山形は出羽三山の山岳信仰から「生まれ変わり」を学び上杉鷹山や最上義光が最上川を変え明治の都市計画で山形が生まれ変わった【ブラタモリ】

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こんにちは鳥巣です。7/22のブラタモリは「山形は何度も生まれ変わる?」がテーマです。山形といえばすぐに、さくらんぼの佐藤錦や、米沢藩の上杉鷹山、直江兼続が頭に浮かびますが、戦国時代から江戸、明治・大正・昭和・平成・令和まで、多くの人の力で生まれ変わり続けてきたのではないでしょうか? タモリさんと野口葵アナは、そんな山形のどこをブラブラして、生まれ変わりの本質を見つけ出すのか楽しみです。今回は山形の生まれ変わりのヒントになりそうなものを探してみました。

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山形は山岳信仰で生まれ変わった?!

山形は古くから山岳信仰に根付いている土地です。古くから自然崇拝の山岳信仰を背景とした羽黒修験道では、月山はその高く秀麗な姿から祖霊が鎮まる過去の山、羽黒山は人々の現世利益を叶える現在の山、湯殿山はお湯の湧き出る赤色の巨岩が新しい生命の誕生を表す未来の山と言われています。

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月山は死後の安楽と往生(過去)を祈る山

月山は標高1,984mの秀麗な山ですが、古くから「過去の世を表す山」といわれています。死者の魂が集まると言われ、死後の体験を象徴しているので、人生の転機に訪れると良いとされています。つまり「生まれ変わるタイミング」ということでしょうか?

月山
月山

羽黒山は現世の幸せ(現在)を祈る山

崇峻天皇の御子の蜂子皇子が開山したと言われる羽黒山は、羽黒修験道の行場であり中枢です。 修験道とは、自然信仰に仏教や密教が混じり生まれた日本独特の山岳信仰です。羽黒修験道の極意は、羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)と見立てることで、生きながら新たな魂として生まれかわることができるという巡礼の道です。

羽黒山
羽黒山

湯殿山は生まれ変わり(未来)を祈る山

すべてのものを生み出す山の神「大山祇命」が祭神として祀られる湯殿山は、「未来の世を表す山」といわれています。山中で修行を行う山伏が、生まれかわりを果たす聖地でもあります。つまり月山、羽黒山、湯殿山と出羽三山を巡ることで、過去に想いを至らせ、今に感謝し、未来を祈り、満貫成就ということになるのでしょうか?

湯殿山
湯殿山

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山形は3人の偉人で生まれ変わった?!

米沢藩9代藩主 上杉鷹山

上杉鷹山は米沢藩の9代藩主です。山形といえば、今はさくらんぼですが、江戸時代には紅花の生産で大きな収入を得ていました。その紅花の生産を奨励したのが上杉鷹山でした。米沢藩といえば大河ドラマの影響か、上杉謙信(越後から米沢に来た時には亡くなっていた)や直江兼続が有名ですが、地元の山形では圧倒的に上杉鷹山がスーパーヒーローです。

上杉鷹山が家督を継いだ1734年には、米沢藩は莫大な借金を抱えていました。上杉鷹山は12条からなる大倹約令を出して、藩政の改革に着手しました。この時に詠んだという

なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり

という和歌はあまりにも有名です。

米沢藩普請奉行 黒井半四郎

また、上杉鷹山は大規模な治水事業も行いました。米沢の北、現在の糠野目以北は領内でも肥沃な土地でしたが、いったん日照りが続くと収穫が皆無になってしまうというリスクの大きな土地でした。そこで上杉鷹山は黒井半四郎を普請奉行にして用水路の工事を命じました。現在の米沢市窪田で最上川を締め切り、新たに取水口を作って米沢街道を横断して北に向かう水路を掘ったのです。

この水路によって北条郷は現在のような美しい水田地帯になったといいます。このことが米沢藩の財政復興に役立ったということでその功績を称えて「黒井堰」と命名されました。現在は公共事業によってコンクリート製の水路に生まれ変わっていますが、現在でも米澤平野の水利事業の幹線として利用され、置賜の田畑を潤しています。

現在の黒井堰
現在の黒井堰
現在の黒井堰
現在の黒井堰

初代山形県令 三島通庸

三島通庸は山形県令に就任する際に、内務卿・大久保利通に県政運営の抱負を次のように述べています。

(1)道路を開き、運輸の便利を良くし、民力を養い、県民の目を広く外の世界へ開かせること。
(2)学校をつくり、人材養成に努めること。
(3)勧業、なかんづく製糸器械場を設け、博物館を開いて実物による教育を施すこと。
(4)病院を設立し、県民の健康維持を図るとともに、医学教育もおこなうこと。
(5)警察署とその分署を設置するなど、治安機構の確立を図ること。
(6)河川を改修し、これを運輸の動脈として利用促進すること。
(7)酒田港の改修をおこなうこと。

幕内満雄著「評伝三島通庸」より

これらの方針により、各地で新道開削、道路整備、擬洋風建築の建設などが行われました。いくつかの建築物は、火事や時代の流れの中で消失してしまいましたが、多くが今でも遺産として残っています。

旧済生館本館
旧済生館本館
旧山形師範学校

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山形は最上川で生まれ変わった?!

江戸時代、最上川には3つの難所があったといいます。その3か所は最上川が大きく蛇行して流れも急になるところで、松尾芭蕉も「おくの細道」に「碁点、隼、三ヶ瀬というおそろしき難所あり」と書き残しています。

この難所を9代藩主の最上義光が開削し、舟運が発展するきっかけとなりました。また、中流部には舟運の基地となった新庄盆地の清水、山形盆地の大石田と船町の三河岸がありました。これを慶長年間に大掛かりな整備を行い、山形の発展に貢献したのです。

現在の黒滝付近
現在の黒滝付近

また元禄7年、米沢藩の西村久左衛門が、米沢から左沢までの舟路を開きました。酒田が西廻航路の起点として繁栄した一方で、米沢では米の輸送に苦労していました。そこで米沢藩の西村久左衛門は、現状では船の通行ができない松川の黒滝を開削すれば藩に利益がもたらされると提案しましたが、藩は財政難を理由に開削は行われませんでした。

そこで久左衛門は私財を投じて独力で整備を行なったところ、輸送物資の量も飛躍的に伸びて置賜から村山への舟運が発展することになったのです。

このように山形では最上川も各所で改良工事が行われた結果、大きく生まれ変わり続けたといえそうです。

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山形は城が生まれ変わった?!

山形城は、足利尊氏と同じ清和源氏の流れをくむ斯波兼頼(最上氏初代)は、延文元年(1356)に、羽州探題として山形に入ります。斯波兼頼が延文2年(1357)に築城したことに始まります。その後、斯波兼頼の子孫は室町幕府より「最上屋形」の称号を賜り最上氏を名乗るようになります。その後、最上氏11代の最上義光によって城郭の整備が行われました。

復元された山形城跡
復元された山形城跡

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで最上義光は東軍へ加担して、「北の関ヶ原」と呼ばれた慶長出羽合戦へと突入します。西軍の有力大名であった上杉景勝は、重臣である直江兼続に2万5千の軍勢を預け山形へと攻め入りましたが、関ヶ原での東軍徳川方の勝利を知らされた直江兼続は退却します。

藩主の最上義光は家康から57万石の領地を認められ、実質の石高が百万石とも言われる領国を築きました。しかし江戸時代初期の最上氏時代に57万石あった石高も度重なる藩主交代に伴って石高が削減され、山形藩にとっては、維持することすら困難な状態になってしまいます。

明和4年(1767年)には二ノ丸東大手門を、傷みの著しい中央部分のみを修理したため平櫓2基の間に渡すような姿となってしまいました。幕末期の水野氏5万石時代には城はかなり荒廃していたようです。明治3年には長く使われずにいた城郭は大破してしまいます。売りに出された城を山形市が購入して陸軍の駐屯地となりました。

もともと天守のなかった山形城では本丸御殿が藩政の中枢となる重要な施設ですが、間取り図は残っているものの建物の形を確認できる立体図などの資料はありません。

そこで平成24年度からは「本丸御殿跡」の整備を目的とした発掘調査を行い、地下遺構や出土品などから御殿の位置や規模を推定するとともに、研究者の監修の下、CGやVRなどの最新デジタル技術を活用した復原事業を進めています。これも山形の生まれ変わりの一つでしょうか?

復元された山形城跡
復元された山形城跡

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山形は明治の都市計画で生まれ変わった?!

初代山形県令の三島通庸は、山形県庁舎を中心とする新市街地の建設を行って、市民に明治の新しい時代の到来を示しました。山形県庁舎を中心として都市計画道路を南側にまっすぐに伸ばし、道路の東側は警察署・師範学校・南山学校、西側には警察本署・南村山郡役所・勧業博物館・製糸場、少し離れて済生館など、県の主要な官署や施設が集中して作られました。

これらの建物は、当時は珍しい西洋風の建築で、市民たちはこれらの出現に驚き、また文明開化の到来を感じて新しい県政に期待を抱いたのです。古くからの城下町は、三島通庸により近代的都市へと変貌を遂げて、人々に新しい国家の始まりを認識させました。

しかし多くの建物は明治44年の山形市北大火で焼失してしまい、当時の建物として現在残っているのは、旧済生館本館と旧山形師範学校本館のみです。旧山形県庁舎は大正5年に復興されました。

旧山形県庁舎(復元)
旧山形県庁舎(復元)

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山形はトンネルで生まれ変わった?!

ご存知のように山形は大きな盆地の地形です。古くからの港町・酒田以外は、福島や東京に出るには山を越えなければいけません。初代県令の三島通庸は山形県令に就任する際に、内務卿だった大久保利通に県政運営の抱負の中で、「道路を開き、運輸の便利を良くし、民力を養い、県民の目を広く外の世界へ開かせること」を挙げています。

そこで3本のトンネルを掘ることで、山形を生まれ変わらせようとしました。つまり「栗子隧道」を掘ることで、福島を通って東京と山形を結ぶ万世大路とします。そして山形から太平洋側の仙台へは「関山隧道」を掘って関山新道とします。また「片洞門」は山形県と新潟県を結ぶ小国新道として開削されました。

つまりこれらのトンネルを作ることで、山形と他の地域を結びつけて交通の便を良くして、山形を生まれ変わらせようとしたのです。

栗子隧道
栗子隧道
関山隧道
関山隧道
片洞門
片洞門

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「山形は何度も生まれ変わる」のまとめ

山形は山岳信仰で生まれ変わった?!

山形は古くから出羽三山の修験道で「生まれ変わる」という意識が根付いていました。

山形は3人の偉人で生まれ変わった?!

山形には第9代米沢藩主「上杉鷹山」、米沢藩普請奉行「黒井半四郎」、初代山形県令の「三島通庸」をはじめとした優れた偉人が、山形の生まれ変わりを進めていったとも言えそうです。

山形は最上川で生まれ変わった?!

山形の人々は、舟運や農業用水など県内を流れる最上川とうまく付き合っていく必要がありました。そんな中で先述した偉人たちの活躍もあって県内全域が生まれ変われたのです。

山形は城が生まれ変わった?!

江戸時代初期には実質100万石ともいわれた山形藩も、藩主の交代が続く中で幕末にはひどい財政難に陥ってしまいました。山形城も身売りする羽目になってしまいましたが、現在は復興に向けた発掘調査も行われて復興に向けて生まれ変わろうとしています。

山形は明治の都市計画で生まれ変わった?!

明治になって建てられた西洋風の建築物の多くは、明治44年の山形北大火で焼け落ちてしまいましたが、旧山形県庁舎などの建物が復興されて生まれ変わっています。

山形はトンネルで生まれ変わった?!

山形は大きな盆地で、他の地域との交通に難のある土地でした。初代県令の三島通庸は、福島や東京、仙台、新潟との交通を便利にするために何本ものトンネルを掘ることで山形を生まれ変わらせました。

まだ他にも山形が生まれ変わってきた事例はたくさんありますが、今回、タモリさんと野口葵アナは山形のどこをブラブラして「生まれ変わりの痕跡」を見つけるのでしょうか?

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