私たちは、いったいいくら税金を払っているのでしょう? 働けば所得に税金がかかります。買い物をすれば消費税。家を持てば固定資産税。車に乗れば、自動車にかかわる税金もあります。一つひとつを見れば、それぞれに理由があります。
そして国や自治体からは、「税金は、私たちの暮らしを支えるために使われています」と説明されます。確かにそうなのでしょう。道路を走る。ごみを収集してもらう。子どもたちが学校へ通う。火事になれば消防車が来る。犯罪が起きれば警察が動く。病気や介護などで支援が必要になったときには、社会全体で支える仕組みもあります。
普段は意識していなくても、私たちの暮らしのあちこちに税金は使われています。それなのに――。どうして私たちは、こんなにも税金にモヤモヤするのでしょう。
「これだけ払って、何が返ってきたんだろう?」
税金について考えていると、どうしてもこんな気持ちになることがあります。毎月の給与明細を見れば、いろいろなお金が差し引かれている。買い物をすれば、レシートには消費税が書かれている。もちろん税と社会保険料は別の仕組みですが、家計から出ていく側にしてみれば、どちらも決して小さな負担ではありません。ところが、「これだけ負担しているんだから、これだけ自分に返ってきました」というものは見えにくい。それも当然で、税金は自分が払った分だけ自分にサービスとして返してもらう仕組みではありません。
今日、自分が使わなかったお金が、どこかで困っている誰かを支えていることもあります。そして明日は、自分が支えてもらう側になるかもしれません。それが社会で支え合うということなのでしょう。
理屈では分かります。でも――。理屈で分かることと、納得できることは、どうやら同じではありません。
本当に知りたいのは「ちゃんと使ってる?」なのかもしれない
私たちが知りたいのは、税金が必要か必要でないかという話だけではないのかもしれません。集めたお金は何に使われているのか? 本当に必要なところへ届いているのか。無駄な使い方はされていないのか。負担できる人がきちんと負担しているのか。
そして――ルールを作る人も、私たちと同じルールの中にいるのか? そんなところまで見えなければ、「社会のために必要ですから払ってください」と言われても、どこか釈然としない。
税金という仕組みに必要なのは、お金だけではなく、「公平だと思えること」と「これなら納得できると思えること」なのではないでしょうか?
ところが今回の『真相の館』では、さらに気になる話が出てきます。グローバル化が進んだ世界では、本来ならどこかの国へ納められるはずだった税収が失われているというのです。私たちは日々の暮らしの中で税金を負担している。その一方で、世界へ目を向ければ、国境を越えて動く巨大なお金があります。
だとしたら――。税金って、いったい誰のために払っているのでしょう?そして、誰がどれだけ負担することを「公平」と呼ぶのでしょう?今回は少しだけ財布の中を覗きながら(笑)、私たちが当たり前のように払っている「税金」という仕組みの正体を考えてみたいと思います。
【放送日:2026年8月22日(土)20:30 -21:00・NHK-Eテレ】
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「取られるお金」なのか?──税金という“みんなの財布”
税金と聞いて、どんなイメージを持つでしょう。「社会を支えるための大切なお金です」そう答えれば、たぶん学校のテストなら丸をもらえます。でも、毎月の給与明細を見たり、買い物をしたレシートを眺めたりしている私たちの感覚は、もう少し生々しい。「また取られたなぁ……」というのが本音ではないでしょうか。
働けば所得税。買い物をすれば消費税。家や土地を持てば固定資産税。車を所有すれば自動車にかかわる税金。日本には国税と地方税を合わせて、およそ50種類の税があります。こうして並べてみると、私たちは暮らしのいろいろな場面で税金と付き合っていることが分かります。では、なぜこんなにたくさんの税金を払っているのでしょう?
税金は「サービスの料金」ではない
財務省は、税金について、社会保障や福祉、道路などの社会資本、教育、警察、防衛などの公的サービスを運営する費用を賄い、その費用を広く公平に分かち合うものだと説明しています。なるほど。確かに私たちは、道路を一本通るたびに料金を払っているわけではありません。
近所をパトロールしている警察官を見つけて、「今月分です」とお金を渡したりもしない(笑)。消防、防災、教育、道路など、誰か一人のためではなく社会全体で維持しているものがあります。だから税金は、「私がこれだけ払ったから、私にこれだけ返してください」という料金とは性格が違います。
みんなから集めて、みんなが暮らす社会を維持する。そう考えると、税金は巨大な「みんなの財布」のようなものなのかもしれません。
でも「みんなの財布」って、誰の財布?
ところが、この言葉にすると急に気になることがあります。みんなの財布。……それ、誰が管理しているのでしょう? 自分の財布なら簡単です。今月使いすぎた。外食を減らそう。これは必要ないから買うのをやめよう。通帳を見れば、お金がどこへ行ったのかもだいたい分かります。
ところが「みんなの財布」は桁が違います。集める人と使う人も違う。使い道を決める人もいる。しかも、そのお金で利益を受ける人が、自分だとは限りません。今日、自分が払った税金が、自分とは会ったこともない誰かのために使われることだってあります。それこそが社会全体で支え合う仕組みなのでしょう。
ここまでは分かります。でも、「分かる」と「納得する」は、やっぱり少し違います。
「必要なのは分かる。でもさぁ……」
たとえば、道路や消防に税金が使われることに異論を持つ人は、それほど多くないでしょう。困っている人を社会で支えることも大切です。それでも税金の話になると、なぜかモヤモヤする。それは、「自分はいくら負担しているんだろう?」だけではなく、「集めたお金を、本当にちゃんと使っているんだろうか?」というもう一つの疑問があるからなのかもしれません。
税金が「みんなの財布」なら、問題になるのは集め方だけではありません。誰が負担するのか。誰のために使うのか。何にいくら使うのか。そして、その使い方を誰が決めるのか。そこまで含めて「みんなの財布」のはずです。だから、「税金は社会に必要です」だけでは、どうも話が終わらない。
必要なのは分かる。支え合う意味も分かる。でも――。「これだけ払っているのに、どうして自分にはその恩恵が見えないんだろう?」その小さな違和感こそが、もしかすると「税金の真相」を考える入口なのかもしれません。次は、その「払ったのに、返ってきた感じがしない」というモヤモヤの正体を、もう少し覗いてみましょう。
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払ったのに、返ってこない?──「見返り」が見えないからモヤモヤする
私たちは普段、お金を払うときには何かを受け取っています。スーパーで100円(消費税を入れれば110円)払えば、100円の商品を持って帰る。電車の運賃を払えば、目的地まで運んでもらえる。ホテルに宿泊代を払えば、一晩泊まることができます。金額が妥当かどうかはともかく、「これに対して、このお金を払った」という関係は分かりやすいものです。
ところが税金になると、この関係が突然ぼんやりします。1万円払ったから、1万円分の何かが自分に返ってくるわけではありません。それどころか、自分が一度も利用しないものへ税金が使われることだってあります。ここで、どうにもモヤモヤしてくるのです。
自分が使わないものにも、なぜ払う?
たとえば学校教育。子どものいる家庭なら、その恩恵は比較的見えやすいでしょう。けれど子どものいない人や、すでに子育てを終えた人からすれば、「自分は使わないのに、どうして負担するの?」と思うこともあるでしょう。
反対に、介護や高齢者福祉へ多くのお金が使われれば、若い世代から、「自分たちにはいつ返ってくるんだろう」という声が出てくるかもしれません。道路をほとんど利用しない人もいる。図書館へ行かない人もいる。公園を使わない人もいる。それでも、税金は払います。
ここで税金は、普通の商品やサービスとはまったく違う顔を見せます。自分が使うものだけに、自分がお金を払う仕組みではない。社会全体で必要だと決めたものを、社会全体で負担する。税金とは、そういう仕組みでもあります。
「自分には関係ない」は、本当に関係ない?
もっとも、話はそれほど単純でもありません。自分に子どもがいなくても、教育を受けた人たちが社会を支えていきます。今は介護を必要としていなくても、将来自分や家族がお世話になるかもしれません。消防車を一度も呼ばずに人生を終えたとしても、消防という仕組みが存在していること自体には意味があります。
つまり公共サービスには、「使ったから恩恵を受けた」だけでは測れないものがあります。治安が保たれている。災害に備える仕組みがある。教育を受けられる社会が続いている。病気や老後で困ったときに支える制度がある。
自分が直接使っていなくても、その社会で暮らしていることで間接的に受けている恩恵もあるのでしょう。……と、ここまでなら綺麗に説明できます。でもやっぱり、「だから、いくら取られても納得してください」とはならない(笑)。
「見返りがない」のではなく、「見返りが見えない」
おそらく私たちが感じているモヤモヤは、ここにあります。税金から何も返ってきていないわけではない。でも、自分がいくら負担して、社会から何を受け取ったのかが見えにくい。さらに、自分には必要性が感じられない政策へ大きなお金が使われれば、「それ、本当に必要なの?」と思うのも自然なことでしょう。
税金だから、自分が使うサービスだけを選んで払うわけにはいきません。だからこそ、使う側には、なぜ必要なのか?なぜその金額なのか?なぜそこへ配分するのか?を説明することが求められます。「みんなのためです」だけでは足りないのです。
問題は「得したか、損したか」だけじゃない
そして、もう一つ考えてみたいことがあります。もし自分が一生使わなかった公共サービスがあったとしたら、そのために払った税金は「損」だったのでしょうか?一度も消防車を呼ばなかった。一度も生活保護を受けなかった。重大犯罪の被害に遭わなかった。それなら、そのために負担したお金は無駄だったのか。
おそらく、そうとも言い切れません。使わずに済んだこと自体が、幸運だったものもあるからです。そう考えると税金は、買い物のような「対価」でもなければ、単純な損得だけでも測れない。だからこそ厄介なのです。
必要性は分かる。自分もどこかで恩恵を受けている。困った人を支える意味も分かる。それでも、「自分の負担って、本当にこれで妥当なの?」という疑問は残ります。
そして、その疑問をさらに大きくするものがあります。自分はきちんと払っている。それなのに――ほかの人も、本当に同じように負担しているのでしょうか? 税金へのモヤモヤは、「見返り」の問題から、やがてもっと厄介な「公平」という問題へ向かっていきます。
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「自分ばかり」が一番つらい──税金の“公平”って何だろう?
税金について考えていると、最後にはどうしても一つの言葉にぶつかります。
「それって、公平なの?」
たとえば、救急車。一度も利用したことのない人もいれば、何度かお世話になった人もいます。健康保険も同じです。何十年もほとんど病院へ行かない人がいる一方で、長い治療を必要とする人もいる。もちろん、救急や医療を必要とする人を社会で支える意味は分かります。
けれど、使わなかった人からすれば、「自分はずっと負担しているんだから、少しくらい返してくれてもいいんじゃない?」と思うことだってあるでしょう。逆に、「たくさん利用した人が、その分を多く負担すればいい」と考えれば、これも一つの「公平」に見えます。でも、本当にそうでしょうか。
同じだけ払うのが「公平」?
税金に話を戻してみましょう。全員から同じ金額を集めれば、確かに平等です。ところが年収300万円の人と3000万円の人から同じ10万円を集めたら、生活に与える重さはまったく違います。だったら、所得の多い人ほど多く負担する。これなら公平でしょうか。
今度は多く負担する側から、「どうして頑張って稼いだ人ほど、たくさん払わなくちゃいけないの?」という疑問が出てきます。では、公共サービスを利用した人から、その都度料金を取ればいいのでしょうか? 道路を走ったら料金。図書館で本を借りたら料金。消防車を呼んだら料金。学校へ通ったら料金。これなら「使った人が払う」という意味では、とても分かりやすい。
でも、それを徹底してしまえば、経済的に余裕のない人ほど必要なサービスを利用できない社会にもなりかねません。どうやら「公平」と「全員同じ」は、同じ意味ではなさそうです。
「使わなかった人が損」なのだろうか?
もう一つ、厄介な問題があります。救急車を一度も呼ばなかった人は、救急という仕組みにお金を出した分だけ損をしたのでしょうか? 病院へほとんど行かなかった人は、健康だった分だけ損をしたのでしょうか? そんなことはないはずです。むしろ使わずに済んだのなら、それは幸運だったとも考えられます。
保険にはもともと、いつ誰に起こるか分からない大きなリスクを、多くの人で分担するという考え方があります。だから「自分がいくら払って、いくら使った」という個人の収支だけでは測れません。税金も同じではありませんが、似たところがあります。
今日、自分が必要としなかった公共サービスを、知らない誰かが必要としている。そして明日は、自分がその「誰か」になるかもしれない。そうやって社会は支え合っている。……理屈としては、とてもよく分かります。でもやっぱり、何かが引っかかる。
私たちが嫌なのは「支えること」ではないのかもしれない
もしかすると、私たちが本当にモヤモヤするのは、「困っている誰かのために自分のお金が使われること」そのものではないのかもしれません。自分もきちんと負担する。必要な人を支える。それならいい。ところが、「自分はちゃんと払っているのに、払える誰かがうまく逃れているんじゃないか」と思った瞬間、話が変わります。
さらに、「その仕組みを決めている人だけ、何か特別な扱いを受けていないか」という疑念まで生まれれば、「ちょっと待ってよ」と言いたくなる。つまり人は、単にたくさん払うから腹が立つのではなく、「自分ばかり真面目に負担している」と感じたときに、最も納得できなくなるのではないでしょうか?
「公平」は数字だけでは作れない
税金の公平を考えると、所得に応じて負担する。消費した分だけ負担する。財産を持っている人が負担する。サービスの利用者が負担する。社会全体で広く負担する。さまざまな考え方が出てきます。おそらく、誰もが納得する完璧な答えはありません。
だからこそ必要になるのが、透明性なのでしょう。なぜこの人がこれだけ負担するのか? なぜこの人には支援が必要なのか? なぜこの政策にこれだけのお金を使うのか? そして、そのルールは誰に対してもきちんと適用されているのか? それが見えなければ、「公平ですよ」と説明されても納得するのは難しい。
逆に、多少自分の負担が大きくても、「なるほど。それなら仕方ない」と思える理由が見えれば、人は受け入れられることもあるはずです。税金を支えているのは、金額だけではない。「みんなも同じルールの中にいる」という信頼なのかもしれません。
ところが世界へ目を向けると、その前提を揺さぶるような話が出てきます。国境を越えて商売のできる巨大企業は、国ごとに異なる税制の中で活動しています。そこで、もし――私たちにはできないような方法で、税負担を小さくできるとしたら? 次は『真相の館』が取り上げる、「グローバル化の裏で失われる税収」を覗いてみましょう。
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国境を越える企業、逃げられない私たち──「失われる税収」の正体
ここまで税金について、「誰が負担するのか」「誰が恩恵を受けるのか」「何を公平と呼ぶのか」と考えてきました。けれど、世界へ目を向けると、もう一つ厄介な問題が見えてきます。それは――国境を越えられる人や企業と、越えられない人との違いです。
私たちは、日本で暮らし、日本で働いていれば、基本的には日本の税制度の中で生活します。給料を受け取る。買い物をする。家を持つ。そのたびに、決められたルールの中で税金を負担します。「税率が高いから、今日は別の国で所得税を払おう」なんて、普通はできません(笑)。ところが世界中で活動する巨大企業になると、事情が違ってきます。
国によって税率が違うなら……
会社は国境を越えて事業ができます。工場はA国。販売先はB国。知的財産を持つ会社はC国。本社機能はD国。そんなことも珍しくありません。そして当然、税制度も国ごとに違います。
法人税率の高い国もあれば、低い国もある。特定の企業活動に優遇措置を設ける国もあります。すると、「利益を、税負担の小さい場所へ移せないだろうか」という発想が生まれます。ここで重要なのは、単純な脱税とは限らないことです。
各国の制度の違いや、法律の隙間を利用した結果、形式上は合法でも、本来事業を行って利益を生み出した国では十分な税金が納められないことがあります。OECDが長年取り組んできたBEPS(税源浸食と利益移転)は、まさにこうした問題です。
「税金の安い国へ利益を置く」
昔からよく聞く言葉に、「タックスヘイブン」があります。税率が極めて低い、あるいは特定の所得への課税が軽い国や地域を利用し、企業や資産の税負担を小さくする。その仕組み自体は、私が子どものころから聞いていたくらい古くから問題になっていました。
OECDも1980年代にはすでに、タックスヘイブンを利用した国際的な租税回避について研究をまとめています。つまりこれは、インターネット時代になって突然生まれた問題ではありません。ただ、経済のグローバル化やデジタル化によって、以前よりずっと複雑になりました。今では巨大なデジタル企業が、ある国に大きな市場を持ちながら、そこに工場や店舗といった物理的な拠点をほとんど持たなくても利益を上げられます。
そこで、「そもそも、どの国が税金を取る権利を持つの?」というところから難しくなってしまったのです。
失われるのは、税収だけなのか
OECDはBEPSによる法人税収の損失を、年間1000億〜2400億ドル規模と推計しています。もちろん、これは大きなお金です。でも私たちがここまで考えてきた「公平」という視点から見ると、失われるものは税収だけではないように思えます。
普通に働く人は給与から税を負担する。買い物をすれば消費税を払う。そこから簡単に逃げることはできません。一方で、国境を越えて活動できる巨大企業には、制度の違いを利用する選択肢がある。そのとき、「なんで自分たちは普通に払っているのに?」という気持ちが生まれます。そして、その感情こそが税制度にとって厄介なのかもしれません。
正直に払う人が、馬鹿を見る?
日本には、「正直者が馬鹿を見る」という言い方があります。誰かがズルをしているように見えると、それだけでも腹が立つ。まして自分には逃げ道がないのに、より大きなお金を動かせる人だけが有利な仕組みを使っているように見えれば、「だったら真面目に払う意味って何?」という気持ちにもなります。
だから国際社会では、こうした税逃れを減らすため、OECDやG20を中心に共通ルールづくりが進められてきました。現在では、大規模な多国籍企業グループに対して一定水準以上の税負担を求めるグローバル・ミニマム課税なども進められています。2026年現在もOECDは、その実施や効果の検証を続けています。
でも、制度をどれだけ複雑に作っても、最後に残る問いは意外と単純です。「みんな、本当に同じルールの中にいるの?」税金にとって怖いのは、お金が失われることだけではありません。
真面目に払っている人が、「自分だけが馬鹿正直なんじゃないか」と思い始めること。そうなれば、「みんなの財布」を支えている信頼そのものが崩れてしまいます。
そしてここまで来ると、最後に考えたいことも見えてきます。税金という仕組みを支えているのは、本当に集めたお金だけなのでしょうか? それとも――「これなら公平だ」「これなら仕方ない」と思える、私たちの納得なのではないでしょうか。
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税金を支えているのは、お金より「納得」なのかもしれない
ここまで税金について考えてきました。そもそも税金とは何なのか?なぜ自分が払ったお金が、自分には返ってこないように感じるのか? 何をもって「公平」と呼ぶのか? そして、国境を越えて活動する企業には、私たちにはない選択肢があること。
ずいぶん遠くまで歩いてきました。でも最後に残った疑問は、最初とほとんど変わっていません。税金って、いったい誰のために払っているのでしょう。
たぶん、誰だって払いたくはない
「税金を払うのが大好きです」なんてそんな人は、あまりいないでしょう(笑)。同じ1万円なら、美味しいものを食べたい。旅行にも行きたい。欲しかったものだって買えます。それでも多くの人は税金を払っています。もちろん納税が義務だから、という理由はあります。
でも、それだけなのでしょうか。道路も必要です。学校も必要です。消防や警察もなくては困ります。災害が起きれば、被災した人を支えなくてはならない。病気や障害、さまざまな事情によって生活に困っている人を、社会から放り出してしまっていいとも思えません。
今日の自分には必要なくても、明日は自分が助けられる側になるかもしれない。だから、「みんなで少しずつ負担しましょう」という考え方そのものには、納得できる人も多いのではないでしょうか。
それなのに、どうしてモヤモヤする?
問題は、その次です。自分はちゃんと払っている。でも、ほかの人も同じように負担しているのだろうか? 払える人ほど、うまく逃れる方法を持っているのではないか? 集めたお金は、本当に必要なところへ届いているのか? 無駄な使われ方はしていないか?そして、そのルールを決める側も同じルールの中にいるのか?
一度そんな疑問を持ってしまうと、「みんなのためだから」という説明だけでは、なかなか納得できなくなります。おそらく私たちが嫌なのは、知らない誰かを支えることそのものではありません。一番嫌なのは、「もしかして、自分だけがバカ正直に払っているんじゃないか」と思わされることなのです。
税金に必要なのは「信じられること」
税金は不思議な仕組みです。商品を買うように、払った金額と同じ価値のものが自分の手元へ届くわけではありません。自分が一生利用しないものにも使われます。会ったこともない誰かのためにも使われます。だからこそ、税金には普通の買い物以上に信頼が必要なのではないでしょうか。
負担の決め方は公平だと思える。集めたお金の使い道が見える。なぜそこへ使うのか説明してもらえる。間違った使い方があれば正される。そして、お金や権力を持つ人だけが抜け道を使える仕組みではない。そこまで見えて初めて、「まあ、それなら仕方ないか」と思える。
税金に対する「納得」とは、喜んで財布を開くことではないのでしょう。嫌だけど必要だと思える。自分ばかりが損をしているわけではないと思える。集めたお金を託してもいいと思える。そんな小さな信頼の積み重ねなのかもしれません。
「正直者が馬鹿を見る」社会にしないために
日本には、「正直者がバカを見る」という、なんとも嫌な言葉があります。ルールを守った人が損をして、うまく抜け道を見つけた人が得をする。もし本当にそんな社会になれば、最初は真面目に払っていた人まで、「だったら自分だって」と思い始めるでしょう。
税金で本当に失ってはいけないものは、税収だけではないのかもしれません。「みんなもちゃんと負担している」という信頼。それが失われたとき、「みんなの財布」は初めて本当の意味で危うくなるのでしょう。
税金って、いったい誰のため?
最初の問いへ戻ります。税金は誰のために払っているのでしょう。自分のため。家族のため。知らない誰かのため。これから生まれてくる人のため。そして、いつか困るかもしれない未来の自分のため。きっと、どれか一つではありません。だからこそ、自分が払った金額と自分が受け取ったものを比べるだけでは、税金の価値は測れないのでしょう。
それでも私たちには、「ちゃんと使ってください」と言う権利があります。何に使ったのか知りたい。なぜ必要なのか説明してほしい。そして、誰であっても同じルールを守ってほしい。それは税金を払いたくないという話ではありません。むしろ逆です。納得して払いたいからこそ、納得できる仕組みであってほしい。
『真相の館』で税金について考えてみたら、最後にたどり着いたのは意外と当たり前のことでした。税金という巨大な仕組みを動かしているのは、確かにお金です。でも、その仕組みを支えているものは――私たち一人ひとりの「これなら任せてもいい」という納得と信頼なのかもしれません。
しかしその信頼を損なわせているのがアレだとしたら、そしてそのための選挙がSNS上の人気や話題性に左右されるようになっているとしたら……。日本という国の政治や政府はもちろん、それを選ぶ私たち国民自身もまた、どこかで道を間違え始めているのかもしれません。
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