【新日本風土記】秀吉も空海も 玄界灘に抱かれて~玄界灘に重なる祈りと権力|名護屋城と島々の記憶

名護屋城跡から夕陽の玄界灘を望む BLOG
空海が海を越えて託した祈り、秀吉が権力と文化を集めた名護屋城、ロザリオの島に息づく信仰…
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海を越えて、人も祈りも行き交ってきた――新日本風土記「秀吉も空海も 玄界灘に抱かれて」は、九州北部・佐賀県東松浦を舞台に、遠い過去と今の暮らしが静かに重なり合う旅を描きます。

弘法大師・空海が唐へと船出し、豊臣秀吉が巨大な名護屋城を築いたこの地は、古くから大陸に近い“境界の海”として、さまざまな文化や信仰を受け入れてきました。

番組では、ロザリオの島に息づく祈り、海と向き合う人々の営み、棚田や祭り、そして忘れられない一人の巡査の記憶など、玄界灘に抱かれながら受け継がれてきた多層な時間が丁寧にたどられていきます。

この記事では、番組で紹介される場所や物語を整理しながら、海を越えて伝わったものが、今もこの土地の暮らしの中にどう息づいているのか、その見どころを分かりやすくまとめます。

【放送日:2026年1月5日(月)21:00 -21:59・NHK BSP4K】

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空海と玄界灘|海を越えた祈りのはじまり

この地と深く結びついている人物のひとりが、弘法大師空海です。平安時代初期、空海は遣唐使の一員として、仏教を学ぶため唐へと渡りました。その出発点のひとつが、大陸に近いこの玄界灘沿岸でした。

玄界灘は、穏やかな内海とは異なり、荒波にさらされやすい外洋の海。命がけで海を越える旅は、学問や信仰のためであると同時に、深い祈りそのものでした。

番組では、空海が歩いた時代を直接なぞるのではなく、「お大師様」として今も人々に慕われ、見守る存在として受け継がれている姿に焦点が当てられます。海を渡った記憶は、史実としてだけでなく、信仰としてこの土地に残っているのです。

玄界灘は、単なる地理的な境界ではありません。外の世界と出会い、新しい思想や文化を受け入れるための入口の海でした。この海を越えた空海の旅が、のちの日本仏教に大きな影響を与えたように、玄界灘は、人と思想を運ぶ“通路”として、長い時間、役割を果たしてきました。

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豊臣秀吉と名護屋城|権力と文化が集まった海辺

空海の時代、玄界灘は大陸の知を学びに向かうための海でした。けれど戦国の世が終わりに近づくと、この海は別の意味を帯びはじめます。その転換を象徴するのが、豊臣秀吉と(現在の)佐賀県唐津市に築かれた名護屋城です。

文禄・慶長の役に際し、秀吉はこの地に巨大な城を築き、全国から150を超える大名を集結させました。天守こそ現存していませんが、広大な城跡と城下町の痕跡は、当時ここが一時的に“天下の中心”だったことを物語っています。

ナゴヤ城というと多くの人は愛知にある金のしゃちほこでも有名な「名古屋城」を思い浮かべるかもしれませんが、唐津の名護屋城は「名古屋城とは比べものにならないほど大きい」のです。それは城そのものではなく、時代と人が集められたスケールへの実感でしょう。名護屋城は、軍事拠点であると同時に、権力を可視化する舞台でした。

そして、この場所で秀吉が重んじたのが能楽です。自ら舞い、武将たちに披露した能は、単なる娯楽ではなく、権威と文化を示すための装置でした。海を越えて軍を動かす一方で、この地では桃山文化が花開いていたのです。

大陸から学び、やがて大陸に介入する。玄界灘は、日本の視線が外へ向かうその変化を、静かに見つめてきました。

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ロザリオの島と海士(あま)の暮らし

玄界灘に浮かぶ小さな島、佐賀県北部・東松浦半島の沖合にあるこの島は、「ロザリオの島」とも呼ばれています。

時代はさらに下って江戸時代末期、加唐島や五島列島から移り住んだ人々、そして長崎・黒島から渡ってきたカトリック信者たち。彼らがこの島に根を下ろしたことで、島の暮らしと信仰は深く結びついてきました。迫害の歴史を背負いながらも、祈りの形を守り続けてきた人々。番組では、ロザリオを手にする姿や、海と向き合う日常の営みが、特別視されることなく描かれます。

漁を中心に生きてきた島の暮らしは、いまも海士漁によって支えられています。命を預ける海のそばで、信仰は「強く主張するもの」ではなく、日々を支える静かな拠りどころとして存在しています。近年は観光にも力を入れ、島の若者が中心となって立ち上げたプロジェクトによるグランピング施設、予約制のイタリア料理店「リストランテマツシマ」なども人気になっています。

それでも、祈りと暮らしの距離感は変わらない。ロザリオの島は、玄界灘に抱かれながら、人が人として生きる時間を、今も静かに重ねています。

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天空の棚田|海と祈りが出会う風景

玄界灘に面した斜面に、空へと駆け上がるように広がる棚田。佐賀県東松浦郡にある浜野浦の棚田は、「天空の棚田」とも呼ばれる風景です。

浜野浦の棚田(出典:Googleマップ)
浜野浦の棚田(出典:Googleマップ)

海に近いこの土地で、人々は急斜面を切り開き、段々に田を築いてきました。そこにあるのは、効率のよい農業ではなく、自然と折り合いをつけながら生きるための選択です。

特に印象的なのが、田植え前の時期。水が張られた棚田が夕日を映し、海と空、棚田が一体となってオレンジ色に染まる光景は、「光の道」と呼ばれ、多くの人を惹きつけます。番組では、この美しさを観光名所として強調するのではなく、棚田を守り続けてきた人々の時間に目を向けます。

毎年同じ作業を繰り返し、手間を惜しまず田を維持すること。それは、祈りに近い行為にも見えてきます。海からの風を受け、大地に水を引き、実りを願う。天空の棚田は、玄界灘とともに生きてきた人々の、静かな祈りのかたちを、今も風景として残しています。

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イカの町・呼子の大綱引き|海と陸の祈りが交差する祭り

佐賀県唐津市呼子町は、新鮮なイカの活け造りで知られる「イカの町」。今や全国から観光客が訪れる場所ですが、この町の魅力は、食だけにとどまりません。

呼子で初夏に行われるのが、国の重要無形民俗文化財に指定されている呼子大綱引です。直径およそ15センチ、長さ200メートルにも及ぶ大綱を、「岡組」と「浜組」に分かれて引き合うこの祭り。農の豊作と、海の大漁をそれぞれ願いながら、町全体が一体となって力を合わせます。

その起源はやはり、豊臣秀吉が名護屋城に陣を構えた時代。将兵の士気を高めるため、軍船のとも綱を引かせたことに始まると伝えられています。戦の時代の記憶が、やがて祈りの祭りへと姿を変え、今も続いているのです。

番組では、観光名物としての賑わいだけでなく、この綱引きが町の人々にとってどんな意味を持ち続けてきたのかが、丁寧に描かれます。イカを獲り、海に感謝し、陸の実りも願う。呼子の大綱引きは、玄界灘とともに生きてきた人々の思いが、今も形となって息づく時間です。

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忘れない…神様になった若き巡査

時代が明治へと移ると、玄界灘の風土記は、戦や信仰ではなく、人の命と向き合った一人の行為を語りはじめます。語られるのは、増田敬太郎巡査の物語です。

1895年(明治28年)、佐賀県東松浦郡(現在の唐津市肥前町高串地区)でコレラが流行した際、防疫担当として派遣された増田巡査は、住民の救護と衛生指導に尽力しました。当時はまだ医療も十分ではなく、感染症は命に直結する脅威。それでも彼は任務を離れることなく、人々のもとを回り続け、やがて自らも感染し、25歳という若さで殉職します。

その死は、「職務」として処理されるだけのものではありませんでした。命を懸けて守ろうとしてくれたその姿に、住民たちは深く心を打たれ、石碑や祠を建てて供養します。やがて彼は秋葉神社と合祀され、増田神社として、今も「巡査大明神」「警神」として祀られています。

神話の英雄でも、天下人でもない。名もなき一人の行為が、人々の記憶の中で神となり、祈りの対象として残っていく。まさに”プロジェクトX”のようです。玄界灘の物語は、こうして私たちのすぐ近くにある「現代の祈り」へとつながっていきます。

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まとめ|玄界灘に抱かれて受け継がれるもの

新日本風土記「秀吉も空海も 玄界灘に抱かれて」は、歴史上の偉人や名所を並べる番組ではありません。

空海が海を越えて託した祈り、秀吉が権力と文化を集めた名護屋城、ロザリオの島に息づく信仰、天空の棚田に重ねられた人々の願い、呼子の祭りに残る海と陸の祈り、そして、命をかけて人を守った若き巡査の記憶。それらはすべて、玄界灘という同じ海に抱かれながら、それぞれの時代を生きた人の選択として重なっています。

この番組が伝えているのは、過去の出来事そのものではなく、それを忘れず、暮らしの中で静かに受け止め続けてきた土地の時間です。海は語らず、風景は主張しない。それでも確かに、人の思いは受け継がれていく。

玄界灘は、過去を隔てる境界ではなく、記憶を抱き、今へとつなぐ海なのだと、そっと教えてくれる風土記です。

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