船でヒッチハイクは現実的?|フェリーなしで日本海460kmを進む”海上ヒッチハイク”

港で親指を立てて漁船をヒッチハイクしようとする男性 BLOG
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「船でヒッチハイク」と聞いて、正直に言えば――最初は「それ、現実的じゃないだろう」と思った。船は車と違って、港がなければ気軽に停まれない。目的地も時間も燃料も、すべてが“用事ありき”で動いている。フェリーや連絡船ならまだしも、漁船や作業船に「乗せてください」と頼んで、本当に日本海を北上できるのだろうか?

それでも番組『海上ヒッチハイク』は、フェリーを使わず、船だけで460キロの旅に挑んだ。鍵を握るのは、船そのものではなく――「誰が舵を握っているか」という、海ならではの現実だった。

【放送日:2026年1月11日(月)22:15 -23:09・テレビ朝日】

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船長の判断がすべて──海でヒッチハイクが成立する理由とは?

海の世界では、船長の判断が絶対だ。どんな船であっても、誰を乗せるか、どこへ向かうか、最終的に決めるのは船長ひとり。その決定に異議はない。だからこそ、海上ヒッチハイクは「制度」や「仕組み」で成立する旅ではない。

成立するかどうかは、船の定員と、その船長が「いいよ」と言うかどうか――ただそれだけにかかっている。一方で、船は気軽に停まれる乗り物ではない。港がなければ寄港できず、燃料も時間も、すべてが目的を持って消費される。無料で人を乗せて運ぶことは、船長にとって決して軽い判断ではないのが現実だ。

それでも、港という場所は本来「避難所」としての役割を持っている。荒天やトラブルの際、船を守るために開かれる場所であり、原則として、正当な理由なく入港を拒まれることはない。

この「港の性質」と「船長の強い裁量権」。その二つが重なったときにだけ、海上ヒッチハイクという無茶な旅は、かろうじて“現実”になる。

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どんな船なら現実的?──海上ヒッチハイクの現場感覚

番組を見ていて、多くの人がまず思うのは「一体、どんな船に乗せてもらっているんだろう?」という疑問だろう。フェリーや連絡船を使わない以上、候補になるのは漁船、作業船、あるいは貨物船などだ。ただし、ここで注意したいのは“船なら何でもいいわけではない”という現実だ。

船は車と違い、洋上で燃料が切れたり、機関にトラブルが起きたりすれば、その場で立ち往生=漂流につながる。助けを呼ぶことはできても、「ちょっとガソリン持ってきてください」というわけにはいかない。海にはJAFもロードサービスもない。

だから船長は、自分の船に誰を乗せるか、どこまで行くか、どんな海況で出航するかについて、陸の感覚以上に慎重になる。現実的なのは、もともとその航路を走る予定があり、なおかつ人を乗せる余裕のある船だ。例えば、沿岸で操業する漁船や、港と港を行き来する小型の作業船などは、条件が合えば可能性が生まれる。

一方で、貨物船やタンカーのような大型船は、スケジュールや管理が厳格で、部外者を気軽に乗せられる存在ではない。理屈の上ではあり得ても、実際にはハードルが高いのが正直なところだ。だからこそ、海上ヒッチハイクは「運」や「偶然」ではなく、船と人と状況が、たまたま重なったときにだけ成立する旅と言えるのかもしれない。

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その「偶然」はどう生まれたのか?──港で始まる交渉

海上ヒッチハイクが成立するかどうかは、港に着いた時点では、まだ何も決まっていない。そこから先は、船の性能でも、航路の理屈でもなく、人と人とのやり取りがすべてになる。

港で船長に声をかける。行き先を伝える。事情を説明する。そして、待つ。この一連の流れは、陸上のヒッチハイクよりも、ずっと重たい。船は出航すれば簡単には戻れないし、一度引き受ければ、船長はその判断に責任を負う。

だからこそ、「今日はシケだよ」「うちはそっちに行かない」そう言われて断られるのは、むしろ当然だ。それでも、同じ港に立ち続け、同じ説明を何度も繰り返すうちに、少しずつ空気が変わっていく。無茶な旅人ではなく、ちゃんと話を聞き、海の状況を理解しようとする相手だと伝わったとき、船長の判断は、ほんのわずかに揺らぐ。

「そこまで言うなら……」、「途中の港までなら……」海上ヒッチハイクの“偶然”とは、運任せの奇跡ではない。港という限られた空間で、人と人が向き合い続けた結果、ようやく生まれる、小さな判断の積み重ねなのだ。

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なぜ西村は、海の人たちに受け入れられたのか?

港で出会う人たちは、決して愛想がいいわけじゃない。むしろ最初は、ぶっきらぼうで、警戒心も強い。「ダメだ」「今日は無理だ」そう言われることの方が、圧倒的に多い世界だ。けれど、その言葉は最初から心を閉ざしているわけではない。

海の仕事は危険と隣り合わせで、誰かを船に乗せるという判断には、必ず“責任”がついて回るからだ。西村がやっていたのは、無理に押し切ることでも、愛想よく振る舞うことでもなかった。断られてもその場を離れず、相手の話を聞き、海況や都合を理解しようとする姿勢を崩さなかった。

「本当に困っているのか」
「この人は、軽い気持ちで言っていないか」

その様子を、港の人たちはじっと見ている。そして、ある瞬間に、最初は強く拒んでいた船長が、ふっと言う。「……途中までならな」それは情に流されたというより、人を見極めた末の判断に近い。無茶な挑戦者ではなく、海を理解しようとする“旅人”だと伝わったとき、船長の中で、判断が変わるのだ。

海上ヒッチハイクが成立する理由は、特別な交渉術でも、テレビの力でもない。港で交わされる、何気ない会話と、待ち続けるという姿勢。その積み重ねが、最後に「いいよ」という一言を引き出している。

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まとめ|海上ヒッチハイクが「現実」になる瞬間

船でヒッチハイクは、思いつきや勢いだけで成立する旅ではない。港があり、船があり、そして何より、その判断を引き受ける船長がいる。断られるのが当たり前の世界で、何度も立ち止まり、話を聞き、待ち続ける。その姿を見て、「途中までなら」と言ってくれる人が現れる。

それは奇跡ではなく、海の現実を理解しようとした結果、生まれる判断だ。『海上ヒッチハイク』が描いているのは、過酷な旅そのものよりも、港で交わされる一つ一つのやり取りと、その先にある小さな信頼の積み重ねなのかもしれない。

フェリーや定期船を使わず、船だけで日本海を北上する460キロ。その距離をつないだのは、船でも企画でもなく――海に生きる人たちの、静かな「いいよ」だった。

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