人は、いくつの顔を持っているのだろうか。
日々の暮らしの中で、私たちは場面ごとに、少しずつ違う顔を見せている。親としての顔。子としての顔。誰かと向き合うときの顔。そして、もうひとつの顔を、あえて身につけるときもある。
お面。それは、自分を隠すためのものなのか、それとも別の何かになるためのものなのか。鬼や神、人ならざるものの顔を借りることで、人は自分の内側から、少しだけ離れる。
日本の各地で受け継がれてきたお面は、信仰となり、芸となり、暮らしの中に根付いてきた。そこにあるのは、ただの変装ではない。人と人ならざるもの、現実と異界。そのあいだに立つための、もうひとつの顔。これは——人が“顔を持つ”ということの意味を、静かにたどる物語。
【放送日:2026年4月27日(月)22:00 -23:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年4月28日(火)20:00 -21:00・NHK-BS】
【放送日:2026年5月3日(日)6:00 -6:59・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年5月4日(月)17:00 -18:00・NHK-BS】
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なぜ人は顔を隠すのか?|お面のはじまり
顔を隠すという行為は、とても不思議なものだ。人はふだん、顔によって自分を示している。表情や視線、わずかな動きの中に、その人らしさが現れる。けれど、その顔をあえて覆い隠すときがある。縄文時代の遺跡からは、土でつくられた仮面が見つかっている。

鼻が曲がり、人とは少し違うかたち。それは、誰かになるためのものだったのか、それとも何かを遠ざけるためのものだったのか。はっきりとは分からない。
ただひとつ言えるのは、顔を隠すことで、人は“いつもの自分”から離れるということ。自分ではない何かに近づく。あるいは、自分の内側にあるものを、外に出す。
お面は、ただの道具ではない。人と、それ以外のもののあいだに立つための、ひとつの境界だ。そのはじまりは、とても古く、そしていまも続いている。
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人ではないものになる|鬼と神のお面
お面をつけると、人は“別の何か”になる。秋田のナマハゲ。
「泣ぐ子はいねがー」
そう声を上げながら、家々を訪ねていく。その姿は、鬼のようでもあり、どこか神のようでもある。子どもたちは泣き、大人たちは頭を下げる。けれど、そこにあるのは恐怖だけではない。一年の無事を願い、怠け心を戒める。

外から訪れる存在として、人の暮らしに入り込んでくる。ナマハゲは、“人ではないもの”として現れる。けれどその正体は、同じ村に暮らす人たちだ。
お面をつけることで、その人は、自分とは別の役割を担う。恐れられる存在となり、同時に、守る存在にもなる。人でありながら、人ではないものになる。そのあいだに立つこと。お面は、その境界を越えるための手段なのかもしれない。
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感情を外に置く|能面という表現
能面は、ほとんど表情を持たない。笑っているようにも、悲しんでいるようにも見える。けれど、はっきりとした感情は示さない。その代わりに、わずかな角度の違いで、見え方が変わる。少し下を向けば、どこか沈んだ表情に。わずかに顔を上げれば、やわらかな光を帯びる。

面そのものは変わらない。変わるのは、見る側の受け取り方と、光の当たり方。つまり、感情は“面の外”にある。演じる人の動き、見る人の心。そのあいだに、表情が立ち上がる。
能面は、感情を閉じ込めるものではない。むしろ、外に解き放つための器だ。はっきりと見せないことで、かえって多くを感じさせる。お面をつけることで、感情は消えるのではなく、別の場所へと移っていく。
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誰かになるということ|狐面と儀式
お面をつけると、人は“誰かになる”。狐の嫁入り。白い狐面をつけた人たちが、列をなし、静かに進んでいく。そこにいるのは、普段の名前を持つ誰かではない。
役割を与えられた存在。花嫁であり、使者であり、物語の中の一部となる。顔を隠すことで、その人自身は後ろに退く。代わりに、“役”が前に出る。それは、自分を消すということではない。むしろ、自分の中にある別の側面を、外に差し出すこと。
儀式の中で、人は一時的に、別の存在としてそこに立つ。日常とは少し違う場所で、違う関係性の中に入っていく。お面は、その境界を越えるためのしるしだ。
そして、儀式が終われば、また元の場所へ戻っていく。誰かになることと、自分であること。そのあいだを行き来することが、人の営みなのかもしれない。
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顔に宿るもの|祟りと記憶
お面には、ときに“見てはいけないもの”が宿るといわれる。
その顔を見れば、祟りがある。そう語り継がれてきた面も、日本の各地に残っている。けれど、それはただの恐れではないのかもしれない。
面に宿るのは、人の記憶だ。過去に生きた誰かの気配や、積み重ねられた時間。それが、ひとつの顔として残されている。
祖先の顔を写す面。そこにあるのは、すでにいない人の存在を、いまに留めようとする願い。お面は、単なる“別の顔”ではない。時間を越えて、何かを伝え続ける器でもある。
だからこそ、軽々しく向き合うことができない。そこには、見てはいけないというよりも、“向き合う覚悟が問われる”何かがある。
顔は、その人そのものではない。けれど、そこに積み重なっていくものが、やがて“その人らしさ”を形づくっていく。見せる顔と、見せきれないもの。そのあいだにあるものが、人の時間なのかもしれない。
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まとめ|顔の向こうにあるもの
人は、いくつの顔を持っているのだろうか。
日々の中で、私たちはさまざまな立場に立ち、そのたびに違う顔を見せている。お面は、その“もうひとつの顔”を、かたちとして表したものなのかもしれない。
鬼や神となり、誰かの役割を引き受け、ときには自分を離れる。その一方で、そこに宿るのは、人の記憶や時間でもある。
顔を隠すことは、何かを消すことではない。むしろ、見えないものを、別のかたちで浮かび上がらせること。見せる顔と、その向こうにあるもの。そのあいだを行き来しながら、人は生きている。
もうひとつの顔を持つということ。それは、自分を変えることではなく、自分の中にあるものと向き合うことなのかもしれない。