16歳で故郷を離れた少年が、次に故郷・高知で自分の人生を語ったのは、90歳になってからでした。
野村宏さん。高知県で生まれ育った野村さんは、16歳のときにハンセン病を発症し、瀬戸内海に浮かぶ香川県の大島へ連れて来られました。そこにあったのは、国立療養所・大島青松園。当時の日本では、ハンセン病患者を社会から切り離す「隔離政策」が進められていました。
やがて治療法が確立し、野村さんの病気も治ります。それでも、故郷へ帰って以前と同じ暮らしを取り戻すことは容易ではありませんでした。身体に残った後遺症。社会に残り続けた偏見と差別。そして、国の隔離政策そのものが終わったのは、1996年になってからのことでした。
16歳だった少年は、その間にも歳を重ねていきます。そして大島で過ごした年月は、74年になりました。人生の大半を過ごしたこの島を、野村さんは今、「第二のふるさと」と呼びます。自分の意思でやって来た島ではなかったはずなのに、なぜ「ふるさと」なのでしょう。
NHK『Dearにっぽん』「“隔離の島・大島” 伝え遺す最期の日々」は、90歳になった野村さんの日々を見つめます。この春、野村さんは、これまで避けてきた故郷・高知へ向かいました。そこで、自分が経験してきたことを人々に語るために…。
国の政策によって奪われた時間は、もう取り戻すことができません。けれど、その場所で過ごした74年間までが、ただ「奪われた人生」だったのでしょうか。そこには人との出会いがあり、暮らしがあり、野村さん自身が作ってきた人生がありました。
奪われた時間と、それでも作ってきた人生。90歳になった野村さんは、なぜ今、自らの記憶を故郷で語ろうと思ったのでしょう。そして、かつて自分を隔離した島を、なぜ「第二のふるさと」と呼ぶのでしょう。野村さんが伝え遺そうとしているものをたどりながら、私たちも大島に刻まれた74年という時間を見つめてみたいと思います。
【放送日:2026年9月10日(木)1:55 -2:21・NHK-総合】
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16歳で、人生の行き先を決められた~ハンセン病と「隔離」という国の政策
「ハンセン病」と聞いて、どんな病気なのかすぐに説明できる人は、今ではそれほど多くないかもしれません。かつて日本では「らい」や「らい病」と呼ばれていた病気です。
ハンセン病は「らい菌」という細菌によって起こる感染症で、主に皮膚や末梢神経などに症状が現れます。末梢神経が傷つくことで、手足などの感覚が鈍くなったり、痛みや熱さを感じにくくなったりすることがあります。
そのため病気そのものが治った後にも障害が残り、熱いものに触れても気づかず、やけどを負ってしまうことさえあります。しかし、ここで知っておかなければならないことがあります。
ハンセン病は、非常に感染力の弱い病気です。
現在では治療法も確立され、早期に適切な治療を受ければ後遺症を残さず治すこともできます。では、なぜハンセン病になった人たちは、家族や故郷から引き離されなければならなかったのでしょう。その背景には、病気そのものへの恐怖と、国が進めた「隔離政策」がありました。
日本では1907年に「癩予防ニ関スル件」という法律が制定され、ハンセン病患者を療養所へ収容する政策が始まります。そして1931年の「癩予防法」によって隔離政策はさらに強化されていきました。
患者を社会から遠ざければ、病気をなくすことができる。そんな考えのもと、各地に国立療養所が置かれ、多くの人が家族や地域社会から切り離されていきます。香川県の瀬戸内海に浮かぶ大島にある「大島青松園」も、その一つでした。
野村宏さんがハンセン病を発症したのは16歳のとき。故郷の高知を離れ、大島へやって来ました。16歳。これからどんな仕事をするのか。どこで暮らすのか。誰と出会い、どんな家庭をつくるのか。本来なら、これから少しずつ自分の人生を選んでいく年齢だったはずです。
ところが病気になったことで、その人生の行き先を自分で選ぶことができなくなりました。高知ではなく、大島へ。家族と暮らすのではなく、療養所へ。それは野村さん自身が選んだ「これから」ではありませんでした。
もちろん、20世紀初頭にはハンセン病について現在ほど医学的な知識がなく、治療法も確立されていませんでした。だから当時の人々が病気を恐れたことまで、現在の知識だけで簡単に責めることはできないでしょう。けれど、問題はここからです。
1940年代になると、ハンセン病に有効な治療薬が登場します。大島青松園でも1949年から治療薬による本格的な治療が始まり、病気が治って退所する人も現れるようになりました。病気は、治せる時代になっていったのです。それなら、隔離する必要もなくなっていったはずです。
ところが――日本の隔離政策は終わりませんでした。それどころか戦後の1953年、「らい予防法」が制定され、隔離を前提とした制度はその後も続いていきます。法律がようやく廃止されたのは、1996年。野村さんが16歳で大島へやって来てから、すでに長い年月が過ぎていました。
病気を治す方法がなかった時代に始まった隔離。ではなぜ、病気を治せるようになってからも、人を隔離する法律は残り続けたのでしょう? そして病気が治った人たちは、なぜ故郷へ帰ることができなかったのでしょう?
大島で野村さんを待っていたのは、病気との闘いだけではありませんでした。むしろ病気が治ったあとにも残り続けたものがありました。身体に残った後遺症。そして社会に残った、偏見と差別です。
次は、この国が「治せる時代」になっても隔離をやめられなかった、その長すぎる時間を見ていきたいと思います。
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病気は治った。それでも、なぜ帰れなかった?~1996年まで続いた隔離政策
ハンセン病を治療する薬が登場しても、日本の隔離政策は終わりませんでした。大島青松園では1949年から治療薬による本格的な治療が始まり、病気が治って退所する人も現れるようになります。それでも1953年、国は「らい予防法」を制定しました。
そして、この法律が廃止されたのは1996年。治療できる時代になってからも、隔離を前提とした制度は長く残り続けたのです。なぜ、こんなことが起きたのでしょう。
国の判断が誤っていたことは、現在では国自身が認めています。2001年に成立した「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」の前文には、かつて採られた隔離政策によって患者や元患者が受けた苦痛と苦難について「深くおわびする」と記されました。
しかし、この歴史を「政府が間違った政策を続けたから」の一言だけで終わらせてしまうと、もう一つの大切なものが見えなくなります。隔離を受け入れてしまった社会です。
ハンセン病に対する恐怖は、患者本人だけに向けられたものではありませんでした。「あの家にはハンセン病になった人がいる」それだけで、家族まで偏見や差別の対象になることがありました。病気になった人を療養所へ隔離する。それによって社会の側は「安心」できたのかもしれません。
けれど、その安心のために故郷から切り離された人には、その先も人生があります。ここに、隔離というものの恐ろしさがあるように思います。「よく分からない。怖い。だったら遠ざけておこう」病気について十分な知識がなければ、そう考えてしまう気持ちは理解できなくもありません。
しかし、その「念のため」の向こう側にいるのも、一人の人間です。しかもハンセン病の場合、医学が進歩して病気を治せるようになってからも、社会に根づいた恐怖と偏見は簡単には消えませんでした。病気は治った。それなのに、「ハンセン病だった人」という烙印は治らなかったのです。
さらに隔離政策は、人がどこで暮らすかだけでなく、人生の極めて私的な部分にまで踏み込んでいきました。療養所では入所者同士の結婚が認められるようになる一方、子どもを持つことを認めない考え方のもと、断種や人工妊娠中絶が行われた歴史があります。
後には旧優生保護法によって、ハンセン病を理由とした優生手術や人工妊娠中絶まで制度化されました。隔離された場所で暮らす。結婚する。子どもを持つ。本来なら一人ひとりが選ぶはずの人生に、国が深く入り込んでいました。
では、1996年に「らい予防法」が廃止されたことで、すべてが終わったのでしょうか。もちろん、そうではありません。法律なら、その日を境になくすことができます。けれど、人の心に染みついた偏見には、廃止日がありません。
長い隔離によって故郷とのつながりを失った人もいました。社会へ戻ろうとしても、偏見や差別への不安がありました。長年暮らした療養所の外には、仕事も住まいも人間関係もないという人もいたでしょう。そして、病気そのものが治っても、末梢神経の障害などによる後遺症が残ることもあります。
「今日から隔離は終わりです」そう言われても、その瞬間に人生を隔離される前へ戻すことなどできなかったのです。ここで私たちは、少し怖いことにも気づきます。「疑わしいから、念のため遠ざけておこう」「自分や家族に何かあったら困るから、近づかないでおこう」そんな気持ちは、本当に1996年に消えたのでしょうか。
未知の感染症が広がったとき。よく知らない病気を持つ人に出会ったとき。私たちもまた、「怖い」という感情から誰かを遠ざけたくなることがあります。あの記憶に新しい「コロナ禍」の時もそうでした。
もちろん、感染症から自分や家族を守るために科学的根拠に基づいた対策を取ることと、病気になった人そのものを排除することは違います。その境界を見失ったとき、「病気を遠ざける」が、「人を遠ざける」に変わってしまう。大島の歴史が今の私たちにも問いかけているのは、そこなのかもしれません。
国は1996年に法律をなくしました。その後、隔離政策の誤りを認め、謝罪し、補償も行ってきました。けれど――法律を廃止することはできても、奪ってしまった時間を返すことはできません。
16歳で大島へやって来た野村宏さんにも、その間ずっと時間は流れていました。少年は青年になり、やがて歳を重ねていきます。故郷から遠く離れた大島で。病気によって国に決められてしまった場所で…。それでも野村さんは、ただ「隔離されていた」だけではありません。そこで人と出会い、暮らし、自分の人生を作っていきました。
そして74年後。かつて自分を隔離したその島を、野村さんはこう呼びます。
「第二のふるさと」
なぜなのでしょう。次は、国によって奪われた時間ではなく、その中で野村さん自身が作ってきた時間を見つめてみたいと思います。
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奪われた時間、それでも作ってきた人生~大島が「第二のふるさと」になるまで
16歳で大島へやって来た野村宏さんは、それから74年という時間をこの島で過ごしてきました。74年。あまりにも長い時間です。少年が青年になり、やがて歳を重ね、90歳になるまでのほとんどすべてがそこにあります。
もしハンセン病を発症していなかったら、野村さんには別の人生があったのかもしれません。高知で仕事に就いていたかもしれない。故郷で家族や友人と暮らしていたかもしれない。まったく別の場所へ行き、そこで人生を作っていたかもしれない。けれど、その「もしも」の人生を確かめることは、もう誰にもできません。
16歳で大島へ連れて来られたとき、野村さんは人生の行き先を自分で選ぶことができませんでした。病気が治ってからも、身体に残った後遺症や、社会に根深く残った偏見と差別がありました。法律が変わったからといって、失われた故郷との時間が元に戻るわけでもありません。
国の政策と社会の偏見によって、野村さんから奪われたものは確かにありました。けれど――。だからといって、大島で過ごした74年間のすべてを、「奪われた人生」と呼んでしまっていいのでしょうか。
野村さんは、その74年間をただ耐えていたわけではありません。そこには毎日の暮らしがありました。人との出会いがありました。嬉しかった日も、悲しかった日もあったでしょう。誰かと笑った時間も、一人で海を眺めた時間もあったはずです。私たちには、その一日一日を知ることはできません。
まして、野村さんが74年間に何を思い、何を諦め、何を大切にしてきたのかを、簡単に理解したつもりになることもできません。ただ、一つだけ忘れたくないことがあります。
大島で生きた人生は、野村さん自身が作ってきた人生でもあるということです。
隔離政策を作ったのは国でした。大島へ行くことを決めたのも、野村さん自身ではありませんでした。けれど、その場所で人と出会い、暮らし、歳を重ねてきた74年間までを、国が作ったわけではありません。その時間は、野村さん自身のものです。
だからこそ、野村さんが大島を、「第二のふるさと」と呼ぶ言葉には、簡単には言い表せない重さがあります。
強制的に連れて来られた場所なのに、なぜ「ふるさと」なのでしょう。もしかすると私たちは、「隔離された島」という言葉だけを見て、大島そのものまで野村さんにとって苦しみだけの場所だったと思ってしまうのかもしれません。けれど、国が行った隔離政策と、そこで暮らした人たちが作った日々は同じものではありません。
隔離政策を肯定することと、大島で生きた人生を肯定することは、まったく違います。大島を「第二のふるさと」と呼ぶことは、国の政策を許すことでも、過去の差別をなかったことにすることでもないのでしょう。それはむしろ、「ここで生きてきた74年間も、私の人生だった」ということなのかもしれません。もちろん、それも私たちの想像にすぎません。
「第二のふるさと」という言葉に、野村さん自身がどんな思いを込めているのか。それは、野村さんの言葉から受け取るしかありません。ただ、「ふるさと」というものは、生まれた場所だけを指す言葉ではないのかもしれません。
自分を知っている人がいる場所。長い時間を過ごした場所。思い出を重ねた場所。そして、自分が生きてきたことを覚えている場所。そんな場所もまた、いつしか「ふるさと」になっていくのでしょう。
野村さんには二つのふるさとがあります。一つは、16歳までを過ごした高知。そしてもう一つは、16歳から74年間を生きてきた大島。その二つの間には、長い時間が横たわっています。
野村さんはこれまで、故郷・高知で自分の経験を語ることを避けてきました。ところが90歳になったこの春、その高知へ向かいます。16歳で故郷を離れた少年が、74年の人生を携えて、もう一度故郷へ帰る。
失った時間を取り戻すためではありません。過去をやり直すこともできません。それでも今、自分が生きてきた人生を、自分の言葉で語ろうとしています。なぜ、今なのでしょう。90歳になった野村さんは、故郷で何を伝えようとしているのでしょう。
次は、大島で作ってきた74年間を携えて高知へ向かう、野村さんの旅を見つめてみたいと思います。
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90歳で、もう一つのふるさとへ~なぜ今、高知で自分の人生を語るのか?
16歳で故郷・高知を離れ、大島へやって来た野村宏さん。それから74年。90歳になったこの春、野村さんは高知へ向かいました。自分が経験してきたことを、人々の前で語るためです。番組では、野村さんにとって高知は、これまで自身の経験を語ることを避けてきた場所だったといいます。
なぜ避けてきたのでしょう。そして、なぜ90歳になった今、その場所で語ろうと思ったのでしょう。その答えを、私たちが想像だけで決めることはできません。
ハンセン病への偏見や差別があったからなのか。故郷や家族への複雑な思いがあったからなのか。あるいは、私たちには知ることのできない別の理由があったのか。74年間という人生を生きた本人にしか分からないことが、きっとあるのでしょう。
ただ、一つだけ言えることがあります。高知へ行き、自分の経験を語ることを選んだ。それまで避けてきたことを、90歳になって初めて行おうとしたのなら、それは野村さんの人生にとって、一つの大きな転機だったのではないでしょうか。
16歳のとき、野村さんは高知から大島へ渡りました。あのときは、自分で人生の行き先を選ぶことができませんでした。けれど74年後。今度は自分の意思で、大島から高知へ向かいます。同じ二つの場所を結ぶ旅でも、その意味はまったく違います。
16歳の旅は、行き先を決められた旅でした。90歳の旅は、自分で行くことを決めた旅です。この違いは、とても大きいように思います。失った74年間が戻ってくるわけではありません。過去に受けた偏見や差別が消えるわけでもありません。それでも野村さんは、自分が歩んできた人生を携えて、生まれ故郷へ向かいました。
そして、そこで自分の経験を語ります。何を語ったのか。なぜ今だったのか。そのとき野村さんの胸に何があったのか。そこは、番組で語られる野村さん自身の言葉に耳を傾けたいと思います。私たちが代わりに答えを作るのではなく、その言葉をそのまま受け止めたい。
ただ、16歳から90歳までをたどってきた今、もう一つ気になることがあります。野村さんが語った言葉は、その場にいた人へ届きます。聞いた人が覚えていれば、さらにその先へ伝わっていくかもしれません。一人の人間が経験できる時間には、限りがあります。けれど、経験したことを誰かに伝えることはできます。
番組のタイトルには、「伝え遺す最期の日々」とあります。野村さんが90歳になった今、何を「伝え遺そう」としているのか。その答えもまた、私たちが先回りして決めるものではないでしょう。
むしろ問われているのは、語る野村さんではなく――その言葉を受け取った私たちが、どうするのか。なのかもしれません。次は大島から少し視線をこちら側へ移して、「記憶を遺す」ということについて考えてみたいと思います。
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人がいなくなったあと、誰が記憶を引き継ぐのか~「伝え遺す」ということ
16歳で故郷を離れ、90歳になるまで大島で暮らしてきた野村宏さん。その74年間に何を思い、何を失い、何を大切にしながら生きてきたのか。私たちが、そのすべてを理解することはできません。野村さんの人生は、野村さんだけのものだからです。
けれど、その人生の中で経験したことを、野村さんはいま、自分の言葉で人々に語っています。語られた言葉を聞くことなら、私たちにもできます。そして、聞いたことを忘れないこともできます。
ハンセン病の隔離政策について調べていると、ときどき「昔の話」のように感じてしまうことがあります。けれど、「らい予防法」が廃止されたのは1996年です。決して、遠い昔の出来事ではありません。しかも、法律がなくなれば、それまでに生まれた偏見や差別まで同じ日に消えてなくなるわけではありません。
病気への恐怖。知らないものへの不安。自分や家族を守りたいという思い。そうした感情そのものは、今を生きる私たちの中にもあります。
だから大島で起きたことを、「昔の人は病気について知らなかったから仕方がなかった」という言葉だけで終わらせてはいけないのでしょう。病気から人を守ることと、病気になった人を社会から遠ざけることは違います。けれど恐怖が大きくなったとき、その境界は見えにくくなることがあります。
「念のため」。「万が一」。「自分たちを守るため」。そんな言葉の向こう側に、一人の人間の人生があることを、大島の歴史は教えてくれます。国は、法律を廃止することができます。過ちを認め、謝罪することもできます。補償することもできます。けれど――奪われた時間を返すことだけはできません。
16歳だった野村さんを、もう一度16歳に戻すことはできない。高知で過ごしたかもしれない74年間を、もう一度生き直すこともできません。だからこそ、私たちは忘れてはいけないのだと思います。ただ、野村さんの74年間を「奪われた時間」とだけ記憶することも、違うように思います。
大島へ行くことを決めたのは野村さんではありませんでした。隔離政策を作ったのも、社会に偏見を生み出したのも野村さんではありません。それでも、その場所で人と出会い、暮らし、歳を重ねたのは野村さんです。奪われた時間であり、それでも自分で作ってきた人生だった。
だから野村さんは、大島を「第二のふるさと」と呼ぶのでしょうか。その言葉に込められたすべてを、私たちが理解することはできないのかもしれません。それでも、その言葉を覚えておくことはできます。
大島青松園で隔離を経験した人たちは、高齢になっています。いつか、直接その経験を聞くことのできない日が来ます。そのとき、この歴史を誰が伝えるのでしょう。「伝え遺す」という言葉には、語る人と、それを受け取る人の両方が必要なのかもしれません。
誰かが語ってくれた記憶を、誰かが受け取る。受け取った人が覚えている。そして、また別の誰かへ伝えていく。そうやって初めて、一人の記憶は、その人がいなくなったあとにも残っていくのでしょう。
16歳で高知を離れた少年は、90歳になりました。その間に流れた74年という時間を、私たちは取り戻してあげることはできません。けれど、その人が生きたことを覚えておくことはできます。
なぜ隔離されたのか。なぜ病気が治っても帰れなかったのか。そして、その場所でどんな人生を作ってきたのか。野村さんが語った言葉を受け取った私たちは、もう、「知らなかった」だけでは終われないのだと思います。
記憶を引き継ぐということは、過去を暗記することではありません。いつか私たち自身が、知らないものを恐れたとき。誰かを「遠ざけたほうが安心だ」と思ったとき。そのときに、大島で生きた人たちのことを思い出す。それもまた、記憶を引き継ぐということなのではないでしょうか。
瀬戸内海に浮かぶ、小さな島。かつて「隔離の島」と呼ばれた大島を、野村宏さんは「第二のふるさと」と呼びます。奪われた時間、それでも作ってきた人生。その74年間を生きた人の言葉を、私たちは受け取りました。ならば今度は――私たちが、忘れない番です。
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