一本の川は、どれだけの人生をつないできたの?|城崎温泉と出石城下町、円山川と生きる人々【新日本風土記】

城崎温泉 BLOG
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兵庫県北部、かつて但馬国(たじまのくに)と呼ばれた土地。浴衣姿の旅人が柳並木をそぞろ歩く城崎温泉。古い町並みに城下町の面影を残す出石。そして、広々とした田んぼの上を舞うコウノトリ。一見すると、それぞれに違う物語を持つ風景です。

けれど、地図を広げてみると、そこには一本の川が流れています。円山川(まるやまがわ)。兵庫県の山あいに源を発し、いくつもの支流を集めながら豊岡盆地を流れ、日本海へと注ぐ川です。かつては帆かけ船が行き交い、人や物資を運んだ水の道。時には洪水となって人々の暮らしを脅かし、それでも土地に豊かな恵みをもたらしてきました。

川辺で命について考えた作家。城下町の文化を守り継ぐ人々。そして、水辺の生き物たちの未来を思う若い姉妹。生きた時代も、暮らし方も違う人々が、同じ川の流域でそれぞれの物語を紡いでいます。一本の川は、どれだけの人生をつないできたのでしょう。

NHK『新日本風土記』「城崎温泉と城下町 水で旅する兵庫」を手がかりに、円山川の流れをたどりながら、水とともに生きてきた但馬の人々の物語を訪ねてみたいと思います。

【放送日:2026年11月9日(月)22:00 -23:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年11月10日(火)20:00 -21:00・NHK-BS】

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志賀直哉が歩いた川辺で、今も物語が生まれているの?

城崎温泉の町を歩くと、柳並木に沿って一本の川が流れています。大谿川(おおたにがわ)。川にはいくつもの橋が架かり、その両岸には旅館や外湯が並んでいます。浴衣姿でそぞろ歩きを楽しむ人たちにとって、この川は城崎温泉の風情をつくる大切な存在なのでしょう。

けれど、この川辺には、もう一つの顔があります。文学の舞台としての城崎です。1913年(大正2年)、作家の志賀直哉は、東京で電車にはねられて負傷したあと、療養のため城崎温泉を訪れました。その体験から生まれたのが、1917年に発表された短編小説『城の崎にて』です。

作品に描かれているのは、華やかな温泉街の賑わいではありません。死んだ蜂。必死に生きようとする鼠。そして、主人公が投げた石に偶然当たって死んでしまういもり。志賀直哉は、そうした小さな生き物たちの姿を通して、自分自身の生と死を見つめていきます。

事故に遭わなければ、何気なく通り過ぎていたかもしれない光景。けれど、死が自分のすぐそばにあったことを知った人間には、道端の小さな命さえ、それまでとは違って見えたのかもしれません。

『城の崎にて』は、生きることの素晴らしさを声高に訴える作品ではありません。むしろ、生きていることと死んでいることの間にある、静かで不思議な距離を見つめた物語のように感じられます。そして、それから100年以上が過ぎました。

今回の『新日本風土記』では、県外から城崎温泉にやってきたアーティストが、地元の人たちと力を合わせて創作活動に取り組む姿が紹介されます。志賀直哉が一人で自分の内面と向き合った時代から、地域の人々と協力して新しい表現を生み出す現代へ。

創作の形は違っても、この町が人の心を動かし、何かを表現したいと思わせる場所であり続けていることが、なんだか興味深く感じられます。

もちろん、志賀直哉が歩いた1913年の城崎と、現在の城崎は同じ姿ではありません。町は大きな災害を経験し、人々の手によってつくり直されてきました。それでも、大谿川の流れは、時代の異なる人々の営みを結びつけています。

一本の川のほとりで、ある人は命について考え、ある人は新しい作品を生み出そうとしている。城崎温泉は、体を休めるだけでなく、人が自分自身や周囲の世界と向き合う時間を与えてくれる場所なのかもしれません。

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城崎温泉の美しい石垣には、震災の記憶が刻まれている?

城崎温泉の大谿川(おおたにがわ)に沿って歩くと、柳並木の下に美しい石積みの護岸が続いています。川に架かる弓形の橋、両岸に並ぶ温泉宿、ゆったりと流れる水。まるで昔から変わらずに残っている風景のように見えます。けれど、私たちが今目にしている城崎温泉の町並みは、決して昔の姿をそのまま保存したものではありません。

1925年(大正14年)5月23日、兵庫県北部を北但大震災が襲いました。城崎温泉は地震と、その後に発生した火災によって壊滅的な被害を受けます。人々は町を再建するにあたり、建物を建て直すだけでなく、川の護岸や橋も整備しました。大谿川の川幅を広げ、護岸を高くし、それに合わせて橋も架け直したのです。

こうして生まれたのが、現在の城崎温泉を象徴する、石積みの護岸と弓形の橋が連なる風景でした。つまり、私たちが風情を感じる温泉街の景色には、二度と同じような被害を繰り返したくないという、復興に取り組んだ人々の願いも込められているのでしょう。

そして、その護岸に使われた石にも、興味深い歴史があります。城崎温泉から円山川を少しさかのぼったところにある、玄武洞(げんぶどう)。巨大な岩壁に、六角形をはじめとする柱状の岩石が整然と並ぶ、不思議な景観で知られる場所です。学校で理科の時間に「玄武岩」という火山性の石を学んだ記憶がある方もいるでしょう。

この岩壁は、約160万年前の火山活動によって流れ出した溶岩が、冷えて固まる過程でできたもの。溶岩が冷えて収縮するときに生じた割れ目は「柱状節理(ちゅうじょうせつり)」と呼ばれています。

玄武洞は、かつて石材を切り出す採石場でもありました。北但大震災の復興では、玄武洞で採られた玄武岩が大谿川の護岸に使われたと伝えられています。城崎温泉の川辺に積まれた石は、もともと遠い昔の火山活動によって生まれた岩石だったのです。

しかも、玄武洞にはもう一つ、地球科学の歴史を変える発見がありました。1920年代、地球物理学者の松山基範(まつやまもとなり)は、玄武洞の岩石が現在の地球磁場とは逆向きに磁化されていることを調べました。その研究は、地球の磁場が過去に逆転していたことを示す重要な証拠となり、のちの地磁気逆転の研究につながっていきます。

現在では千葉県の地層から名づけられた「チバニアン期」が、約77万年前の地磁気逆転と深く関係していることは知られていますが、地球の磁場が逆転するという発見の歴史は、それよりずっと前から始まっていたのですね。

温泉街の川辺に積まれた一つひとつの石。そこには、約160万年前の火山活動の記憶があり、地球の磁場の変化を読み解く科学の歴史があり、そして1925年の震災から町を立て直した人々の営みがあります。

美しい風景は、必ずしも何も変わらずに残ってきた風景ではない。失われたものを受け止め、それでも暮らしを続けようとした人々が、新しくつくり上げた風景もあるのです。城崎温泉の大谿川に架かる橋を渡るとき、足元の石積みにも目を向けてみたくなります。そこには、地球の長い時間と、人間が生きてきた時間が、静かに重なっているのです。

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円山川の帆かけ船は、何を運び、どんな暮らしを支えたの?

今では、川を眺めるとき、私たちはまずその風景の美しさに目を向けるのではないでしょうか? ゆったりと流れる水。川面に映る山々。水辺に集まる鳥たち。けれど、かつての円山川は、ただ眺めるための川ではありませんでした。人や荷物を運び、町と町を結ぶ、大切な交通路だったのです。

兵庫県北部の山あいから豊岡盆地を流れ、日本海へと注ぐ円山川。道路や鉄道が発達する以前、この川には帆を張った船が行き交っていました。風を受けて進む帆かけ船。川の流れや風向きを読みながら船を操ることは、今の私たちが想像する以上に、経験と技術を必要とする仕事だったのでしょう。

円山川の河口には、津居山(ついやま)という港があります。江戸時代から明治時代にかけて、日本海には北前船をはじめとする商船が行き交い、各地の産物を運んでいました。大型の海船がそのまま浅い川をさかのぼることは難しく、海と内陸の輸送をつなぐには、川舟の存在が欠かせませんでした。

津居山から円山川をさかのぼれば、豊岡の町へ。さらに支流の出石川をたどれば、城下町・出石へとつながります。川は、離れた町同士を結ぶ水の道だったのです。船が運んだのは、米や塩、日々の暮らしに必要な品々。反対に、但馬で生産された米や木材なども、川を下って海へと送り出されていきました。

川沿いの船着場には荷物が集まり、船を操る人、荷物を扱う人、商いをする人たちの暮らしがありました。私たちが今、地図の上で別々の町として眺めている城崎、豊岡、出石も、かつてはこうした水運によって結ばれていたのです。

けれど、川はいつも人間の都合に合わせて流れてくれるわけではありません。円山川が流れる豊岡盆地は、昔から洪水に悩まされてきた土地でもあります。普段は暮らしを支える穏やかな水が、大雨によって増水すれば、人々の生活を脅かす存在に変わってしまう。

今回の『新日本風土記』には、そんな川の恐ろしさを知る、渡し船の元船頭が登場します。かつて帆かけ船が川を行き来し、人々がその仕事で暮らしを立てていた時代。その記憶を語る元船頭の存在は、円山川が単なる交通路ではなく、人々の生活そのものだったことを教えてくれます。

船を出せる日もあれば、出せない日もある。川の流れを利用する一方で、その変化を見極めなければならない。水とともに生きるとは、自然を思いどおりにすることではなく、自然の力を知り、その力と折り合いをつけながら暮らすことだったのかもしれません。

やがて道路や鉄道が整備され、川舟が物流の主役を担う時代は終わっていきました。それでも、川が結んできた町の歴史まで消えてしまったわけではありません。円山川の支流、出石川の流域には、今も城下町の面影が残っています。そして、かつて舟運によって栄えた町では、人々が大切に受け継いできた文化が、次の世代へと手渡されようとしています。

船が運んだのは物資だけではありません。人と人が出会い、町の暮らしが育まれる機会も、川は運んできたのでしょう。そう考えると円山川の流れが少し違って見えてくるのです。

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出石の芝居小屋は、なぜ町の人たちに守られてきたの?

円山川を行き交った船が運んでいたのは、米や塩などの物資だけではありませんでした。川沿いの町には人々が集まり、商いが生まれ、それぞれの土地に独自の文化が育っていきました。

たとえば、円山川本流に近い豊岡。江戸時代には豊岡藩の城下町として栄え、川沿いには船着場や商家が並んでいました。この町を代表する産業の一つが、柳行李(やなぎごうり)です。円山川沿いの湿地に育つコリヤナギを編んで作られた収納具は、やがて全国へと販路を広げ、現在の豊岡のかばん産業へとつながっていきました。

川が育てた植物が、人々の手仕事によって商品になり、町の産業を支えてきたのです。一方、円山川の支流である出石川を遡ると、もう一つの城下町、出石(いずし)があります。出石城が築かれたのは江戸時代初期の1604年(慶長9年)頃。城を中心に町並みが整えられ、舟運によって米や塩などが運ばれていました。かつての船着場の近くには、今も「おりゅう灯籠」と呼ばれる石灯籠が残り、水運で賑わった時代を伝えています。

そんな出石の町に、明治時代から続く芝居小屋があります。出石永楽館(いずしえいらくかん)。1901年(明治34年)に開館した永楽館では、歌舞伎や芝居、寄席などが上演され、町の人々に娯楽を届けてきました。けれど、時代が変わり、映画やテレビが普及すると、芝居小屋の役割も変わっていき、永楽館は1964年に閉館しました。それでも、建物は失われませんでした。

町の人々による保存と再生への取り組みが実を結び、2008年、永楽館は再び人々を迎える芝居小屋としてよみがえったのです。今回の『新日本風土記』では、その永楽館で子ども歌舞伎が演じられます。ここに、まちの文化を受け継ぐことの面白さがあるように思います。

古い建物を保存するだけなら、そこに人が集まらなくてもできるかもしれません。けれど、芝居小屋は本来、人が集まり、舞台に立つ人と客席の人が同じ時間を過ごす場所です。舞台で演じる子どもたちがいて、それを支える大人たちがいて、客席から見守る人々がいる。そうして初めて、芝居小屋は生きた文化の場所になるのでしょう。

かつて円山川や出石川が町と町をつないだように、今度は芝居小屋が、世代と世代をつないでいる。豊岡では、川辺の柳がかばん産業へと姿を変えました。出石では、明治時代の芝居小屋が、現代の子どもたちの舞台になっています。どちらも、昔の姿をそのまま残すことだけが、伝統を守る方法ではないと教えてくれるようです。

受け継ぐということは、過去を保存するだけでなく、今を生きる人たちが、その価値を新しく見つけ直すことなのかもしれません。川を行き交う船の姿は消えても、その流域で育まれた人々の営みは、形を変えながら続いています。

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コウノトリが暮らせる川は、人間にもやさしい川なの?

かつて円山川は、人や物資を運ぶ大切な交通路でした。その川に沿って城下町が栄え、産業が育ち、人々の暮らしが営まれてきました。

けれど、川が支えてきたのは、人間の生活だけではありません。豊岡盆地に広がる湿地や水田には、魚やカエル、水生昆虫など、さまざまな生き物が暮らしています。そして、その生き物たちを餌にして生きているのが、コウノトリです。かつて日本各地で見られたコウノトリは、湿地の減少や農薬の使用などによって数を減らし、1971年には国内の野生個体が姿を消しました。

その後、豊岡では人工飼育による繁殖や生息環境の再生が進められ、2005年には飼育したコウノトリの野外放鳥が始まりました。

一度失われた野生の命を、人間の手で再び地域に迎え入れる。それは、鳥を放すだけで終わる取り組みではありません。コウノトリが餌を探せる田んぼや湿地があり、そこに小さな生き物たちが暮らしていること。そして、そうした環境を人々が守り続けることが必要なのです。

今回の『新日本風土記』には、コウノトリが暮らしやすい環境をつくろうと、「トリ部」の活動に取り組む中学生と高校生の姉妹が登場します。近畿大学附属豊岡高等学校・中学校には、コウノトリとの共生を目指して湿地の保全や環境について学ぶ活動の実績があります。

若い世代が、自分たちの暮らす土地の自然を知り、未来のために行動する。そこには、かつて川を仕事場にした船頭さんや、城下町の文化を守ってきた人々とは、また違う形の「水とともに生きる姿」があるのでしょう。

ところで、コウノトリが暮らせる川は、人間にとってもやさしい川なのでしょうか? 豊かな自然が残されていることと、人間が安全に暮らせることは、必ずしも同じではありません。円山川は昔から洪水を繰り返してきた川でもあります。水辺の自然を取り戻す一方で、人々の暮らしを水害から守ることも欠かせません。

大切なのは、人間のためだけに川を変えることでも、自然を守るために人間の暮らしを犠牲にすることでもないでしょう。水の流れを理解し、必要な安全を確保しながら、ほかの生き物たちにも居場所を残していくこと。その難しい問いに向き合うことが、これからの円山川との付き合い方なのかもしれません。

佐渡島でトキが戻る田んぼを育ててきたように、豊岡でもコウノトリとともに暮らせる水辺を取り戻そうとしているのです。これは以前に佐渡島のトキの記事でも触れました。

円山川の上流域には、国の特別天然記念物であるオオサンショウウオも生息しています。川の上流から下流まで、そこには人間の目に見えるものも、普段は気づかないものも含めて、数えきれない命がつながっています。

城崎温泉の川辺で命を見つめた志賀直哉。川を行き交う船で暮らしを立てた人々。城下町の文化を次の世代へ手渡そうとする人々。そして今、コウノトリが舞う未来を思い描く若い姉妹。生きた時代も、川との関わり方も違います。けれど、誰もがこの土地の水とともに生きてきた、あるいは生きようとしている人たちです。

一本の川がつないできたのは、人間の人生だけではなかったのです。川の流れは、これからも続いていきます。その流れのほとりに、どんな命と暮らしを残していくのか。その答えを考え、次の世代へ手渡していくことも、私たちの役割なのかもしれません。


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