軽井沢へ遊びに来た夏の日。木立の間を抜ける風は涼しく、せっかくだから旧軽井沢でも歩いてみようか――。そんな気分で散策していると、おいしそうなスイーツやパン、ちょっと気になる新しいグルメが目に入ります。
値段を見ると、「あれっ、けっこうするな……」普段なら、そのまま通り過ぎるかもしれません。ところが旅先では、なぜかもう一人の自分が囁きます。
「まあ、せっかく軽井沢まで来たんだから…。」
そして気づけば、お財布を開いている。食べてみれば、「おいしい! 来てよかったね」なんて笑っている。
不思議ですよね。『あさイチ』の中継テーマは、長野県軽井沢町の「避暑地で人気!新グルメ」。どんなグルメが登場するのかも楽しみですが、私たちが気になったのは、食べものそのものとは少し違うところでした。
なぜ私たちは、旅先へ行くと財布の紐までゆるんでしまうのでしょう?
いつもの町なら「ちょっと高い」と思う値段でも、観光地なら払えてしまう。普段なら選ばないものでも、「ここでしか食べられない」と聞けば試してみたくなる。しかも帰宅してから、「ずいぶん使っちゃったな」と後悔するどころか、「いい思い出になったね💕」なんて満足していることさえあります。
もしかすると私たちは旅先で、食べものだけを買っているわけではないのかもしれません。涼しい高原の風。いつもとは違う景色。旅行に来たという開放感や高揚感。「ここでしか」という特別感。そして、一緒に食べた人との時間という思い出。それらが全部、お皿の上の料理と一緒に「おいしい」をつくっているとしたら――。値段の意味まで、いつもとは少し違って見えてきます。
同じ500円でも、日常の500円と旅先の500円は、私たちの心の中では同じではないのかもしれません。だから今回は、新グルメそのものを追いかけるだけではなく、「せっかく来たから」という、誰もが一度くらい口にしたことのある言葉から、旅先の心を覗いてみましょう。
私たちは軽井沢で、何にお金を払っているのでしょう? 食べものの「味」でしょうか? それとも――。「ここへ来た」という体験まで、一緒に買っているのでしょうか?
【放送日:2026年8月26日(水)8:15 -9:55・NHK-総合】
<広告の下に続きます>
第一章 同じものなのに、なぜ旅先ではおいしい?──味覚を変える「場所」と「気分」
旅先で食べたものが、妙においしかった。そんな経験はないでしょうか? たとえば、軽井沢の木立の中で食べるソフトクリーム。涼しい風が吹き抜けるテラスで飲むコーヒー。散策の途中で見つけた店のパンやスイーツ。
帰ってきてから似たものを食べてみても、「あれ? あのときほどじゃないな」なんて感じることがあります。もちろん、旅先で出会った料理そのものが本当に美味しかったのかもしれません。でも、私たちが感じる「おいしい」は、本当に舌だけで決まっているのでしょうか?
「おいしい」を感じているのは、舌だけじゃない
私たちは食べものを口へ入れると、甘味や塩味、酸味、苦味、うま味などを舌で感じます。でも、食べもののおいしさをつくっているのは、それだけではありません。鼻から感じる香り。食べものの見た目。口に入れたときの温度や食感。
さらには、食事をしている場所や周囲の雰囲気、食べる人自身の気分まで、おいしさの感じ方に関わっています。だから、同じようなコーヒーでも、仕事の合間に慌ただしく飲む一杯と、軽井沢の木陰で、涼しい風に吹かれながらゆっくり飲む一杯では、私たちが受け取る「体験」そのものが違うのです。
コーヒーの中身だけを比べれば、それほど大きな差はないかもしれません。でも軽井沢の一杯には、景色まで入っている。風まで入っている。「今日は旅行なんだ」という気分まで入っている。もちろん、本当にカップの中へ入っているわけではありません。けれど私たちが感じる「おいしい」には、そうしたものまで一緒に混ざっているのかもしれません。
「旅行に来た!」という気分も調味料になる
そして旅先では、もう一つ普段とは違うものがあります。自分の気分です。いつもの仕事や家事から離れて、「今日は遊ぶ日」「今日は楽しんでいい日」という気持ちになっている。すると、普段なら見過ごしてしまう店にも興味が湧きます。
「これ、おいしそう」「あっちも食べてみたい」「ここでしか食べられないんだって」そんな小さな好奇心が次々と出てきます。考えてみれば、旅行というもの自体が、いつもの自分から少しだけ離れる体験なのかもしれません。
だから食べものに対しても、日常より少し寛容になる。いつもなら選ばない味にも挑戦してみる。そして、「旅行先で初めて食べた」という経験そのものが、その味を特別な記憶へ変えていきます。
「誰と食べたか」まで味の一部になる
さらに面白いのは、食べものの記憶を思い出すときです。何年も前の旅行で食べた料理について、正確な味を説明してください。そう言われたら、意外と難しいものです。甘かった。香ばしかった。冷たかった。それくらいしか思い出せないこともあります。
なのに、「あれ、おいしかったね」という記憶だけは、妙にはっきり残っている。そのとき思い出しているのは、味だけではないのでしょう。一緒にいた人の顔。そのとき交わした会話。店から見えた景色。歩き疲れてようやく座れたこと。
暑かったこと。涼しかったこと。そんな記憶が全部ひとまとまりになって、「おいしかった」という言葉で保存されているのかもしれません。だから旅先のおいしさは、料理だけでは再現できないことがあります。同じものを買ってきても、同じ味にならない。足りないのは調味料ではなく、あの日の時間なのかもしれません。
だから「軽井沢で食べる」ことに価値が生まれる
そう考えると、『あさイチ』が紹介する「軽井沢の新グルメ」にも、料理そのものとは別の価値が見えてきます。それを東京へ持ってきて食べても、おいしいかもしれない。家で再現しても、おいしいかもしれない。でも、軽井沢へ来て、軽井沢で食べる。そこには、その場所でしか得られない体験があります。そして私たちは、その体験込みで、「おいしい」と感じているのかもしれません。
ところが――。ここで、私たちとしては、もう一つ気になる現象があります🤑そんな気分になった私たちは、店先で値札を見ても、普段なら出てくるはずの、「高っ!」が少し弱くなるのです。代わりに出てくるのは、「まあ、旅行だし……」という恐ろしい一言🤣
同じ1000円なのに、昨日までの日常では高かった1000円が、旅先では払えてしまう。もしかしたら1500円、2000円でさえも気にならないかもしれません。味覚だけでなく、お金のものさしまで旅行に来てしまったのでしょうか? 次は、いよいよタイトルの核心。「なぜ旅先では、財布の紐までゆるむ?」その不思議を覗いてみましょう。
<広告の下に続きます>
第二章 なぜ旅先では、財布の紐までゆるむ?──日常から離れると変わる「お金のものさし」
旅先では、不思議なくらい財布の紐がゆるみます。たとえば普段の生活なら、「ランチに2000円かぁ……」「このスイーツ、ちょっと高くない?」と、一度立ち止まるかもしれません。ところが旅行へ行くと、「まあ、せっかく来たんだし」と財布を開いてしまう。
しかも、その日の夜に、「今日、けっこう使っちゃったね」なんて笑いながら、それほど後悔していなかったりします。同じ2000円なのに…。どうして日常と旅先では、こんなにも感じ方が違うのでしょう?
私たちは一つの財布だけを持っているわけじゃない?
もちろん、本当に財布が二つあるわけではありません。でも人間は、お金をいつでも完全に同じ価値として扱っているわけではない、と考えると分かりやすくなります。
行動経済学には、「メンタル・アカウンティング(心の会計)」という考え方があります。家賃に使うお金。食費に使うお金。趣味に使うお金。そして、「旅行だから使っていいお金」。
同じ1万円でも、私たちは頭の中で違う財布へ振り分けるように考えることがあります。だからスーパーで予定より1000円高い買い物をすれば、「使いすぎちゃった」と思うのに、旅行中の1000円なら、「まあ、旅行代だよね」と受け入れやすくなる。お金そのものの価値が変わったわけではありません。変わったのは、そのお金に貼られた心のラベルなのです。
「ここまで来るのにお金を使ったんだから」も効いてくる
まして軽井沢まで旅行へ来たなら、すでに交通費がかかっています。宿泊するならホテル代もかかる。旅行のために予定を空け、時間だって使っています。そんなところまで来て、「節約するためにコンビニのおにぎりだけ食べて帰ろう」とは、なかなかなりません。
もちろん、それも一つの旅の楽しみ方です。でも多くの人の心には、「せっかくここまで来たんだから、楽しまなきゃ」という気持ちが生まれます。すると普段なら高く感じる食事も、単なる「昼食代」ではなく、旅行を完成させるための費用のように見えてくる。ここでも、値段そのものは変わっていません。変わったのは、その値段に与える意味です。
旅先では「モノ」より「体験」を買っている
そして、もう一つ大きいのがこれでしょう。軽井沢で1000円のスイーツを買ったとしても、私たちはスイーツだけに1000円を払っているとは限りません。
写真を撮る。一緒に食べる。「これ、おいしいね」と笑う。木立の中を歩く。帰宅してから写真を見返す。何年か経って、「あのとき軽井沢で食べたよね」と思い出す。つまり1000円で買ったものの中には、食べもの+その場所+その時間+記憶まで含まれている。
そう考えれば、「スイーツ一個1000円」では高く感じても、「旅の思い出1000円」なら、それほど高く感じないこともあります。カード会社のCMにもありますよね、「モノより思い出」って(笑) 人間の値段の感じ方って、なかなか面白いものです。
「高い」と「高すぎる」は同じではない
だから観光地の価格について考えるとき、「普段より高い=悪い」と単純には言えません。大切なのは、その値段に見合う体験が得られたかどうか。1000円払って、「なんだこれ。二度と買わない」となれば、高い。でも同じ1000円でも、「おいしかったね。また来たいね」となれば、その人にとっては納得できる価格だったことになります。
ここには商品の原価だけでは測れない、体験の価値があります。そして優れた観光地や店ほど、そのことをよく知っているのでしょう。料理だけではなく、店の雰囲気をつくる。景色を楽しませる。接客で気分をよくする。「ここへ来てよかった」と思える時間をつくる。そうして、財布を開いたことそのものを後悔させない。これができれば、旅行者にとっても店にとっても悪い話ではありません。
でも、最後のひと押しは何だろう?
とはいえ、まだ疑問が残ります。気分がよくても、旅行用の予算を用意していても、値段を見て迷う瞬間はあります。「どうしようかな……」「ちょっと高いかな……」そんなとき、私たちの背中を押す、とても強い言葉があります。「せっかく来たんだから。」さらに、「今だけ」「ここだけ」「軽井沢限定」なんて言われたら――。
はい。我々の心理学研究所、被験者の財布が開きました🤣🤑 でも、なぜ人間はこんなにも「今だけ」「ここだけ」に弱いのでしょう。次は、第三章「『せっかく来たから』は、なぜ強い?──『今だけ』『ここだけ』に弱い人間の心」へ進んでみましょう。
<広告の下に続きます>
第三章 「せっかく来たから」は、なぜ強い?──「今だけ」「ここだけ」に弱い人間の心
旅先で財布を開かせる、とても強い言葉があります。それは、「せっかく来たんだから…」
軽井沢まで来た。普段とは違う景色の中を歩いている。そして目の前には、おいしそうなものがある。でも、ちょっと高い。そんなとき、「まあ、今回はやめておこうか」という理性的な自分の隣から、もう一人の自分が顔を出します。「でも、せっかく軽井沢まで来たんだよ?」……強い。実に強い言葉です。
さらに店先に、「軽井沢限定」なんて書いてあったら、かなり危険です。「夏季限定」。もっと危ない。「本日分、残りわずか」。はい、財布に手が伸びました🤣 なぜ私たちは、こんなにも「今だけ」「ここだけ」に弱いのでしょう。
欲しくなるのは、「なくなる」と知ったとき
人間は、いつでも簡単に手に入るものよりも、手に入りにくいものに価値を感じやすくなることがあります。マーケティングでもよく知られている希少性という考え方です。いつでも買える。どこでも買える。そう思えば、「今日はいいや」と見送ることができます。
ところが、「ここでしか買えません」と言われる。すると突然、「じゃあ、今買わないと」という気持ちが生まれます。商品の中身は、ほんの数秒前と寸分たりとも変わっていません。変わったのは、「次の機会がある」と思っていたものに、「次はないかもしれない」という条件が加わったこと。私たちは「欲しい」だけでなく、「手に入れられなくなるのは嫌だ」という気持ちにも動かされるのです。
「限定」は、商品に物語をくっつける
しかも観光地の「限定」は、単に数が少ないというだけではありません。たとえば、「軽井沢限定」という言葉。その瞬間、商品はただのお菓子ではなくなります。軽井沢まで来た。あの道を歩いた。あの店を見つけた。そこでしか買えないものを買った。商品に、「ここへ来た証拠」のような意味が加わるのです。
だから帰宅してから誰かに渡すお土産にも、「これ、軽井沢でしか買えないんだって」と一言添えたくなる。私たちは商品と一緒に、その場所の物語まで持ち帰っているのでしょう。でも「これと同じもので名前を変えたのが清里高原にもあったよ。」なんてイジワルに言われると、「そんなこと言わなきゃいいのに!」なんて心の中で相手に悪態をついているかもしれません。”言わぬが仏”なのです(笑)
「今買わない後悔」と「買った後悔」を比べてしまう
店先で迷っているとき、もう一つ面白い心の動きがあります。「買ったら無駄遣いかな」と思う一方で、「買わずに帰ったら、あとで欲しくなるかも」とも考えます。しかも「軽井沢限定」なら、家へ帰ってから簡単には買えない。すると頭の中で、買って後悔する可能性と、買わずに後悔する可能性の競争が始まります。
そして旅行中には、「せっかく来たんだから、買っておこう」が勝ちやすくなる。買った後悔なら、「ちょっと使っちゃったね(笑)」で済むかもしれない。でも買わなかったものは、「あのとき買っておけばよかった」となっても取り戻せない。そう考えると、財布の紐がもう一段ゆるみます。
「せっかく」は、浪費を楽しみに変える言葉?
考えてみれば、「せっかく」という言葉そのものが面白いんです。「必要だから買う」ではありません。「安いから買う」でもない。「この機会を無駄にしたくないから買う」。日常の買い物とは、判断基準そのものが違います。
だから旅先では、普段なら買わないものを買ったり、普段なら注文しないものを食べたりする。それを帰宅して、「無駄遣いしちゃった」と笑うこともあります。でも本当に全部が無駄だったのでしょうか?
その「せっかく」がなかったら、食べなかった。食べなかったら、そのときの会話もなかった。写真も撮らなかった。思い出にもならなかった。そう考えると、「せっかく」は財布をゆるめる言葉であると同時に、旅を日常とは違うものにする言葉でもあるのかもしれません。
マーケティングは、その心をよく知っている
もちろん、売る側だって知らないわけがありません🤑「限定」。「今だけ」。「ここだけ」。「季節限定」。こうした言葉が店先に並ぶのは、それが人間の心を動かすことを知っているからでしょう。
でも、ここで今回の記事を、「ほら、マーケティングに騙されている!」で終わらせたくはありません。だって「軽井沢限定」に惹かれて食べてみたものが本当においしくて、素敵な時間を過ごせたらどうでしょう。
店では商品が売れた。旅行者は楽しい体験を得た。そして帰宅してから、「あれ、おいしかったね。また軽井沢へ行ったら買ってこようね」となったら――。誰が損をしたのでしょう?
むしろ売り手にとって本当に上手なマーケティングとは、「買わせる」ことではなく、「買ってよかった」と思わせることなのかもしれません。
そして、そこまでできれば「軽井沢限定」という言葉は、単なる販売テクニックではなくなります。商品と一緒に、「軽井沢で過ごす時間」そのものを売っていることになる。
では観光地のお店は、本当は何を売っているのでしょう? パンでしょうか。スイーツでしょうか。コーヒーでしょうか。それとも――。「軽井沢へ来てよかった」と思える体験なのでしょうか?
次は、第四章「観光地は、何を売っている?──グルメと一緒に『軽井沢という体験』を売る」へ進んでみましょう。
<広告の下に続きます>
第四章 観光地は、何を売っている?──グルメと一緒に「軽井沢という体験」を売る
軽井沢で食べたスイーツが1000円だったとします。では私たちは、その1000円で何を買ったのでしょう。もちろん、目の前にあるスイーツです。材料があり、作る人がいて、店があり、商品として提供されている。でも第一章からここまで見てくると、どうやら私たちは食べものだけに1000円を払っているわけではなさそうです。
木々の間を抜ける涼しい風。店の雰囲気。旅先で見つけたという小さな高揚感。一緒にいる人との会話。そして、「軽井沢まで来たんだ」という特別な時間。スイーツを食べ終えれば、商品そのものはなくなります。でも、その時間は記憶として残る。だとしたら観光地で売られているものの本当の価値は、商品だけでは測れないのかもしれません。
コーヒー一杯にも「場所」が入っている
たとえば、一杯のコーヒー。豆や水だけを考えれば、自宅でも似たものを淹れられるかもしれません。それでも、軽井沢の木立を眺めながら飲む一杯に、自宅より高いお金を払う人がいます。なぜでしょう?
私たちはコーヒーという液体だけではなく、「軽井沢でコーヒーを飲む時間」にもお金を払っているからでしょう。これは観光地に限りません。海を眺めながら食べる朝食。温泉から上がったあとの一杯。山頂で飲むコーヒー。
料理だけを切り取れば、それほど特別ではなくても、「どこで、誰と、どんな気持ちで」という条件が加わることで、商品とは別の価値が生まれます。
だから店がつくっているのも、料理だけではありません。空間を整える。接客をする。景色を生かす。その土地らしい商品を用意する。「ここへ来なければ味わえなかった」と感じてもらう。それらを全部組み合わせて、一つの体験をつくっているのです。
「高く売る」だけでは、一度しか売れない
ここでマーケティングを、「どうすれば高くたくさん売れるか?」というテクニックだけだと考えると、大切なものを見失います。「軽井沢限定!」「本日だけ!」「残りわずか!」そんな言葉で背中を押せば、一度は買ってもらえるかもしれません。でも、食べ終わった人が、「高かっただけだね」「ちょっとガッカリ…」と思ったらどうでしょう。次はありません。
限定という言葉で一度財布を開かせることと、もう一度財布を開きたいと思ってもらうことは、まったく別なのです。だから本当に難しいのは、売ったあと。「買ってください」で終わるのではなく、「買ってよかった」までの体験をつくれるかどうかです。
一度の「よかった」が、次の選択を変える
そして人間は、一度いい経験をすると、その記憶を次の選択にも使います。「前にここで食べておいしかった」「店員さんが親切だった」「家族が喜んでくれた」「ここへ来ると楽しい」そんな経験が積み重なれば、次に軽井沢を訪れたとき、「また、あそこへ行こうか」という選択肢が自然に浮かびます。
そこで重要になるのは、もはや値段だけではありません。前回得られた満足感や安心感が、「ここなら今回もきっと大丈夫」という期待と安心感になるからです。新しい店を一から探すより、以前よかった店へ行く。初めての商品を恐る恐る選ぶより、信頼できるものを選ぶ。そこには、価格表には載っていない「過去のいい経験」という価値があります。
本当に売りたいのは、「また来たい」なのかもしれない
そう考えると、観光地の商売で本当に価値があるのは、今日1000円の商品を一つ売ることだけではないのでしょう。その1000円の体験によって、「また軽井沢へ来たい」と思ってもらうこと。次の夏にも来る。今度は家族を連れてくる。
友人に、「あそこ、よかったよ」と話す。一度の食事が、その人の中に軽井沢そのものへの好印象を残していく。だったら観光地で売っているものは、パンでも、スイーツでも、コーヒーでもなく――。突き詰めれば、「また来たいと思える記憶」なのかもしれません。
そして、ここまで来ると最初の、「観光地って、ちょっと高いよね」という話の見え方も変わってきます。少し高かった。「限定」にも釣られた。「せっかくだから」と財布まで開いてしまった。
それでも帰り道で、「楽しかったね。また来ようね」と言えているのなら…。そのマーケティングは、本当に私たちを「騙した」のでしょうか?それとも――。私たちは、喜んで騙されたのでしょうか?
次はいよいよ最後。最終章「『騙してくれてありがとう!』は成立する?──思い出になれば財布も心もWin-Win」へ行ってみましょう。
<広告の下に続きます>
最終章 「騙してくれてありがとう!」は成立する?──思い出になれば財布も心もWin-Win!💕
軽井沢から帰る日の夜。財布の中を見て、「あれ? 思ったより使っちゃったな……」なんて苦笑いする。
ランチもちょっと高かった。スイーツも食べた。「軽井沢限定」という言葉にも負けた。お土産まで買ってしまった。冷静に計算すれば、「もう少し節約できたかも」と思うかもしれません。
でも隣にいる人が、「楽しかったね」と笑ったら。そして自分も、「うん。また来ようね」と思えたら――。そのお金は、本当に「使いすぎ」だったのでしょうか?
「限定」に釣られた。それでも幸せだった
ここまで見てきたように、私たちは旅先でいろいろな言葉に心を動かされます。
「今だけ」「ここだけ」「軽井沢限定」、そして最強ともいえる、「せっかく来たんだから」。
マーケティングの仕組みを知っていれば、「はいはい、限定ね」と笑って通り過ぎることだってできます。でも、ちょっと待ってください。「限定」に惹かれて買ったものが美味しかった。一緒にいた人が喜んだ。写真を撮った。その店で楽しい時間を過ごした。そして何年か経っても、「あのとき食べたよね」と笑える。
だったら私たちは、本当に「騙された」のでしょうか? もしかすると、分かっていて、喜んで魔法にかかっただけなのかもしれません。
上手なマーケティングは、「買わせた」で終わらない
売る側から考えてみても同じです。一度だけ買わせることが目的なら、強い言葉で背中を押せばいいのかもしれません。でも、それだけなら関係は一度で終わります。本当に難しいのは、そのあとです。
商品を受け取った人に、「買ってよかった」と思ってもらう。さらに、「また買いたい」と思ってもらう。そして最後には、「また、ここへ来たい」と思ってもらう。ここまで来れば、その人はもう単なる「今日のお客さん」ではありません。
次に軽井沢を訪れたときにも、その店を思い出してくれるかもしれない。誰かに、「軽井沢へ行くなら、あそこよかったよ」と話してSNSに残してくれるかもしれない。一度の買い物から、長い関係が始まります。
だから優れたマーケティングとは、人を一度だけ動かす技術ではなく、いい記憶を残して、もう一度会いたいと思ってもらうことなのかもしれません。
人は「安かった店」より「幸せだった場所」へ戻る
旅の思い出を振り返るとき、意外と値段は覚えていないものです。
「あのスイーツ、正確にはいくらだったっけ?」
となる。ところが、「おいしかったね」「あの店、雰囲気よかったよね」「また行きたいね」という記憶は残っていたりします。これは面白いことです。買うときにはあれほど気になった値札が、時間とともに記憶の後ろへ下がっていく。代わりに前へ出てくるのは、そのとき自分がどんな気持ちだったのか?
だからリピーターを生むものは、最安値とは限りません。もっと安い店ができても、「あそこが好きだから」と戻ってくる人がいる。そこには価格だけでは比較できない、「前によかった」という経験があるからです。
売った人も、買った人も笑っている
ここで、少し商売から離れて考えてみましょう。店は商品を売って利益を得ました。旅行者はお金を払い、おいしいものを食べ、楽しい時間を過ごしました。その土地にも人が訪れ、お金が使われます。そして旅行者が、「また行こう」と思えば、その関係は次へ続いていきます。
売る側だけが得をして、買う側が損をしたわけではありません。買う側だけが得をして、店が我慢したわけでもありません。売った人もうれしい、買った人もうれしい、そしてまわりのみんなもうれしい。近江商人が昔から言っている「三方よし」です。そして、その先にもう一度会える可能性まで残った。これなら立派な、Win-Winでしょう。
「騙してくれてありがとう!」
もちろん、嘘をついたり、実際以上の価値があるように誤認させたりすることまで肯定する話ではありません。でも、「限定って言われて、つい買っちゃったよ」「観光地価格だったね」なんて笑いながら、「でも、楽しかったね」と言えるのなら。そこには、少し幸せな「騙された」があってもいいのかもしれません。
そして最高のマーケティングとは、買った人から、「まったく、うまいこと乗せられちゃったなぁ」と笑われながら、心の中では、「騙してくれてありがとう!」と思ってもらえるところまで、体験を引き上げることなのかもしれません。
軽井沢では、なぜ財布の紐までゆるむ?
最初の問いへ戻りましょう。軽井沢では、なぜ財布の紐までゆるむのでしょう?
旅行だから。気分が開放的だから。「ここだけ」に弱いから。「せっかく来たから」と思うから。きっと、どれも理由の一つでしょう。でも最後には、もう一つ加えてもいい気がします。「この時間なら、お金を使ってもいい」と思えるから。
私たちは軽井沢で、食べものだけを買っているわけではありません。涼しい風の中で過ごした時間。一緒に食べた人の笑顔。初めて出会った味。そして、「また来ようね」と話した記憶。そんなものまで一緒に買っているのでしょう。
だから帰り道、少し軽くなった財布を見ても、なぜか心まで軽くなった気はしない。むしろそこには、お金と引き換えに持ち帰ったものが、たくさん詰まっています。
「せっかく来たから」で財布の紐がゆるんでも、その先に「来てよかった」が残ったなら。そしていつか、「また行こう」につながったなら――。売る人も、買う人も、きっと笑顔です。それが旅先で出会える、いちばん幸せなWin-Winなのかもしれません。
湘南ひらつかITサポートセンターをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。