ブラタモリ#246(9/9)は「燕三条」今でも仲が悪い訳を解明!?同じものづくりも町でも職人と商人がイガミあったから!?

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こんにちは鳥巣です。9月9日のブラタモリの舞台は新潟県の燕三条、もとい燕市と三条市です。前回の長岡市から20kmほど下流に位置しています。どちらも”モノづくりの街”として全国的、いや世界的にも知られていて、国内の銀食器(カトラリー)の生産では90%のシェアを誇っています。そんな”仲の悪い”燕と三条の町をタモリさんと野口アナが秘密を探ってブラブラと歩きます。
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燕と三条は本当に仲が悪いの?

「燕三条市」っていう市はないの!?

新幹線の「燕三条駅」の改札を出ると、右に出ると三条市、左に曲がると燕市に向かう出口があります。つまり新幹線の線路が両市の境界線になってるわけです。当初、上越新幹線を計画したときに、駅を燕市に作るか三条市に作るかで、どちらも譲らず揉めました。そこで時の総理大臣だった田中角栄が「真ん中に作ればいいじゃないか」と提案して、この場所(市境)に決定したんだそうです。

燕市と三条市
燕市と三条市

しかし今度は駅名で揉めます。そこで新幹線の駅は「燕三条」、関越自動車道のインターチェンジを「三条燕」とすることで一件落着したというわけです。そういえば九州の「福岡」と「博多」の話と似てますね。

世界でも国内でも、隣り合っているところは御伽話の世界では”仲が悪い”のが通説ですよね?(笑) 世界の政治の世界でも、お隣の国とはあまりうまくいっていないのは皮肉でしょうか?

でも新幹線を降りた人はやっぱり、「やっと”燕三条市”に着いた!」と思ってしまう人が多いでしょうね。でも「燕三条市」という行政区分はありません! このブログの中では便宜的に「燕&三条」を「燕三条」と呼ぶことにします。
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地形から見た燕三条がモノづくりの町になったわけ?

この辺りは番組でも最初に説明されると思いますが、ここでも念のために説明しておきましょう。

信濃川は中ノ口川と信濃川の本流に分かれます。やがては河口近くの新潟市で再び合流するのですが、燕三条から下流側ではかなり細かく蛇行を繰り返しています。

これは川が平らな平野を流れるようになって流れも遅くなり、大雨が降った時には氾濫を繰り返した痕跡ではないでしょうか?

燕三条のものづくりのはじまりは江戸時代の初期です。度重なる信濃川の氾濫に苦しむ農民が、副業として和釘作りを始めました。どうしてかというと、その頃の江戸では急激な人口増加で家屋が密集し、火災が多発していました。

火事が頻発すれば家屋の再建の需要も高くなり、和釘だけでなく、鉋や鑿、のこぎりなども必要となります。しかし江戸は武士の街ですから、家を建てる建材などのモノづくりは江戸以外の他の場所でやらなければなりません。そこで燕三条のモノづくりが発展したというわけです。

信濃川の氾濫が農民の生活苦をもたらし、副業としてのモノづくりの原点につながったと考えれば、これも燕三条の地形が関係していたのではないかと思うのです。
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燕鎚起銅器と越後三条打刃物の歴史って古いの?

燕三条では、燕の燕鎚起銅器(つばめついきどうき)、三条の越後三条打刃物(えちごさんじょううちはもの)と言われて、古くから2つの町の名産品になっています。

鎚起銅器は、1枚の銅板を鎚 (つち) で打ち延ばしたり絞ったりして形を作る銅器のことです。江戸時代に銅山が活況となった燕一帯に起こった産業です。

一方の越後三条打刃物は、たびたび起こる信濃川の氾濫のために貧しい農民が多く、江戸から釘職人を招き、農閑期の副業とするため農民たちに釘作りを伝授させました。その釘作りの技術を応用して、鉄製の農具や越後三条打刃物が作られるようになりました。

こうして隣り合った2つの町で、図らずも同じ金属加工という産業が起こったということです。もちろん2つの町は隣り合った近い距離ですから、職人の技術の継承があったのかもしれません。

しかし、物を作れば、売らなければ現金収入にはなりません。そこで才覚を発揮したのが三条の商人だったというわけです。当時の三国(みくに)街道が現在の三条市街を通っていることから、街道を行く商人たちの影響を受けたのかもしれません。

旧三国街道の位置
旧三国街道の位置

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燕三条が職人の町と商人の町に分かれたわけは?

燕三条は、燕市が「職人の町」で、三条市が「商人の町」と言われてきました。これも福岡が「武士の町」で博多が「商人の町」と言われた福岡に似ていますね。ただ燕三条の方がドロドロしているようです。

三条から江戸へは上越国境の三国(みくに)峠を越えることから、「三国街道」と呼ばれ、中山道の「高崎」から分かれて、北陸街道の新潟県寺泊(てらどまり)まで続く街道です。三条の商人はこういった街道を駆使して、あちこちに鉄製品を販売していました。

三条の金属製品と三条商人

三条市では、中世の頃から主に農業用品鎌や鍬(すき)などの製造が行われていました。閑散期の農家の副業としてはじめられた和釘作りを経て、その後包丁など多くの種類の打刃物が製造されるようになり、次第に鍛冶職人の集まる地になっていきました。

燕三条のお土産に買ってきた文化包丁
20年前に燕三条のお土産に買ってきた文化包丁

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三条市で製造される打刃物は「越後三条打刃物(えちごさんじょううちはもの)」と呼ばれており、打刃物の製造に必要な道具「ヤットコ(鉄ハシ)」なども鍛冶職人が自分たちで製造し、それを作るための道具や用具まで一貫して作る技術があったのです。

和釘を始め、これらの金属製品を全国に売り歩いたのが三条の金物商人です。彼らは各地から注文を受けて三条の鍛冶屋に製品を作らせて、それを全国に売りに行ったのです。

その主な販売先は常陸(茨城)、下総(千葉)、武蔵(東京・埼玉・神奈川)などです。信濃川や魚野川で荷物を六日町(南魚沼)まで送り、そこから先は陸路で馬を使役して三国街道を通り、中山道の上州倉賀野宿(高崎)でまた船に積み替え、利根川・江戸川・隅田川などの川筋を使って船で荷物を運んだといいます。

幕末から明治にかけて三条商人の商取引が活発に行われ、燕三条が「金属産業のまち」として広く知られるようになったと考えられます。

三条商人は、現地の金物屋を仲介役に注文を取る仕組みを持っていました。これが他の地域の商人との大きな違いで、土地の需要を把握して製品を揃えるという強みをもっていたのです。
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直販しようとした燕の職人との諍い!?

また江戸期において三条商人は、自分たちの商圏を荒らそうとする相手に対して猛然と戦い、すべて三条を通して商売を行うように働きかけました。燕の職人が三条商人を通さずに製品を江戸へ出荷したことで裁判が起き、三条商人が勝訴している事例もありました。

燕の職人にしても、むざむざ三条の商人に中間マージンを取られるのは面白くないでしょうから、江戸に直販して儲けようとして、両者の仲が悪くなったと考えられなくもありません。
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燕三条のまとめ

燕と三条は本当に仲が悪いの?

上越新幹線を計画したときに、駅を燕市に作るか三条市に作るかで、どちらも譲らず揉めました。そこで時の総理大臣だった田中角栄が「真ん中に作ればいいじゃないか」と提案してこの場所に決定したそうです。

燕鎚起銅器と越後三条打刃物の歴史って古いの?

燕三条では、燕の燕鎚起銅器(つばめついきどうき)、三条の越後三条打刃物(えちごさんじょううちはもの)と言われて、古くから2つの町の名産品になっています。

燕三条が職人の町と商人の町に分かれた訳は?

金属製品を独占的に全国に売り歩いたのが三条の金物商人でした。しかし燕の職人が三条商人を通さずに製品を江戸へ出荷したことで諍いが起きて裁判にもなった結果、三条と燕の仲が悪くなったとも言われています。

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