まんまるの奥ゆかしき世界 ――まりに宿る、日本の美意識(【美の壺】・File 629)

加賀てまり BLOG
日本人は古くから、この「円(まる)」に、健やかさや調和、そして永遠への願いを託してきました。
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―― まるい形が、心をほどくとき
手のひらに収まる、まんまるの形。 角がなく、始まりも終わりも見えないその姿は、眺めているだけで心を穏やかにしてくれます。日本人は古くから、この「円(まる)」に、健やかさや調和、そして永遠への願いを託してきました。

まり、てまり、蹴鞠(けまり)。 それらは単なる遊具や工芸品ではなく、「まるく生きる」という思想をかたちにした存在です。 なぜ、私たちはこれほどまでに“まんまる”に惹かれるのでしょうか。

壺 その一、糸で結ぶ円の記憶 ―― てまりという祈りのかたち

東京・赤坂には、てまり文化を今に伝える情報発信の拠点があります。色とりどりの糸が描く幾何学模様は、華やかでありながら、どこか静謐。その中心には、必ず揺るぎない「円」があります。

とりわけ石川県金沢の加賀てまりは、母から子へと受け継がれてきた手仕事。 
布を巻き、糸を重ね、少しずつ球体へと近づけていく工程は、忍耐と慈しみの積み重ねそのものです。

加賀手まり(出典:加賀手まり 毬屋)
加賀手まり(出典:加賀手まり 毬屋)

模様の美しさ以上に心を打つのは、「まるまると健やかに育ちますように」という願い。 
てまりは、贈り物であると同時に、祈りを封じ込めた小さな宇宙なのです。

なぜ、球体でなければならなかったのでしょうか? 
それは、願いに角があってはならないからです。

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壺 その二、蹴られても乱れぬ円 ―― 蹴鞠が語る「和」の思想

1400年の歴史を誇る蹴鞠は、競い合うための競技ではありません。 鞠を落とさぬよう、皆でつなぐ。その所作の核心にあるのは、「和」を乱さないことです。

うるわしく蹴るために求められる鞠の理想は、「完全球体」。 わずかな歪みがあれば、軌道は乱れ、場の調和も崩れてしまいます。だからこそ、鞠は徹底して“まんまる”でなければならない。

蹴鞠(出典:京都市文化観光資源保護財団)
蹴鞠(出典:京都市文化観光資源保護財団)

蹴鞠において重要なのは、技の誇示ではなく、場を整える心。 自分が主張しすぎれば、円は壊れる。引きすぎても、鞠は落ちる。

ここにあるのは、社会の縮図です。 円を保つとは、他者と呼吸を合わせること。 蹴鞠は、円を通して「生き方」を教えてくれる芸道なのです。

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壺 その三、食す円、愛でる円 ―― 暮らしに溶け込む“まり”

まりの美意識は、工芸や芸道にとどまりません。 食の世界にも、静かに息づいています。

「食べる宝石箱」と称される、てまりずし。 小さな球体の中に、旬の魚や彩りを閉じ込めたその姿は、祝祭性と慎ましさを同時に備えています。切り分けるのではなく、一つとして供される点にも、日本らしい円の思想が感じられます。

手毬寿司(出典:富澤商店)
手毬寿司(出典:富澤商店)

また、ころころと愛らしいてまりあめには、驚くほど繊細な模様が潜んでいます。 金太郎飴の技を継ぐ職人の手によって、断面に現れる文様は、中心から均等に広がる“完全な円”の賜物。 甘さの奥に、計算し尽くされた構造美があるのです。

手まり飴(出典:大文字飴本舗)
手まり飴(出典:大文字飴本舗)

なぜ、食べ物まで丸くするのでしょうか。 それは、口にするものにも、穏やかな気持ちで向き合いたいからかもしれません。

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結び ―― 円を目指すということ

まり、てまり、蹴鞠。 それぞれは異なる文化でありながら、同じ問いを私たちに投げかけています。
どうすれば、角を立てずに生きられるのか?
どうすれば、乱れず、崩れず、他者と円を保てるのか?

まんまるとは、完成形ではなく、目指し続ける姿。 糸を重ね、鞠を蹴り、菓子を作るその行為のすべてが、円への憧れを物語っています。

日本の美意識は、決して派手ではありません。 しかしその静かな円の中には、長い歴史と、人を思う心が、確かに息づいているのです。

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