海水が遡る町でなぜ水郷が生まれた?|柳川の掘割に隠された先人の知恵【ブラタモリ】

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柳川といえば、川下りで知られる“水郷の町”。町中を巡る美しい掘割と、ゆったり進むどんこ舟の風景を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、その柳川は有明海のすぐそばにあります。有明海は日本最大級の干満差を持つ海として知られ、満潮時には海水が川をさかのぼって市街地近くまで入り込んできます。

それなのになぜ柳川は豊かな水郷の町として発展したのでしょうか?『ブラタモリ』「福岡・柳川▼福岡・柳川はなぜ“水郷の町”に?」では、町中に張り巡らされた掘割をたどりながら、その秘密を解き明かします。遠く上流から淡水を引き込み、低湿地を豊かな土地へと変えた先人たちの知恵とは何だったのか。さらに柳川城や立花家、水郷文化、そして名物・うなぎとの意外なつながりも見えてきます。

今回は、海水が遡る土地でなぜ美しい水郷が生まれたのか――柳川の町づくりに込められた壮大な水の物語を、『ブラタモリ』とともにたどります。

【放送日:2026年6月27日(土)19:30 -20:07・NHK-総合】

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柳川はなぜ“水郷の町”と呼ばれるのか?|町中を巡る掘割の風景

福岡県南部にある柳川市は、「水郷の町」として知られています。町の中には無数の水路が張り巡らされ、その総延長はおよそ470kmにも及ぶといわれています。市内を歩けば至るところで水路に出会い、柳の木が揺れる風景は柳川ならではの魅力です。

そんな柳川を代表する観光が「川下り」です。どんこ舟と呼ばれる舟に乗り、船頭さんの案内を聞きながらゆっくりと掘割を巡る時間は、まるで江戸時代の城下町へ迷い込んだかのよう。年間120万人もの観光客が訪れる人気の理由も納得です。

しかし、この美しい水路網は最初から観光のために作られたものではありませんでした。柳川の水路は「掘割(ほりわり)」と呼ばれ、人々の暮らしや農業、そして城下町の維持に欠かせない重要な役割を担ってきました。

実際、現在では西鉄柳川駅周辺まで掘割が延長され、観光客が気軽に舟下りを楽しめるようになっていますが、そのルーツをたどると、町の発展そのものと深く結びついていることが分かります。

ところで、柳川は有明海のすぐ近くにあります。そのため「水郷の水は海水なのでは?」と思う人もいるかもしれません。実は有明海は日本最大級の干満差を持つ海として知られ、満潮時には海水が川をさかのぼって柳川市内まで入り込んできます。

それにもかかわらず、なぜ柳川は豊かな水郷の町として発展できたのでしょうか? その謎を解く鍵は、有明海と柳川の地形、そして先人たちが築き上げた巧みな水利用の仕組みにありました。

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海水が遡る町でなぜ水郷が生まれた?|有明海と感潮河川の秘密

柳川の美しい掘割を見ていると、多くの人は「豊かな水に恵まれた町なのだろう」と思うかもしれません。しかし実際には、柳川は水との付き合いに苦労してきた土地でした。その理由は、有明海にあります。

有明海は日本最大級の干満差を持つ海として知られ、場所によっては満潮と干潮の差が6m近くにもなります。そのため、河口から海水が押し上げられ、川をさかのぼっていく「感潮河川」が数多く存在します。柳川市内を流れる沖端川(おきのはたがわ)もそのひとつです。

満潮時には海水が上流まで入り込み、感潮区間は河口からおよそ7キロも遡った、柳川城跡のはるか上流まで達するといわれています。つまり、柳川のすぐそばまで海水がやって来るのです。もしその川の水をそのまま掘割へ流してしまえば、農業用水として利用することは難しくなります。飲み水としても使えません。

では、柳川の人々はどうしたのでしょうか。その答えは、「海水を避けて淡水を引く」という発想でした。柳川では感潮区間よりさらに上流の常に淡水が流れているところから二ツ川という川に流し、二ツ川から柳川市内の掘割や城の堀へと流していました。

現在の水郷を彩る水路網は、自然のまま存在していたわけではありません。柳川では弥生時代から長い年月をかけて水を選び、水を管理し、水を巡らせることで作り上げたものだったのです。

だから柳川の掘割は単なる景観ではありません。そこには、「どうすれば塩水から町を守れるか」「どうすれば農地を潤せるか」「どうすれば人々が暮らせるか」という先人たちの知恵が刻まれています。美しい水郷の風景は、実は水との闘いの歴史が生み出した風景でもあったのです。

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なぜ遠くから淡水を引いたのか?|掘割を支えた水の仕組み

柳川の掘割を眺めていると、まるで自然にできた水路のように見えます。しかし、その水の流れは人々が長い年月をかけて作り上げたものでした。

有明海の干満差が大きい柳川では、河口付近の川に海水が入り込みます。そのため、町のすぐ近くを流れる川の水をそのまま利用することはできませんでした。そこで人々は感潮区間よりさらに上流へ目を向けます。海水の影響を受けない場所から淡水を取り込み、掘割へ流し込む仕組みを築いたのです。

そして掘割は単なる用水路ではありませんでした。農地へ水を届ける。余分な水を排水する。町の中を舟で移動する。火災の際には消火用水として利用する。さらには城の堀として防御にも役立てる。ひとつの水路が何役もの役割を担っていたのです。

柳川の町を歩くと、今でも至るところに水門を見ることができます。水門は水位を調整し、海水の流入を防ぎ、必要な場所へ必要な量の水を届ける重要な設備でした。

つまり柳川の掘割は、単なる景観ではありません。それは巨大な水管理システムであり、町全体を支えるインフラだったのです。観光客が楽しむ舟下りの風景の裏側には、先人たちが築き上げた巧妙な水の仕組みが隠されていました。

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土木の神様は何をしたのか?|低湿地を豊かな土地に変えた知恵

現在の柳川を訪れると、水路が整然と張り巡らされ、美しい水郷の風景が広がっています。しかし、もともとの柳川は人が暮らしやすい土地だったわけではありませんでした。

柳川が位置する筑後平野の南部は、筑後川が長い年月をかけて運んできた土砂によって形成された低湿地です。土地は平坦で標高差が少なく、雨が降れば水がたまりやすい環境でした。さらに有明海の干満の影響も受けるため、洪水や塩害との戦いは避けられませんでした。

それでも人々は、この土地を見捨てませんでした。なぜなら筑後川が運んでくる土は非常に肥沃で、うまく水を管理できれば豊かな農地になる可能性を秘めていたからです。そこで先人たちは、掘割を掘り、水門を設け、水を流し、水を抜く仕組みを築いていきました。

必要な場所へ水を送り、不要な水は排水する。海水が入り込めば防ぎ、淡水を確保する。そうした地道な土木技術の積み重ねによって、かつての低湿地は豊かな農地と城下町へと姿を変えていったのです。

そして柳川の水郷を語るうえで欠かせない人物がいます。関ヶ原の戦いの後、初代筑後国主として柳川へ入った田中吉政です。吉政は戦国武将として知られていますが、その真価は城づくりだけではありませんでした。低湿地が広がる柳川で治水や干拓を進め、水路網を整備し、現在の柳川の基礎となる町づくりを進めたのです。

水と闘うのではなく、水を活かす。その発想は、現在も残る掘割や城下町の姿に受け継がれています。柳川で「土木の神様」と呼ばれ銅像まで建てられるのも、決して大げさな表現ではないのかもしれません。今日、私たちが舟下りを楽しむ掘割の風景は、彼らの長い努力の上に成り立っているのです。

田中吉政公像(出典:Googleマップ)
田中吉政公像(出典:Googleマップ)

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柳川城と水路網の関係とは?|城下町を守った“水の要塞”

柳川の掘割は農業や生活を支えるためだけに整備されたものではありませんでした。実は柳川城の防御にも大きな役割を果たしていました。

現在の柳川城跡を訪れると、周囲に高い山や険しい崖は見当たりません。広がっているのは平坦な低湿地です。一見すると守りにくそうな土地ですが、先人たちは逆転の発想でこの土地を要塞へと変えました。その鍵となったのが掘割です。

城の周囲に張り巡らされた水路は堀として機能し、敵の移動を妨げました。さらに城下町全体にも水路網が広がっていたため、侵入した敵は思うように進軍できません。土地勘のない者にとっては、まるで巨大な迷路のような空間だったことでしょう。

柳川城は「水城(みずじろ)」とも呼ばれ、水を利用した防御に優れた城として知られていました。観光客が舟下りを楽しむ掘割も、もともとは城と城下町を守るための重要なインフラだったのです。

農業を支え、生活を支え、そして町を守る。柳川の掘割はひとつの役割だけではなく、町そのものを支える仕組みとして機能していました。美しい水郷の風景の裏側には、戦国時代から受け継がれてきた防御の知恵が息づいているのです。

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なぜ柳川はうなぎの町になったのか?|水郷が育んだ食文化

柳川を訪れた人の多くが楽しみにしているのが、名物の「うなぎのせいろ蒸し」です。香ばしく焼いたうなぎと甘辛いタレをまぶしたご飯を蒸し上げる柳川ならではの料理で、町を歩いていると食欲を誘う香りが漂ってきます。

では、なぜ柳川はうなぎの町になったのでしょうか。その答えも、やはり水郷の風景の中にあります。柳川には古くから掘割が張り巡らされ、水とともに暮らす文化が育まれてきました。有明海に注ぐ川や水路は、うなぎにとっても暮らしやすい環境でした。

うなぎは海で生まれ、川へ遡上して成長する魚です。有明海と川が近い柳川は、古くからうなぎと縁の深い土地だったのです。また、水路が発達した柳川では舟による物流も盛んでした。人や物が行き交う城下町として栄えたことも、食文化の発展を後押ししたと考えられています。

現在、柳川で提供されるうなぎの多くは鹿児島県や熊本県などの県外で養殖されたものですが、「うなぎをおいしく食べる文化」は長い歴史の中でこの町に根付いてきました。

つまり柳川のうなぎは、単なる名物料理ではありません。掘割があり、水門があり、水を管理する知恵があり、その上に育まれた食文化なのです。せいろ蒸しを味わうとき、私たちは知らず知らずのうちに、水郷の歴史そのものを味わっているのかもしれません。

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水とともに生きる町|柳川が伝える先人の知恵

柳川の町を巡る旅は、美しい水郷の風景を楽しむだけの旅ではありませんでした。そこには、有明海の大きな干満差と向き合いながら暮らしてきた人々の知恵がありました。海水が遡る土地で淡水を確保する工夫。洪水に悩まされる低湿地を豊かな農地へ変えた土木技術。城下町を守るための掘割と水路網。そして、その水の恵みの中で育まれた食文化。

柳川の掘割は単なる観光資源ではありません。それは先人たちが長い年月をかけて築き上げた「生きるための仕組み」そのものだったのです。

現在、私たちは舟下りを楽しみながらその風景を眺めることができます。しかし水面の下には、弥生時代から続く農業の歴史や、田中吉政をはじめとする人々の町づくりへの挑戦が静かに息づいています。

水を恐れるのではなく、水を活かす。自然を力で押さえつけるのではなく、自然と共に生きる方法を探す。柳川の町並みは、そんな先人たちの知恵を今も私たちに語りかけているようです。

ゆっくりと進むどんこ舟の上から眺める風景は、単なる観光名所ではありません。そこには、水とともに生きてきた人々の歴史そのものが流れているのです。

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