子どものころの夢を、今も覚えていますか?
「大人になったら、こんなことをしてみたい」。あのころは確かにそう思っていたはずなのに、学校を卒業して、就職して、毎日の仕事に追われているうちに、いつの間にか考えなくなっていた。夢を諦めたつもりはない。ただ、思い出す暇がなくなっていただけ。そんなこともあるのかもしれません。
『人生の楽園』の舞台は、山口県山口市の名田島。県内有数の穀倉地帯として知られる田園の中に、『名田島食堂』があります。店を始めたのは、伊藤啓子さんと夫の博明さん。啓子さんは名田島の兼業農家に生まれ、忙しく働く両親に代わって、小学生のころから家族の食事を作っていました。
料理が好きになり、「いつか、ごはん屋さんをやりたい」と思うようになります。けれど大学を卒業すると、地元の大手アパレル会社へ就職。埼玉の店舗を経て、東京の商品企画部門へ。海外出張も任され、気がつけば27年もの月日が流れていました。
子どものころの夢は、ずっと心のどこかにあったのでしょう。でも、それを取り出すことなく人生は続いていきました。そんな啓子さんを、思いがけず立ち止まらせたのが病気でした。健康診断で手術が必要な病気が見つかり、家族のいる名田島へ帰って療養することになります。
仕事から離れた病院で、啓子さんは考えました。「この先もずっとアパレルの仕事を続け、東京で一人暮らしをするのだろうか?」それまで考える暇もなかった問いだったのかもしれません。そして退院し、実家へ戻る途中。啓子さんが目にしたのは、空に虹がかかった名田島の風景でした。
もちろん、虹を見たから人生を変えたわけではないでしょう。同じ田んぼも、同じ空も、きっと昔からそこにありました。変わったのは景色ではなく、それを見る啓子さんの心のほうだったのかもしれません。
27年間走り続け、ようやく立ち止まったからこそ、「ここって、こんなにきれいだったんだ」と気づくことができた。そして、その景色を見る余裕が戻ったとき、もう一つ思い出したものがありました。子どものころ、家族のためにごはんを作っていた自分。そして、「いつか、ごはん屋さんをやりたい」と思っていた自分です。
夢は、ずっと追い続けなければ消えてしまうものなのでしょうか。20年、30年と心の奥へしまっていても、人生の途中で立ち止まったとき、「そういえば、私、本当はこれをやりたかったんだ」と、もう一度取り出すことができるのかもしれません。
49歳で東京を離れ、故郷へ帰った啓子さん。そして東京生まれながら、その人生を一緒に歩こうと名田島へ移った博明さん。50歳になる年に二人は結婚し、やがて田園の中に小さなごはん屋さんを開きます。これは、夢を追い続けた人の物語というより、一度しまった夢に、人生の途中でもう一度出会った二人の物語。
今回は、名田島の田んぼを眺めながら、「あの日やりたかったことは、今から始めても遅いのだろうか」そんなことを考えてみたいと思います。
【放送日:2026年8月29日(土)18:00 -18:30・テレビ朝日】
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27年間、夢を忘れていた?──忙しい毎日に埋もれた「ごはん屋さん」
子どものころ、「大人になったら、こんなことをしてみたい」と思ったことはありませんか? その夢を今も追い続けている人もいるでしょう。一方で、「そういえば、そんなことを考えていたこともあったな」と、言われて初めて思い出す人もいるかもしれません。
伊藤啓子さんにも、子どものころから心の中にあった夢がありました。山口市名田島の兼業農家に生まれた啓子さん。両親が夜遅くまで働いていたため、小学生のころから家族の食事を作っていたといいます。それが料理好きになる原点となり、「いつか、ごはん屋さんをやりたい」となんとなく思うようになりました。
ところが大学を卒業した啓子さんが選んだのは、料理の道ではありませんでした。地元の大手アパレル会社に就職。すぐに埼玉の店舗へ配属され、その後は東京の商品企画部門へ。海外出張まで任されるようになり、忙しく働く日々が続きます。気がつけば、27年。いつかやりたいと思っていた「ごはん屋さん」は、ずいぶん遠いところにありました。
夢を諦めた27年間だったの?
ここで、「本当の夢を諦めて、27年間も会社員を続けていた」と考えるのは、少し違うような気がします。啓子さんはアパレルの仕事を27年間続けました。それだけ長く働けば、仕事を覚え、経験を積み、任される仕事も増えていったことでしょう。
海外出張まで任されていたということは、それだけ責任ある仕事をしていたこともうかがえます。それもまた、啓子さんが自分で歩いてきた人生です。
子どものころの夢とは違う道を歩いたからといって、その27年間が「間違った人生」になるわけではありません。むしろ、目の前にある仕事を一生懸命やっていたら、27年が過ぎていた。そんなことなのかもしれません。
忙しいと「この先」を考えなくなる
仕事に追われているとき、人は案外、遠い未来のことを考えていません。今日やらなければならない仕事がある。それが終われば、明日の仕事がある。来週の予定を確認して、来月の仕事を準備する。もちろん「先のこと」は考えています。でも、それは多くの場合、「次に何をしなければならないか」という仕事の予定です。
それとはまったく別の、「私は、この先どう生きたいんだろう?」という問いを考えるには、少し違った時間が必要なのかもしれません。忙しいから夢を捨てたわけではない。夢が嫌いになったわけでもない。ただ、目の前のことで頭がいっぱいになると、自分の人生を遠くから眺めるための余白がなくなっていく。そして気がつけば、「いつかやりたい」の「いつか」だけが、ずっと先へ延びていくことがあります。
「いつか」は、いつ来るんだろう
これが怖いところでもあります。夢を諦めると決めるなら、自分でも分かります。でも、「今は忙しいから」「もう少し落ち着いたら」「そのうち考えよう」なら、夢を捨てた感覚はありません。だから、そのまま生活を続けられる。
来年になっても、「いつか」再来年になっても、「いつか」。そうやって10年、20年と時間が過ぎても不思議ではありません。啓子さんにとって「ごはん屋さん」は、なくなった夢ではなく、心の奥へしまったまま、取り出す機会のなかった夢だったのではないでしょうか。
夢を思い出すには、立ち止まる時間がいる
そんな啓子さんの時間を、思いがけない出来事が止めました。会社の健康診断で、手術が必要な病気が見つかったのです。家族の支えを受けるため、故郷の名田島へ戻って療養することになりました。もちろん、病気になったことを、「夢を思い出すいいきっかけになった」などと簡単に美談にはできません。
ただ、一つ確かなのは、27年間続いていた仕事中心の日常が、そこで一度止まったということです。仕事へ行かない。次の企画を考えなくていい。出張の予定もない。それまで「次は何をする?」で埋まっていた時間に、空白ができる。そして、その空白の中から、それまで後回しになっていた別の問いが顔を出します。
「この先もずっと、この暮らしを続けるの?」
もしかすると私たちは、夢を忘れてしまうのではなく、夢を思い出せないくらい、毎日を忙しくしているだけなのかもしれません。だから必要なのは、必ずしも新しい夢を探すことではない。ときには立ち止まって、「そういえば私は、何をしたかったんだっけ?」と思い出してみることなのかもしれません。
啓子さんの場合、その時間は思いがけない形で訪れました。そして立ち止まった彼女の目に、これまでとは違って見えるものがありました。ずっとそこにあった故郷。名田島の田んぼ。そして、空にかかった虹。景色が変わったのでしょうか。それとも――。変わったのは、それを見る自分のほうだったのでしょうか?
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立ち止まったら、何が見えた?──病気がつくった「この先」を考える時間
毎日忙しく働いているときにも、先のことは考えています。明日の仕事。来週の予定。来月の出張。次に仕上げなければならない企画。でも、それは「予定」の話です。「私は、この先どう生きたいんだろう?」という人生の話とは、少し違います。
伊藤啓子さんは、アパレル会社で27年間働いてきました。東京の商品企画部門で働き、海外出張も任される日々。そんな啓子さんの日常を突然止めたのが、会社の健康診断でした。手術が必要な病気が見つかり、家族の支えを受けるため、故郷・名田島へ戻って療養することになったのです。
病気が「答え」をくれたわけではない
病気になったから、本当にやりたいことが分かった。病気になったから、人生が変わった。そんなふうに言ってしまえば、きれいな物語になるのかもしれません。でも、病気そのものにそんな役割があるわけではなかったのでしょう。ただ、それまで止まらなかった日常が、一度、止まった。
それが啓子さんにとって、とても大きなことだったのではないでしょうか。入院中、啓子さんは考えたといいます。この先もアパレルの仕事を続けるのか。東京で一人暮らしを続けるのか。それとも故郷へ残り、別の仕事を始めるのか。どちらが正解なのかは、誰にも分かりません。
でも、それまで目の前の仕事を追いかけていた時間が止まったことで、ようやく、「次の仕事は何?」ではなく、「この先の人生をどうする?」と考える時間が生まれたのでしょう。
ずっとそこにあった故郷が、違って見えた
退院して実家へ戻る途中、啓子さんは名田島の風景を眺めました。その空には、虹がかかっていたそうです。きっと、きれいだったのでしょう。でも、「虹がきれいだったから、故郷へ帰ろうと決めた」というほど、人の人生は単純ではありません。
名田島の田んぼも、空も、昔からそこにありました。啓子さん自身、そこで生まれ育っています。ならば、変わったのは景色ではなく、景色を見る側の心だったのかもしれません。
東京で働いているときなら通り過ぎていたかもしれない風景を、立ち止まった今なら眺められる。「ああ、きれいだな」そう思える時間が戻ってきた。そして故郷の風景を眺めながら、「ここで暮らす人生もあるのかもしれない」と思えるようになった。虹が人生を変えたのではなく、虹をきれいだと思えるくらいの心の余白が戻ってきたことのほうが、大きかったのかもしれません。
「帰りたい」だけでは、人生は始まらない
でも、ここで一つ問題があります。故郷の良さに気づいた。名田島へ帰りたいと思った。それだけでは、その先の暮らしは始まりません。「帰って、何をする?」という現実的な問題が待っています。仕事はどうするのか。どこで暮らすのか。これまで東京で築いてきた生活をどうするのか。
そして何より、啓子さんには、このころすでに大切な人がいました。同じアパレル会社で働いていた博明さんです。仕事の悩みや将来について話すうちに距離を縮めていた二人。啓子さんが名田島へUターンすることを伝えると、東京都出身の博明さんも、彼女を支えようと移住を決めます。啓子さんにとっては、「故郷へ帰る」。でも博明さんにとっては、「知らない土地へ行く」。同じ名田島への移住でも、二人にとって意味はまったく違いました。それでも二人は、50歳になる年の元日に結婚。それぞれ会社を退職し、名田島で新しい暮らしを始めることになります。
いくつものタイミングが重なった
こうして振り返ると、「昔からごはん屋さんをやるのが夢だったから、49歳で会社を辞めました」という一直線の物語ではなかったことが分かります。病気によって一度立ち止まった。故郷を改めて見た。東京とは違う暮らしを考えた。そして、一緒に名田島へ来てくれる人がいた。いくつもの出来事が、ちょうどこの時期に重なった。
だからこそ、「そういえば私、昔ごはん屋さんをやりたいと思っていたことがあったな」という記憶も、現実の選択肢として浮かび上がってきたのかもしれません。子どものころの思いを、何十年も大切に温め続けていたわけではない。人生を賭けた「夢」として追い続けていたわけでもない。
ただ、心のどこかに残っていた。そして49歳になった今、故郷がある。一緒に歩く人がいる。これまでとは違う暮らしを始めようとしている。「だったら、あのときやりたいと思ったことを、今やってみてもいいんじゃない?」そんなふうに、昔の思いと今の人生がつながったとしても、不思議ではありません。
人生の転機というと、「この瞬間にすべてを決めた」という劇的な出来事を探したくなります。でも実際には、そんなにきれいなものではないのでしょう。一つの出来事で人生が変わるのではなく、いくつもの小さなタイミングが重なったとき、以前なら選ばなかった道が、ふっと選べるようになる。
啓子さんにとって49歳は、そんな時間だったのかもしれません。そして、そのとき心の奥から取り出したのが、子どものころに一度だけ思い描いていた、「ごはん屋さんをやりたい」という小さな思いでした。
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「ごはん屋さんをやりたい」は消えていなかった──子どものころの夢を49歳で取り出す
「子どものころからの夢を、49歳で叶えました」そう聞くと、とてもきれいな物語に思えます。小学生のころから料理が好きでした。いつか、ごはん屋さんをやりたいと思っていました。それから27年間会社員として働き、人生の転機を迎えて故郷へ帰り、ついに夢だった店を開きました。
こう並べれば、「夢を諦めずに追い続けたから、ついに叶った」という物語にも見えます。でも、伊藤啓子さんの歩んできた道は、もう少し自然なものだったのかもしれません。「ごはん屋さんをやりたい」という思いだけを胸に、27年間生きてきたわけではない。その間には、アパレルの仕事があり、東京での暮らしがあり、たくさんの経験がありました。
だから「夢」というより、子どもの頃、一度やってみたいと思ったこと。それくらいに考えたほうが、私たち自身の人生にも重ねやすいような気がします。
子どものころの「やりたい」は、どこへ行く?
子どものころには、いろいろなことをやってみたいと思います。パン屋さんになりたい。動物に関わる仕事がしたい。絵を描いて暮らしたい。小さなお店をやってみたい。でも大人になるにつれて、現実的な選択をするようになります。
進学する。就職する。生活するために働く。任された仕事を覚える。給料をもらい、自分の暮らしをつくる。そのうち子どものころの「やりたい」は、日常のずっと奥へ押し込まれていきます。それは、諦めたというほど大げさなことではないのかもしれません。
ただ、思い出す必要のないまま時間が過ぎていった。そんなこともあるのでしょう。啓子さんにとっての「ごはん屋さん」も、そうだったのかもしれません。
昔の夢が、突然よみがえったわけではない
そして49歳。病気をきっかけに仕事から離れ、故郷へ戻ったことで、啓子さんには自分のこれからを考える時間ができました。名田島で暮らすという選択肢が見えてきた。博明さんも一緒に移住することを決めてくれた。
それなら、ここで何をしよう。そんなことを考えたとき、「そういえば私、ごはん屋さんをやりたいと思っていたことがあったな」と、昔の記憶が現実につながった。もしかすると、そんな順番だったのではないでしょうか。
つまり、夢が人生を動かしたというより、人生が動き始めたとき、昔の夢が使えることに気づいた。そう考えると、ぐっと身近な話になります。
49歳だから、できる「ごはん屋さん」もある
そして、もし啓子さんが20歳でごはん屋さんを始めていたら、今の『名田島食堂』と同じ店になったでしょうか。おそらく、違ったはずです。27年間のアパレルの仕事。商品企画の経験。東京での暮らし。海外へ出た経験。もっとギラギラしていたかもしれません。
さまざまな人との出会い。そして博明さんとの出会い。それらを全部経験した49歳の啓子さんだからこそ、つくれる店があります。実際、『名田島食堂』の料理には、地元の米や野菜を大切にしながらも、タイ風の焼き鳥「ガイヤーン」や大豆ミートボールなども登場します。昔ながらの田舎料理だけを出す食堂ではありません。
故郷へ帰ったからといって、昔の自分へ戻ったわけではない。
東京で過ごした27年間も一緒に連れて帰ってきた。そう考えると、このUターンがさらに面白く見えてきます。
夢にも「ちょうどいい時」があるのかもしれない
若いころに夢を叶えられなかったから、遅かった。そうとは限りません。20歳には20歳の夢の形がある。30歳には30歳の形がある。そして50歳近くなったからこそ、できることもある。必要な経験が揃った。一緒にやる人と出会った。暮らしたい場所が見つかった。
そして、「今なら、やってみてもいいかもしれない」と思えた。夢には締め切りがあるというより、その人にとって、夢を現実へ持ち出せるタイミングがあるのかもしれません。啓子さんの場合、それが49歳だったのでしょう。
人生は、あとから見ると物語になる
人生の転機というと、私たちはついドラマチックな瞬間を探します。あの日、虹を見たから。あの一言を聞いたから。あの人と出会ったから。でも本当は、一つだけではないのでしょう。病気になって立ち止まった。故郷を改めて見た。これからの暮らしを考えた。昔やりたいと思っていたことを思い出した。
そして、その隣には一緒に歩こうとしてくれる人がいた。一つひとつは、それほどドラマチックではありません。でも、あとから振り返ってつなげてみると、「ああ、だから今ここにいるんだ」と思える。人生の物語って、最初から筋書きがあるものではなく、歩いてきた道を振り返ったとき、初めて物語になるものなのかもしれません。
そして啓子さんが49歳で取り出した「ごはん屋さん」という昔の思いは、もう啓子さん一人だけのものではありませんでした。その隣には、東京で生まれ育ちながら、「一緒に名田島へ行こう」と人生の方向を変えた人がいます。啓子さんにとっては「帰る」場所。でも、博明さんにとっては「初めて行く」場所。
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「一緒に山口へ行くよ」と言える?──博明さんにとってはUターンではなかった
啓子さんが名田島へ帰る。ここまでなら、いわゆる「Uターン」です。生まれ育った故郷へ戻り、そこで新しい暮らしを始める。でも、もう一人の主人公である夫の博明さんから見ると、同じ出来事がまったく違って見えてきます。
博明さんは東京都出身。つまり名田島は、帰る場所ではありません。啓子さんにとっては、「故郷へ帰ろう」。でも博明さんにとっては、「知らない土地へ行く」。同じ二人が同じ場所へ向かっているのに、人生の矢印はまるで違っていたのです。
「応援するよ」と「一緒に行くよ」は、かなり違う
二人は同じアパレル会社で働く同僚として出会いました。同い年で、仕事の悩みや将来のことを相談するうちに距離が近づいていったといいます。そんななか、病気を経験した啓子さんは、自分のこれからを考え、故郷の名田島へ戻ろうと考えるようになります。
それを聞いた博明さんは、啓子さんを支えようと、自分も移住することを決めました。さらりと書けば一行です。でも、これって結構大きな決断です。「応援しているよ」なら、東京にいたままでも言えます。でも、「じゃあ、一緒に行くよ」となれば、自分の仕事も暮らしも、その先の人生も変わります。
しかも博明さんにとって、そこは自分の故郷ではありません。啓子さんの人生の転換に付き添ったというより、自分自身も人生の方向を変えたと考えたほうが自然でしょう。
50歳は、人生を変えるには遅い?
二人は、互いに50歳となる年の元日に結婚しました。そして、それぞれ勤めていたアパレル会社を退職。名田島へ移住します。20代なら、「知らない土地へ行ってみよう!」という選択も、若さゆえの冒険として語られるでしょう。
でも50歳となれば、それまで積み上げてきたものがあります。仕事の経験。人間関係。慣れ親しんだ暮らし。そして、これから先の人生も少しずつ見え始める年齢です。だからこそ逆に、「このまま同じ暮らしを続けるのか、それとも一度くらい違う人生を選んでみるのか」と考える時期でもあるのかもしれません。
博明さんが実際にそう考えたのかは分かりません。でも、50歳を目前にした二人が結婚し、そろって会社を辞め、東京を離れたという事実を見ると、これは啓子さんだけの「第二の人生」に博明さんが付いていった、という話だけではなさそうです。二人で、これからの人生を選び直した。そんなふうにも見えてきます。
コーヒーの勉強を始めた博明さん
そして面白いのが、博明さんもただ付いていったわけではないこと。もともとコーヒーが好きだった博明さんは、将来を見据えて独学で勉強を始めています。ここがいいんですよね。啓子さんには料理がある。だったら、自分には何ができるだろう。
そこで好きだったコーヒーを学ぶ。一人の夢を、もう一人が後ろから支えるだけではなく、二人それぞれの「好き」を持ち寄って、新しい暮らしの形をつくっていく。そうして考えると、『名田島食堂』は啓子さん一人の夢を実現した店というより、二人が50歳から始める人生そのものだったのかもしれません。
人生は、計画どおりじゃないから面白い
小学生の啓子さんは、ごはん屋さんをやってみたいと思っていました。でもそのとき、「49歳で故郷へ帰り、東京出身の夫と一緒に店を開こう」なんて人生設計をしていたはずがありません。博明さんだって、東京で生まれ育ち、会社員として働き始めたころ、「50歳になったら山口県の田園でコーヒーを淹れよう」なんて考えてはいなかったでしょう。
病気があった。故郷を見直した。昔やりたかったことを思い出した。二人が一緒に生きることを選んだ。ちょうど人生の節目がやってきた。いろいろなものが、少しずつ重なっていく。どれか一つが欠けていたら、『名田島食堂』は生まれていなかったかもしれません。
人生って、案外そんなものなのでしょう。最初から物語を書いている人なんて、きっとほとんどいない。そのとき、そのときで選んできた。偶然もあった。タイミングにも恵まれた。ときには思いどおりにならないこともあった。
それでも歩いてきて、ある日ふと後ろを振り返ったら、「気がついたら、こんな物語になっていた」と気づく。それこそが、人生というドラマのおもしろさなのかもしれません。そして二人がたどり着いた場所には、名田島の田んぼが広がっていました。そこで啓子さんはごはんを作り、博明さんはコーヒーを淹れる。子どものころに思い描いたものとは少し違うけれど、今の二人だからつくれる「ごはん屋さん」。
名田島食堂
- 山口県山口市名田島1497−2
- TEL:不明
- 営業時間:11:00~15:00(日曜は9:00~から営業)
- 営業日:土・日曜
- URL:https://natajimadh.base.shop/
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あの日の夢は、まだそこにあった──田園のごはん屋さんで始まった「これから」
山口市名田島。県内有数の穀倉地帯に広がる田んぼは、季節とともに姿を変えていきます。田植えを終えたころには、小さな苗が水面に並ぶ。夏になれば、青々とした稲が風に揺れる。やがて穂が実り、田んぼ一面が黄金色に染まっていく。

その景色を大きな窓から眺めながら、ごはんを食べられる場所があります。伊藤啓子さんと夫の博明さんが始めた、『名田島食堂』です。店の自慢は、もちろん地元でとれたお米。そこに地元の新鮮な野菜を使った料理が並びます。

タイ風の焼き鳥「ガイヤーン」や、大豆ミートボール。そして食事のあとには、コーヒー好きだった博明さんが学んだ一杯。どこか懐かしい田園の食堂なのに、出てくる料理は少し新しい。それもまた、二人がここまで歩いてきた人生そのものなのかもしれません。
故郷へ帰っても、昔の自分には戻らない
啓子さんは49歳で故郷へ帰りました。でも、Uターンという言葉から想像するような、「昔いた場所へ、そのまま戻った」わけではありません。27年間、東京を中心にアパレルの世界で働いてきました。さまざまな仕事を経験し、海外へも出かけました。
そして博明さんと出会った。そのすべてを持って、名田島へ帰ってきたのです。だから『名田島食堂』も、子どものころ思い描いていた「ごはん屋さん」を、そのまま再現した店ではないのでしょう。昔の自分へ戻ったのではなく、今まで生きてきた自分のままで、昔やりたいと思ったことを始めた。そこに、この店らしさがあるように思います。
あの日の夢は、本当に「夢」だった?
小学生のころ、家族のために食事を作っていた啓子さん。料理が好きになって、「いつか、ごはん屋さんをやりたい」と思うようになりました。でも、その思いをずっと追い続けていたわけではありません。大学を卒業して会社員になり、27年間働き続けました。
もしかすると「夢」と呼ぶほど、かっちりとした人生の目標ではなかったのかもしれません。ただ、「いつか、こんなことができたらいいな」という小さな思いがあった。それくらいだったのかもしれません。だから、なくなったわけでも、諦めたわけでもない。
ただ毎日が忙しくて、思い出している余裕がなかった。そして人生が一度立ち止まったとき、その小さな思いがもう一度見えてきた。「ああ、そういえば私、こんなことをやりたかったんだ」それでいいのではないでしょうか。
夢を叶えるにも、タイミングがある
病気を経験した。故郷へ戻った。名田島の景色を改めて美しいと思った。博明さんと出会っていた。一緒に山口へ行こうと言ってくれた。50歳という人生の節目も近づいていた。そして、これから何をして暮らそうかと考えたとき、昔の「ごはん屋さんをやりたい」という思いが浮かび上がった。
どれか一つだけで、人生が変わったわけではありません。たくさんの偶然や選択やタイミングが少しずつ重なって、「今なら、やってみてもいいんじゃない?」と思える瞬間がやってきた。人生には、そういうことがあるのでしょう。だから「あのとき始めていれば」と、昔の自分を責める必要もないのかもしれません。
そのときには、そのときの人生があった。そして今だからできることもある。夢には、早いも遅いもなく、その人にとっての「今」がある。啓子さんにとって、それが49歳だったのでしょう。
「叶った」で終わらない人生
そして二人は、互いに50歳となる年の元日に結婚しました。会社を辞め、名田島へ移住。自分たちで少しずつ店をつくり、『名田島食堂』を開きました。ここで物語なら、「子どものころからの夢が叶いました。めでたし、めでたし」と幕を閉じてもよさそうです。
でも人生は、そこで終わりません。むしろ二人にとっては、ここからが始まりです。今日のごはんを作る。お客さんを迎える。コーヒーを淹れる。田んぼの景色が変わる。また季節が巡って、新しいお米ができる。
店を続けていけば、うまくいく日ばかりでもないでしょう。それでも二人は、今度は誰かに決められた仕事ではなく、自分たちで選んだ暮らしを一日ずつつくっていきます。
あの日の夢は、まだそこにあった
人生には、ときどき不思議なことがあります。そのときには何の意味もないと思っていた出来事が、何年もたってから別の出来事につながる。偶然出会った人が、いつの間にか隣を歩いている。忘れたと思っていた昔の「やりたい」が、思いがけないところで顔を出す。
最初から筋書きなんてありません。誰も、自分の人生を物語にしようと思って生きているわけではないでしょう。ただ、そのときできる選択をして、今日を生きていく。そして何十年かたって後ろを振り返ったとき、「ああ、あれもここにつながっていたんだ」と気づく。
人生という物語は、書いてから生きるものではなく、生きてきたあとに、少しずつ物語になっていくものなのかもしれません。啓子さんが子どものころに思った、「いつか、ごはん屋さんをやりたい」。その小さな思いは、27年間ずっと人生を導く道しるべだったわけではありません。
それでも、なくなってはいなかった。49歳で立ち止まり、自分のこれからを考えたとき、あの日の夢は、まだそこにあった。そして今。名田島の田んぼを眺める小さな食堂で、啓子さんはごはんを作り、博明さんはその隣にいます。
二人の人生は、まだ途中です。これからどんな物語になるのかは、二人にも分からない。でも、きっとそれでいい。人生はいつだって、「気がついたら、こんなところまで来ていたね」と笑えるくらいが、ちょうどいいのかもしれません。
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