暖簾をくぐった瞬間、人はまだ湯に触れていない。けれど、天井の高さ、木の匂い、足裏に伝わる床の感が、すでに身体の力を抜きはじめている。
温泉建築のくつろぎは、湯船の中だけにあるわけではない。玄関に一歩足を踏み入れたときから、人は少しずつ、日常を脱いでいく。靴を脱ぎ、音を落とし、視線を低くする。重たい扉や柱は、外の世界をきっぱりと遮り、内側の時間へと導く。
日本の温泉建築は、人を急かさない。建物そのものが、「ゆっくりでいい」と語りかける。だから、湯に浸かる前から、もう極楽は始まっている。
NHK「美の壺」は、道後温泉本館、法師温泉、鶴の湯温泉、そして現代建築が並ぶ長湯温泉を通して、建築が人をくつろがせる、その仕組みを見つめていく。
【放送日:2026年2月4日(水)19:30 -20:00・NHK BSP4K】
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重厚な玄関がつくる「儀式」
— 道後温泉本館、極楽への入り口道後温泉本館に足を踏み入れると、まず目に入るのは、重く、揺るぎない玄関の構えだ。扉の大きさ、柱の太さ、積み重ねられた時間の気配。そこには、「急いで入って、さっと出る」という気分を許さない空気がある。
日本の温泉建築において、玄関は単なる入口ではない。日常と非日常を切り替えるための、最初の儀式だ。靴を脱ぎ、段差を上がり、視線が自然と下がる。その一連の動作が、知らず知らずのうちに、身体の速度を落としていく。
道後温泉本館は、「くつろぎ」を、最初から与えようとはしない。まずは、きちんと整えさせる。回廊を進み、階段を上がり、少し遠回りをすることで、人は湯への期待を、ゆっくりと熟成させていく。
かつて皇室専用の浴室が設けられていたことも、この建築が「特別な時間」を大切にしてきた証だ。それは身分の違いというより、湯に向き合う心構えを象徴している。
すぐに極楽を与えない。だからこそ、湯に浸かった瞬間の「あ”~」が、深く、長く、身体に残る。道後温泉本館の玄関は、極楽への入口であると同時に、人をゆっくりと“ほどく”ための、最初の装置なのだ。
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木の湯屋に身をあずける — 法師温泉
法師温泉の湯屋に入ると、まず感じるのは、木の気配だ。柱、梁、床。視界に入るものの多くが、長い時間を過ごしてきた木でできている。新しさはない。けれど、古さを誇る様子もない。
与謝野晶子がこの湯に心を奪われたのは、湯の成分や効能だけではなかったはずだ。身体を包む空気そのものが、どこかやさしい。天井は高く、湯気は上へと逃げていく。光は直接差し込まず、やわらかく拡散する。そのおかげで、人の輪郭まで、少し曖昧になる。
法師温泉の湯屋では、人が建物を使っている、という感覚が薄れる。むしろ、建物に抱えられていると言ったほうが近い。湯船に身を沈めると、木の柱がすぐそばにある。それは装飾ではなく、構造そのものだ。
建築と人の距離が、驚くほど近い。この近さが、不思議な安心感を生む。誰かに見せるための空間ではなく、自分の身体を預けるための場所。
法師温泉の湯屋は、「くつろぎ」を演出しない。ただ、長いあいだ、同じ場所で湯を湛え続けてきた。
その時間の厚みが、人の力を、そっと抜いていく。湯に入る、というより、湯屋に身をあずける。そんな感覚が、ここでは自然に生まれる。
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雪と湯がつくる境界のない建築 — 鶴の湯温泉
鶴の湯温泉を思い浮かべるとき、多くの人がまず連想するのは、深い雪と、白濁した湯だろう。けれど、この温泉の魅力は、単なる景色の美しさではない。建築と自然の境界が、ほとんど消えていることにある。
建物は、山の中に「建てられている」というより、そこに「置かれている」ように見える。主張しすぎない屋根、雪を受け止める低い構え。風景の一部として、静かにそこに在る。
湯に浸かると、視界の先には雪原が広がる。湯船の縁と、自然とのあいだに、はっきりした区切りはない。建築は、人を守るための殻でありながら、自然を遮断しない。
寒さを遠ざけ、同時に、季節の気配をそのまま伝える。鶴の湯温泉の建築は、「快適さ」を最大化しようとしない。むしろ、自然の厳しさを、少しだけ和らげる程度にとどめている。その控えめさが、人の感覚を研ぎ澄ませる。
湯の温かさ。雪の冷たさ。湯気の立ち上る速さ。外気が肌に触れる瞬間。ここでは、くつろぎとは、何かを足すことではなく、境界を減らすことなのだと分かる。
鶴の湯温泉は、人を自然から切り離さない。同時に、自然の中に放り出すこともしない。そのあいだにある、
ぎりぎりの場所に、湯屋を据えてきた。だからここでは、人はただ、湯と雪と時間の中に、身を置くことができる。
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現代建築が描く、新しい極楽— 長湯温泉、世界とつながる湯屋
長湯温泉と聞いて、まず思い浮かぶのは、身体に細かな泡がまとわりつく炭酸泉だ。ぬるめの湯なのに、じんわりと芯から温まる。派手さはないが、長く浸かっていたくなる不思議な湯。その感覚は、長湯温泉の建築にも、そのまま引き継がれている。
ここでは、日本の伝統的な湯屋のかたちにこだわらない。第一線で活躍する建築家たちが、「温泉とは何か」を、あらためて問い直している。
モデルになったのは、ハンガリーなど、ヨーロッパの温浴文化。社交の場であり、身体を整える場所でもある公衆浴場の思想だ。
直線的なデザイン。大胆な開口部。外光を取り込み、湯と空間を一体として感じさせる構成。長湯温泉の建築は、くつろぎを「懐かしさ」だけに求めない。
身体がどう反応するか。どのくらいの温度で、どのくらいの時間、人は心地よくいられるのか。その視点は、どこか科学的で、同時にとても人間的だ。
西洋の温浴文化と、日本の温泉が出会うことで、ここには新しい極楽のかたちが生まれている。静かに佇む秘湯とは違う。けれど、人の身体と正直に向き合う姿勢は、確かに同じだ。
温泉建築は、守るだけのものではない。こうして、更新され続けることで、人をくつろがせる力を保ってきた。
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まとめ|建物が人をくつろがせるということ
温泉の極楽は、湯船の中だけにあるわけではない。暖簾をくぐり、靴を脱ぎ、床の感触を確かめながら進むその時間から、人はもう、日常を手放し始めている。
道後温泉本館の重厚な玄関。法師温泉の木に抱かれる湯屋。鶴の湯温泉の、雪と湯が溶け合う境界のない空間。長湯温泉の、身体と正直に向き合う現代建築。それぞれのかたちは違っていても、共通しているのは、建物が先に人をくつろがせているということだ。
日本の温泉建築は、「どう入るか」よりも先に、「どう身をゆだねるか」を用意してきた。理由を説明しなくてもいい。効能を語らなくてもいい。ただ、気持ちがほどけていく。
湯に浸かった瞬間の「さぶーん」「あ”~」が、深く、長く残るのは、その前の時間が、ちゃんと整えられているからだ。
建物が人をくつろがせる。それは、極楽を用意するということではない。極楽に、自然と近づいていける状態をそっとつくることなのだろう。湯に入る前から始まる極楽は、今日も、どこかの湯屋で、静かに続いている。