島根県松江市、松江城の城内、その外れの一角にひっそりと佇む城山稲荷神社。雨に濡れた境内には、数えきれないほどの石の狐が並んでいます。華やかな社殿があるわけでもなく、観光客で賑わっているわけでもない。ただ、長い年月を重ねた狐たちが、静かにそこに佇んでいるのです。
明治時代、この神社を好んで訪れた一人の外国人がいました。のちに小泉八雲と名乗ることになる、ラフカディオ・ハーンです。八雲は、日本の怪談を世界に紹介した作家として知られています。しかし、彼が心を惹かれたのは、恐ろしい物語だけではありませんでした。
古い神社に息づく信仰、庭から聞こえてくる虫の音、人々の暮らしに残る習わし。そして、日本の職人たちが生み出した美しい本。西洋の文化を取り入れ、急速に姿を変えていく明治の日本で、八雲は何を見つめ、何を美しいと感じたのでしょうか?
NHK『美の壺』「日本の心をつづる 小泉八雲」を手がかりに、狐の石像や虫の音、海を渡った物語をたどりながら、八雲が愛した「日本の心」を探してみたいと思います。
【放送日:2026年11月4日(水)19:30 -20:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年11月10日(火)19:30 -20:00・NHK-BS】
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城山稲荷神社の狐|小泉八雲は、なぜ鄙びた神社に惹かれたの?
松江城の城内、その外れの一角に、ひっそりと佇む城山稲荷神社。雨の日に訪れると、境内には人影もなく、鳥居のあたりから参道にかけて、たくさんの石の狐が並んでいました。観光客を迎えるために華やかに飾り立てられているわけでもなく、よく手入れされた日本庭園のような風流さがあるわけでもありません。

古びた狐たちが、雨に濡れながら、ただ静かにそこにいる。けれど、不思議なことに、その何もなさが心に残るのです。この神社を好んで訪れた人物がいました。
明治23年(1890年)、松江にやってきたラフカディオ・ハーン。のちの小泉八雲です。八雲は城山稲荷神社の狐の石像に強い関心を寄せ、松江で出会った狐の信仰についても文章に書き残しました。
そもそも、なぜ稲荷神社には、これほど多くの狐がいるのでしょうか。狐は稲荷神そのものではなく、一般に神の使いとされる存在です。稲荷信仰は五穀豊穣や商売繁盛など、人々の暮らしと深く結びついてきました。
一方で、狐には人を化かすという伝承もあります。人間のすぐそばにいながら、ときには不思議な力を持つものとして語られる狐。そんな存在に、八雲は日本人の信仰や想像力の豊かさを感じたのかもしれません。
そして、八雲が松江に暮らしたのは、日本が急速に近代化していた明治時代でした。西洋の制度や技術が取り入れられ、街の姿も人々の暮らしも変わっていく。その一方で、古い神社には昔からの祈りが息づき、狐の石像は変わらず人々を見守っていたのでしょう。八雲は、そんな日本の姿に心を惹かれたのかもしれません。
華やかであることだけが、美しさではありません。長い年月を経た石の表情や、静かな境内に漂う気配。そこに「侘び寂び」を感じる人もいるでしょう。ただ、八雲が見つめていたものは、古びた石像の美しさだけではなかったのかもしれません。
石の狐の向こうに、人々が語り継いできた信仰や物語がある。何もないように見える風景にも、目には見えないものが息づいている。八雲は、そんな日本の風景に魅せられていたのかもしれません。
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黄泉比良坂の物語|愛する人との別れが、なぜこの坂に刻まれたの?
島根県松江市の東出雲町に、「黄泉比良坂(よもつひらさか)」と呼ばれる場所があります。木々に囲まれた静かな一角に、大きな岩と注連縄がある。立派な社殿が建っているわけでも、壮大な景色が広がっているわけでもありません。けれど、ここが現世と黄泉の国との境と伝えられる場所だと知ると、目の前の風景が少し違って見えてきます。
『古事記』には、イザナギとイザナミという二柱の神の物語が記されています。ともに国を生み、多くの神々を生んだ二柱。しかし、火の神を生んだことでイザナミは命を落とし、黄泉の国へと旅立ってしまいます。しかし愛する妻を失ったイザナギは、どうしても諦めきれませんでした。
そしてイザナミを連れ戻そうと、死者の国へ向かったのです。ようやく再会したイザナミは、黄泉の国の神々に相談するので、その間は扉を閉じたまま決して自分の姿を見ないでほしいと告げます。けれど、待ちきれなくなったイザナギは、その約束を破ってしまいました。
そこで目にしたのは、かつて愛した妻の、死によって変わり果てた姿でした。恐れを抱いたイザナギは逃げ出し、怒ったイザナミは黄泉の国の者たちを従えて追いかけます。そして、黄泉比良坂まで逃げてきたイザナギは、千人がかりでようやく動かせるほどの大岩を置き、黄泉の国への道を塞いでしまったのです。

ここで、少しだけ想像してみたくなります。イザナギは、本当に妻を恐れる気持ちだけで、あの岩を置いたのでしょうか。あれほど会いたかった人が、すぐ向こう側にいる。けれど、もう会うことはできない。
自分が岩を置けば、追ってくる者から逃れられる。しかし、それは同時に、愛する妻のもとへ続く最後の道を、自分自身で閉ざすことでもあります。その岩を置いたとき、イザナギはどんな気持ちだったのでしょう?
もちろん、『古事記』は、ここでイザナギの胸の内を現代の恋愛物語のように詳しく語っているわけではありません。それでも、愛する人を取り戻そうと黄泉の国まで追いかけた神が、最後にはその人と永遠に別れなければならなかったと思うと、胸が締めつけられます。大岩を挟んで向き合った二柱は、最後に言葉を交わします。
イザナミは、あなたの国の人々を一日に千人殺すと言い、イザナギは、それなら一日に千五百の産屋を建てようと答えました。こうして、生と死が繰り返される人間の世界が語られるのです。
黄泉比良坂にあるのは、ただの岩ではありません。そこには、死への畏れがあり、命の始まりがあり、そして愛する人との別れがあります。何も知らずに訪れれば、静かな木立と大きな岩があるだけの場所かもしれません。けれど、その物語を知った瞬間、風景はまったく違った表情を見せてくれるのです。
小泉八雲がこの場所を実際に訪れたかどうかは、はっきりしていません。それでも、八雲が日本の神話や怪談に惹かれたことを思うと、こうした物語が風景と結びついて語り継がれてきたことにも、関心を寄せたのではないかと想像したくなります。
目に見えるものの向こうに、目には見えない物語がある。雨の城山稲荷神社に並ぶ石の狐も、黄泉比良坂の大きな岩も。その風景に宿る物語を知ることで、私たちは、そこに積み重なってきた人々の思いに触れられるのかもしれません。
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虫の音に耳を澄ませて|八雲は、なぜ小さな虫たちを愛したの?
秋の夕暮れ、どこからともなく聞こえてくる虫の声。リーン、リーンと響くスズムシの音色。草むらから聞こえるコロコロというコオロギの鳴き声。私たち日本人にとって、虫の音は秋の訪れを知らせる風物詩です。けれど、そんな小さな虫たちの声に耳を澄ませ、美しい音色として楽しむ文化は、世界のどこでも同じように育まれてきたのでしょうか。
明治時代、日本にやってきた小泉八雲も、虫の音に深い関心を寄せた一人でした。松江に残る小泉八雲旧居には、八雲が親しんだ日本庭園があります。池や石、草木が配された庭は、ただ眺めるためだけのものではありません。
風が葉を揺らす音、雨が落ちる音、そして季節になると聞こえてくる虫たちの声。庭は、目で楽しむだけでなく、耳でも味わうことのできる場所だったのでしょう。
八雲は虫を好み、執筆するときにも虫かごをそばに置いていたと伝えられています。机に向かい、物語を綴りながら、小さな虫の声に耳を傾ける。そんな姿を想像すると、八雲にとって虫の音は、単なる自然の音以上のものだったのではないかと思えてきます。
日本では古くから、虫の声が文学や芸術の題材になってきました。『万葉集』にも秋の虫を詠んだ歌があり、平安時代には虫の音を楽しむ習慣が貴族たちの暮らしの中にも見られました。やがて、虫の音は俳句や季語にも取り入れられ、日本人の季節感を形づくる大切な要素になっていきます。
もちろん、虫の鳴き声を楽しむ文化が日本だけにあるわけではありません。それでも、小さな虫の声に季節の移ろいや寂しさ、時には懐かしさまで感じ取る日本の感性は、八雲にとって興味深いものだったのでしょう。
そもそも、虫は人間を楽しませるために鳴いているわけではありません。多くの場合、鳴いているのは雄で、雌を呼び寄せたり、ほかの雄に自分の存在を知らせたりするためです。
虫たちは懸命に生きているだけ。けれど、その声を聞く人間は、そこに秋の深まりや、過ぎていく時間の切なさを感じます。虫たちにとっては命をつなぐための声が、人間にとっては季節を味わう音楽になる。そう考えると、少し不思議な気がします。
そして、ここには、八雲が日本の古い神社や物語に惹かれたこととも通じるものがあるように思います。石の狐は、ただの石像ではない。黄泉比良坂の大岩は、ただの岩ではない。そして、秋の虫の声も、ただの鳴き声ではない。そこに物語や季節の移ろいを感じ取ることで、ありふれた風景や音が、特別な意味を持つようになるのです。
八雲が虫たちを愛した理由を、一つに決めることはありません。小さな生き物への純粋な好奇心もあったでしょうし、日本の人々が虫の音を楽しむ文化にも心を動かされたのかもしれません。
けれど、八雲が耳を澄ませていたのは、虫の声そのものだけではなかったようにも思えるのです。小さな命の声に、季節や物語を感じ取る日本人の心。八雲は、その繊細な感性にも惹かれていたのではないでしょうか。
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『怪談』と美しい本|八雲は、日本の物語をどのように世界へ伝えたの?
日本の昔話や怪談を、外国の人に聞かせたら、どんな反応が返ってくるのでしょう。幽霊が現れたり、狐が人を化かしたり、亡くなった人がこの世に戻ってきたり…。日本では古くから親しまれてきた物語でも、その背景にある信仰や習慣を知らなければ、単なる不思議な話、あるいは子供向けのおとぎ話に聞こえてしまうかもしれません。
朝ドラ『ばけばけ』でも、八雲をモデルにしたヘブンが、「怪談」を海外の読者に届けようとする苦労が描かれていました。けれど、実際の小泉八雲は、日本の昔話を英語に置き換えただけの作家ではありませんでした。
八雲の代表作『怪談(Kwaidan)』がアメリカで出版されたのは、1904年4月のこと。「耳なし芳一」や「雪女」など、今では広く知られる物語が収められています。その創作を支えたのが、妻のセツでした。
セツは日本に伝わる昔話や怪談を、八雲にもわかる言葉で語り聞かせました。八雲はその話に耳を傾け、登場人物の心情や情景を想像しながら、英語の文学作品へと仕立て直していったのです。つまり、八雲が世界に伝えた物語には、セツの語りと八雲の文章、その両方が息づいていました。
それは単なる翻訳ではなく、日本の物語を異なる文化の読者にも感じ取ってもらうための「再話」という仕事だったのでしょう。
そして、もう一つ興味深いのが、本そのものの美しさです。明治時代に出版された八雲の著作には、表紙の図案や装丁にも工夫が凝らされていました。たとえば『知られぬ日本の面影』の初版本には、雪輪と竹を組み合わせた意匠が使われています。本を開く前から、そこには日本の美意識が表現されていたのです。

『怪談』の初版本もまた、物語の内容だけでなく、装丁を通じて読者の想像力を誘う一冊でした。考えてみれば、これは不思議なことではありません。八雲が書いたのは、目に見えないものの気配を感じさせる物語です。
その物語を包む本にも、どこか日本らしい雰囲気が漂っていたとしたら、読者はページを開く前から、遠い異国の世界へと誘われたのかもしれません。
ただし、八雲の作品が欧米の人々に最初から理解されなかった、というわけではありません。八雲は『怪談』以前にも日本を題材にした著作を発表し、英語圏で読者を獲得していました。それでも、日本の古い信仰や怪異の物語が、文化の異なる読者にどのように受け止められたのかという問題は、簡単ではなかったでしょう。
八雲が伝えようとしたのは、幽霊や妖怪の恐ろしさだけではありません。そこには、亡くなった人への思慕や、守られなかった約束への悲しみ、人間には見えない世界への畏れがありました。
黄泉比良坂の大岩に、愛する人との別れを感じるように…。何気ない物語の向こうに、人々が長い時間をかけて育んできた心のあり方がある。八雲は、日本の怪談を通じて、そんな目に見えない「日本の心」を世界に届けようとしたのかもしれません。
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消えゆく日本の面影|小泉八雲は、なぜ古い日本を見つめ続けたの?
明治時代、日本は大きく変わろうとしていました。西洋の制度や技術が取り入れられ、街には新しい建物が建ち、人々の服装や暮らしも少しずつ変わっていきます。それは、日本が近代国家へと歩み始めた時代でもありました。
そんな日本に、1890年、一人の外国人がやってきます。ラフカディオ・ハーン。のちの小泉八雲です。八雲が心を惹かれたのは、近代化によって生まれた新しい日本だけではありませんでした。
松江の古い神社、石の狐、庭に響く虫の音、人々が語り継いできた昔話。日本人にとっては、あまりにも身近で、特別な価値を意識することさえなかったかもしれないもの。八雲は、そこに美しさを見いだしました。
けれど、八雲を単なる文明批判の作家として捉えるのは、少し違うように思います。彼自身、西洋の教育を受け、新聞記者として働き、英語で作品を書き、近代的な出版文化を通じて日本の魅力を世界へ伝えた人だったのですから。
八雲が惜しんでいたのは、新しい時代が訪れることそのものではなく、その変化の中で、古くから受け継がれてきたものが顧みられなくなることだったのかもしれません。せっかく、こんなにも美しいものがあるのに…。そんな気持ちを、八雲も抱いていたのでしょうか? NHK『美の壺』では、19世紀の写真技術を用いて、日本の面影を追い求めるアメリカ人写真家の姿も紹介されます。
現代のカメラは、驚くほど鮮明に、そして簡単に風景を記録できるようになりました。けれど、古い写真技術をあえて用いることで、現代の写真とは異なる光や陰影、時間の流れが浮かび上がってくることがあります。そこに写されるのは、単に古い建物や美しい風景だけではないのでしょう。
長い年月を経たものが持つ表情や、その場所に積み重なってきた人々の暮らし。八雲が文章によって残そうとした日本の面影を、現代の写真家は光によって探しているのかもしれません。
そして、八雲の物語を伝えた本にも、日本の職人たちの技が息づいていました。その一つが「ちりめん本」です。和紙に独特のしわ加工を施し、木版画の鮮やかな色彩で物語を彩った、柔らかな手触りの本。八雲の物語も、こうした日本の出版文化と結びついて、海の向こうへ届けられました。

文章を読むだけでは伝わらない、紙の質感や絵の美しさ。そこにも、日本の職人たちが受け継いできた感性がありました。考えてみれば、八雲が日本で出会ったものは、決して永遠に変わらないものばかりではありません。
神社の石像は風雨にさらされ、虫の声が聞こえる草むらは街へと変わり、昔話を語り聞かせる暮らしも、時代とともに姿を変えていきます。けれど、だからこそ、八雲はそれらを見つめ、耳を澄ませ、文章に残したかったのかもしれません。失われてしまう前に、その美しさを誰かに伝えたい。そんな思いが、八雲の作品には込められていたのでしょうか。
松江城の城内、その外れの一角にひっそりと佇む城山稲荷神社。雨に濡れた境内には、今も石の狐たちが並んでいます。華やかな観光名所というわけでもなく、人影はまばらで訪れる人が絶えない場所でもありません。それでも、そこには長い時間が流れ、人々の祈りが積み重なってきました。
八雲が見つめた明治の松江と、今の松江は、もちろん同じではありません。けれど、石の狐たちの前に立つと、百年以上前の八雲が心を惹かれたものの一端に、今も触れられるような気がするのです。
美しいものは、必ずしも華やかな姿をしているわけではありません。そして、古いものの価値は、古いというだけで決まるものでもありません。その向こうに、人々の祈りや物語、季節の移ろいを感じ取る心がある。小泉八雲が愛した「日本の心」とは、そんな目に見えないものを大切にする感性だったのかもしれません。
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