埼玉県さいたま市浦和区。サッカーの街として知られるこの地には、もうひとつの顔があります。
関東大震災後、多くの芸術家たちが東京から移り住み、昭和初期には40人を超える「浦和絵描き」が暮らしていました。彼らはこの街の風景や光、人々の営みに美を見いだし、それぞれのキャンバスに描き続けたのです。
今回の『小さな旅』は、そんな浦和に息づく芸術の物語。93歳の洋画家・小川游さんや、画家たちを支えてきた額縁職人との出会いを通して、美を探し続ける人々の思いに触れます。
キャンバスの向こうに見える街とはどんな街なのか――。浦和に流れる静かな美への探究心をたどります。
【放送日:2026年6月14日(日)8:00 -8:25・NHK-総合】
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なぜ画家たちは浦和に集まったのか?|浦和絵描きの始まり
「浦和は芸術家の街」。
そう聞いて意外に思う人も多いかもしれません。現在のさいたま市浦和区には、かつて数多くの画家たちが暮らしていました。その始まりのきっかけのひとつが、1923年に発生した関東大震災です。
震災によって東京の自宅やアトリエを失った芸術家たちは、新たな制作の場を求めることになりました。そのとき彼らが選んだのが浦和でした。
当時の浦和は東京からの交通の便が良く、それでいて自然が豊かで静かな環境が残る街でした。雑木林や畑が広がり、空は広く、季節ごとに表情を変える風景がありました。画家たちはそこで新たな暮らしを始めます。
やがて浦和には多くの芸術家が集まり、昭和初期には40人を超える画家たちが暮らしていたといわれています。人々は親しみを込めて彼らを「浦和絵描き」と呼びました。
もちろん画家たちが浦和を選んだ理由は人それぞれだったでしょう。けれど共通していたのは、この街に創作へ向き合う静かな時間が流れていたことではないでしょうか。
誰もが最初から名声や評価を手にしていたわけではありません。理想の絵を描きたい。もっと上手くなりたい。まだ見たことのない景色を描きたい。そんな思いを胸に、彼らは毎日キャンバスに向かったはずです。
浦和に集まった画家たちが求めていたのは、単なる住まいではありませんでした。この街には、美しいものを探し続ける人々を受け入れる空気があったのです🎨🌳✨
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93歳の洋画家・小川游さん|描き続ける理由
浦和で旅人が出会ったのは、93歳の洋画家・小川游さんでした。
長年にわたり絵を描き続けてきた小川さんは、浦和絵描きの系譜を今に伝える存在でもあります。番組では、画家になるまでの険しい道のりや、これまで歩んできた人生について語られます。
画家という職業は決して平坦な道ではありません。作品が評価される保証はなく、描き続けることそのものが挑戦の連続です。それでも小川さんは筆を置きませんでした。
なぜ描き続けるのでしょうか? 若い頃は、もっと上手く描きたいと思ったかもしれません。認められたいと思ったこともあったでしょう。けれど長い年月を重ねる中で、その理由は少しずつ変わっていったのかもしれません。
浦和の街並み。季節ごとに移ろう光。何気ない日常の風景。そうしたものを見つめ続けるうちに、「描かなければならない」というより、「描きたい」という気持ちが残ったのではないでしょうか。
93歳という年齢を考えると、その姿には驚かされます。しかし本人にとっては、特別なことではないのかもしれません。昨日より少しでも良い絵を描きたい。昨日まで気づかなかった美しさを見つけたい。その思いがある限り、画家に定年はないのでしょう。
小川さんの姿から見えてくるのは、芸術家としての成功ではありません。年齢を重ねてもなお、新しい何かを探し続ける人の生き方です。そしてその探究心こそが、浦和という街に息づいてきた「美への探究心」そのものなのかもしれません🎨✨
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キャンバスに映る浦和の風景|街が育てた美意識
浦和に多くの画家たちが集まった理由のひとつは、この街が持つ独特の風景にありました。現在の浦和は県都として発展していますが、かつては雑木林や畑が広がる静かな町でした。東京に近い利便性を持ちながら、自然の息づかいを身近に感じられる環境が残されていたのです。
画家たちはそんな浦和の風景を愛しました。四季によって変化する木々の色。夕暮れに染まる空。住宅街の向こうに広がる柔らかな光。派手な絶景ではありません。けれど、日々の暮らしの中にある何気ない美しさが、この街にはありました。浦和絵描きたちは、その風景をそれぞれの感性で描き続けました。
同じ場所を見ても、見える景色は人によって違います。光の色に心を動かされる人もいれば、木々の影に惹かれる人もいるでしょう。だから絵は単なる風景の記録ではありません。その人が何を美しいと感じたのかを映し出す鏡でもあるのです。
93歳の小川游さんもまた、長い年月にわたって浦和の風景と向き合ってきました。同じ街に暮らしていても、毎日まったく同じ景色はありません。季節が変わり、光が変わり、そして自分自身も変わっていきます。だからこそ画家は描き続けるのかもしれません。
浦和が育んできたのは、絵の技術だけではありません。何気ない日常の中に美しさを見つけるまなざしでした。その美意識は、今もこの街のどこかで静かに受け継がれているのです🎨🌇🌳✨
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浦和絵描きを支えた職人たち|額縁工房の技
浦和が芸術の街として発展してきた背景には、画家たちだけでなく、その創作を支える職人たちの存在がありました。
今回の旅では、大正時代創業の額縁工房を訪ねます。額縁は絵を飾るための道具と思われがちです。しかし職人たちにとっては、それだけではありません。作品の魅力を引き立て、ときには絵が持つ世界観そのものを支える大切な存在です。
どんな木材を使うのか。どんな色や装飾がふさわしいのか。職人は一枚一枚の作品と向き合いながら、最も美しく見える形を探していきます。それは画家がキャンバスに向かう姿にもどこか似ています。
浦和には多くの画家たちが暮らしていました。そのため額縁工房もまた、長年にわたって画家たちとともに歩んできました。作品が完成するまでには、描く人だけでなく、それを支える人の技術や思いも込められているのです。
考えてみれば、絵は完成した瞬間に終わるものではありません。額に収められ、誰かの目に触れ、新しい感動を生み出していく。その橋渡しをしているのが職人たちでした。
浦和絵描きの歴史は、画家たちだけの歴史ではありません。作品を支え、受け継ぎ、美しさをより輝かせようとした職人たちの歴史でもあるのです。画家が美を描く人だとすれば、職人はその美を守り続ける人なのかもしれません🖼️🎨✨
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美を受け継ぐ街|今も息づく芸術の文化
昭和初期には40人を超える画家たちが暮らしていた浦和。彼らが描いた作品は今も美術館や資料館に残されています。しかし、浦和絵描きたちがこの街に残したものは、それだけではありません。
画家たちは風景を見つめ、光を追い、何気ない日常の中にある美しさを描き続けました。その積み重ねは、いつしか浦和という街の文化になっていきます。画家たちを支えた額縁職人もまた、その文化の担い手でした。
作品を守り、次の世代へ受け継いでいく。そうした営みが長い年月をかけて積み重なり、浦和は「芸術家の街」と呼ばれるようになったのです。そして今も、この街にはその空気が残っています。
美術館を訪れる人。絵を学ぶ子どもたち。作品づくりに励む作家たち。それぞれの形で、美への探究心が受け継がれています。
文化とは建物や作品だけではありません。そこに暮らす人々の中に受け継がれていくものです。浦和絵描きたちが見つめていた風景は変わったかもしれません。けれど、美しいものを探そうとするまなざしは、今もこの街のどこかに息づいています。それこそが浦和絵描きたちが残した、最も大きな財産なのかもしれません🎨🌳✨
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キャンバスの向こうに見えるもの|美を探し続ける人生
93歳の洋画家・小川游さんは、今も絵を描き続けています。
長い人生の中では、思い通りにいかないこともあったでしょう。画家として悩み、迷い、立ち止まったこともあったかもしれません。それでも小川さんは筆を置きませんでした。
なぜ描き続けるのか? その答えは、完成した作品の中ではなく、キャンバスに向かう時間そのものにあるような気がします。
若い頃は、もっと上手くなりたいと思ったかもしれません。認められたいと思ったこともあったでしょう。けれど歳月を重ねるうちに、人は少しずつ気づいていきます。本当に大切なのは、誰かと比べることではなく、自分が心を動かされたものを見失わないことなのだと。
浦和に集まった画家たちも同じだったのかもしれません。関東大震災で多くを失いながらも、新しい街で再び絵を描き始めた人たち。その姿を支えた職人たち。そして美しいものを探そうとする心を受け継いできた街。浦和の芸術文化は、そうした人々のまなざしの上に育まれてきました。
キャンバスの向こうに見えていたのは、単なる風景ではありません。季節の光であり、人々の暮らしであり、そして人生そのものだったのでしょう。
美しいものを探す旅に終わりはありません。だからこそ小川さんは今も描き続けるのかもしれません。浦和という街には今日もまた、誰かが足を止めて空を見上げる風景があります。その何気ない瞬間の中にこそ、美しさは静かに息づいているのです🎨🌇🌳✨