映画『男はつらいよ』の舞台として親しまれてきた葛飾・柴又。寅さんが歩いた帝釈天の参道や江戸川の河川敷は、多くの人にとって懐かしい下町の風景として心に残っています。しかし、この町を本当に育んできたのは、目の前を静かに流れる「水」でした。
葛飾区には江戸川や中川、荒川など六つもの川が流れ、豊かな地下水とともに人々の暮らしを支えてきました。農作物や名物料理、町工場のものづくり、そして人情あふれる下町文化まで、その多くは水の恵みの上に築かれています。
一方で、地下水のくみ上げによる地盤沈下は、この町を洪水の危険と隣り合わせの「0メートル地帯」にもしました。豊かな恵みをもたらした水は、ときに人々へ大きな試練も与えてきたのです。
今回の『新日本風土記』は、寅さんが愛した葛飾・柴又を舞台に、水とともに生き、水と向き合い続けてきた人々の物語。懐かしい風景の奥に流れ続ける「六つの川」の姿をたどりながら、下町を支えてきた水の記憶に耳を澄ませます。
【放送日:2026年8月3日(月)22:00 -23:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年8月4日(火)20:00 -21:00・NHK-BS】
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水がつくった「寅さんのふるさと」
映画『男はつらいよ』で、寅さんは柴又帝釈天の参道を歩き、江戸川の土手で寝転び、ときには矢切の渡しを眺めながら故郷へ帰ってきました。その穏やかな風景は、多くの人にとって「柴又らしさ」そのものとして心に残っています。
しかし、その懐かしい町並みや人情あふれる暮らしは、偶然生まれたものではありません。葛飾・柴又には江戸川、中川、荒川など六つもの川が流れ、古くから豊かな水に恵まれてきました。川は人や物を運び、農地を潤し、暮らしを支えながら、この町の文化を育んできたのです。
映画の中で印象的な江戸川の河川敷も、その豊かな水辺があったからこそ生まれた風景でした。広い空の下、草の上に寝転ぶ寅さんの姿には、忙しい日常を忘れさせてくれる下町の穏やかな時間が流れています。
けれど、その穏やかな景色の足元は、決して当たり前のものではありませんでした。地下水の恵みを受けて発展した一方で、過度なくみ上げによる地盤沈下が進み、葛飾は海抜ゼロメートル地帯を抱える町となります。人々は水の恵みを受けながら、同時に水害とも向き合い続けてきました。
それでも川は、この町の人々にとって「恐れるもの」ではなく、「ともに生きるもの」でした。寅さんが何度旅に出ても帰ってきた柴又は、人情だけではなく、水に育まれた故郷でもあったのです。
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水は暮らしを育ててきた
葛飾の人々にとって、水はただ川を流れる景色ではありませんでした。暮らしを支え、町を育てる「命の恵み」として、昔から人々の生活に寄り添ってきたのです。
江戸時代、この地域には田畑を潤すための溜池が数多く築かれました。川から引いた水を蓄え、必要な時に農地へ送り届けることで、それまで湿地が多かった土地は少しずつ豊かな耕作地へと姿を変えていきます。水を生かす知恵が、葛飾の農業の礎となりました。
やがて豊かな地下水にも恵まれたこの土地では、農作物だけでなく、豆腐や和菓子、酒など、水のおいしさを生かした食文化も育まれていきます。帝釈天門前に並ぶ名物や、下町の人々に親しまれてきた一杯260円の「ボール(焼酎ハイボール)」も、水なくしては語れない味でした。
また、水は食だけではありません。町工場では地下水が製品づくりを支え、職人たちはその恵みを受けながら、葛飾らしいものづくりの文化を育ててきました。人々は水を特別な存在として意識することはなくても、毎日の暮らしの中で自然とその恩恵を受けていたのです。
現在では、かつて農地を潤した溜池の一部が公園として整備され、地域の人々の憩いの場となっています。子どもたちが遊び、散歩を楽しむ人が行き交うその風景は、水が形を変えながら、今も暮らしを支え続けていることを静かに教えてくれます。
水は流れ去るものではなく、時代とともに姿を変えながら、人と町を育て続けてきました。葛飾の人々が受け継いできた暮らしの豊かさは、そんな水との長い付き合いの中から生まれてきたのです。
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地盤沈下という「もう一つの水」
葛飾の暮らしを豊かにしてきた地下水は、やがて町に思いがけない影を落とすことになります。高度経済成長期、東京の工場や事業所では、製品の洗浄や冷却などに使うため、地下深くから大量の水がくみ上げられました。
地下水は水質がよく、一年を通して温度が安定しているうえ、井戸さえ掘れば利用できる便利な水源だったからです。荒川下流域でも、工業の発展とともに地下水の利用が増え、戦後には地盤沈下が再び目立つようになりました。では、地下の水をくみ上げると、なぜ地面が沈むのでしょうか。
葛飾を含む東京の低地の地下には、砂の層だけでなく、水を多く含んだ粘土やシルトの層があります。たとえるなら、水を含んで厚みを保っているスポンジのようなものです。自然に補われる量を超えて地下水をくみ上げると、地下の水圧が下がり、粘土層の隙間から水が押し出されます。すると地層は少しずつ縮み、その上にある道路や住宅、町全体がゆっくりと沈んでいくのです。
地盤沈下の怖さは、目の前で突然地面が崩れることではありません。気づかないほど少しずつ進みながら、広い範囲の土地を低くしてしまうところにあります。そして、いったん押し縮められた粘土層は、地下水位が回復しても元の厚さにはほとんど戻りません。東京では昭和30年代から40年代にかけて、地点によっては一年間に23センチを超える激しい沈下も記録されました。
こうして葛飾では、区の半分近くが東京湾の平均海面より低い「ゼロメートル地帯」となりました。土地が川や海の水面より低ければ、ひとたび堤防を越えて水が流れ込んだとき、自然には外へ流れ出ていきません。洪水の規模によっては、浸水が長く続き、電気や水道など暮らしを支える機能にも大きな影響が及ぶおそれがあります。
水に恵まれていたからこそ、農業も工業も発展した葛飾。しかし、その豊かな水を人間が必要以上に使ったことで、町は水害に弱い土地へと変わってしまいました。
その後、法律や東京都の条例によって地下水のくみ上げが規制され、地下水位は回復し、激しい地盤沈下は沈静化していきました。けれど、沈んだ土地そのものが元へ戻ったわけではありません。現在も葛飾では、堤防や排水施設、ハザードマップ、洪水時の避難場所などによって、水害への備えが続けられています。
水は、ただ恵みを与えてくれるだけの存在ではありません。使い方を誤れば、人の暮らしの足元さえ変えてしまう。それでも葛飾の人々は水から離れるのではなく、過去の教訓を受け継ぎながら、水とともに生きる方法を探し続けてきたのです。
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川とともに生き続ける人々
葛飾の人々は、水を恐れて町を離れたわけではありませんでした。水の恵みを受けて暮らしてきたからこそ、その力を知り、どうすれば共に生きていけるのかを考え続けてきたのです。
現在、江戸川や中川、荒川の周辺には高い堤防が築かれ、水門や排水機場が町を静かに見守っています。普段は目立たないこれらの施設も、大雨や台風が近づくと、人々の暮らしを守る大切な役割を果たします。
町の中を歩いていても、その備えはあちこちに見つかります。地下へ続く道路や地下鉄の出入口には止水設備が設けられ、洪水時には水の流入を防げるよう工夫されています。地下を走る東京メトロ東西線が地上へ姿を現す区間でも、トンネルの出入口は災害時を想定した構造となっており、日頃から「もしも」に備えた管理が続けられています。
こうした治水の技術は、一度に完成したものではありません。過去の洪水や高潮、そして地盤沈下という経験を積み重ねながら、そのたびに新しい知恵が加えられてきました。町の歴史には、水害の記憶だけでなく、それを乗り越えようとした人々の努力の歴史も刻まれているのです。
それでも、人々は川を遠ざけることはありませんでした。休日には江戸川の河川敷で野球やサイクリングを楽しみ、帝釈天を訪れれば、ゆったりと流れる川の景色に心を和ませます。水は今も、暮らしを脅かす存在ではなく、人々の日常に寄り添う存在であり続けています。
水を完全に制することはできません。けれど、水を知り、備え、ともに暮らすことはできます。葛飾の町は、そのことを静かに教えてくれているのです。
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水は今日も町を流れている
映画『男はつらいよ』で、寅さんは旅から戻ると、いつものように江戸川の河川敷へ足を運びました。土手に寝転び、青い空を見上げる。近くで遊ぶ子どもたちに声をかけ、ときには何気ないやり取りを交わす。そんな何でもない時間が、寅さんにとって故郷へ帰ってきたことを実感するひとときだったのでしょう。
今では、あの頃とは少し時代が変わりました。人との距離感も、町の風景も、昭和の頃とは違います。それでも、江戸川を渡る風は変わらず土手を吹き抜け、ゆったりとした川の流れは、今日も柴又の町を静かに見守っています。
この町は、水によって育まれ、水に試され、そして水とともに歩んできました。農地を潤した水も、人々の暮らしを支えた地下水も、洪水から町を守る堤防や水門も、そのすべてが「水とともに生きる」という一つの物語につながっています。
旅を続ける寅さんには、帰る場所がありました。葛飾・柴又という町にも、いつの時代も変わらず流れ続ける川がありました。人は旅に出ても、ふるさとの景色は静かに待っていてくれる。水もまた、急ぐことなく、昨日と変わらぬ流れで町を包み込み、人々の暮らしを支え続けています。
今日も江戸川は、空を映しながら穏やかに流れています。その流れは、寅さんが見上げた空を映し、子どもたちの笑い声を運び、町に暮らす人々の毎日を静かに未来へつないでいるのでしょう。寅さんが何度、旅に出ても帰ってきた町は、水もまた、何度でも人々の暮らしへ帰ってくる町でした。