トングを手にして、好きなパンをひとつずつ選んでいく。
あの時間は、どうしてあんなに、心が弾んだのだろう。ずらりと並んだパンの前で、どれにしようか迷いながら、トレイの上が少しずつ満たされていく。その光景は、子どもにとって、小さな“夢の時間”だったのかもしれない。
群馬県前橋市にある「べーかりー ハニームーン」。ここには、そんな記憶をもう一度味わえる場所がある。50種類を超えるパンが並び、そのほとんどが100円。
好きなだけ選んでいい。トレイいっぱいにのせてもいい。そんなやさしい許しの中で、人は自然と笑顔になっていく。
このパン屋を開いたのは、かつてその“ワクワク”を心にしまい込んだひとりの男性だった。与えられなかったものを、今度は自分が、誰かに手渡していく。そのやさしい循環が、この店のパンの中には、ぎっしりと詰まっている。
【放送日:2026年3月28日(土)18:00 -18:30・テレビ朝日】
<広告の下に続きます>
あの日のパン屋さん|心に残った“ワクワク”の原点とは?
はじめて、トングを手にしたときのことを、覚えているだろうか? ガラスケースの向こうではなく、目の前にずらりと並んだパン。自分の手で、好きなものをひとつずつ選んでいく。それだけのことなのに、なぜか胸が高鳴って、どれを取ろうかと迷う時間さえ、特別なものに感じられた。
望月信一さんにとっても、その記憶は、ずっと心の奥に残っていた。小学生の頃、母親に連れられて訪れたパン屋さん。そこで見た光景は、それまでの世界とは少し違って見えたという。
たくさんのパンが並び、どれを選んでもいい。その自由さが、まるで“夢のような時間”として、心に焼きついた。けれどその想いは、すぐに形になることはなかった。大人になるにつれて、日々の暮らしの中に埋もれ、やがてそっと、しまい込まれていく。それでも――消えてしまったわけではなかった。
心のどこかで、あのときの“ワクワク”は、静かに残り続けていた。やがてそれは、長い時間をかけて、もう一度、形を持とうとしていく。
<広告の下に続きます>
遠回りの人生|それでも失われなかった想い
子どもの頃に胸をときめかせた記憶が、そのまま未来へ続いていくとは限らない。むしろ多くの場合、そうした小さな憧れは、暮らしの中に押し込まれ、気づけば遠くへしまい込まれてしまう。望月信一さんにとっても、パン屋さんへの憧れは、すぐに手を伸ばせる夢ではなかった。
高校を卒業してからの若い日々、やりたいことがはっきり見つからず、塗装業や薬品販売、営業職など、いくつもの仕事を渡り歩いた。まっすぐ進んでいるつもりでも、どこかで足元が揺らぐような時間。思い描いていた人生とは、少しずつ違う場所へ流されていくような感覚が、そこにはあったのかもしれない。
さらに35歳のときには、勤めていた出版社が倒産。リストラによって生活が大きく揺らぐ。欲しいものを我慢するどころか、一日一食でしのぐような苦しい日々。そんな現実の前では、幼い頃の“ワクワク”は、あまりにも遠いものに思えただろう。
けれど――不思議なことに、本当に大切だった想いほど、完全には消えてしまわない。人生がうまくいかないときほど、心の奥では、「自分は本当は何を求めていたのか」が静かに残り続けていることがある。
信一さんにとって、パン屋さんの記憶もまた、そういう“消えなかったもの”のひとつだったのかもしれない。そしてこのあと、その遠回りの人生に、あたたかな転機が訪れることになる。
<広告の下に続きます>
父としての時間|与えたかったもの、守りたかったものとは?
苦しい時間の中で出会った久美さんは、信一さんにとって、人生をもう一度立て直すきっかけになった。「この人となら、やり直せるかもしれない」その想いは、ただ恋をしたというだけではなく、これから先の暮らしを、もう一度信じてみようと思えた瞬間だったのかもしれない。
信一さんはその後、運送会社に就職し、トラック運転手として再スタートを切る。やがて久美さんと結婚し、三人の娘たちにも恵まれた。家族とともに過ごす日々の中で、信一さんの中には、少しずつ、はっきりしていった想いがあった。
それは、「自分が理想とする父親でありたい」ということ。幼い頃に両親が離婚し、父親を知らずに育った信一さんにとって、“父親であること”は、ただ家にいることではなかったのだと思う。
学校行事にできるだけ顔を出し、駅までの送り迎えもする。忙しさを理由にせず、できることは何でもしてやりたい。そんな思いで、娘たちのそばに立ち続けてきた。
毎朝3時に起きて、トラックに乗り込む日々。決して楽な仕事ではなかったはずなのに、その時間のひとつひとつが、家族を守るための、静かな積み重ねになっていた。
与えられなかったものを、今度は自分が与える側になる。その生き方は、気づかないうちに、信一さん自身の中にあった“やさしさのかたち”を、少しずつ育てていったのかもしれない。そしてそのやさしさは、このあと、ひとつのパン屋さんという形になっていく。
<広告の下に続きます>
もう一度、夢へ!|55歳からのパン職人修業
人生には、「もう遅いのかもしれない」と思う瞬間がある。体力も、時間も、若い頃のようにはいかない。家族を支えながら生きてきた人ほど、自分の夢に向き合うことを、どこかで後回しにしてしまうのかもしれない。
信一さんにとって、その転機は突然やってきた。椎間板ヘルニア。長年続けてきたトラック運転手の仕事を、このまま続けるのは難しいと告げられたとき、信一さんの中に浮かんだのは、意外にも、ずっと昔の記憶だった。
小さな頃、母親と訪れたパン屋で感じた、あのキラキラした“ワクワク”。心の奥にしまい込んでいたはずの夢が、もう一度、静かに顔を出した。「幼い頃の自分が感動したような、ワクワクするパン屋さんを開きたい」その願いに背中を押されるように、信一さんは55歳で運送会社を退職。そして近所のパン屋さんに入り、いちから修業を始める。
長く働いてきた人にとって、新しい世界に飛び込むことは、決して簡単なことではない。けれど信一さんは、およそ4年という時間をかけて、少しずつ、確かに腕を磨いていった。それは、若さの勢いで駆け上がる挑戦ではなく、これまで生きてきた時間ごと、自分の夢にもう一度手を伸ばしていくような歩みだった。
遠回りをしたからこそ、たどり着ける夢もある。信一さんのパンづくりは、きっとそんな時間の上に、やさしく育っていったのだろう。
<広告の下に続きます>
好きなだけ選んでいい!|100円パンに込めたやさしさ
『べーかりー ハニームーン』には、50種類を超えるパンが並ぶ。しかも、そのほとんどが100円。いまの時代に、その価格を見れば、誰もがまず驚くかもしれない。けれどこの100円には、ただ安く売りたいという以上の、やさしい理由が込められている。
信一さんがつくりたかったのは、“パンを買う場所”というよりも、“ワクワクしながら選べる場所”だった。どれにしようか迷って、あれもこれも食べてみたくなって、トレイの上が少しずつ埋まっていく。その時間そのものが、子どもの頃の信一さんにとって、忘れられないしあわせだった。だからこそ、その感覚を、次の誰かにも味わってほしかったのだろう。
「好きなだけ選んでいいんだよ!」
その言葉には、パンの値段以上のものがある。遠慮しなくていい。我慢しなくていい。自分の“好き”を、ちゃんと選んでいい。そんな小さな許しが、この店には、そっと置かれている。
そしてそのやさしさは、きっと子どもだけのものではない。忙しい大人にも、頑張ってきた人にも、どこかで何かをあきらめてきた人にも、この100円パンは、「もう一度、ワクワクしていいんだよ」と静かに語りかけているように見える。
「子供は遠慮なんてしなくていい」、「子供は食べ物にガマンなんてしなくていい」。信一さんはそう言っているように見える。信一さんが幼い頃にもらったあの小さな感動は、いま、パンの香りとともに、たくさんの人の手の中へ、やさしく手渡されている。
べ~かり~ honey moon
- 群馬県前橋市文京町3丁目9−8
- TEL:不明
- 営業時間:8:30~15:00(売り切れ次第閉店)
- 定休日:日・祝日
- URL:https://www.instagram.com/honey.moon0305/
<広告の下に続きます>
やさしさはめぐっていく|パンがつなぐ、家族と記憶
『べーかりー ハニームーン』には、焼きたてのパンの香りだけではない、もうひとつのあたたかさが流れている。それは、信一さんひとりでつくった場所ではないからだ。長い時間をともに歩いてきた久美さんがいて、その背中を応援する三人の娘たちがいる。
家族に支えられながら、信一さんはようやく、心の奥にしまい込んでいた夢を、現実のかたちにすることができた。けれどこのパン屋さんは、ただ“夢が叶った場所”として終わらない。ここに並ぶパンは、誰かの思い出を呼び起こし、誰かの今日を少しだけやさしくして、また別の誰かの記憶の中に残っていく。
子どもの頃、トングを手にして胸を弾ませたあの日の気持ち。それがいま、パンを選ぶ子どもたちの笑顔の中に、そっと受け継がれているのかもしれない。やさしさは、目には見えなくても、こうしてちゃんとめぐっていく。
ひとつの記憶が、ひとつの人生を支え、やがて誰かのしあわせになっていく。信一さんの100円パンには、そんな静かな愛情が、今日もぎっしりと詰まっている。
<広告の下に続きます>
■まとめ
群馬県前橋市の『べーかりー ハニームーン』には、ただ安くておいしいパンが並んでいるだけではありません。そこには、子どもの頃に胸をときめかせた記憶と、遠回りしながらも失われなかった夢、そして家族への深い愛情が、ぎっしりと詰まっていました。
トラック運転手として家族を支え、55歳で新しい夢に踏み出した望月信一さん。そのパンづくりの原点にあったのは、「好きなだけ選べるワクワク」と、「子どもは遠慮なんてしなくていい」というやさしい願いだったのかもしれません。
与えられなかったものを、今度は誰かに手渡していくこと。そのあたたかな循環が、この小さなパン屋さんには、今日も自然なかたちで息づいています。
好きなだけ選んでいいんだよ。そんなやさしい声が聞こえてきそうな100円パンの並ぶ店先には、きっとこれからも、たくさんの笑顔と小さな幸せが集まっていくのでしょう。
