「それ、せとものだから割らないようにね」
子どもの頃、そんな言葉を聞いたことはないでしょうか? 茶碗も、皿も、湯呑みも…。焼き物でできた器を、私たちはごく自然に「せともの」と呼んできました。
だから私も子供の頃から長いあいだ、「せともの」とは焼き物そのものを意味する言葉なのだと思っていました。ところが大人になって知ったのは、その言葉が愛知県瀬戸市で作られてきた「瀬戸物」に由来するということ。
考えてみれば、不思議です。有田には有田焼があり、益子には益子焼がある。けれど「ありたもの」や「ましこもの」とは呼びません。なぜ瀬戸だけが、一つの産地の名前を越えて、日本の焼き物そのものを表す言葉になったのでしょう。
その答えを探して歴史を遡ると、私たちは1000年近く前の瀬戸へとたどり着きます。そこにあったのは、ただ古い技法を守り続けてきた窯の姿ではありませんでした。
まだ釉薬をかけた器が珍しかった時代に、新しい美しさを追い求める。時代が変われば、作るものを変える。江戸時代に磁器が人々を魅了するようになると、長く陶器を焼いてきた瀬戸もまた、白く硬質な磁器の世界へ踏み出していきました。そして現代まで、陶器も磁器も、日々の器も美しい絵付けの器も――。
瀬戸は、その時代の人々が求める焼き物を作り続けてきました。NHK『美の壺』「千年の焼き物 瀬戸焼」では、釉薬が生み出す深み、純白の磁器、繊細な絵付け、そして欠けさえも愛おしく感じられる器の魅力から、瀬戸焼が歩んできた長い時間を見つめます。
けれど、その1000年をたどっていくと、もう一つの物語が見えてきます。それは――
千年続いたのは、変わらなかったからではない。
変わり続けたから、千年続いた。
という物語です。
陶器から磁器へ。実用品から美しい工芸品へ。時代の変化を受け入れながら、それでも人々の暮らしのすぐそばで器を作り続けてきた瀬戸。いつしか日本人は、焼き物を見るとこう呼ぶようになりました。「せともの」と。
一つの町の名前は、なぜ日本中の焼き物を表す言葉になったのか。一枚の器をそっと手に取りながら、千年変わり続けてきた瀬戸焼の物語をたどってみましょう。
【放送日:2026年8月12日(水)19:30 -20:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年8月17日(月)13:00 -13:30・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年8月18日(火)19:30 -20:00・ NHK-BS】
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「せともの」は、いつから焼き物の名前になったのか?──瀬戸1000年の始まり
「せともの」と聞いて、愛知県瀬戸市を思い浮かべる人は、どれくらいいるでしょう。お茶碗も、お皿も、湯呑みも。私たちは昔から、陶磁器でできた器をひとまとめにして「せともの」と呼んできました。あまりにも当たり前の言葉なので、「瀬戸」という土地の名前が隠れていることさえ、普段は意識しません。
けれど漢字で書けば、その意味ははっきりします。「瀬戸物」。もともとは文字通り、瀬戸で作られた焼き物を指す言葉でした。一つの町で生まれた器の名前が、やがて日本中で焼き物そのものを表す言葉になったのです。では、なぜ「瀬戸」だったのでしょう。
瀬戸の焼き物は、1000年近く前から始まっていた
愛知県瀬戸市周辺では、古くから焼き物が作られてきました。その歴史を遡っていくと、平安時代の灰釉陶器などへとつながっていきます。そして鎌倉時代から室町時代にかけて、瀬戸は日本の焼き物の歴史の中でも、とても特徴的な産地へ成長していきました。
もちろん当時の日本各地にも、もちろん窯はありました。常滑、信楽、備前、丹波、越前――。後に「日本六古窯」と呼ばれるようになる焼き物の産地が、それぞれ独自の文化を育てていきます。その中でも瀬戸が異彩を放った理由の一つが、釉薬をかけた陶器でした。
土を形づくって、焼く。それだけでも器はできます。けれど瀬戸の人々は、その表面に釉薬を施し、艶や色彩を生み出していきました。中国から伝わってきた陶磁器への憧れも取り込みながら、「もっと美しい器を作れないか」と試みていったのです。
ここに、これから1000年近く続く瀬戸焼の性格が、すでに少し見えている気がします。
新しいものを恐れない
むしろ、新しい技術や美しさを見つければ、自分たちの焼き物へ取り込んでしまう。瀬戸焼は、その始まりから「変わること」とともに歩いてきた焼き物だったのです。
なぜ「せともの」が全国へ広がったのか
そして瀬戸焼は、特別な人だけが眺める美術品として発展したわけではありません。もちろん優れた作品も作られました。けれど瀬戸の窯から生まれたのは、それだけではありません。
碗や皿、鉢、壺――。人々が毎日の暮らしで使う器が作られ、各地へ運ばれていきました。やがて瀬戸で作られた焼き物を意味していた「瀬戸物」という言葉は、流通の広がりとともに、陶磁器一般を表すほど身近な言葉になっていきます。
それは考えてみれば、すごいことです。産地の名前が、その商品の普通名詞のようになってしまったのですから。「焼き物なら瀬戸物」。そんな感覚が日本人の暮らしの中に根づくほど、瀬戸の器は広く使われるようになっていったのでしょう。
「せともの」は、ずっと手の中にあった
ここで少し、一枚のお茶碗を手に取ってみます。掌に感じる重さ。指先に伝わる、釉薬の滑らかさ。縁へ唇をつけたときの、ひんやりとした感触。そして温かいご飯を盛れば、器そのものも少しずつ温かくなっていく。
焼き物は、目で眺めるだけのものではありません。持つ。触れる。口をつける。食べる。人間の身体に、とても近い道具です。だから使い続ければ、小さな傷もできる。縁が欠けることもある。それでも、長年使ってきたお茶碗を簡単には捨てられないことがあります。
そこには器そのものの価値だけではなく、その器を手にして食べた暮らしの時間まで残っているからなのかもしれません。そう考えると、「せともの」が焼き物の代名詞になったという歴史は、単なる言葉の由来ではなくなってきます。
瀬戸焼が1000年近くかけて入り込んでいった場所。それは美術館でも、立派な床の間でもありません。私たちの食卓であり、私たちの手の中だったのです。
けれど、ここで一つ不思議なことがあります。1000年もの歴史があれば、途中で時代遅れになってしまってもおかしくありません。新しい焼き物が現れ、人々の好みが変わり、やがて日本では白く美しい磁器まで作られるようになります。
それでも瀬戸は消えませんでした。それどころか、陶器を作ってきた瀬戸自身が、やがて磁器まで作る産地へと姿を変えていきます。なぜ瀬戸焼は、そこまで変わることができたのでしょう?
その答えは、瀬戸1000年の歴史を貫いてきた、ある性格にあるのかもしれません。
千年続いたのは、変わらなかったからではない。
変わり続けたから、千年続いた。
次は、その最初の大きな革新――器の表情を一変させた「釉薬」の世界を覗いてみましょう。
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千年続いたのは、変わり続けたから──釉薬がもたらした最初の革新
土をこね、形をつくり、火で焼く。縄文時代から続いてきたといわれる”焼き物”の始まりは、とても素朴なものでした。土は火をくぐることで硬くなり、水や食べ物を入れる器になる。
けれど、そこへあるものが加わることで、器の表情は大きく変わっていきます。釉薬(ゆうやく)です。焼く前の器の表面に釉薬を施し、窯の中で高温にさらすと、それは溶けてガラス質の膜となります。器の表面は滑らかになり、水が染み込みにくくなる。
そして何より、炎と釉薬が出会うことで、それまで土の色だった器に、艶や色、奥行きのある表情が生まれました。それは単なる装飾ではありません。器を使いやすくする技術でありながら、同時に器を美しくする技術でもあったのです。
土の器に、「景色」が生まれた
瀬戸周辺では、平安時代から灰を原料とする釉薬を用いた陶器が作られていました。そして中世になると、瀬戸の陶工たちは中国からもたらされた陶磁器などに学びながら、さまざまな施釉陶器を発展させていきます。
ここが瀬戸焼のおもしろいところです。海の向こうから美しい器がやってくる。それを見て、「これは外国のものだから」と眺めて終わるのではない。「ならば、自分たちも作ってみよう」と窯へ向かった。もちろん、最初から同じものができたわけではなかったでしょう。土が違う。釉薬が違う。窯の温度も、炎の流れも違う。
ところが、その「違い」から、やがて瀬戸ならではの美しさが生まれていきます。釉薬は人間が計算して塗るものですが、最後の仕上げをするのは火です。厚く溜まるところもあれば、薄く流れるところもある。色が均一にならないこともある。
現代の工業製品なら「ムラ」と呼ばれてしまいそうなものまで、焼き物では一つひとつ違う景色になります。同じ窯から出てきても、まったく同じ器にはならない。だから焼き物には、人間が作ったものなのに、どこか自然物のような表情が残るのでしょう。
「美しい」と「使いやすい」は、別々ではなかった
ここで大切なのは、釉薬による革新が「美術」のためだけではなかったことです。釉薬によって表面がガラス質になることで、器は汚れや水分が染み込みにくくなり、日常の道具としても使いやすくなっていきました。つまり瀬戸の陶工たちが追いかけていたものは、美しい器であることと、使いやすい器であること。その二つだったのかもしれません。
これは、先ほどの「民藝」の話にも少しつながってくる気がします。美術館のケースに入れて眺めるためだけの美ではなく、毎日の食卓で使われるからこそ生まれる美。ご飯を盛る、お茶を飲む、料理を載せる、洗って、乾かして、また翌日使う。
そうして何年も使っていれば、やがて小さな傷がつき、縁が少し欠けることもあるでしょう。それでも捨てない。しかし”金継ぎ”をするほどの名品でもない。けれど、
「まだ使えるから」
と、次の日も食卓へ出す。そこには値段では測れない、器と人間とのちょうどいい距離があります。1000年という瀬戸焼の歴史も、案外そんな無数の食卓の積み重ねだったのかもしれません。
変わることは、伝統を捨てることではなかった
そして瀬戸は、このあとも何度も変わります。新しい釉薬を試し、新しい形を作り、新しい需要に応える。さらに時代が進むと、瀬戸の陶工たちの前に、それまでの土の器とはまるで違うものが現れます。
白く、硬く、薄く、美しい磁器。有田などで発展した磁器が広がると、陶器を作り続けてきた瀬戸にも大きな変化の波が押し寄せます。そこで瀬戸はどうしたのでしょう? 昔ながらの陶器だけを守ったのか?そうではありませんでした。
瀬戸は、また変わります。振り返れば、その姿勢は釉薬を取り入れ、磨いてきた頃から変わっていなかったのかもしれません。守るために、変える。受け継ぐために、新しいものを取り入れる。だから瀬戸焼の1000年は、一本の古い伝統がそのまま今日まで残った歴史ではありません。
変化を繰り返すことで、途切れずにつながってきた1000年なのです。そして次に瀬戸が出会う「白い器」は、その歴史をもう一度、大きく変えることになります。
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土の器から、白い器へ──磁器との出会いが瀬戸をもう一度変えた
長いあいだ、瀬戸の窯から生まれていたのは陶器でした。土をこね、形をつくり、釉薬をかけ、炎の中へ入れる。土の色や釉薬の流れを残した器には、一つとして同じもののない温かな表情があります。ところが江戸時代、日本の焼き物の世界に、それまでとはまるで違う美しさを持った器が広がっていきます。磁器です。
白い。硬い。薄く作ることができ、指ではじけば陶器とは違う高く澄んだ音がする。その始まりを代表するのが、17世紀初頭に磁器生産が始まった肥前・有田でした。日本の器に、「白」という新しい美しさが現れたのです。
有田の白い器は、瀬戸にとって「ライバル」だった
陶器と磁器。見た目は似ていても、材料も焼き上がりも異なります。陶器には、土の粒子や釉薬が生み出す柔らかな表情がある。手にすると厚みや重量を感じ、唇をつければ、どこか温かな感触があります。
一方の磁器は、きめ細かく硬質です。表面は滑らかで、縁を薄く仕上げることもできる。白い肌には絵付けがよく映えます。どちらが優れているという話ではありません。土のぬくもりを味わう陶器と、白く硬質な美しさを味わう磁器。器の世界に、もう一つの選択肢が現れたのです。
瀬戸にとっては大事件だったはずです。何百年もかけて陶器を作ってきたところへ、まったく違う器が人気を集め始めたのですから。
さて、どうするか。昔ながらの陶器を守り続けるのか。それとも――。瀬戸は、また後者を選びました。
「だったら瀬戸でも作ろう」
江戸時代後期、瀬戸では磁器生産が本格化していきます。その大きな転換に関わった人物として知られるのが、加藤民吉です。磁器づくりの技術を求めて九州へ渡り、そこで学んだ技術を瀬戸へ持ち帰ったと伝えられています。
こうして瀬戸では、従来の陶器に加えて磁器も盛んに作られるようになりました。瀬戸では、従来の陶器を「本業」、新しく始まった磁器を「新製」と呼び分けるようになります。この言葉がおもしろいんですね。
「新製――新しく作るもの」
何百年も続いた産地なのに、「昔からこうしてきたから」と立ち止まらなかった。新しい器が求められるなら、新しい技術を学ぶ。第二章で釉薬を取り入れ、磨いてきた瀬戸の姿勢が、ここでも顔を出します。伝統を守るために、伝統を変える。瀬戸焼1000年を貫いてきた強さが、少しずつ見えてきます。
白い器は、新しいキャンバスになった
磁器を作れるようになったことで、瀬戸の器にはもう一つ大きな可能性が生まれます。絵付けです。白い磁肌は、絵を描くためのキャンバスにもなりました。青、赤、緑、金。草花や鳥、幾何学模様。時代の好みに合わせながら、器の表面にはさまざまな世界が描かれていきます。今回の『美の壺』に登場する、可憐でモダンな現代の絵付けも、その長い延長線上に見ることができるでしょう。
土の表情を生かした陶器から、真っ白な磁器へ。瀬戸は古いものを捨てたわけではありません。新しいものを、その隣に置いたのです。陶器か、磁器か?どちらかを選ぶ必要はなかった。両方作ればいいじゃないか。なんとも瀬戸らしい答えだったのかもしれません。
そして「白い器」は、海を渡っていく
さらに時代が明治へ進むと、愛知の陶磁器産業は世界へ目を向けるようになります。名古屋周辺では輸出向けの陶磁器産業が発展し、やがて日本の洋食器を世界へ送り出す企業も育っていきました。その代表の一つが、ノリタケです。
ここまで来ると、1000年前の瀬戸からはずいぶん遠くまで来たように見えます。けれど、新しい技術を学ぶ。時代が求める器を作る。美しく、そして暮らしの中で使えるものへ仕上げる。そう考えると、どこか同じ精神が流れているようにも感じられます。
そして近代の洋食器の世界では、さらに美しい「白」が追求されていきました。たとえばボーンチャイナ。
手に取れば驚くほど滑らかで、光にかざせば薄い部分からほのかに光を通す。縁を軽く弾けば――キン……。硬質で澄んだ音が残ります。それもまた、人間が何百年もかけて追い求めてきた「器の美」の一つなのでしょう。
それでも、土の器は消えなかった
ここで大切なのは、磁器が登場したからといって陶器がなくなったわけではないことです。
私たちは今でも、陶器も磁器も使っています。朝、ご飯を盛る少し厚手のお茶碗。コーヒーを飲む白い磁器のカップ。煮物を盛る土ものの鉢。料理によって、気分によって、知らず知らずのうちに使い分けています。
考えてみれば、器って不思議です。30年前、たまたま気に入って買ったお茶碗をずっと使うこともある。ある日うっかり割ってしまえば、「仕方ないね」と新しい器を探しに行く。そこで、「へぇ、今はこんなのがあるんだ」と、それまでとは違う器を選ぶ。
作る人だけではありません。使う私たちもまた、少しずつ新しいものを選んできた。だから器は変わってきたのでしょう。瀬戸焼の1000年も、陶工だけが作った歴史ではなかったのかもしれません。その器を選び、手に取り、ご飯を盛り、割れるまで使った――無数の名もない人たちの暮らしが、瀬戸焼を変え続けてきた。
そう考えると、次に見えてくる「美」は、もう名品だけのものではありません。少しくらい欠けても捨てられない。高価だったからではなく、ずっと使ってきたから。次はそんな、暮らしの時間が器に刻まれていく美しさを見つめてみましょう。
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欠けても、捨てたくない──暮らしの中で育つ「器の美」
新しい器は、美しい。傷ひとつなく、釉薬には艶があり、縁もきれいに整っています。けれど、不思議なことがあります。長く使ってきた器を前にすると、私たちは必ずしも新品のほうが美しいとは思わなくなるのです。
小さな傷がある。釉薬の艶も、買った頃とは少し違う。縁には、いつついたのかも覚えていない小さな欠けがある。それでも食器棚を開けると、なぜかその器へ手が伸びる。「ずっと使ってきたから。」理由は、それだけなのかもしれません。
気がつけば、30年
器を買うとき、私たちはそれほど大げさな決意をしません。「この茶碗を、これから30年間使おう」なんて考えて買う人は、ほとんどいないでしょう。店先で、「これ、いいね」と手に取る。値段を見て、「これならいいかな」と買って帰る。
翌朝からご飯を盛る。洗って拭いて、食器棚へ戻す。次の日も使う。また洗う。そんなことを何千回も繰り返して、ある日ふと気づく。
「これ、いつ買ったんだっけ?」
考えてみたら、もう20年、30年。器とは、そんなふうに人の暮らしへ入り込む道具なのかもしれません。
高価じゃないからこそ、ちょうどいい
そして、ある日。縁がほんの少し欠けてしまう。さて、どうするか? 高価な名品なら修復を考えるかもしれません。けれど、毎日使っている普通のお茶碗です。金継ぎをお願いするほどでもない。かといって、まだ十分使える。だから、「まあ、これくらいならいいか」と、またご飯を盛る。
この距離感が、なんだかいいのです。崇めているわけではない。けれど粗末にもしていない。大切な美術品ではなく、大切な日用品。そこには、値段とは違う物差しがあります。
何度この器でご飯を食べたか。誰と同じ食卓を囲んだか。朝の忙しい時間にも使った。何かいいことがあった夜にも使った。そんな記憶を一つひとつ覚えているわけではありません。けれど、その全部を含めた「暮らしの時間」が、いつの間にか器に染み込んでいます。
割れたら、また新しい器を探しに行く
もちろん、永遠に使えるわけではありません。ある日、手を滑らせる。床に落ちる。
ガチャン。「あーあ……」
30年使った器でも、粉々になってしまえば仕方ありません。少し寂しいけれど、片づけて、新しい器を買いに行く。そして店へ行ってみると、そこには30年前にはなかった器が並んでいます。
「今はこんな柄があるんだ」
「この形、使いやすそうだね」
「せっかくだから、今度はこっちにしようか」
そうして、それまでとは違う器を一枚選ぶ。そして翌朝から、何事もなかったようにその器でご飯を食べ始めます。もしかしたら、その器ともまた30年付き合うことになるかもしれません。ここには、瀬戸焼1000年の歴史とよく似たものがあります。
ずっと同じものを使いたい私たちと、
その時代に合わせて新しいものを作り続ける人たち。
一見すると反対のようですが、この二つが出会うことで器の歴史は続いてきたのでしょう。
美は、使うことで完成していく
『美の壺』が見つめる、欠けさえ愛でたくなる器の魅力。それは、欠けそのものが美しいというだけではないのかもしれません。その欠けを見ると、「ずいぶん長く使ったな」と思える。そこに流れた時間まで含めて、器を見るようになるからではないでしょうか?
民藝の思想が見つめてきた、名もない職人が作る日用品の美にも、どこか通じるものがあります。美しいから飾っておくのではなく、使うから、美しくなる。
持つ。触れる。料理を盛る。唇をつける。洗う。そして、また使う。
その繰り返しのなかで、新品だった器はいつしか「自分の器」になっていきます。だから「せともの」の美しさは、美術館だけにあるものではありません。朝の食卓にもある。食器棚にもある。少し欠けたお茶碗にもある。
「せともの」は、美術館にあるものではなく、ずっと私たちの手の中にあった。
そして、その「手の中」という場所は、次の最後の問いへつながります。なぜ陶器のお茶碗を持って食べるご飯と、合成樹脂の器で食べるご飯では、どこか感じ方が違うのでしょう?
味覚だけでは説明できない「おいしさ」。その秘密はもしかすると、料理だけではなく、器まで一緒に味わっている私たちの身体にあるのかもしれません。
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なぜ「せともの」で食べると、おいしいのだろう?──器は料理の一部になる
同じご飯なのに、器が変わると少し味まで違うように感じる。そんな経験はないでしょうか? 社員食堂や給食などで使われることのある、軽くて丈夫な合成樹脂の食器。落としても割れにくく、扱いやすい。毎日たくさんの人が食事をする場所では、とても合理的な器です。
けれど家へ帰って、いつものお茶碗に炊きたてのご飯を盛る。両手で持って、ひと口食べる。すると、なぜかこちらのほうが「おいしい」と感じることがあります。料理は同じなのに。いったい、何が違うのでしょう。
私たちは、舌だけで食べているわけではない
食事のおいしさは、舌で感じる味だけで決まるものではありません。目で見る料理の色。鼻へ届く香り。箸が器に触れたときの音。そして器を持ったときに掌へ伝わる、重さや温度。陶器なら、少し厚みのある柔らかな口当たり。そして作ってくれた人への愛情。
磁器なら、薄く滑らかな縁が唇へ触れる硬質な感触。同じ「せともの」でも、陶器と磁器では身体へ伝わってくる感覚が違います。どちらが優れているわけではありません。今日は、この土もののお茶碗がいい。コーヒーなら、あの白い磁器のカップにしよう。料理や飲み物に合わせて器を選ぶとき、私たちは知らず知らずのうちに、器まで含めて食事を味わっているのでしょう。
日本の器は、身体に近い
そして日本の食卓を眺めてみると、もう一つ気づくことがあります。私たちは、器をよく手に持ちます。ご飯茶碗を持つ。汁椀を持つ。湯呑みを持つ。そして器へ直接、唇をつける。料理を載せて眺めるだけではなく、持って、触れて、口をつける。だから器と身体との距離が、とても近い。これは日本ならではの文化かもしれません。
掌には重さが伝わり、指先には表面の感触が伝わり、唇には縁の厚さまで伝わります。そこへ温かなご飯を盛れば、しばらくして器までほんのり温かくなる。もしかすると私たちは、ご飯の温かさだけではなく、ご飯を受け止めている器の温かさまで食べているのかもしれません。
おいしさの中には、「時間」も入っている
けれど、それだけでも説明できない気がします。新品のお茶碗より、何十年も使ってきたお茶碗で食べるほうが、なんとなく落ち着くことがあるからです。高価な器だからではありません。
有名な陶芸家が作ったものでもない。旅先の小さな店で、たまたま見つけたものかもしれません。それでも毎朝ご飯を盛っているうちに、その器は少しずつ自分の手になじんでいく。どこを持てばいいかなんて考えなくなる。重さも覚えている。食器棚のどこにあるかも、手が知っている。
気がつけば10年。20年。30年。その間に、何千回その器で食事をしたのでしょう。楽しかった日もあった。疲れて何も話したくなかった夜もあった。何でもない朝も、数え切れないほどあった。器は何も語りません。けれど、ずっとそこにいました。
だから古い器で食べるご飯がおいしく感じる理由の中には、味覚でも、口当たりでも、温度でも説明できないものが、ほんの少し混じっているような気がします。その器と一緒に過ごした時間です。
もしかしたら、「そのへんの神様」がいる
日本人は昔から、ずいぶんいろいろなところに神様を見つけてきました。大きな山にも。古い木にも。台所にも。井戸にも。だったら、毎日使っているお茶碗の片隅にだって、何かがいてもいいのかもしれません。もちろん、本当に小さな神様が茶碗の中に座っている、という話ではありません(笑)。
でも、30年使った器を手にしたときに感じる、「これは、まだ捨てたくないな」という気持ち。その正体を「思い出」や「愛着」という言葉だけで説明してしまうより、“そのへんの神様”が、いつの間にか住みついた。そう考えたほうが、少しだけ楽しい気もします。
「せともの」は、ずっと私たちの手の中にあった
1000年近く前、瀬戸の人々は土を焼いていました。やがて釉薬を使い、新しい美しさを生み出しました。白い磁器が現れると、その技術も取り入れました。そして時代が変わるたび、人々が欲しいと思う器を作り続けてきました。だから「瀬戸」という一つの土地の名前は、いつしか日本中で焼き物そのものを意味する言葉になりました。
「せともの」
けれど1000年の歴史を歩いてきた今、その言葉はもう、産地や技術だけを指しているようには思えません。
朝、ご飯を盛る。手に持つ。唇をつける。洗って拭く。食器棚へ戻す。そして翌朝、また使う。そんな何でもない毎日を、器はずっと繰り返してきました。
だから、瀬戸焼の美しさを探すために、必ずしも美術館へ行く必要はないのでしょう。食器棚を開ければいい。そこには少し古くなったお茶碗があるかもしれません。
小さな傷がある。ひょっとしたら、縁がほんの少し欠けている。それでも明日の朝になれば、またそこへ炊きたてのご飯を盛る。両手でそっと持てば、掌へ温かさが伝わってきます。
「せともの」は、美術館にあるものではなく、ずっと私たちの手の中にあった。
千年変わり続けてきた瀬戸焼の美は、案外そんな、いつもの食卓の上にあるのかもしれません。そして明日の朝もまた――いつものお茶碗で、ご飯をいただきます。