関門海峡はなぜできた?小倉市と八幡市は仲が悪かった!?なのに合併するメリットは!?【ブラタモリ・北九州】

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こんにちは鳥巣です。10月7日と翌週のブラタモリは二回にわたる北九州シリーズです。山口県の下関と、関門海峡を挟んだ対岸にある北九州市は5市の対等合併という珍しい経過で誕生しましたが、仲が悪かったという小倉市と八幡市にとって、その真のメリットとはなんだったのでしょうか?

若戸大橋

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関門海峡はどうしてできたのか?

関門海峡はどうしてできたのでしょうか?あれだけの距離に陸地が向かい合っているのですから、誰しもが「昔は陸続きだったんじゃないの?」思っていることと思います。そんな関門海峡の謎を”地質”の面から探っていきたいと思います。

実は1万年前には、関門海峡は地続きの陸地でした。現在も関門海峡の周辺は堆積岩の地質が多いのですが、山陽本線の関門トンネルから壇之浦あたりの、現在の関門橋付近の海峡には花崗岩(かこうがん)の地質が広がっていることがわかるかと思います。

関門海峡の地質
YouTube・地理ライダー「関門海峡」より

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花崗岩は地下深くでマグマがゆっくりと冷やされて出来る火成岩(マグマ由来の岩)です。花崗岩は硬い岩なのですが、石英や長石などの成分が多く含まれているので、地表で太陽の熱に温められると、それぞれの成分の膨張率の違いで砕けてしまいます。鳥取砂丘の砂はこの花崗岩が砕けた砂でできています。

約1万年前に関門海峡の堆積岩の地層に、地下深くからマグマが上昇してきて熱い花崗岩となって堆積岩を押し除けました。

YouTube・地理ライダー「関門海峡」より

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花崗岩はまだ物凄く熱かったので、周囲の砂岩や泥岩などの堆積岩は熱で変性して”ホルンフェルス”という硬い焼き物のようになります。

ホルンフェルス
YouTube・地理ライダー「関門海峡」より

ホルンフェルスは硬いとはいっても、周囲からの圧力などで割れ目ができたりします。

ヒビ割れ
YouTube・地理ライダー「関門海峡」より

すると中にある花崗岩は侵食されやすいので、あっという間に侵食されて深い谷ができます。

YouTube・地理ライダー「関門海峡」より

そこに縄文時代、海面が上昇してきて海になり、関門海峡になったというわけです。

YouTube・地理ライダー「関門海峡」より

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鉄の町より先に石炭の町があった!?

昭和50年代には学校の教科書にも載っていたように、北九州といえば、私たち子供には、明治34年に創業を始めた「官営八幡製鉄所」が有名でした。しかしその前からあった若松港(現北九州市若松区)は、水深が浅いため大型の船が停泊できないという弱みがありました。

そのため江戸時代、筑豊炭田で掘られた石炭は、遠賀(おんが)川の舟運によって、玄界灘まで運ばざるを得ませんでした。しかし遠賀川の河口近くには港がないため、江戸時代には遠賀川の河口近くから若松港のある洞海湾まで人工の水路を掘りましたが、若松港は水深が浅く、大きな船は停泊できませんでした。そこで小さな船で若松港沖に停泊している大型船に積み替えるという、効率の悪い方法をとらざるを得なかったのです。

そこで水深の浅い若松港を改修して大型船が入れるように明治政府に働きかけて資金を出させたのが、若松築港株式会社の役員で、当時の衆議院議員の麻生太吉(現在の麻生太郎副総理の曽祖父)です。私利のために政府に金を出させるやり方は先祖から受け継いだものだったんですね。

そうして大改修を終えた若松港には大型の船が着岸できるようになったため、筑豊の炭鉱で掘り出された石炭を積み出すために、若松港が大きな役割を果たすようになったわけです。

小倉と八幡周辺
小倉と八幡周辺

やがて遠賀川の舟運では石炭の需要に追いつかなくなったため、筑豊本線が若松港まで敷設されて若松港までの直通ルートが出来上がりました。これによって若松港の洞海湾を挟んで対岸の八幡製鉄所にも石炭が安定的に供給されるようになったわけです。
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北九州は九州の玄関口!?

小倉五街道といえば、唐津街道、秋月街道、長崎街道、中津街道、門司往還があります。

九州北部の主な街道
九州北部の主な街道

「唐津街道」は小倉から博多・福岡を経て肥前国唐津に至る約114kmの街道ですし、「秋月街道」は筑前国秋月を経て筑後国久留米に至る約71kmの街道です。

そして別名”シュガーロード”とも呼ばれた「長崎街道」は筑前国黒崎・木屋瀬を経て肥前国長崎に至る約223kmの街道であり、「中津街道」は小倉と豊前国中津を結ぶ約53kmの街道です。また「門司往還」は距離は短いですが、小倉と門司の和布刈(めかり)を結ぶ約14kmの街道になります。
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これらの九州全域に広がるネットワークの起点となったのが「九州の日本橋」とも言われる小倉の常盤橋でした(正確にはちょっと違いますが)。中でも長崎街道は、江戸時代、長崎出島の交易品を運ぶ街道として九州で最も重要な交通の要でした。

常盤橋
常盤橋

大阪・神戸から瀬戸内海航路を通って九州入りするルートは、現在でも物流の重要なルートになっていて、夜に大阪・神戸を出て明け方に門司に着くフェリー航路は、運転手の負担軽減や燃料費の節約など、船の運賃を払っても効率がいいということから、いつも大型トラックで溢れ帰ってかえっています。

新門司航路
新門司航路

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なぜ北九州は合併しなければならなかったのか?

北九州地方は日本の四大工業地帯として昭和40年代の社会科の教科書などで知らない人はいませんでした。日本を支えた京浜は当然東京横浜ですし、中京は名古屋であり、阪神は大阪です。その中核が政令指定都市となり、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸が政令指定都市となりました。それなのに北九州だけ仲間外れ!?

そこで北九州も、5つの市の人口が分散してバラバラでは政令指定都市になれないので、”合併”の道を選んだというのです。政令指定都市になれば、国と直接交渉することも可能で、県と同等のレベルで扱われるので、行政的には”福岡県”北九州市である必要はなく、北九州市が先頭になればいいわけです。人口も少なく工業もない福岡市や福岡県など相手にしなくても、「われわれは自分の力でやるよ」という宣言でしょう。

しかし小倉市、門司市は豊前(ぶぜん)国に属しており、江戸時代は小倉藩に属していました。しかし八幡市、戸畑市、若松市は筑前(ちくぜん)国に属していて、江戸時代には福岡藩に所属していました。

北九州市行政区
北九州市行政区

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実際には、本来の豊前と筑前の国境は、現在の小倉と八幡の区境と相当異なっています。また北九州の住民は、明治以降に移住した人の子孫が多く、合併当時の地域対立に関しては、少なくとも江戸時代の異なる地域云々由来の感情は余なかったようです。

ただ合併となると、新市街の中心となるであろう八幡と小倉は賛成で、中心地から離れて場末となりかねない門司と戸畑が反対という感じだったようです。

合併の当時は、炭鉱の閉鎖で大不況でしたが、一方で鉄鋼業はまだ好調だったのと、政令指定都市になることで財政は豊かになり、合併により百万都市となって世界的に知名度を挙げることができるということもあり、「オラが街が九州の雄になれる」との思いで、世論住民も合併賛成派多数となったのではないでしょうか?
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北九州のまとめ

関門海峡はどうしてできたのか?

1万年前には地続きだった関門海峡ですが、地下深くから上昇してきたマグマが侵食されやすい花崗岩となって深い谷を作ったために、現在の関門海峡が出来上がりました。

鉄の町より先に石炭の町があった!?

筑豊炭田で掘られた石炭は、遠賀(おんが)川の舟運によって、若松港のある洞海湾まで運んで大型船で運ばれていったのです。その後、製鉄所が八幡に作られたのも、製鉄のための石炭を利用するために都合が良かったからではないでしょうか?

北九州は九州の玄関口!?

小倉からは九州全域に広がる街道の起点がありました。唐津街道、秋月街道、長崎街道、中津街道、門司往還など、船で門司に着けば誰もが通る道であり、城下町とはいえ唐津街道の宿場町に過ぎなかった当時の福岡や博多などに比べれば、重要度は高かったといえます。

なぜ北九州は合併しなければならなかったのか?

北九州には明治以降に移り住んだ人が多く、江戸時代、八幡と小倉は別藩だったとはいえ、実際のところ対立感情はあまりなかったようです。それよりも大事だったのは全国や海外に向けた北九州という町の立ち位置です。

何よりも重要な立地にある北九州が、「九州の雄であるべきだ」と思うのは自然な感情でしょう。しかし当時の北九州には5つの市がバラバラに存在していて人口も分散していました。そこで合併すれば人口もまとまって政令指定都市になって予算も名声も手にできる、という皮算用で合併に突き進んだと言えるのではないでしょうか?

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