溶けるヒマラヤ、走るブータン——国王が仕掛けた“天空のレース”の真意【フロンティア】

ヒマラヤを走るランナー BLOG
溶けるヒマラヤ、走るブータン。その風景の先にある問いは、遠い山の物語ではない。
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ヒマラヤの氷河は、静かに、しかし確実に後退している。標高五千メートルを超える天空の地で、氷は溶け、湖は広がり、いつ決壊してもおかしくない水を抱えている。

氷河湖決壊洪水——それは、山の上で起きる災害ではない。ひとたび崩れれば、谷をのみ込み、人の暮らしを奪う。そんな危機のただ中で、ブータンはひとつの選択をした。

世界一過酷とも言われる山岳レースを開催する。しかも、それを企画したのは国王だ。

「溶けるヒマラヤ、走るブータン」。

幸福の国と呼ばれてきたこの国はいま、地球沸騰化の最前線に立っている。天空を駆ける選手たちが見たのは、絶景だけではなかった。それは、“地球の今”そのものだった。

【放送日:2026年2月24日(火)9:00 -10:00・NHK-BS】

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“幸福の国”ブータンで何が起きているのか?

ブータンと聞けば、多くの人が思い浮かべるのは「世界一幸せな国」という言葉だろう。経済規模ではなく、国民総幸福量(GNH)を掲げ、自然や文化を守りながら発展を目指す国。ヒマラヤの山々に抱かれたその姿は、どこか理想郷のようにも映る。

だが、その山々こそがいま、大きく姿を変えつつある。ヒマラヤの氷河は、地球温暖化の影響を強く受けている。気温上昇によって氷は加速度的に融け、氷河の末端には巨大な氷河湖が形成されている。これらの湖は、氷や土砂でできた不安定な堤防にせき止められているにすぎない。

もし堤防が崩れれば——氷河湖決壊洪水(GLOF)が発生する。大量の水と土砂が一気に谷を流れ下り、橋や道路、集落をのみ込む。実際にブータンでは、過去にも氷河湖決壊による被害が報告されている。問題は、そのリスクが年々高まっていることだ。

標高の高い氷河は、遠い場所の出来事のように思える。だが、その水は最終的に人の暮らしのある場所へと流れ込む。

幸福を掲げる国は、いま気候変動の最前線に立っている。それは皮肉ではない。むしろ、自然と共に生きようとしてきた国だからこそ、変化に最も敏感なのだ。

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氷河湖決壊洪水とは何か?

ヒマラヤの氷河が融けるとき、問題になるのは“氷がなくなること”だけではない。氷河の末端では、融けた水がたまり、氷河湖が形成される。その湖は、岩や土砂、そして氷そのものが積み重なってできた「モレーン(堆石)」によってせき止められている。

だが、この堤防は決して強固なものではない。気温の上昇が続けば、氷の内部にも亀裂が入り、構造は不安定になる。そこへ氷の崩落や豪雨が重なれば——堤防は一気に崩れる。これが氷河湖決壊洪水(GLOF:Glacial Lake Outburst Flood)だ。

決壊すれば、膨大な水と土砂が一気に流れ下る。その勢いは時速数十キロに達し、谷沿いの橋や道路、発電施設、集落をのみ込む。問題は、ヒマラヤ地域でこの氷河湖が増え続けていることだ。

気温上昇により氷河の融解速度が加速し、湖は拡大している。衛星観測では、過去数十年で氷河湖の面積が大きく増加していることが確認されている。つまり、氷は静かに溶けているが、危機はある日、突然やってくる。幸福の国の山奥で進む変化は、決してゆっくりとは限らない。

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なぜ国王が山岳レースを企画したのか?

氷河の融解や氷河湖決壊洪水の危険性は、国際会議でも繰り返し議論されてきた。だが数字や報告書は、ときに遠い。そこでブータンが選んだのは、“走る”という方法だった。

2024年10月に開催された山岳レースは、世界屈指の過酷さを誇る。標高差、酸素の薄さ、不安定な地形。選手たちは単に競うのではなく、ヒマラヤの変化そのものを体感することになる。

このレースを企画したのは、ブータン国王である。小さなヒマラヤの王国が、世界のトップアスリートを招き、地球沸騰化の現実を“身体的に”示す。それは観光PRとは少し違う。むしろ、絶景の裏側にある危機を隠さない選択だ。

ブータンは長年、自然と共生する価値を掲げてきた。だがその自然が、いま最も大きな脅威となりうる。だからこそ、世界に向けて伝える必要があった。走ることで…。天空を駆ける選手たちは、単なる挑戦者ではない。彼らは、地球の変化を背負う“証人”でもあった。

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“幸福国家”は試されている

ブータンは、経済成長よりも「国民総幸福量(GNH)」を重視する国として知られてきた。自然を守り、文化を守り、精神的な豊かさを重んじる。その姿勢は、急速な経済競争にさらされる世界の中で、ひとつの対案のようにも見えた。だが、理想は現実の前で試される。

気候変動は、理念を選ばない。氷河は、幸福かどうかを問わず融ける。さらにブータンは、急速な近代化の波にもさらされている。都市部では消費が拡大し、若者の海外流出も進む。インフラ整備や経済成長を求める声も強い。

自然を守るのか。経済を伸ばすのか。その二項対立は、単純ではない。山岳レースの開催は、観光振興でもあり、国際的なメッセージでもある。だがそれ以上に、「自分たちはどんな国でありたいのか」を問い直す行為だったのかもしれない。

幸福を掲げるということは、危機の前でも、その価値を手放さないということだ。小さな王国はいま、世界の最前線で、その理念の強度を試されている。

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まとめ|天空を駆けるのは誰か?

ヒマラヤの氷河は、いまも静かに融けている。その変化はゆっくりのようでいて、ある日突然、氷河湖決壊洪水というかたちで牙をむく。自然は、猶予を与えてくれているようで、実はそうではない。

ブータン国王が企画した山岳レースは、単なるスポーツイベントではない。それは、小さな王国が世界に向けて発した問いでもある。幸福とは何か。発展とは何か。自然とともに生きるとはどういうことか?

走ったのはトップアスリートたちだ。だが本当に“天空を駆けている”のは、私たち一人ひとりなのかもしれない。経済を優先するのか、自然を守るのか。あるいは、その両立を模索するのか?

氷河は待ってはくれない。溶けるヒマラヤ、走るブータン。その風景の先にある問いは、遠い山の物語ではない。地球に暮らす私たち全員に向けられている。

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