしょうか。禅が簡単に答えを教えてくれない理由が、また少しだけ見えてきた気がします。

答えを知ることと、自分で見ること

私たちは普段から、答えがあることに慣れています。
分からなければ調べる。検索する。誰かに聞く。そして、「正解はこれです」と言われると安心します。でも誰かから、
「あなたとは、こういう人です」
「あなたは、こう生きるべきです」
と答えを渡されたらどうでしょう。それを丸暗記して、「はい、分かりました」と言ったところで、自分自身を分かったことにはならないはずです。禅が「答え」を簡単に渡してくれないのは、意地悪だからではなく、他人から渡された答えでは意味がない問いを扱っているからなのかもしれません。

だとしたら、禅画を見ることも同じです。「この達磨は○○を意味しています」と覚えることより、まず自分で見る。何を感じたのかに気づく。そしてまた見る。その過程そのものに意味があるのでしょうか。

だるまを見ていたら、昔、通っていた天ぷら屋を思い出した

たとえば一枚のだるまの絵を見て、昔よく通った店の壁に掛かっていた絵を思い出しました。そして、もう店は閉めちゃったけど「あの店のご主人と奥さん、元気かな」と考える。禅画の解説としては、たぶん何の役にも立ちません(笑)。でも、その瞬間に心へ浮かんだものは、その人にしかないものです。

だるまを見ていたはずなのに、昔の店の匂い。料理の味。交わした会話。もう会わなくなった人たち。そんな記憶が出てきた。だったら、それを「余計な雑念だ」と急いで追い払わなくてもいいのかもしれません。「自分は、この絵からこんなことを思い出したんだな」と気づく。そして、また目の前のだるまへ戻る。第二章で見つけた、それたら、戻ってくる。ここでも同じことをしているような気がします。

最後に、自分へ何を残す?

庭を見ました。○を見ました。だるまの顔を見ました。そして、人間の肖像を見ました。ところが見れば見るほど、「自分とは何か」という問いの答えは、はっきりするどころか分からなくなってきます。

でも『美の壺』は、最後にさらに厄介なものを私たちの前へ置きます。遺偈(ゆいげ)。禅僧が死を目前にして書き残す、最後の言葉です。もし人生というテストに、本当に最後の解答欄があるのなら――。そこには何を書くのでしょう。

「私はこういう人間でした」と書くのでしょうか。「こんな人生でした」と総括するのでしょうか。それとも最後には、そんな答えさえ必要なくなるのでしょうか。

次は、最終章の「死ぬ直前、人は何を書き残す?──遺偈の前で『答え』を手放す」で、いよいよ最後の問いへ向かってみましょう。

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最終章 死ぬ直前、人は何を書き残す?──遺偈の前で「答え」を手放す

もし、「これが人生で最後に書く言葉です」と言われたら、自分は何を書くでしょう。家族への感謝。大切な人への言葉。自分が成し遂げてきたこと。あるいは、「自分の人生とは何だったのか」を、最後に一言でまとめようとするでしょうか。でも、そんなことが本当にできるのでしょうか。

『美の壺』では、書家・紫舟さんが、禅僧が死を目前にして書き残した遺偈(ゆいげ)と向き合います。遺偈とは、禅僧が臨終を前に残す偈、つまり仏教的な境地を表した言葉です。

そこにあるのは、単なる「遺書」とは少し違うもの。人生の最後に、自分が向き合ってきたものを、言葉と書によって残す。そう聞くと、私たちはまた期待してしまいます。そこにはきっと、「人生の答え」が書いてあるのではないか、と。

最後の言葉なら、「正解」が書いてある?

ここまで私たちは、ずっと答えを探してきました。禅とは何なのか。なぜ坐禅をするのか。なぜ掃除をするのか。○は何を意味するのか。自分とは何なのか。そしてとうとう、人生を終えようとしている禅僧の言葉までたどり着きました。長い修行を重ねてきた人が、死の直前に残した言葉です。

だったら、ここにこそ、「禅とは○○である」という究極の答えがありそうです。でも――。もし誰かの遺偈を読んで、「なるほど。人生とはそういうものなのか」と答えだけを覚えたとして、それで私たちは自分の人生を理解したことになるのでしょうか。

どうも違う気がします。その言葉は、その人が生き、その人が修行し、その人が最後にたどり着いたところから生まれたもの。その人の答えを、そのまま自分の答えにすることはできません。

人生には、最後まで解答欄がない

学校のテストなら、答えがあります。自分で考えても、誰かの答えを写しても、正解を書けば○がつく。でも人生には、そんな解答欄がありません。「正しく生きられましたか?」「幸せでしたか?」「あなたは何者でしたか?」そんな問いに対して、誰にでも共通する模範解答を用意することはできないでしょう。

しかも厄介なことに、昨日まで正しいと思っていたことが、今日の経験によって変わることだってあります。10年前の自分なら選ばなかった道を、今の自分なら選ぶかもしれない。「あのとき間違えた」と思っていた出来事が、ずっとあとになって、「あれがあったから今がある」と見えることだってあります。だったら人生の答えとは、一度見つけたら答案用紙に書いて終わるものではないのでしょう。

「答えが変わる」ことまで受け入れてみる

ここで、最初から歩いてきた道を振り返ってみます。坐禅では、雑念が浮かぶ。気づいたら、また戻る。掃除では、昨日拭いた床を今日も拭く。そして明日もまた拭く。庭は、見る日の心によって違って見える。同じ○を見ても、人によって感じるものが違う。

ずっと、「一度決めたら、それで終わり」というものがありませんでした。それなら、自分自身についての答えだって同じなのかもしれません。今日、「自分はこう思う」というものが見つかった。それでいい。でも明日、違うものが見えたら。また考えればいい。答えを変えることを、「前は間違っていた」と責めなくてもいい。

そのときの自分には、そのとき見えていたものがあった。そして今は、また違うものが見えている。そうやって問い続けること自体が、生きることなのかもしれません。

禅は、なぜ答えを教えてくれない?

ようやく、この記事の最初の問いへ戻ってきました。禅は、なぜ答えを教えてくれないのでしょう。ここまで歩いてきても、やっぱり、「禅とは○○である」という一行の答えは見つかりませんでした。でも、最初ほど困らなくなっています。

もしかすると、答えがないから、分からなかったのではない。最初から、誰かに答えを教えてもらおうとしていたから、分からなかったのかもしれません。庭を見る。○を見る。床を拭く。坐禅をする。自分を見る。

そのたびに何かを感じ、考える。そして、また変わる。禅はその一つひとつに、「正解はこちらです」という説明板を立ててくれません。だから自分で向き合うしかない。

「無心に考え続ける」

「無心」と「考える」。一緒に並べると、なんだか矛盾しているように聞こえます。でも、ここまで歩いてきた今なら、少し違って聞こえます。正解を当てようとしない。誰かの答えに合わせようとしない。「こう考えなければならない」と決めつけない。

ただ、目の前にあるものを見る。浮かんできたものに気づく。それたら、また戻る。そして問い続ける。それを、「無心に考え続ける」と呼んでみてもいいのかもしれません。もちろん、「これこそが禅です」と言うつもりはありません。明日になれば、また違うことを考えているかもしれないからです。でも、それでいい。

「分からない」が、少し変わった

最初、私たちは、「禅って、よく分からない」ところから歩き始めました。そして最後まで来ても、やっぱり、よく分かりません。でも――。最初の「分からない」と、今の「分からない」は、少し違います。最初は、「正解を知らないから、分からない」。今は、「一つの正解にしなくてもいいから、分からないまま考えていたい」。そんな「分からない」に変わった気がします。

遺偈を書いた禅僧たちが、それぞれの人生の最後に何を見ていたのか。それを私たちが完全に知ることはできません。そして、自分が人生の最後に何を思うのかも、今は分かりません。だったら今は、今の自分に見えているものを見ていればいい。そして明日、違うものが見えたら、また考える。それでいいのでしょう。

禅が答えを教えてくれないのは、答えがないからではなく、答えを自分の外に探さなくてもいいから。……そんなふうに思えたところで、今回は筆を置くことにします。明日になれば、また違う答えが見えているかもしれませんから。


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