山あいの集落に、木を運ぶ人たちがいる。竹を組み、縄を結び、一本一本の材料を確かめながら、少しずつ大きな構造物を立ち上げていく。重機で一気に組み上げるのではなく、人の手で、人の力を合わせて…。やがて、その場所に現れるのは、巨大な回り舞台です。
茨城県常陸大宮市の西塩子地区。ここには、江戸時代に始まったとされる「西塩子の回り舞台」という伝統があります。地元の人たちが木や竹を縄で組み上げ、舞台を作り、そこで芸能を披露する。そして、公演が終われば、舞台は解体されます。せっかく作ったのに、残しておかないのでしょうか?
そう思うと、少し不思議です。けれども、この舞台にとって大切なのは、完成した建物だけではないのかもしれません。材料を集めること。作り方を知る人が、次の世代に技術を伝えること。そして、地域の人たちが一つの目的のために集まること。舞台をつくる、その時間自体が、祭りの一部なのではないでしょうか。
今回のNHK『小さな旅』「回り舞台 誇り再び 〜茨城県 常陸大宮市西塩子〜」では、6年ぶりの公演に向けて奮闘する人たちの姿が紹介されます。
かつては3年に一度、地域の人々が力を合わせて作ってきた回り舞台。しかし、コロナ禍による中断に加え、高齢化や人手不足という厳しい現実が、伝統の継承を難しくしています。
舞台を組み立てるには、人手が必要です。材料を扱う技術も、作業の段取りを知る経験も欠かせません。「地元の誇りをなくしたくない」そんな思いを胸に、住民たちは再び舞台づくりに挑みます。そして、その輪には、地域の外から協力する若い世代の姿もあります。
伝統とは、昔と同じものを、ただ残しておくことなのでしょうか? それとも、時代が変わっても、人が集まり、手を動かし、もう一度作り上げることなのでしょうか?
舞台が回るのは、ほんのひととき。けれども、その一瞬のために、何人もの人が力を合わせ、長い時間を費やしています。形としては残らなくても、人の手から人の手へ、受け継がれていくものがある。茨城県の小さな山あいの集落から、祭りをつくることの意味と、地域の誇りを未来につなぐ人々の物語をたどってみたいと思います。
【放送日:2026年10月18日(日)8:00 -8:25・NHK-総合】
【放送日:2026年10月23日(金)11:05 -11:30・NHK-総合】
【放送日:2026年10月24日(土)6:05 -6:30・NHK-BSP4K】
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なぜ、舞台を毎回つくり直すの?
茨城県常陸大宮市、西塩子(にししおご)。山々に囲まれたこの地域には、江戸時代から受け継がれてきた、少し不思議な舞台があります。その名も「西塩子の回り舞台」。歌舞伎などで使われる回り舞台といえば、舞台の床を回転させ、場面を切り替える仕組みを思い浮かべるでしょう。
けれども、西塩子の回り舞台には、もう一つ大きな特徴があります。舞台そのものを、公演のたびに組み立てているのです。しかも、公演が終われば解体してしまいます。せっかく立派な舞台を作るのに、なぜ残しておかないのでしょうか。
回り舞台って、そもそも何が回るの?
回り舞台とは、舞台の床の一部を回転させることで、舞台装置や役者の位置を変え、場面転換を行う仕組みです。例えば、ある場面が終わったあと、舞台が回転すると、反対側に用意されていた別の場面が現れる。大がかりな道具を一つひとつ運び出さなくても、観客の目の前で物語の世界を切り替えられるのです。
西塩子の回り舞台にも、こうした回転する仕組みがあります。ただし、舞台全体が回るわけではありません。保存会の資料によると、回転する部分は舞台後方の中央に、一段高く設けられています。さらに、役者が客席の中を通って登場できる花道も備えています。
つまり、山あいの集落に現れるのは、単なる仮設の台ではありません。歌舞伎を上演するための、本格的な仕組みを持った舞台なのです。
竹と丸太で、こんなに大きな舞台ができるの?
西塩子の回り舞台は、組み立て式の農村歌舞伎舞台です。現在の組み立てでは、屋根に使う竹を地元の里山から切り出し、丸太などの部材と組み合わせて、縄で結びながら構造を作っていきます。
保存会の資料によると、舞台や客席、楽屋などを含めた施設全体は、間口と奥行きがそれぞれ約20メートル。屋根の最も高いところは、約7メートルにもなります。小さな集落の催し物と聞いて想像する規模を、はるかに超えているのではないでしょうか?

特に目を引くのが、竹を使った大きな屋根です。長い竹を格子状に組み、縄で結び、竹のしなりを利用して美しい曲線を作ります。かつては、客席の屋根の前面に生まれる曲線の美しさも、舞台の出来栄えを評価する大切な要素だったそうです。
つまり、舞台づくりには、丈夫に組み上げる技術だけでなく、美しく仕上げる感覚も求められていたのです。木を運ぶ人。竹を組む人。縄を結ぶ人。それぞれの仕事が重なって、ようやく巨大な舞台が姿を現します。
なぜ、立派な舞台を残しておかないの?
これほど大きな舞台なら、常設にしてしまったほうが便利なのではないでしょうか? でも、昔の西塩子では、舞台を毎回組み立てることに、暮らしに根ざした理由がありました。かつては、稲刈りが終わったあとの畑を借りて舞台を設営していたそうです。
公演が終わると舞台を解体し、不要になった材木などを売り払って祭礼の費用に充てる。そして、村人たちが畑を耕し、地主に返していました。つまり、舞台は農作業の合間に現れる、期間限定の芝居小屋だったのです。
舞台を建てたままにすれば、畑として使うことができません。だから、公演のときだけ組み立て、終われば元の土地に戻す。そこには、農村の暮らしと芸能を両立させるための知恵がありました。
さらに、組み立て式だからこそ、舞台をほかの村へ貸し出すこともできたといいます。舞台を持ち運び、必要な場所で組み立てる。そんな柔軟さも、かつての農村芸能を支えていたのでしょう。
200年前の舞台を、今も作っているの?
西塩子の回り舞台には、文政3年(1820年)と文政6年(1823年)の記録が残っています。江戸時代後期には、すでにこの地域で組み立て式の舞台が使われていたことを示す貴重な資料です。現在は茨城県の有形民俗文化財に指定され、現存する組み立て式の農村歌舞伎舞台の中でも、特に古い歴史を持つものとして知られています。
ただし、200年前の舞台を、そのまま使い続けているわけではありません。長い年月の間には、部材が傷み、仕組みが改良されることもありました。保存会によると、回り舞台を動かす方法も、かつての床下から押して回す方式から、上側の金具を引いて回す方式へと変化した時期があったそうです。
現在は、歴史的な道具を保存しながら、実際の公演に必要な部材を新しくする取り組みも行われています。そして、毎回すべての材料を新しく切り出しているわけでもありません。
昔は柱などに使う材木も公演後に売り払っていましたが、現在は木材の一部を保管して再利用し、主に屋根に使う竹を新たに切り出しています。変わらないように見える伝統も、実は時代に合わせて少しずつ姿を変えているのです。
舞台をつくる技術も、文化財なの?
西塩子の回り舞台は、1997年に半世紀ぶりの復元を果たしました。1945年を最後に組み立てが途絶えていたため、復元を目指した人たちは、古い道具や資料を調べながら、作り方を学び直さなければなりませんでした。
1994年には、地域の全世帯が参加する形で保存会が結成され、舞台の復元と組み立て技術の継承に取り組み始めました。それほどまでに、舞台を一度途絶えさせたことの影響は大きかったのです。
完成した舞台を保存するだけなら、建物を修理し、維持する方法もあるでしょう。でも、西塩子の回り舞台は違います。どの部材を、どこに使うのか。長い竹を、どのように組み合わせるのか。縄をどこで結び、どうやって大きな屋根を支えるのか。
そうした知識や技術を持つ人がいなければ、舞台は再び姿を現すことができません。しかし文化財として残されているのは、舞台の部材や道具です。けれども、その価値を未来へつないでいくためには、舞台を組み立てられる人たちの存在が欠かせないのです。
公演が終われば、舞台は解体されます。何日もかけて組み上げた巨大な屋根も、花道も、客席も、いったん姿を消します。それでも、次の公演でまた舞台を作ることができる。その繰り返しこそ、西塩子の人々が守ってきた伝統なのでしょう。
では、舞台を作り上げること自体が、祭りなのでしょうか? もちろん、舞台は完成させるだけでは終わりません。そこには芝居を演じる人がいて、楽しみに待つ観客がいるのです。次は、舞台の上で繰り広げられる物語と、それを支える人たちに目を向けてみましょう。
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舞台をつくるだけで、祭りになるの?
山あいの集落に、巨大な舞台が姿を現す。何日もかけて木や竹を組み上げ、縄を結び、ようやく完成した回り舞台。その立派な姿を眺めるだけでも、驚きがあるでしょう。でも、ここで一つ疑問が浮かびます。せっかく舞台を作ったのに、誰もその上で何も演じなかったら、どうなるのでしょうか?
舞台は、ただ立っているだけでは、まだ舞台としての役割を果たしていません。そこに役者が立ち、物語が始まり、観客が見つめる。そのとき初めて、舞台は人々を楽しませる場所になるのです。
茨城県常陸大宮市の「西塩子の回り舞台」も、舞台を作ることだけが目的ではありません。舞台を作る人、演じる人、観る人。その三者が集まってこそ、祭りは完成するのではないでしょうか。
農村の人たちは、なぜ歌舞伎を楽しんでいたの?
歌舞伎と聞くと、江戸や大坂の大きな芝居小屋を思い浮かべるかもしれません。けれども、江戸時代には、都市だけでなく農村でも歌舞伎が親しまれていました。村の人たちが自ら役者となって演じる「地芝居」や「農村歌舞伎」です。
農作業に追われた日々の後で、祭礼などの特別な日に芝居を楽しむ。役者として舞台に立つ人もいれば、客席から声援を送る人もいる。芝居は、地域の人々にとって大きな娯楽の一つだったのでしょう。西塩子の回り舞台も、そんな農村芸能の歴史の中で生まれたと考えられています。
舞台を組み立てる技術が受け継がれてきたのは、その上で芝居を演じ、人々が楽しむ時間があったからです。つまり、舞台づくりと芝居は、もともと切り離せないものだったのです。
回り舞台では、どんな芝居を演じるの?
今回の公演で注目したいのが、地元有志による一座「西若座」です。茨城大学の紹介記事によると、西若座は『太功記十段目 尼ケ崎閑居の場』を上演する予定でした。『太功記』とは、『絵本太功記』のこと。戦国武将の明智光秀をモデルにした武智光秀を中心に、本能寺の変の前後を描く作品です。
その中でも「尼ケ崎閑居の場」は、光秀の家族をめぐる悲劇が描かれる、よく知られた場面です。歴史上の出来事を題材にしながら、親子や夫婦の思い、武将としての覚悟など、人間の心の葛藤を描いています。決して、ただ賑やかに楽しむだけの芝居ではありません。
演じる人にはもちろん、せりふや所作を覚え、登場人物の心情を表現することが求められます。舞台が完成すれば、すぐに芝居ができるというわけではないのです。舞台づくりと同じように、役者たちも本番に向けて稽古を重ねなければなりません。
大学生も、舞台の上で役者になる
茨城大学の記事には、興味深い学生の姿が紹介されています。人文社会科学部3年生の村上瑠奈さんです。村上さんは、常陸大宮市に父親の実家があり、以前からこの土地になじみがあったそうです。そして、西塩子の回り舞台という伝統芸能の存在を知り、感動と親近感を覚えて、出演を決めました。
村上さんは、西若座の一員として『太功記十段目 尼ケ崎閑居の場』に出演するため、週3回の稽古を重ねていたと紹介されています。
ここが、とても大切なところだと思います。大学生たちは、舞台づくりを手伝うだけではありません。実際に役者として舞台に立ち、芝居を演じることにも挑戦しているのです。
舞台を組み立てるためには、木や竹を扱う技術が必要です。一方、芝居を演じるためには、せりふや所作を身につけ、仲間と呼吸を合わせる時間が必要になります。どちらも、一朝一夕にはできません。そして、どちらも人から人へ伝えていかなければ、続けることが難しくなるでしょう。舞台を作る技術と、芝居を演じる技術。西塩子では、その二つが一緒に受け継がれようとしているのです。
ポスターの主役は、なぜ演目ではなく「回り舞台」なの?
ここで、少し面白いことに気づきます。一般的な芝居の公演なら、ポスターには演目や出演者の名前が大きく書かれていることが多いでしょう。ところが、西塩子の回り舞台を紹介する広報では、演目以上に「西塩子の回り舞台」という名前が前面に出ています。これは、どうしてなのでしょうか?

一つ考えられるのは、「西塩子の回り舞台」が単なる舞台装置の名前ではなく、舞台づくりと公演を含む、地域全体の催しとして知られているからです。実際、茨城大学の記事では、歌舞伎の上演だけでなく、吹奏楽や合唱、お笑いなど、学生たちによるさまざまな発表も紹介されています。
つまり、回り舞台は歌舞伎のための設備であると同時に、多くの人が集まり、芸能を披露する場所にもなっているのです。もちろん、ポスターを作った人がどんな意図で演目より舞台の名前を目立たせたのかは、確認できていません。
でも、ここでは「何を演じるか」と同じくらい、「この舞台が再び立ち上がること」に意味があるのかもしれません。長い時間をかけて地域の人たちが作った舞台に、役者が立つ。それを観客が見つめる。その一連の出来事が、西塩子の回り舞台という行事なのでしょう。
舞台を作る人も、祭りの担い手
芝居が始まると、観客の視線は役者に集まります。せりふに耳を傾け、物語に引き込まれ、場面が変わる瞬間には回り舞台の仕掛けに驚く。その時間を楽しむために、観客は集まってくるのでしょう。でも、その舞台が完成するまでに、どれほど多くの人が力を尽くしてきたのでしょうか。
竹を切り出す人。重い部材を運ぶ人。縄を結び、屋根を組み上げる人。役者の稽古を支える人。当日の準備を整える人。それぞれの仕事は、舞台の上からは見えないでしょう。けれども、誰かがその役割を担わなければ、公演は成り立たないのです。
考えてみれば、祭りとは、当日の華やかな時間だけを指すものではないのでしょう。準備のために人が集まり、教え合い、協力する。その時間にも、地域のつながりが育まれていきます。舞台を作ることだけでは、祭りは完成しない。でも、舞台を作ることもまた、祭りの大切な一部なのです。
そして、西塩子の回り舞台には、もう一つ大きな意味があります。それは、地域の人たちが「また集まろう」と思える場所を、自分たちの手で作っていることです。
芝居を演じる人がいる。観ることを楽しみにしている人がいる。そして、その人たちのために舞台を作る人がいる。そんな関係が続いてきたからこそ、西塩子の回り舞台は、地域の誇りになったのかもしれません。
けれども、その伝統を続けることは、決して簡単ではなくなっています。3年に一度だった公演は、今回、6年ぶりの開催となりました。次は、舞台の復活を難しくしている現実と、それでも続けようとする人たちの思いを見つめてみましょう。
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6年ぶりの復活は、なぜ難しかったの?
3年に一度、山あいの集落に現れる巨大な舞台。公演が終われば解体され、次の開催まで姿を消します。けれども、西塩子の人たちは、その舞台を何度も作り直してきました。次の公演があることを信じて…。ところが、2025年の公演は、実に6年ぶりとなりました。
いつもなら3年に一度の舞台が、なぜこれほど長く姿を消していたのでしょうか。その背景には、コロナ禍による中断だけではなく、地域が抱える深刻な問題がありました。
3年に一度の祭りが、6年ぶりになるということ
新型コロナウイルスの感染拡大によって、日本各地の祭りや伝統行事が中止や延期を余儀なくされました。西塩子の回り舞台も、その影響を受けた行事の一つです。大勢の人が集まり、力を合わせて舞台を組み立てる。役者たちは稽古を重ね、当日には多くの観客を迎える。
そんな催しを、感染拡大が続く中で開催するのは難しかったのでしょう。ただし、西塩子の場合、単に公演の日程を延期すれば済む話ではありません。舞台は常設されているわけではなく、公演のたびに一から組み立てる必要があります。3年に一度の行事が一度途切れると、次の開催までに長い時間が流れてしまうのです。
しかも、その間にも、地域の人々は年齢を重ねていきます。前回は持ち上げられた重い木材が、今度は負担になるかもしれない。
以前は当たり前のように参加できた人が、体力的な理由で参加をためらうこともあるでしょう。祭りが止まっている間も、地域の時間は止まってくれないのです。
「やりたい」と「できる」は、同じではない
2025年10月20日付の『よみうりタウンニュース』には、西塩子の回り舞台保存会会長、大貫孝夫さんの言葉が紹介されています。当時78歳だった大貫さんは、舞台を組み立てたい気持ちはあるものの、以前ほど体力に自信が持てなくなっていたと語っています。この言葉には、伝統を守ることの難しさが表れているように思います。
「残したい」という思いがあっても、それだけでは巨大な舞台を組み立てることはできません。竹を切り出し、木材を運び、高い場所で屋根を組み上げる。一つひとつの作業に、人の力が必要です。しかも、誰でもすぐにできる仕事ばかりではありません。
長年の経験によって身につけた技術や、作業の順序を理解している人の存在も欠かせないのです。昔から地域を支えてきた人たちが高齢になれば、舞台を組み立てる力も少しずつ失われていきます。それは、単なる人手不足ではありません。舞台を作る技術を知っている人が、少なくなっていくということでもあるのです。
かつて、舞台は半世紀も姿を消していた
実は、西塩子の回り舞台が途絶えそうになったのは、今回が初めてではありません。保存会の記録によると、終戦の1945年を最後に、舞台の組み立ては長く行われなくなりました。その後、地域に残されていた道具や資料の調査をきっかけに、舞台を復元しようという動きが始まります。
1994年には、当時の西塩子地区の全70世帯が会員となって保存会を結成しました。しかし、復元は簡単には進みませんでした。かつて舞台を組み立てていた世代の人々は、すでに亡くなっていました。道具は残っていても、組み立て方が分からない。作業の手順を教えてくれる人が、ほとんどいなかったのです。
さらに、費用や労働の負担をどうするかという問題もありました。なぜ、今になって大変な思いをして舞台を復活させなければならないのか? そんな疑問も生まれたといいます。それでも、地域の人たちは諦めませんでした。
ほかの地域の組み立て舞台を見学し、地芝居に関わる人々と交流しながら、失われかけた技術を学び直していきました。そして1997年、約半世紀ぶりに西塩子の回り舞台が復活したのです。
一度途絶えた伝統を取り戻すために、どれほどの時間と努力が必要だったのでしょうか。この経験を知ると、6年ぶりの公演に向けた人々の思いも、違って見えてきます。舞台を作らない時間が長くなれば、それだけ再開が難しくなる。西塩子の人たちは、そのことを誰よりもよく知っていたのかもしれません。
地域の人だけで、守り続けられるの?
西塩子の回り舞台は、1997年の復活以降、地域の外からも協力者を迎えるようになりました。保存会は早い段階から、地元の人たちだけで舞台を維持し続けることには限界があると考えていたそうです。
そのため、舞台の組み立てや衣装づくり、公演当日の運営などに、地域外のボランティアの力を借りるようになりました。そして2025年の公演でも、保存会だけでなく、有志による運営委員会が協力し、ボランティアの募集や資金集めが進められました。舞台の維持や公演には、材料費などの経費もかかります。
保存会は、クラウドファンディングにも挑戦しました。人手だけでなく、資金面でも地域の外に協力を求めたのです。ここには、伝統の守り方が少しずつ変わってきた姿が見えます。かつては、村の人々が自分たちの力で舞台を作っていました。
しかし、人口が減り、高齢化が進む中で、同じやり方を続けることは難しくなっています。だからといって、伝統を諦めるのではありません。地域の外からも人を迎え、一緒に舞台を作っていく。「地元の人だけで守る」ことから、「地元の人を中心に、みんなで守る」ことへ。それもまた、時代に合わせた伝統の受け継ぎ方なのではないでしょうか。
復活することより、続けることのほうが難しい?
保存会の公式サイトには、印象的な言葉があります。現在は、舞台を復活させること以上に、継続することの難しさを感じているというのです。半世紀ぶりの復活を成し遂げた地域だからこそ、その言葉には重みがあります。
一度だけ舞台を作り上げることなら、大勢の人が力を合わせれば実現できるかもしれません。でも、その次はどうでしょう。3年後にも、竹を切り出す人がいるでしょうか。組み立て方を知る人がいるでしょうか。芝居を演じる人や、公演を楽しみに待つ人がいるでしょうか。
そして、さらにその3年後は…。伝統を守るとは、過去の姿を一度だけ再現することではありません。次の世代が、もう一度それを実現できるようにしておくことなのだと思います。
西塩子の回り舞台は、2025年10月25日、6年ぶりとなる第8回定期公演を迎えました。その舞台には、地域の人たちだけでなく、さまざまな場所から集まった協力者たちの力が注がれています。中でも注目したいのが、茨城大学の学生たちです。
大学生は、数年後には卒業していく存在です。けれども、大学には毎年、新しい学生が入学してきます。3年に一度の舞台と、4年間の大学生活。一見すると異なる二つの時間の流れが、うまく重なれば、伝統を未来へつなぐ新しい仕組みになるかもしれません。
次は、西塩子の回り舞台に関わる大学生たちの姿から、若い世代が伝統を支える可能性を考えてみましょう。
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3年に一度の祭りを、大学生が支えられるの?
3年に一度、地域の人々が力を合わせて組み立てる、西塩子の回り舞台。その伝統を守るうえで、大きな課題になっているのが高齢化と人手不足です。長年、舞台づくりを支えてきた人たちは、毎年少しずつ年齢を重ねていきます。では、若い世代に協力してもらえば、問題は解決するのでしょうか。
もちろん、それほど簡単な話ではありません。舞台を作る技術は、一度手伝っただけで身につくものではないからです。でも、西塩子には、地域の人たちと一緒に伝統を支えようとする若者たちがいます。茨城大学の学生たちです。そして、その関係は、今回の6年ぶりの公演で突然始まったものではありませんでした。
大学は、いつから舞台づくりを手伝っていたの?
茨城大学と西塩子の回り舞台には、長い交流の歴史があります。大学の過去の報告書によると、2006年の舞台組み立てには、すでに学生たちがボランティアとして参加していました。さらに2008年には、日本史を専攻する学生や大学院生を中心に約25人が参加し、卒業生や教員も協力しています。
地元の人たちと一緒に竹を切り出し、運び、舞台を組み立てる。公演当日には、受付や舞台裏の仕事も手伝いました。大学で歴史を学ぶ学生たちが、実際に地域の歴史の中に飛び込んでいったのです。
教室で古文書を読んだり、伝統文化について学んだりすることも大切でしょう。けれども、山に入って竹を運び、地域の人たちから作業を教わる経験には、教科書だけでは得られない学びがあります。
舞台の部材が、どれほど重いのか。竹を組み上げるために、どれほどの人手が必要なのか。そして、地域の人たちが、どんな思いで舞台を守っているのか。文化を研究することと、文化を支える人たちと一緒に汗を流すこと。西塩子では、その二つが結びついてきたのです。
学生たちは、自分たちに何ができるか考えた
2025年の公演に向けて、茨城大学では新しい学生グループが生まれました。「茨大西塩子チーム」、通称「INT」です。2024年秋に発足したこのグループは、主に舞台の魅力を地域の外へ伝える活動に取り組みました。茨城大学の紹介記事には、立ち上げメンバーの一人、河合翔太さんの考えが紹介されています。
舞台を組み立てる中心となるのは、技術を持つ職人や地域の人たちです。資金を集めることも、学生だけでは簡単ではありません。では、自分たちには何ができるのか? 河合さんたちが見つけた役割は、西塩子の回り舞台という伝統文化の存在を、もっと多くの人に知ってもらうことでした。
学生たちは、高校で出前授業を行ったり、子ども向けのパンフレットを作ったりして、舞台の魅力を伝えました。もちろん、舞台づくりにも参加しています。地元の里山から竹を切り出し、桟敷席の装飾や、のぼり旗の土台づくりなどにも取り組みました。
ここで大切なのは、学生たちが、ただ言われた仕事を手伝っているだけではないということです。自分たちにできることを考え、新しい役割を見つけている。伝統を守るために必要なのは、昔と同じ仕事をする人だけではないのです。
舞台を知らなかった学生も、舞台に立った
2025年10月11日。定期公演に先立って、「茨大の日」と名づけられた舞台開きのイベントが開催されました。企画の中心となったのは、INTの学生たちです。この日、舞台には茨城大学の吹奏楽団や合唱団、お笑いサークルなどが登場しました。

さらに、地域を題材にした紙芝居や、竹灯籠づくりなどの企画も行われました。農村歌舞伎の舞台に、大学生たちのさまざまな活動が集まったのです。ここには、伝統を次の世代へつなぐための、一つの工夫があるように思います。
初めから農村歌舞伎に興味を持っている学生ばかりではないでしょう。むしろ、回り舞台という名前すら知らなかった人もいたはずです。でも、吹奏楽や合唱、お笑いといった自分の得意なことを通じて、舞台に立つ機会が生まれる。その経験が、地域の伝統文化を知るきっかけになるのです。
INTのメンバーである村上瑠奈さんも、大学の紹介記事で、これまで回り舞台を知らなかった学生たちに接点を作れたことを喜んでいます。伝統文化に関心のある人だけを集めるのではなく、別の興味を持つ人たちにも扉を開く。それは、これからの地域文化にとって、とても大切なことなのかもしれません。
3年に一度の祭りと、4年間の大学生活
ここで、少し面白いことに気づきます。西塩子の回り舞台は、基本的に3年に一度の公演です。一方、大学生の多くは、4年間を大学で過ごします。
例えば、1年生のときに舞台づくりに参加した学生なら、順調に次の公演が開かれれば、4年生でもう一度参加できる可能性があります。初めて参加したときは、地域の人たちから教わる側だった学生が、次の公演では後輩に経験を伝える側になる。そんな循環が生まれるかもしれません。

しかも、大学には毎年、新しい学生が入学してきます。地域の人々が年齢を重ねていく一方で、大学には新しい若い世代が加わり続けるのです。
もちろん、大学生は卒業すれば地域を離れることもあります。3年に一度の公演だけに参加しているのでは、経験を引き継ぐ前に卒業してしまう学生もいるでしょう。だからこそ、公演のない年にも活動を続け、先輩から後輩へ知識や経験を伝える仕組みが重要になります。
今回のINTが、今後どのような形で活動を引き継いでいくのかは、まだ分かりません。けれども、大学という場所には、毎年新しい仲間を迎えられる強みがあります。3年に一度しか姿を現さない舞台を、毎年新しい学生がやってくる大学が支える。その組み合わせには、伝統を未来へつなぐ可能性が秘められているように思います。
地域の人と大学生は、何を教え合えるの?
西塩子の舞台づくりを知っているのは、長年その伝統を守ってきた地域の人たちです。どの竹を選ぶのか。どこに力がかかるのか。どんな順番で部材を組み上げるのか。そうした知恵は、実際に何度も舞台を作ってきた人たちの中に蓄積されています。
一方、大学には、歴史や地域文化を研究する教員や学生がいます。昔の資料を調べ、舞台の成り立ちを考えることもできるでしょう。写真や映像で作業を記録したり、子どもたちに伝わりやすい教材を作ったりすることも考えられます。
実際、茨城大学では、以前から歴史教育や地域連携の一環として舞台づくりへの参加が行われてきました。2025年の活動でも、人文社会科学野の西野由希子教授が長年支援に関わってきたことが、学生グループ発足のきっかけになっています。
つまり、西塩子の人々と大学との協力は、単なる労働力の補充ではないのです。地域の人たちは、長年の経験から得た技術や知恵を伝える。学生たちは、それを学び、記録し、外へ発信する。そして、その活動を通じて、学生自身も地域の歴史や人々の暮らしを学んでいく。
教える人と教わる人が、互いに新しい発見をする関係。そんなつながりが、伝統を守る力になっているのでしょう。
若い人に伝統を残すのではなく、一緒に楽しむ
伝統文化の継承というと、年長者が若い人に技術を教え、若い人がそれを受け取る姿を想像しがちです。
もちろん、それは大切なことです。でも、若い世代に「大切な伝統だから守りなさい」と言うだけでは、長く続けるのは難しいかもしれません。
自分が参加して楽しかった。地域の人と知り合えてうれしかった。知らなかった文化に出会って、もっと知りたくなった。そんな気持ちがあってこそ、次も参加したいと思えるのではないでしょうか。茨城大学の村上瑠奈さんは、INTの活動に加え、地元有志の一座「西若座」の一員として芝居にも挑戦しました。
舞台の裏側を知り、地域の人たちと関わり、今度は自分自身が舞台に立つ。それは、単に伝統を手伝うという経験を超えたものだったのでしょう。地域の文化は、博物館の展示物のように、遠くから眺めているだけではありません。そこに加わり、人と出会い、同じ時間を過ごすことができるのです。
そして、大学生たちが卒業したあとも、西塩子で過ごした時間は、それぞれの記憶に残るでしょう。たとえ将来、別の土地で暮らすようになっても、あの山あいの集落に、自分も一緒に作った舞台がある。そう思える人が増えることも、伝統を支える力になるのかもしれません。
地域の人だけの誇りだったものが、関わった人みんなの誇りになっていく。西塩子の回り舞台には、そんな未来も見えてきます。そして、舞台は公演が終われば、また解体されます。せっかく多くの人が力を合わせて作ったものが、形としては消えてしまうのです。
それでも、人々はなぜ、何度でも舞台を作ろうとするのでしょうか。最後は、西塩子の人たちが未来へ残そうとしている「誇り」の正体を考えてみたいと思います。
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舞台が消えても、誇りは残るの?
公演が終わった西塩子の回り舞台は、やがて解体されます。木や竹を組み上げた大きな屋根も、役者が立った舞台も、観客が集まった客席も…。あれほど多くの人が力を合わせて作り上げたものが、少しずつ元の部材へと戻っていくのです。なんだか、もったいない気もします。
せっかく完成したのだから、そのまま残しておけばいいのに…。でも、ここまで西塩子の回り舞台をたどってくると、少し違うことが見えてきます。舞台がなくなることと、伝統がなくなることは、同じではないのかもしれません。
残しておけない舞台に、なぜ価値があるの?
歴史ある建物と聞くと、私たちは、その姿をできるだけ長く残そうと考えます。古いお寺や神社、芝居小屋などは、修理を重ねながら大切に守られてきました。そこに建物が残っていれば、昔の人々がどんなものを作り、どんな場所で暮らしていたのかを知ることができます。
ところが、西塩子の回り舞台は違います。公演のたびに組み立て、終われば解体する。常に同じ場所に建っているわけではありません。けれども、舞台がなくなっても、組み立て方を知る人がいれば、再び作ることができます。
木や竹をどのように組み合わせるのか。どこに縄を結び、どうやって大きな屋根を支えるのか。そうした知恵が受け継がれていれば、舞台は何度でも姿を現すのです。つまり、西塩子の回り舞台は、完成した建物だけに価値があるのではありません。
解体して、でも人々が力を合わせれば、もう一度作り上げられること。その力そのものが、地域の宝物なのではないでしょうか。
舞台がなくなったあと、何が残るの?
舞台を解体したあとも、人々の中には、さまざまな記憶が残ります。初めて竹を切り出した日のこと。慣れない作業に戸惑いながら、地域の人に教えてもらったこと。仲間と一緒に重い部材を運んだこと。稽古を重ね、ようやく本番の舞台に立ったこと。
そして、観客の前で芝居を演じ終えたときの気持ち。それらは、舞台の部材のように倉庫へしまっておくことはできません。けれども、一緒に過ごした時間は、人と人とのつながりになって残っていきます。
今回の6年ぶりの公演では、地域の人たちに加え、茨城大学の学生たちも舞台づくりや公演に参加しました。学生たちは、やがて卒業していくでしょう。仕事に就き、別の土地で暮らす人もいるかもしれません。それでも、あの山あいの集落で、自分も舞台づくりに関わったという経験は残ります。
何年かあとに、西塩子の回り舞台のニュースを目にしたとき。「あの舞台、昔、私も作ったんだよ」そんなふうに誰かに話す人がいるかもしれません。伝統を受け継ぐというのは、技術を覚えることだけではないのでしょう。その場所を大切に思う人を、一人ずつ増やしていくことでもあるのです。
「地元の誇り」は、地元の人だけのもの?
西塩子の回り舞台を守ろうとする人たちは、「地元の誇りをなくしたくない」という思いを抱いています。その気持ちは、とても自然なものだと思います。自分たちの先祖が作り、何世代にもわたって受け継いできた舞台。そこには、地域の歴史が詰まっています。
でも、伝統を守る人が少なくなった今、その誇りを地域の人だけで背負い続ける必要はあるのでしょうか。西塩子の回り舞台には、すでに地域の外から多くの人が関わっています。舞台づくりを手伝う人、公演を支える人、芝居を演じる人、そして、舞台を観に訪れる人…。
その中には、西塩子で生まれ育ったわけではない人もいるでしょう。けれども、一緒に汗を流し、同じ舞台を見つめた人たちにとって、西塩子は単なる知らない土地ではなくなっていくのではないでしょうか?
地域の誇りは、地域の外の人に分けたからといって、小さくなるものではありません。むしろ、大切に思ってくれる人が増えるほど、守る力も大きくなっていく。地元の人が守ってきた誇りを、地元の人だけのものにしない。それも、これからの伝統文化に必要な考え方なのかもしれません。
伝統を守ることは、昔と同じことを繰り返すこと?
西塩子の回り舞台は、江戸時代から続くとされる伝統です。けれども、200年前と今とでは、人々の暮らしも、社会の仕組みも大きく変わりました。かつては、農作業の合間に地域の人々が集まり、舞台を組み立てていました。公演が終われば解体し、土地を元の畑へ戻していたのです。
今は、地域の人口が減り、高齢化も進んでいます。昔と同じ人数で、同じように舞台を作り続けることは難しくなりました。だから、地域の外から協力者を迎える。大学生が参加し、広報活動を行い、舞台づくりを手伝う。新しい方法で資金を集める。そうした変化を、伝統から外れたものだと考える必要はないのでしょう。
大切なのは、昔のやり方を一つも変えないことではなく、舞台を再び作り上げるための知恵や技術を、次の世代へ伝えていくことなのだと思います。そして、舞台が完成したら、そこで芝居を演じる。観客が集まり、物語を楽しむ。
公演が終われば、また解体する。変わるものがあるからこそ、変わらずに続けられるものがある。西塩子の回り舞台は、そんなことを教えてくれているようです。
次の3年後にも、舞台は立ち上がるの?
2025年、西塩子の回り舞台は6年ぶりに復活しました。けれども、それで伝統を守る仕事が終わったわけではありません。次の公演に向けて、また人を集めなければなりません。竹を切り出し、木材を運び、舞台を組み立てる。芝居を演じる人たちも、稽古を重ねる必要があります。そして、観客を迎える準備も欠かせません。
3年後に、同じ人たちが全員そろうとは限りません。地域の人々は年齢を重ね、大学生たちは卒業していきます。それでも、新しい人が加わり、経験を持つ人が教え、次の公演へとつないでいくことができれば…。舞台は、またあの山あいに姿を現すでしょう。
考えてみれば、西塩子の回り舞台は、ずっとそうして受け継がれてきたのかもしれません。舞台が解体されても、人々は次の公演を思い描く。その思いが、次の舞台づくりへとつながっていくのです。最初に抱いた疑問を、もう一度考えてみます。
舞台をつくることも、祭りなのでしょうか?
きっと、そうなのだと思います。舞台を作る人がいて、演じる人がいて、観る人がいる。そのすべてがそろって、一つの祭りになる。そして、舞台がなくなったあとも、人々の中には、次の祭りへとつながる思いが残ります。
完成した舞台は、いつか解体される。でも、そこで生まれたつながりや、受け継がれた技術まで消えるわけではありません。山あいの集落に、再び舞台が立ち上がる日を思いながら…。
人から人へ、小さなあかりを手渡していく。西塩子の人々が守ろうとしているのは、舞台そのものだけではなく、何度でも舞台を作り上げようとする、地域の誇りなのかもしれません。
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