こんにゃく。おでんに入れたり、煮物にしたり、田楽にしたり。スーパーへ行けば一年中並んでいて、値段もそれほど高くありません。あまりにも身近すぎて、「こんにゃくって、どうやって作るんだろう?」なんて、普段はあまり考えませんよね。
ところが、今回の「あさイチ中継」の舞台は滋賀県東近江市。テーマは――「伝統の手づくりこんにゃく」でした。手づくり?こんにゃくって、家で作れるの?……というより、そもそも何から作るんだっけ?
原料は「こんにゃく芋」。名前だけ聞けば、ジャガイモやサツマイモのように、掘って、蒸したり焼いたりすれば食べられそうです。ところが、この芋。そのままでは食べられません。生のこんにゃく芋にはシュウ酸カルシウムの針状結晶などが含まれ、素手で扱えば皮膚を刺激することがあります。普通の芋なら、
掘る→焼く→いただきます!🍠
なのに、こんにゃく芋は、
掘る→そのまま食べられません💦……。
だったら昔の人は、どうしてこれを見て、「よし。食べよう」と思ったのでしょう🤣 しかも、こんにゃく芋は植えたその年に大きく育つわけではありません。春に植え、秋に掘り上げ、冬を越させ、また植える。それを繰り返し、食用になる大きさまで育てるには、およそ3年。
そこから芋をゆでたり、すりつぶしたり、水を加えたり、アルカリ性の凝固剤を加えたり、練ったり、固めたり、さらにゆでたり――。ようやく、私たちの知っている、ぷるんっ♪としたこんにゃくになります。ずいぶん手間のかかる食べ物です。しかも生のこんにゃく芋は傷みやすく長期保存もできません。
だから人間は、もっと便利な方法も考えました。江戸時代には、こんにゃく芋を乾燥させて粉にする技術が生まれます。粉なら保存しやすい。なにより水分が抜けているから軽くなって運びやすい。そして一年を通してこんにゃくを作ることができる。現在、私たちがスーパーで気軽にこんにゃくを買える背景には、そんな工夫の積み重ねがあります。
ところが――。今回訪れる東近江市の永源寺地域には、もう一度、自分たちでこんにゃく芋を育て、生芋からこんにゃくを作ろうとした人たちがいます。永源寺には古くからこんにゃく文化があり、かつては茶畑の間でもこんにゃく芋が育てられていたといいます。けれど、時代とともに地元で芋を作る人は減っていきました。
そこで現代の作り手は、こんにゃく芋の栽培を学ぶため――なんと、群馬県の赤城へ。群馬といえば、現在、日本のこんにゃく芋生産の大部分を担う一大産地です。そこで栽培や加工を学び、滋賀へ持ち帰り、もう一度この土地で芋を育てる。そして、昔ながらの方法でこんにゃくを作る。
……でも、ここでひとつ「ん?」と思いました。せっかく人間は、こんにゃく芋を粉にして、保存しやすく、運びやすく、一年中作れるようにしたのです。なのに――どうして今、わざわざ手間のかかる「芋からのこんにゃく作り」に戻るのでしょう?
実は私も昔、群馬県の赤城山麓に近い民宿で、宿のおばあちゃんが作った手づくりこんにゃくを食べたことがあります。それまで食べていたスーパーのこんにゃくとは違う、ブルン、ブルン。とした歯ごたえ。刺身こんにゃくになったり、味噌汁に入ったり…。
朝には近所のおばちゃんが、畑で採れたこんにゃく芋を宿へ持ってきていました。そのとき初めて、「こんにゃくって、芋から“作る食べ物”なんだ」と思ったのを覚えています。
便利になったこんにゃくを、もう一度、不便なところから作ってみる。そこには、単なる「昔ながら」だけではない理由があるのかもしれません。滋賀県東近江市から、ぷるんとしたこんにゃくの向こう側にある、ちょっと不思議な手づくりの世界をのぞいてみましょう。
【放送日:2026年10月6日(火)8:15 -9:55・NHK-総合】
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こんにゃく芋は、そのまま食べられないのに、なぜ食べようと思ったの?
こんにゃくの原料は、その名のとおり「こんにゃく芋」です。丸くてゴツゴツした姿だけを見ると、里芋の仲間のようにも見えます。だったら、掘る→洗う→煮る、あるいは焼く→いただきます!😋 ……とは、いきません。こんにゃく芋は、そのままでは食べられない芋なのです。
なぜなら生のこんにゃく芋には、シュウ酸カルシウムの針状結晶などが含まれています。皮膚や粘膜を刺激するため、家庭で生芋からこんにゃくを作る場合にも、ゴム手袋などを使って扱うことが勧められています。
しかも、「じゃあ、火を通せばいいんでしょ?」というほど簡単でもありません。普通の芋のように煮たり焼いたりしただけでは、私たちが知っているこんにゃくにはならないのです。
……ここで、どうしても「?」が浮かびます。最初にこれを食べようと思った人、いったい何を考えていたのでしょう🤣 一度食べて、「痛っ! これはダメだ💦」となったら、普通ならそこで終わりそうです。ところが、昔の人は終わりませんでした。
芋を細かくし、水を加え、さらに草木を燃やした灰から作る灰汁(あく)のようなアルカリ性のものを加える。すると、こんにゃく芋に多く含まれるグルコマンナンという成分が変化し、やがて私たちの知っている、あの弾力のあるこんにゃくになります。
つまりこんにゃくは、「畑で採れたものを、そのまま食べる食品」ではなく、人間が知恵と手間を加えることで、初めて食べ物になる食品なんですね。では、そんな面倒なことを最初に考えたのは誰だったのでしょう?
残念ながら、「世界で最初にこんにゃくを食べた○○さん」という人物は分かっていません🤣 こんにゃく芋の原産地は東南アジア周辺と考えられ、日本へ伝わった時期についても諸説あります。ただ、中国ではかなり古くからこんにゃくを加工して食べていたことが分かっています。
3世紀ごろの中国の文献『蜀都賦』には、こんにゃくを灰汁で煮て固める方法を思わせる記述があり、日本でも平安時代の辞書『和名類聚抄』にこんにゃくの記録が登場します。日本へは仏教とともに伝わったという説もあり、初めのころは僧侶や貴族などの間で食べられ、やがて精進料理とも深く結びついていきました。
そして今回の舞台、滋賀県東近江市の永源寺にも、興味深い伝承が残っています。永源寺を開いた寂室元光が中国からこんにゃく芋を持ち帰り、精進料理として用いたことが、永源寺こんにゃくの始まり――。そう伝えられているのです。
もちろん、これは史料からすべて確認できる確定した歴史というより、地域に伝わる由来として受け止めておいたほうがよさそうです。それでも、こんにゃくとお寺が結びついたのは不思議ではありません。肉や魚を使わない精進料理の中で、独特の歯ごたえを持ち、さまざまな味を受け止めてくれるこんにゃくは、重宝されていったのでしょう。
それにしても――。そのままでは食べられない。扱いにも気をつけなければならない。加工にも手間がかかる。そこまでして、人はこんにゃくを食べ続けてきました。
そして現在では、スーパーへ行けば、袋を開けるだけで料理に使えるこんにゃくが並んでいます。あまりにも身近になったため、私たちはその向こうにある「食べられない芋を食べ物へ変える作業」を、ほとんど見ることがありません。
では実際に、あのゴツゴツした芋がどうやって――ブルン、ブルン♪としたこんにゃくになるのでしょう。次は東近江に残る手づくりの現場をのぞきながら、その不思議な変身を追いかけてみましょう。
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あの“ブルンブルン”は、どうやって生まれるの?
こんにゃくのおいしさって、何でしょう。味?……と言われると、ちょっと困ります。こんにゃくそのものには、肉や魚のような強いうま味があるわけではありません。それなのに、おでんにも、煮物にも、田楽にも入っている。
私も最近、夜にうどんを食べるとき、具材が少ないとこんにゃくを入れることがあります。以前、大阪の知り合いから教えてもらったのは、たこ焼きに細かく刻んだこんにゃくを入れる方法。高くなったタコの“嵩増し要員”です(笑)。
ところが、これがなかなかいい。タコとは違うけれど、噛むとちゃんと、ブルン♪と返してくる。味ではあまり前へ出てこないのに、食感では妙に存在感がある。考えてみれば、こんにゃくとは不思議な食べ物です。
では、あの独特の“ブルンブルン”は、どうやって生まれるのでしょう?その秘密を握っているのが、こんにゃく芋に含まれるグルコマンナンです。「マンナンライフ」という「蒟蒻畑(こんにゃくばたけ)」などの商品を作っている会社の名前にも「マンナン」が使われています。
グルコマンナンは水をたっぷり抱え込む性質を持つ食物繊維です。こんにゃく芋をすりおろして水と混ぜ、そこへ昔なら草木灰から作った灰汁、現在なら水酸化カルシウムなどのアルカリ性の凝固剤を加えると、グルコマンナンが水を抱え込んだ状態で固まっていきます。これが、こんにゃく特有のプリプリとした食感のもとです。
日本こんにゃく協会によれば、こんにゃくは実に96~97%ほどが水分。ということは、私たちが箸でつまんで、「ブルン♪」とさせているものの大部分は、水なのです。水をこれだけ抱え込んでいるのに、箸で持てる。
噛めば弾力がある。煮ても簡単には溶けない。こんにゃくとは、ずいぶん不思議な“水の食べ物”なのかもしれません。
そして今回の舞台、東近江市の永源寺地域には、この食感をさらに個性的にする昔ながらの作り方が残っています。それが、「バタ練り」と呼ばれる製法です。
東近江市によれば、永源寺こんにゃくはバタ練りで作るため、粒子が粗く、不揃いになります。普通なら、「不揃い? それって欠点じゃないの?」と思ってしまいそうです。ところが、その不揃いさが、適度な弾力と独特の歯ごたえにつながっているといいます。きれいに均一であることだけが、おいしさではないんですね。
実は私が初めて、「こんにゃくって、こんなにおいしかったの?」と思ったのも、スーパーで買ったこんにゃくではありませんでした。昔、スキー帰りに群馬県の川場村あたりで泊まった民宿で、宿のおばあちゃんが作った手づくりこんにゃくを食べたことがあります。
そのこんにゃくが、とにかく、ブルン、ブルン。刺身こんにゃくとして食べたり、味噌汁に入っていたり…。それまで知っていたこんにゃくとは、歯ごたえがまるで違いました。翌朝には、近所のおばちゃんがこんにゃく芋を持って宿へやって来ました。
そこで初めて、「こんにゃくって、畑の芋から本当に作るんだ」と実感したのを覚えています。永源寺のこんにゃく作りも、決して簡単ではありません。東近江市の紹介によれば、作り手は最初のころ、芋と凝固剤の配分によってドロドロになったり、逆に硬くなったりして、何度も失敗したそうです。
水を抱え込ませる。練る。固める。ゆでる。言葉にすると単純そうなのに、その加減ひとつで食感が変わる。あの何気ない“ブルン♪”は、実はかなり繊細なバランスの上にできているようです。だからこそ、こんにゃくは精進料理でも面白い存在だったのではないでしょうか。
胡麻豆腐には、なめらかさがある。野菜には、それぞれの歯ざわりがある。けれど、こんにゃくのように、噛むと弾力を持って返してくる食感は”肉以外では”少し独特です。肉や魚を使わない料理の中でも、こんにゃくは味だけではなく、「噛む楽しさ」を加える食材として重宝されたのかもしれません。
しかも、自分自身はそれほど強い味を主張しません。だから、出汁の中にも入れる。味噌も受け止める。うどんにも入る。そして大阪では――たこ焼きの中にまで潜り込む(笑)。目立たないようでいて、噛めばちゃんと、「ここにいますよ」とブルン♪と返事をする。それが、こんにゃくという食べ物のおもしろさなのかもしれません。
ただし――。ここまで見てくると、別の疑問も浮かんできます。芋を育て、すりおろし、水を加え、凝固剤を加え、練って、固めて、ゆでる。ずいぶん面倒です。もっと簡単に作れないのでしょうか?
もちろん、頭のいい人は考えました。そして江戸時代、こんにゃくの歴史を大きく変える発明が登場します。「芋のまま運ぶのが大変なら、粉にしてしまえばいいんじゃない?」次は、こんにゃくを“季節の食べ物”から全国の日常食へと変えていった、こんにゃく粉の話です。
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こんにゃく芋を、なぜ“粉”にしたの?
ここまで、こんにゃく芋から手づくりこんにゃくができるまでを見てきました。でも、ひとつ困ったことがあります。こんにゃく芋は、保存が難しい。水分を多く含んだ生のこんにゃく芋は腐りやすく、長いあいだ保存しておくことができません。
しかも、大きく育った芋は重い。せっかく作っても、保存しにくい。運びにくい。そして、作れる季節も限られる。昔のこんにゃくは、今のようにスーパーへ行けば一年中買える食べ物ではなかったのです。
そこで江戸時代、こんにゃくの歴史を大きく変える人物が現れます。常陸国、現在の茨城県北部に暮らしていた農民、中島藤右衛門。あるとき藤右衛門は、畑で鍬によって切れてしまったこんにゃく芋が、天日にさらされて白く乾燥していることに目を留めたといいます。
そこで考えました。こんにゃく芋を薄く切り、乾燥させ、それを細かく砕いたらどうだろう。つまり――「芋のまま保存できないなら、粉にしちゃえばいいんじゃない?」こうして生まれたのが、こんにゃく芋を乾燥させて粉にする方法でした。
これが、すごかった。生の芋では腐ってしまう。でも乾燥させれば、長く保存できる。生の芋では重くて運ぶのが大変。でも粉なら、ずっと軽くなる。さらに、生芋が収穫できる時期でなくても、保存しておいた粉があればこんにゃくを作ることができます。
生芋→薄く切る→乾燥させる→粉にする→保存できる→遠くへ運べる→一年中こんにゃくが作れる
こんにゃくにとって、これはかなり大きな技術革新でした。実際、中島藤右衛門の方法によって、茨城県北部で作られたこんにゃくは江戸だけでなく、奥州や北陸など遠い地域へも販路を広げていきます。今でも茨城の「干し芋」は有名ですよね。もしかしたらこんなところにも起源があるのかもしれません。
やがてこんにゃく粉は水戸藩の専売品となり、藩の財政を支えるほどの産業へ成長しました。現在、茨城県大子町には、中島藤右衛門を「こんにゃくの神様」として祀る蒟蒻神社まであります。
食べられない芋を食べられるようにしただけでも十分すごいのに、今度は、「芋じゃなくてもいいんじゃない?」と考えてしまったわけです。人間、こんにゃくに対して妙に執念深い(笑)。
でも、この「粉にする」という発明には、もうひとつ大きな意味があったように思います。こんにゃく芋を作る土地と、こんにゃくを食べる土地が、同じでなくてもよくなったのです。
芋そのものを遠くまで運ばなくてもいい。産地で乾燥させ、粉にしてしまえば、その粉を別の土地へ運び、そこでこんにゃくを作ることができます。現在、山形名物として知られる玉こんにゃくにも、こんにゃく粉から作られるものがあります。
芋が育つ土地と、こんにゃく文化が育つ土地は別でもいい。そう考えると、「粉」という小さな発明が、こんにゃくを日本各地へ旅させたともいえそうです。そして、その旅の中で重要な土地になったのが――群馬県。
群馬では、中島藤右衛門が粉こんにゃくを考案するより前から、こんにゃく芋が栽培されていたと伝えられています。明治時代になると、現在の群馬県富岡市の商人・篠原粂吉が、こんにゃくの産地だった常陸国で水車を使った製粉方法を見て、その技術を群馬へ持ち帰ったとされています。
こんにゃく芋を育てるのに適した土地があり、水車を動かす川があり、そこへ茨城から製粉技術がやってくる。それらが結びつき、群馬のこんにゃく産業は大きく発展していきました。現在では、国産こんにゃく芋のほとんどを群馬県が生産するまでになっています。
ここまで来ると、こんにゃくという食べ物が、ずいぶん動き回ってきたことに気づきます。ある土地で芋が育てられ、別の土地で新しい加工方法が生まれ、その技術がまた別の土地へ伝わる。そして粉になったこんにゃくは、さらに全国へ。こんにゃく、意外と旅をしています(笑)。
そして今回訪れる滋賀県東近江市の永源寺にも、昔からこんにゃくを作る文化がありました。ところが時代とともに、地元でこんにゃく芋を栽培する人は少なくなっていきます。粉があれば、こんにゃくは作れる。わざわざ手間のかかる芋を育てなくても、こんにゃくそのものはなくなりません。それなのに――。
永源寺では、もう一度、「自分たちで、こんにゃく芋を育てよう」と考えた人がいました。しかも、うまく育てられなかった彼らが栽培を学びに向かった先は、群馬県の赤城山麓でした。
粉にすることで土地を越えていったこんにゃくが、今度は「芋を育てる技術」となって群馬から滋賀へ戻ってくる。なんだか、ずいぶん長い旅です。
でも、ここで新しい「?」が浮かびます。粉があれば、一年中作れる。保存もしやすい。運ぶのも簡単。人間はせっかく、こんにゃくをこんなに便利な食べ物にしたのです。
それなのに――どうして今、わざわざ3年もかけてこんにゃく芋を育て、そこから手づくりしようとするのでしょう?次は、永源寺のこんにゃく作りがあえて取り戻そうとした「手間」の理由を追いかけてみましょう。
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便利になったのに、なぜもう一度“芋から”つくるの?
こんにゃく芋を粉にする。それは、こんにゃくをとても便利な食べ物にした発明でした。保存できる。遠くまで運べる。季節を問わず作ることができる。しかも現在では、こんにゃく芋の栽培から製粉、こんにゃくへの加工まで技術が進み、私たちは一年中、スーパーで気軽にこんにゃくを買うことができます。
それなら――。もう、わざわざ生のこんにゃく芋から作らなくてもいいのでは? ところが今回の舞台、滋賀県東近江市の永源寺地域では、もう一度、自分たちでこんにゃく芋を育て、生芋からこんにゃくを作ろうとした人たちがいます。
この地域では、かつてこんにゃく芋の栽培が盛んでした。東近江市によれば、昔は茶畑の茶の木と茶の木の間にもこんにゃく芋が植えられていたといいます。お茶を育てる畑の、その足元にこんにゃく芋。こんにゃくは、特別な観光資源としてそこにあったのではありません。暮らしの風景の中に、普通にあった作物だったのでしょう。
ところが、時代とともに地元でこんにゃく芋を栽培する農家は減っていきました。こんにゃくそのものが食べられなくなったわけではありません。粉を使えば作ることができます。お店へ行けば完成したこんにゃくも買えます。
つまり、「こんにゃく」は残っている。けれど、「こんにゃく芋を育てて、こんにゃくにする暮らし」は消えかけていた。ここには、ずいぶん大きな違いがあるように思います。
現在、永源寺でこんにゃく作りを続ける作り手の一人が、端修吾さんです。端さんがこんにゃく芋の栽培を始めたのは、まだ銀行員だったころ。地元がこんにゃくの産地として知られているのに、原料となるこんにゃく芋を作る人がほとんどいないことに疑問を感じたことが、きっかけの一つだったといいます。
ならば、自分で育ててみよう。ところが――うまくいきません。こんにゃく芋は、植えれば勝手に大きくなってくれる作物ではありません。食用になる大きさまで育つには、およそ3年。寒さに弱く、水はけにも気を配る必要があり、病気にも弱い。
一年目の小さな芋を秋に掘り上げ、冬の間は保存し、翌春にまた植える。そしてまた秋に掘る。さらに翌年、もう一度植える。
植える→掘る→冬を越す→植える→掘る→冬を越す→また植える
……こんにゃく一枚に、ずいぶん時間がかかっています。端さんも最初は失敗を繰り返しました。
そこで、こんにゃく芋の栽培を学ぶために向かったのが――群馬県の赤城山麓でした。群馬県は、現在では国産こんにゃく芋のほとんどを生産する日本最大の産地です。赤城山周辺には火山灰を含む水はけのよい土地が広がり、こんにゃく栽培が発達してきました。
そこで栽培方法を学び、永源寺へ持ち帰る。そして試行錯誤を重ねながら、この土地でもう一度こんにゃく芋を育てる。ここまで聞くと、「昔ながらの伝統を守りました」という一言だけでは、少し違う気がしてきます。
だって、昔のやり方を知っている人から、そのまま受け継いだわけではないのです。一度、途切れかけた。だから、外へ出た。別の土地の人から習った。そして、その知恵を持って帰ってきた。永源寺の伝統を残すために、群馬へ行って新しく学び直した。これって、ちょっと面白くないですか。
私が昔、群馬の民宿で見た光景を思い出します。朝になると、近所のおばちゃんがこんにゃく芋を持ってくる。宿のおばあちゃんが、それをこんにゃくにする。そして、泊まっていた私たちが食べる。あのときは、「群馬って、こんにゃくの土地なんだなあ」くらいにしか思っていませんでした。
でも、その土地で受け継がれていた栽培の知恵を、遠く滋賀県から学びに来た人がいた。そして今度は、その知恵が永源寺のこんにゃくを支えている。そう考えると、あの朝に見たこんにゃく芋まで、今回の東近江の話とどこかでつながっているように感じてしまいます。
もちろん、生芋から作れば、それだけで何でもおいしくなるわけではありません。粉には粉の良さがあります。保存できるからこそ、こんにゃくは全国へ広がりました。一年中作れるからこそ、私たちはこんにゃくを日常の食べ物として安い値段で楽しめます。
だからこれは、「昔の製法は偉い。便利な製法はダメ」という話ではありません。むしろ逆です。便利になったからこそ、もう一度、「自分たちは何を残したいのか」を選べるようになったのかもしれません。
こんにゃくそのものを残すだけなら、粉を買えばいい。でも、畑で芋を育てる人がいる。その芋を加工する人がいる。練り方を知っている人がいる。そして、それを食べて、「このこんにゃく、ブルンブルンだね」と言う人がいる。
そこまで含めて「永源寺こんにゃく」なのだとしたら――。彼らが取り戻そうとしたのは、昔の作り方だけではなかったのかもしれません。こんにゃくを作る“つながり”そのものだったのかもしれません。
そして、ここまで来ると、もう一つ気になることがあります。永源寺の伝統を守るために、群馬へ行って新しい技術を学ぶ。それでも、これは「昔ながらの伝統」と呼べるのでしょうか? もしかすると私たちは、「伝統=昔と同じことを、ずっと同じ場所で続けること」だと思い込んでいたのかもしれません。では――。“手づくり”とは、昔に戻ることなのでしょうか?
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“手づくり”って、昔に戻ることなの?
「伝統の手づくりこんにゃく」。
そう聞くと、昔から同じ土地で、同じ材料を使い、同じ作り方を、何百年も変えずに守ってきた――。そんな姿を想像してしまいます。でも、ここまでこんにゃくの歴史をたどってくると、どうも少し違うようです。
そもそも、こんにゃくそのものが旅をしてきました。こんにゃく芋の原産地は東南アジア周辺と考えられています。中国では古くから加工して食べる方法が知られ、やがて日本にも伝わりました。永源寺にも、中国からこんにゃく芋が持ち帰られ、精進料理に使われたという伝承があります。
つまり、こんにゃくは最初から、「ずっとここにあったもの」ではありません。誰かが持ってきた。誰かが作り方を教えた。誰かがそれを受け継いだ。そこから始まっています。
そして江戸時代。茨城では中島藤右衛門が、腐りやすく重いこんにゃく芋を乾燥させ、粉にする方法を考えました。こんにゃくは保存できるようになり、遠くへ運べるようになり、一年を通して作れる食べ物へ変わっていきます。
その製粉技術は、のちに群馬へも伝わりました。群馬にはこんにゃく芋を育てるのに適した土地があり、栽培と加工の技術が結びつき、日本を代表する産地へ成長していきます。
そして現代。今度は永源寺の作り手が、地元で途切れかけていたこんにゃく芋の栽培を取り戻すため、群馬の赤城へ学びに行きました。並べてみると、なんだか面白い。中国から日本へ。茨城から群馬へ。群馬から滋賀へ。こんにゃくは、ずっと動いているのです。
作り方も変わりました。育て方も変わりました。便利な技術が生まれれば、それも取り入れてきました。そして必要になれば、別の土地へ出かけて、もう一度教えてもらう。そう考えると、伝統とは「変えないこと」ではないのかもしれません。
もし何も変えてはいけないのなら、こんにゃく芋を粉にした時点で「伝統ではない」となってしまいます。群馬へ栽培を習いに行くことだって、昔と同じではありません。でも、それをしなければ、永源寺でこんにゃく芋を育てる風景そのものが消えていたかもしれない。
残したいものがあるから、変える。そんな伝統の守り方もあるのでしょう。そして、ここで最初の疑問に戻ってみます。便利なこんにゃく粉があるのに、なぜ、わざわざ芋から作るの? もしかすると答えは、単に、「昔ながらのこんにゃくのほうがおいしいから」だけではないのでしょう。
芋を植える人がいる。何年もかけて育てる人がいる。それを掘り上げる人がいる。すりおろし、練り、固める人がいる。そして、「今年もできたね」と食べる人がいる。手づくりで残しているのは、こんにゃくという食品だけではなく、そんな人と土地とのつながりなのかもしれません。
私が昔、群馬の民宿で見た光景もそうでした。朝、近所のおばちゃんがこんにゃく芋を持ってくる。宿のおばあちゃんが、それをこんにゃくにする。泊まっていた私たちが食べる。そして何十年もたった今でも、「あのこんにゃく、ブルンブルンだったなあ」と覚えている人間がいる(笑)。考えてみれば、それも小さな「受け渡し」だったのかもしれません。
作り方を教えてもらわなくてもいい。芋を育てなくてもいい。食べて、「おいしかった」と覚えている。それだけでも、食文化は次の誰かへ少しだけ渡っていきます。
だから「手づくり」とは、昔へ戻ることではないのでしょう。昔の知恵を抱えたまま、別の土地から学び、新しい技術とも付き合いながら、次の人へ渡せる形に作り直していくこと。
こんにゃくが、あの柔らかそうな姿で何百年も残ってきたのは――。意外にも、変わることを拒まなかったからなのかもしれません。
そして明日もまた、永源寺ではこんにゃく芋が育ちます。その芋が、すりおろされ、練られ、固められて――。最後はやっぱり、ブルン♪と食卓にやってくるのです。
こんにゃく工房
- 滋賀県東近江市永源寺相谷町1185
- TEL:0748-27-0713
- 営業時間:9:00~18:00
- 定休日:なし
- URL:https://www.konnyaku.jp/
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