ブラタモリで長岡!花火で2度の戦争からの復興を祈念するだけじゃない地形の秘密や特産品も

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こんにちは鳥巣です。9月2日のブラタモリは新潟県の長岡が舞台です。長岡といえば日本三大花火の一つ、「長岡まつり大花火大会」が有名ですが、なぜ花火大会が行われるようになったのか?そのあたりはタモリさんがブラブラしながら解き明かしてくれると思いますので、今回はちょっと違った視点も入れて長岡の魅力をまとめてみました。
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長岡はなぜ花火の街になった?

戊辰戦争の時の長岡にはどんな苦難があったの?

長岡といえば、幕末の戊辰戦争の時に幕府側にいたことで、新政府軍にメチャクチャにやられた過去があります。

長岡藩は、大政奉還以後も徳川幕府を支持し、アームストロング砲、ガトリング砲などの最新兵器を購入して新政府軍との戦闘に備えました。しかし結果的には新政府軍に敗北し、山形へ敗走した歴史があります。

太平洋戦争で大空襲を受けた長岡市街

昭和になると、太平洋戦争末期にはアメリカ軍の爆撃機による大空襲を受けて、日本中の他の都市と同様に、街は一面の焼け野原になってしまいます。

長岡空襲は昭和20年8月1日の午後10時30分から2時間余りの間に、アメリカ軍の爆撃機によって長岡市の中心市街地を中心に大量の焼夷弾(しょういだん)が投下され、当時の長岡市長をはじめとする市民1480人余りが犠牲になり、12,000戸にも及ぶ家が焼き尽くされました。

私の田舎(祖父母の実家)も現在の長岡市(旧・栃尾村)にあったのですが、中心市街地から離れた山間部にあったため、この空襲による犠牲者は出ませんでした。しかし当時、祖父母は栃尾にいたため、長岡方面の空が真っ赤に焼けた光景を見ており、長岡空襲のもの凄さはことあるごとに耳にしていたものです。

新潟県長岡市の大花火大会は、昭和20年8月1日の長岡空襲で犠牲になった方への慰霊と、長岡の復興を願って翌年の昭和21年に開催された「長岡復興祭」が長岡まつりの起源で、のちに2・3日が花火大会の日になりました。

長岡まつり花火大会
長岡まつり花火大会

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また、長岡市内には日本一長い信濃川が流れていて、その広い河川敷が花火大会を行うのに適していたということもあったと思います。実際、長岡の花火大会は戦後に長岡まつりが行われるようになるずっと以前の1879年(明治12年)から行われており、これは地域の祭りに遊廓関係者がお金を出し合って花火を打ち上げたのが始まりだというのですから、最初は余興の一つだったのかもしれません。

全国的に有名になった長岡の花火大会ですが、花火シーズン以外でも観光で訪れた人にも花火の素晴らしさを伝えようと、長岡市内の「道の駅 ながおか花火館」のフードコートでは、地元ヒーローの「守護騎士ハナビスター」の動画を放映しています。

ハナビスター
ハナビスター

度重なる大地震

新潟県では戦後になってから少なくとも3回の大地震を経験しています。最初が、1964年(昭和39年)の「新潟地震」、2度目が2004年(平成16年)の「新潟県中越地震」、3度目が2007年(平成19年)の「新潟県中越沖地震」で、いずれの地震でも大きな被害が発生しています。

この他にも1961年(昭和36年)2月2日の長岡の地震、1995年(平成7年)4月1日の新潟県北部の地震、2011年(平成23年)3月12日の長野県北部の地震、2019年(令和元年)6月18日の山形県沖の地震などがありました。

これら一連の地震は、プレートの境界で起きる地震ではないかと言われていますが、プレートの境界にも諸説があって、確かなことはよくわかっていないようです。

新潟県中越地震(2004年)

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長岡市の市章は、長岡市の「長」の文字に、これら2度の戦火の中から甦った不死鳥のイメージを重ねた物です。こんなところにも災禍から復興してきた不死鳥の精神が表されています。

長岡市章

長岡出身の偉人といえば、旧日本海軍・聯合艦隊司令長官の山本五十六(いそろく)が有名です。彼の有名な言葉として、

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

というのがあります。

彼は開戦にはあくまでも反対でした。しかし「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」(この体が滅びようともこの志は奪えない)と、わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対しました。しかし、その意志に反して連合艦隊司令長官として未曽有の大戦争の指揮を取らざるを得なくなってしまったのです。

その最期は、南方戦線で偵察中に敵戦闘機に撃墜されたと言われていますが、「あれはいわゆる自殺だったのではないか」という意見もあります。
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プレート運動と長岡の成り立ちとは?

信濃川の河川敷ではどうしていろいろなの種類の石がある?

信濃川の河川敷では20種類以上の異なった成り立ちの石を見つけられるといいます。この中には流紋岩や安山岩のような火成岩(マグマが地中で冷え固まったもの)や堆積岩(海底などに堆積した土砂などが固まって隆起したもの)などが見られます。

流紋岩
流紋岩
安山岩
安山岩

河原の石は当然、上流から流れてきた岩などが川の流れで割れたり磨かれりしたものですが、火山由来の石と堆積物由来の石が同じところで見られるのは、信濃川が長い距離を流れてきたこともありますが、流域が「フォッサマグナ」の中だということと関係があるのではないでしょうか?

チャート
チャート
変成岩
変成岩

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フォッサマグナって何?

フォッサマグナは、過去のブラタモリの中で何度も触れられていましたが、プレートの移動によって、約2000万年前に日本列島が大陸から引き剥がされた時に、日本列島が2つに割れて、その間にできた溝のことです。”フォッサマグナ”とはラテン語で”大きな溝”という意味です。

「フォッサマグナ」は、静岡から新潟県の糸魚川を結ぶ「静ー糸線」のことだと思われている方も多いのですが、実際には、西のキワが静岡から新潟県の糸魚川を結ぶ「静ー糸線」、東側のキワはまだよくわかっていませんが、千葉県の銚子付近から新潟県の長岡や新発田市あたりを結ぶ線ではないかと言われています。

諸説入り乱れていますが、要するにフォッサマグナとは、南は関東平野から北は新潟までの広い範囲を示す、面積的な広がりをもった地域のことです。

フォッサマグナ
フォッサマグナ

原始の日本列島がユーラシアプレートの動きによって、大陸から引き剥がされて割れた当初の溝は海だったわけですが、次第に”大きな溝”には堆積物が溜まったり、富士山や箱根、浅間山、草津白根山、赤城山、榛名山などのような火山が噴火したりして埋まっていったわけです。

ですからフォッサマグナの広域の地質の中にはマグマ由来の石や、堆積物由来の石が混じって存在するわけです。その中を長い距離流れてくる信濃川がこういった石を押し流してくるのはなんとなく納得できます。
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信濃川ってどんな川?

信濃川は、長野県と新潟県の二県をまたがって流れています。上流の長野県内では「千曲川」と呼ばれていて、それが新潟県に入ると「信濃川」に名前が変わります。「信濃」とは長野県の旧国名で、新潟県では「信濃の国から流れ込んでくる川」という意味から「信濃川」と呼ばれるようになったといわれています。

日本一長い信濃川の源流は、埼玉県、山梨県、長野県の県境にある甲武信ヶ岳にあり、秩父多摩国立公園に指定されています。湧き出る水は、千曲川から信濃川となって日本海に流れていきますが、反対側に流れ出る水は荒川・富士川となって太平洋に流れていきます。

信濃川は下流の新潟県のほぼ中央部、燕市大河津付近の信濃川が日本海に最も近づく地点で、長岡市寺泊海岸までの全長約10㎞を繋ぐ人工水路の大河津分水路として分岐し、本流は新潟市方面に向かいます。大正11年の大河津分水路の通水後は、信濃川の洪水を日本海へ流し、日本有数の穀倉地帯である越後平野を水害から守る重要な役割を担ってきました。 

大河津分水路
大河津分水路

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長岡市郊外の丘陵地はどうしてできた?

信濃川下流の長岡市付近の地形を見てみると、只見山地の手前で南北に連なる小高い山脈があります。これは、単なる妄想ですが、日本列島がまだ大陸にくっついていた頃に、大陸プレートに押されて隆起した跡のようにも見えます。実際にこのあたりの地質は、6500万年前くらいの堆積岩と火成岩でできていて、年代的には納得がいきます。

長岡周辺の地形
長岡周辺の地形
長岡周辺の地質
長岡周辺の地質

かつて東山油田があったという場所も、この北側の丘陵地の中です。石油や石炭は2億5000万年前から6500万年前の地層から採掘されるので、こちらも納得がいく妄想ではないかと思います。

また丘陵地にある山古志地区では、水田を作るためには傾斜地を切り開かなくてはなりませんでした。そのための工夫が棚田です。棚田を新しく作るにはまず、棚田に適した場所を見つけなくてはなりません。山古志は昔から、地すべりが多い土地でした。

地すべりは中越大震災でも大きな被害をもたらしましたが、逆に地すべりがおこることで山の傾斜がなだらかになり、耕作できる面積が広くなります。また、地滑りによる変動によって土壌が混ざり合い、農作物の生育によい条件をもたらす利点もありました。

山古志の棚田
山古志の棚田

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長岡に栃尾揚げができたわけ?

栃尾揚げのルーツは?

長岡市の東にある栃尾地区には、今では全国区になった栃尾揚げという油揚げがあります。栃尾の方言で「油揚げ」のことを「あぶらげ」と呼びますが、全国的には「栃尾の油揚げ」「栃尾揚げ」「ジャンボ揚げ」などとも呼ばれています。

栃尾のあぶらげの起源には諸説ありますが、ひとつは、250年以上前、火伏せ(防火)の神として広く信仰されていた秋葉神社の住職が、参詣者のお土産として豆腐屋に依頼したことが始まりとする説や、栃尾の馬市から生まれたという説があります。

栃尾で行われていた越後の三大馬市と呼ばれる馬市で、馬の仲買をする馬喰(ばくろう)たちが売買成立の証文代わりに酒を汲み交わし、その酒の肴として食べたのが”あぶらげ”だったと言われています。

栃尾揚げ
栃尾揚げ

高価な馬の売買をする馬喰たちは、あぶらげを手づかみで豪快に食べたそうで、そんな彼らの気質に合わせあぶらげも徐々に大きくなっていったと言われています。今では馬市はなくなりましたが、毎年7月23日に谷内(やち)通り商店街では「うま市」というお祭りが行われています。

うま市
うま市

栃尾揚げを家で美味しく食べるコツは?

 「家で焼いたら真っ黒こげでしかも中が冷たい」などという経験をした方はいませんか?コツは簡単です。電子レンジでチンしてから、トースターやフライパンなどで少しだけ炙ります

そうすると中はふんわり熱々、外はパリッと美味しく仕上がります。これをシャッシャッシャと切って、ネギと鰹節に醤油をサッとかけて…。
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長岡のまとめ

長岡はなぜ花火の街になった?

新潟県長岡市の大花火大会は、昭和20年8月1日の長岡空襲で犠牲になった方への慰霊と、長岡の復興を願って翌年の昭和21年に開催された「長岡復興祭」が長岡まつりの起源で、のちに2・3日が花火大会の日になりました。

プレート運動と長岡の成り立ちとは?

信濃川下流の長岡市付近の地形を見てみると、只見山地の手前で南北に連なる小高い山脈があります。これは私の勝手な妄想ですが、日本列島がまだ大陸にくっついていた頃に、大陸プレートに押されて隆起した跡のようにも見えます。そこにはかつて東山油田があったり、山古志の棚田ができたりしたのではないでしょうか?

長岡に栃尾揚げができたわけ?

かつて栃尾で行われていた馬市で、馬の仲買をする馬喰たちが売買成立の証文代わりに酒を汲み交わし、その酒の肴として食べたのが「あぶらげ」だったと言われています。

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