「獣医師」と聞いて、どんな姿を思い浮かべるでしょう。街の動物病院で、診察台に乗せられた犬や猫を診ている白衣のお医者さん。私たちにとっては、それがいちばん身近な獣医師の姿かもしれません。大切な家族であるペットが病気になったとき、その命を救おうとしてくれる人。
けれど、獣医師が向き合っている動物は犬や猫だけではありません。牛を診る人がいる。羊を診る人がいる。馬や豚、そして時には私たちが普段ほとんど目にすることのない動物を専門に診る人もいます。北アイルランドの山あいでは、一本の電話を受けた獣医師が農場へと車を走らせます。待っているのは、出産を控えた牛や羊たち。
今回の『地球ドラマチック』では、女性獣医師ロザリンドさんが難産の牛を前に、判断を迫られます。自然に生まれるのを待つのか。それとも、帝王切開に踏み切るのか。救わなければならないのは、母牛の命。そして、これから生まれようとしている子牛の命です。でも――。
獣医師が救おうとしているのは、本当にその二つの命だけなのでしょうか。牛や豚、羊や鶏は、農家にとって大切な家畜です。毎日世話をし、健康を気遣い、病気になれば獣医師を呼ぶ。けれど同時に、その一頭一頭が農家の仕事を支え、家族の暮らしを支える存在でもあります。
一頭の命の向こうに、人の生活がある。そう考えると、山を走る獣医師の車には、私たちが街で見かける動物病院とは少し違った重さが積まれているように思えてきます。
一頭の牛を救うこと。一頭の子牛を、この世界へ無事に迎えること。その仕事の向こう側には、いったい何があるのでしょう?北アイルランドの山で動物たちの命と向き合う二人の獣医師を追いながら、少しだけ考えてみたいと思います。人と動物が、ともに生きるということを。
【放送日:2026年8月22日(土)14:25 -15:10・NHK-Eテレ】
<広告の下に続きます>
犬や猫だけじゃない──「獣医師」は、どんな動物を診る仕事?
「動物病院」と書かれた看板を見て、まず思い浮かべる動物は何でしょう。おそらく犬や猫という人が多いのではないでしょうか。街の動物病院へ行けば、待合室には犬を抱いた人がいて、キャリーケースの中には猫がいる。私たちが日常で目にする獣医師は、そんな**「ペットのお医者さん」**であることが多いように思います。
けれど、考えてみれば「獣医師」という名前のどこにも、犬や猫とは書いてありません。牛を診る獣医師がいます。豚や羊を診る獣医師もいます。馬を専門に診る人もいれば、カエルやイモリ、ヘビやトカゲなど、犬や猫とはまったく身体のつくりが違う動物を診る獣医師もいます。同じ「動物のお医者さん」でも、相手が変われば必要になる知識も経験も変わってくるのでしょう。
カエルが病気になったら、どこへ連れていく?
以前、爬虫類や両生類を展示する施設を訪ねるようになってから、少し意外なことに気づきました。犬や猫なら、「近くの動物病院へ連れていこう」と考えられます。ところが、カエルやイモリなどではそう簡単にはいきません。そもそも診療対象としていない動物病院も多くあります。
考えてみれば当然なのかもしれません。哺乳類と両生類では身体の仕組みが違います。しかも犬や猫に比べれば、ペットとして飼われている数も少ない。「獣医師なら、どんな動物でも診られる」というほど単純な世界ではないのでしょう。獣医師という一つの言葉の向こうには、私たちが思っている以上に広い専門の世界があります。
牛のお医者さんになる人
そんなことを考えていたら、ずいぶん昔の記憶が一つ蘇りました。小学生のころの同級生に、大学へ進学するとき、北海道の「帯広畜産大学」へ行くと聞いた女の子がいました。酪農を学びたかったのか、獣医師を目指していたのか、そこまでは聞かなかったので、今となっては分かりません。当時はただ、「へぇー、北海道まで行くんだ」くらいに思っていたような気がします。
それから長い時間が過ぎました。北アイルランドの山で牛や羊を診る獣医師の姿を見ようとしている今になって、なぜかその同級生のことを思い出します。今頃、どうしているのでしょう?もしかすると、まったく別の仕事をしているのかもしれません。それならそれでいいのです。昔の記憶というものは、答え合わせをするためではなく、何かの拍子にふっと帰ってくることがあります。
診察室ではなく、動物のいる場所へ
そして『地球ドラマチック』が訪ねる北アイルランドでは、私たちが普段見慣れている動物病院とは、少し違う獣医師の姿があります。牛、羊、アルパカ…。彼らは診察室で順番を待っているわけではありません。
農場にいる。牛舎にいる。山の中にいる。だから急患の知らせが入れば――獣医師のほうが、動物のいる場所へ走っていきます。特に出産の季節は大忙し。電話の向こうには、今まさに新しい命を迎えようとしている農家が待っています。
そのとき獣医師が車に積んでいるのは、医療器具だけではないのでしょう。現場へ着けば、自分の目で状態を確かめ、その場所で判断しなければならない。しかも相手は、言葉で、「ここが痛い」とは教えてくれません。
私たちが街角で何気なく見ている「動物病院」という看板。その同じ資格を持った人たちが、遠い北アイルランドでは山や農場を走り回っている。そう思うと、「獣医師」という仕事が急にずっと大きなものに見えてきます。
では、そんな山の獣医師たちは、一日の中でどんな命と出会っているのでしょう。次は、一本の電話を追いかけて、北アイルランドの農場へ向かってみましょう。
<広告の下に続きます>
一本の電話で農場へ──北アイルランドを走る「山の獣医師」
電話が鳴ります。「牛の様子がおかしい」「羊のお産がうまくいかない」そんな知らせが入れば、獣医師は必要な道具を車に積んで農場へ向かいます。診察室で次の患者を待っているのとは、少し勝手が違います。
向かう先がどんな場所なのか? 動物がどんな状態なのか? 電話だけでは、すべてが分かるわけではありません。それでも農家では、獣医師が来るのを待っています。
車を走らせる窓の外には、北アイルランドの緑の丘陵が続いているのでしょう。牧草地には牛や羊の姿が見える。いかにも穏やかな田園風景です。けれど、そのどこかでは今、一頭の動物の命をめぐって時間が動いています。
出産の季節は、獣医師にも「待ったなし」
特に忙しくなるのが、動物たちの出産シーズン。新しい命が次々と生まれる季節は、農家にとって喜びの季節であると同時に、獣医師にとっては気の抜けない季節でもあります。すべてのお産が順調に進むわけではないからです。今回の『地球ドラマチック』に登場する二人の獣医師も、次々とかかってくる急患の電話に対応していきます。
診るのは牛だけではありません。羊もいれば、アルパカもいる。身体の大きさも違えば、症状も違います。さっきまで羊を診ていたのに、次の電話では大きな牛が待っているかもしれない。「今日はこの患者だけを診ればいい」というわけにはいきません。電話が鳴るたびに、仕事の予定が書き換えられていく。山の獣医師の日常は、そんなふうに動いているのでしょう。
白衣より、長靴が似合うお医者さん
農場へ到着したからといって、そこに診察台が用意されているわけでもありません。牛は牛舎にいる。羊は柵の向こうにいる。足元には泥もあるでしょう。雨が降る日もあれば、寒い日もある。それでも獣医師は、その動物がいるところまで入っていかなければなりません。
なんだかここまで見ていると、白衣より長靴のほうが似合うお医者さんという気がしてきます。もちろん、都会の動物病院とは仕事の優劣があるわけではありません。ただ、診察室へ動物を連れてくるのではなく、自分から動物のところへ行く。それだけで獣医師という仕事の見え方が、ずいぶん変わります。
そして相手は、人間の患者のように症状を説明してくれません。「昨日から、ここが痛いんです」なんて牛は言ってくれない(笑)。だから農家から話を聞き、動物の様子を見て、触れて、自分の経験と知識を頼りに何が起きているのかを探っていく。そこには診察室とは違う、現場で動物と向き合う力が求められているように思います。
そして、難産の牛が待っていた
そんな一本の電話を受け、女性獣医師のロザリンドさんが農場へ向かいます。待っていたのは、出産を迎えた一頭の牛。しかし、お産は順調に進んでいません。難産です。農家が見守るなか、ロザリンドさんは母牛の状態を確かめます。
ここから先は、「頑張れ」と見守っているだけでは済みません。このまま自然に生まれるのを待つのか。それとも――母牛のお腹を開き、帝王切開で子牛を取り出すのか。どちらを選ぶにしても、時間は流れていきます。そして、その判断を任されたのが獣医師です。
さっきまで窓の外に広がっていた北アイルランドの穏やかな牧草地とは、まるで違う時間が牛舎の中には流れています。母牛の命。まだ姿も見えない子牛の命。二つの命を前にして、ロザリンドさんは何を見て、どう判断するのでしょう?
<広告の下に続きます>
待つのか、切るのか──母牛と子牛、二つの命を預かる決断
目の前には、難産に苦しむ母牛がいます。そのお腹の中には、まだ外の世界を知らない子牛がいる。二つの命が、ロザリンドさんに託されました。ここで必要なのは、診断だけではありません。決断です。
このまま自然に生まれてくるのを待つのか。それとも帝王切開に踏み切り、子牛を取り出すのか。どちらを選べば、母牛と子牛の両方を救えるのか。もちろん、その答えを先に知ることはできません。
人間の仕事なら、「もう少しデータを集めてから判断しましょう」「いったん持ち帰って検討します」なんて言える場面もあります。会議をもう一度開くことだってできるでしょう。でも、ここではそうはいきません。相手は、そこで生きているからです。
「もう少し様子を見る」も、一つの決断になる
待つことにも意味があります。自然に生まれてくれるのなら、それに越したことはないのかもしれません。一方で、待っているあいだにも時間は過ぎていきます。だから「何もしない」という判断も、実際には何も決めていないわけではない。待つと決めている。そして、その判断にも結果がついてきます。
逆に帝王切開を選べば、母牛の身体に負担をかけることになるでしょう。どちらにもリスクがある。だからこそ獣医師は、目の前の母牛の状態を見て、子牛の状況を確かめ、自分の知識と経験を総動員して決めなくてはいけません。判断しなければいけないリミットは迫ってきます。手遅れになれば他の選択肢に変更することが出来なくなるかもしれません
それも、「絶対にこちらが正しい」と未来を知ったうえで選べるわけではない。ここに、命を預かる仕事の怖さがあるように思います。
決断したあとも、獣医師の仕事は終わらない
そしてもう一つ。獣医師の決断は、決めた瞬間に終わるものでもありません。帝王切開を選べば、その判断を自分の手で実行する。無事に子牛を取り出せるのか。母牛は耐えられるのか。生まれた子牛は自分で呼吸してくれるのか。判断の正しさは会議室の資料ではなく、目の前の命そのものによって示されることになります。
私の偏見なのかもしれませんが、家畜を診る人に「プロの獣医師」という印象を持った理由も、少し分かるような気がします。もちろん、犬や猫を診る獣医師だって同じように命を預かり、難しい判断をしています。ここで感じるのは、その優劣ではありません。
北アイルランドの農場では、獣医師が判断を下す現場そのものが、私たちの目の前にはっきりと見えるのです。逃げることのできない場所で。限られた時間の中で。「私は、こうする」と決める。その覚悟まで含めて、獣医師という仕事なのでしょう。
でも、二つの命だけだったのだろうか
母牛を救いたい。子牛も救いたい。そのためにロザリンドさんは判断します。けれど、牛舎にはもう一人、その成り行きを見守っている人がいます。この牛を育ててきた農家です。獣医師にとっては患者である一頭の牛。では農家にとって、この牛はどんな存在なのでしょう。
大切に育ててきた一つの命。それは間違いありません。けれど――。本当に、それだけなのでしょうか? 一頭の牛の向こう側へ少しだけ目を向けると、そこには、この動物とともに営まれてきた人間の暮らしが見えてきます。
<広告の下に続きます>
一頭の命の向こうに、農家の暮らしがある──家畜を診るということ
一頭の牛を前にして、獣医師と農家がいます。二人とも願っていることは、おそらく同じです。「助かってほしい」けれど、その牛を見つめる二人の立場は同じではありません。
獣医師にとって、目の前にいるのは治療すべき一頭の動物です。どうすれば救えるのか。どの治療を選ぶべきなのか。自分の知識と経験を使って、その命にとって最善と思える方法を探します。
もちろん獣医師だって、その牛が農家にとってどんな存在なのかは十分に分かっているでしょう。それでも最後に医療者として見つめなければならないのは、目の前にある命です。
一方、農家にはその牛の後ろに、もっと長い時間が見えています。毎日餌を与えてきた時間。健康状態を気にかけてきた日々。その牛を育てるためにかけてきた費用。そして、その牛がこれから支えてくれるはずだった農場の仕事。家畜は、一つの命です。
でも母牛と子牛。どちらかしか助けられないとしたらどちらを選ぶのかという問題が目の前に突きつけられることだってあります。母牛を助ければもしかしたら次に子牛を産めるかもしれない。
しかし母牛が既に十分に高齢であれば、今、目の前で産まれようとしている子牛を救って農家の収入源として残した方がいいかもしれません。けれど、農家にとってはどちらが生活を成り立たせる大切な存在なになるのかという問題でもあります。
「財産」という言葉を使えば、少し冷たく聞こえるかもしれません。でも畜産を仕事として続けていく以上、その現実から目をそらすこともできないのでしょう。
「いくらかけても助けてください」とは言えないこともある
ここには、ペット医療とはまた違った難しさがあります。大切な家族である犬や猫が病気になれば、「できる限りのことをしてください」と願う飼い主もいるでしょう。もちろん、そこにも治療費や動物の苦痛、年齢など、さまざまな現実があります。
しかし家畜の場合には、さらに農業という仕事の継続が重なります。一頭を治療するために、どこまで費用をかけられるのか? 治療したあと、その動物は回復できるのか? 農家は感情だけでなく、経営する人間として考えなければならない場面もあるでしょう。
冷たいからではありません。農家自身にも、守らなければならない暮らしがあるからです。そして獣医師も、それを知らずに治療しているわけではありません。命を救いたい。でも、その治療を選ぶことで農家に何が残るのか。
医療としてできることと、現実に選べること。その間で答えを探すのも、家畜を診る獣医師の仕事なのかもしれません。
同じ牛を見ながら、違うものを見ている
だからといって、獣医師は「命」を見ていて、農家は「お金」を見ている――。そんな単純な話ではないのでしょう。農家だって、毎日育ててきた動物が苦しめば心配する。獣医師だって、農家の生活を無視して治療を決められるわけではない。二人とも、その両方を見ています。
ただ、その重なり方が少し違う。獣医師には、医療者としての責任がある。農家には、動物を育てながら暮らしを成り立たせていく責任がある。だからこそ、ときには同じ一頭の牛を見つめながら、違う答えに近づくことだってあるのかもしれません。その間で何を選ぶのか。それもまた、家畜とともに生きるということなのでしょう。
大切に育てる。でも、いつか別れる
そして家畜には、もう一つ、私たちが普段あまり考えない現実があります。農家によっては、飼っている家畜にあえて名前をつけないこともあるといいます。
いつか別れる日が来るから。名前をつければ、情が移ってしまうから。それを聞くと、少し寂しく感じます。けれど、名前をつけないことと、大切に育てないことは同じではありません。健康に育ってほしい。病気になれば治してやりたい。難産になれば、母親も子どもも助かってほしい。それでも――家畜と暮らすということには、いつか別れることまで含まれています。
では、その別れの先に何があるのでしょう。ここまで私たちは、北アイルランドの山で「命を救う人たち」を見てきました。けれど次は、その命を受け取る側へ視線を向けなければならないのかもしれません。遠い北アイルランドの農場から、私たち自身の食卓へ。そこで初めて、「救った命を、なぜ人間は食べるのだろう」という、少し答えにくい問いが見えてきます。
<広告の下に続きます>
救った命を、私たちはいただいて生きている──「いただきます」の向こう側
一頭の牛が難産になりました。農家は獣医師を呼びます。獣医師は農場へ駆けつけ、母牛の状態を確かめ、まだ見えない子牛の命を探り、限られた時間の中で判断を下します。どうか母牛が助かりますように。どうか子牛も無事に生まれてきますように。そこにいる誰もが、そう願っているのでしょう。けれど、ここまで家畜と獣医師の物語を見てきた私たちは、もう一つのことにも気づいてしまいました。
この牛は、永遠に農場で暮らすわけではありません。
いつか農場を離れる日が来る。乳や繁殖など別の役割を担う家畜もいますが、畜産という営みの先には、家畜の命が人間の食べ物になることもあります。私たちは、そのことを知っています。知っているけれど、普段はあまり考えません。
スーパーへ行けば、きれいに切り分けられた肉がパックに入って並んでいるからです。そこから、一頭の牛を想像することは難しい。雨の日にも餌を与えた農家の姿も。難産になった夜、農場へ車を走らせた獣医師の姿も。そこからは、もう見えません。
なぜ、いつか食べるかもしれない命を救うのだろう
少し不思議なことにも思えます。病気になれば治そうとする。難産になれば助けようとする。生まれた子牛が呼吸を始めれば、きっとほっとする。それなのに人間は、その命をいつか食べることがあります。救うことと、食べること。一見すると、矛盾しているようにも見えます。けれど考えてみれば、人間だけが特別なのではないのでしょう。
生き物は、ほかの生き物とのつながりの中で生きています。動物がほかの動物を食べることもあれば、植物を食べる動物もいる。植物だって、光や水、土の中のさまざまな物質を利用しながら命をつないでいます。生き方は違っても、どんな命も、この世界から完全に切り離されて生きているわけではありません。
その中で人間だけが少し変わっているとすれば――。自分が何かを食べなければ生きていけないということを知り、その意味について考えることができるところなのかもしれません。
「いただきます」と言ってから食べる
日本では、食事を始める前に、「いただきます」と言います。この言葉の由来を「あなたの命をいただきます」という一つの説明だけに決めることはできません。それでも私たちは、この短い言葉の中に、食材となった命への感謝を重ねることができます。
肉だけではありません。魚も。野菜も。米も。私たちが食べているものは、スーパーの棚で突然「食べ物」として生まれたわけではありません。その前には、それぞれの命がありました。
そう考えると、「いただきます」は食事を始めるための合図ではなく、自分の命をつなぐために、ほかの命を受け取ります。そんな小さな祈りにも聞こえてきます。
私たちにできることは、案外小さい
だからといって、肉を食べてはいけない、と言いたいわけではありません。菜食を選ぶ人の考え方にも、耳を傾ける意味があるでしょう。けれど、ここでどちらが正しいのかを決めるつもりもありません。そんな大きな問いに、簡単な答えは出せないからです。
ただ、できることはあります。私は最近、スーパーで買ってきた小松菜を料理するとき、根元の部分まで炒めて食べるようになりました。以前なら切り落としていたところです。やってみれば、ちゃんと食べられる。他の野菜でも同じです。人参もほとんど皮を剥かない。そうすると、生ごみも驚くほど少なくなりました。なんだかずいぶん小さな話です(笑)。
北アイルランドの山で二つの命を預かる獣医師の話から始まったのに、最後は台所の小松菜です。でも、きっとそれくらいでいいのでしょう。世界中のフードロスを一人でなくすことはできない。人間がほかの生き物を食べて生きているという矛盾を、きれいに解決することもできない。
それでも、自分の目の前にある食べ物なら大切にできます。せめて、いただいたものを無駄にしない。それくらいなら、今日の食事から始められます。
北アイルランドの農場で、獣医師が一頭の牛を救おうとしています。その命の向こうには農家の暮らしがあり、さらにその向こうには、私たちのような食べる人がいます。そう考えると、最初に掲げた問いも少し違って見えてきます。
獣医師が救うのは、命だけなのだろうか?
もしかすると、その手でつながれた命は、いつか別の命を支える側へ回っていくのかもしれません。救う。育てる。いただく。そしてまた、生きていく。その大きなつながりの中で、私たちにできることは、それほど多くないのかもしれません。
「ドナドナ」。あの歌を思い出すと、今でも少し胸が詰まります。だから今日も食卓で手を合わせます。いただきます。そして、できることなら――ごちそうさままで、無駄なく…。
湘南ひらつかITサポートセンターをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。