千年を超えて立ち続ける巨樹の前に立つと、言葉よりも先に“静かな驚き”が胸にひろがります。その幹には数えきれない季節の記憶が刻まれ、枝のひとつひとつが、まるで生き物のように空へ伸びています。
日本各地に残る大杉や大楠、大銀杏──。これらの巨樹は古くから、人の暮らしや祈り、そして神話の物語と深く結びついてきました。人々がその前で思わず足を止めるのは、自然とともに生きてきた長い歴史を、無意識のうちに感じ取ってしまうからかもしれません。
今回の「美の壺」では、東北から屋久島までの巨樹をめぐり、その“生命の時間”と、人と木が紡いできた物語に迫ります。まどかとまさみちが、番組とともに巨樹の美しさと、その奥に流れる静かな物語をやさしく辿っていきます。
🌳 千年を超えて立つ巨樹──人が惹かれる理由とは?
巨樹の前に立つと、多くの人は言葉を失います。見上げても見上げても頂が見えないほどの幹、何百年、何千年と積み重ねてきた歳月、幹肌に刻まれた深いシワのような幹の模様──。それらは、単に「大きさ」や「長さ」という尺度だけでは語り尽くせない圧倒的な存在感を放っています。
巨樹は、私たちが生まれるよりも、もっともっと昔からそこに立ち続けてきた存在です。つまり、“人間の時間の外側を生きている存在”とも言えます。
私たちが巨樹に惹かれる理由のひとつは、その圧倒的な“時間”への尊敬と好奇心。そしてもうひとつは、“自分より大きなものに包まれているような安心感”を感じるからではないでしょうか?
たとえば、枝の隙間から落ちてくる木漏れ日、ひんやりとした幹に触れたときに伝わる静けさ、風が吹くたびに葉がざわめき、まるで木が何かを語りかけてくるような感覚。こうした“生き物としての巨樹”に触れると、
私たち人間は自然と背筋を伸ばし、静かに呼吸を整えたくなるのです。それはきっと、「巨樹の鼓動に自分の鼓動を合わせている」そんな無意識の行為なのかもしれません。
さらに、住む土地の災害や時代の変化を生き延びてきた巨樹は、地域の人々にとって“記憶の継承者”でもあります。代々の村人が見上げた風景、祭りで幹を撫でた人々の手、子どもたちが木陰で遊んだ声──人と共に生きた歴史そのものが巨樹には宿るのです。だからこそ、巨樹の前に立つと胸の奥がざわめき、懐かしさと畏敬が入り混じった感情が生まれるのでしょう。
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🌳 信仰と巨樹──神が宿る木として愛されてきた理由
巨樹は、ただ“長い年月を生きた木”という存在ではありません。人々がそこに特別な想いを寄せてきた背景には、古代から受け継がれる信仰の形があります。
日本では、山・森・大岩・滝といった自然物に“神が宿る”と信じるアニミズム(自然崇拝)の文化が根づいていました。その中でも、数百年、千年を越える時間を生き抜いた巨樹は、とりわけ“神霊が降り立つ場所”として扱われ、村や集落の守り神として祀られてきたのです。
樹齢を重ねた木には、風雪に耐えた幹のうねり、太陽を受け止める枝ぶり、そして何世代もの人々の暮らしを黙って見守ってきた静けさがあります。
そんな姿に触れると、人は自然と背筋が伸び、言葉を失うような “畏敬の感情” を抱きます。幹に触れれば、冷たさと温もりが同時に伝わり、ごくかすかに鼓動のようなものを感じることがあります。それはきっと、長い時間の層を扱う巨樹にしかまとうことができない“生命の気配”なのでしょう。
神社の御神木、祈りを捧げる大杉、そして地域の中心として立ち続ける楠や銀杏——巨樹には、人々の祈りや願いが重ねられてきた歴史が宿っています。だからこそ、巨樹は“信仰”と切り離すことができない存在であり、木そのものが 「生きる神殿」 のように扱われてきたのです。
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🌳 津軽の黄金イチョウ──四季をまとい続ける一本の木
津軽に立つ一本の大イチョウは、まるで大地に根をはった“時間そのもの”のような存在です。春は柔らかい新緑、夏は濃い影を落とす深い緑、秋には黄金の光をまとうように輝き、冬は静かに枝を広げて雪を受け止める。
その姿は四季の移ろいを、木そのものが「衣替え」するように見せてくれる一本の詩。黄金色の季節になると、その足元には無数の落ち葉が風に揺れ、まるで木が積み重ねてきた歳月が光となって地面に降り注ぐようです。
このイチョウを取材する人々が語るのは、「見るたびに違う表情を見せてくれる」ということ。千年を超える大木ではなくとも、“今ここに立ち続けている時間” が人の心に深い影を落とし、優しく照らしてくれる。だからこそ、津軽の人々はこの黄金イチョウをただの木として見ていません。四季と共に生き、地域の人と共に呼吸してきた大切な“もう一人の住民” のように受け止めているのです。
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🌳 巨樹の内部──命を宿す“胎内”のような神秘
長い年月を生きてきた巨樹の中には、ときに中が空洞になり、すっぽりと人ひとり分が入るほどの“胎内”を抱えている木があります。本来であれば“損傷”として扱われるはずのその空洞が、人々の眼にはむしろ 「命が宿る場所」 として映ることがあるのです。
その内部に身を置くと、外の世界とはまったく違う空気が流れています。ほの暗く、静かで、湿り気のある木の香りが満ちていて、わずかな光が木の壁を照らしながら、古い時代の記憶をそっと語りかけてくるような、まるで 母親の胎内に戻ったような包まれる感覚 が広がります。。木の内部に流れ込む風は、まるで呼吸のようで、そこに立つ人は、木の鼓動を肌で感じることさえあるといいます。
幼いころ、自身が“洞のある木”の中に入り、そっと考え事をしていたあの時間みたいに——巨樹の胎内は、人の心を静かに受け止めてくれる場所でもあるのでしょう。
巨樹の内部は、時間の流れがゆっくりと反転したかのように感じられる特別な空間です。木を通して差し込む柔らかい光、反響せず吸い込まれていくような静謐な音、そして無数の年輪が育んできた“温度”が、訪れた人の心をそっと休めてくれるのです。
幹の空洞は“削れた傷跡”ではなく、むしろ 長い時を経てたどり着いた、巨樹の“新しい姿”。外からは決して見えない、命の深さと優しさを宿した場所なのです。
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🌳 巨樹の息吹を撮る──手製カメラの写真家が見つめる世界
巨樹の美しさに魅せられ、その“一瞬”と“永遠”を写し取ろうとする写真家がいます。その写真家の奥田基之さんは、あえてデジタルではなく、自らの手で組み上げた手製の”ピンホールカメラ”を使います。レンズはなく、小さな穴から直接フィルムに光を当てて写すもっとも原始的なカメラです。
巨大な木を前にすると、カメラ越しでも人は “小さな存在” に戻されます。それでも奥田さんは、光の角度や樹皮の陰影、季節ごとに変わる巨樹の表情をひとつずつ丁寧に切り取っていきます。
彼が、手製のカメラで何度も巨樹を撮ろうとするのは、単に“珍しいから”ではありません。巨樹には、自然が人間に与えてきた安心感や、生命の記憶が凝縮されていると感じられるからなのです。
そのカメラで撮られた写真には、巨樹の息づかいや時間の層まで写り込むような、深い“余韻”が宿るといいます。その一枚一枚は、木が何百年もかけて作ってきた物語を、人の手でそっと繋ぎ直す行為なのかもしれません。
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🌳 倒れたご神木──新たな命を刻む彫刻家
地域を長く見守ってきた巨樹が、ある日突然倒れることがあります。台風の暴風、豪雨、病、老い──自然の摂理とはいえ、そこに寄り添ってきた人々にとっては家族を失ったような喪失感が広がります。
岐阜県にある大湫神明神社の大杉は2020年の豪雨で突然倒れてしまいました。しかしそこに、倒れた巨樹に“別の命”を吹き込む彫刻家が登場します。彼の名前は天野裕夫さん。彼が向き合うのは、ただの木材になったはずの巨樹ではなく、地域の祈りや記憶が蓄積された“魂の器”。
彫刻刀を当てるたび、「ありがとう」「おつかれさま」という木への敬意が静かに彫り込まれていくように見えます。倒れた巨樹は、姿かたちは変わっても、新たな作品として人々のそばで生き続ける。それはまさに──命が終わったのではなく、“形を変えて未来へ還る”ということ。
悠久の年月を生きた木が、人の手によって再び物語を紡ぎ始める姿は、自然と人のつながりがどれほど深いかを静かに教えてくれます。
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🌳 巨樹と人を結ぶ“千年の美”──まとめ
千年を超える時を静かに積み重ねてきた巨樹は、風景の一部でありながら、人の心と深くつながる“もうひとつの生命”でもあります。
神話の時代から、木は神の依り代として祀られ、集落の守り神として語られ、ときに人が祈りや願いを託してきた存在でした。その関係は今も変わらず、人と木は静かに呼応し続けています。
東北の雪を耐え抜いた大杉、四季の光をまとい続ける津軽の黄金イチョウ、内部にやわらかな闇を抱え、人を包み込む洞、そして倒れてなお、新たな形で生きようとするご神木──。巨樹はいつも、言葉を持たず、ただそこに立ち続けるだけ。巨木はただそこに在るだけで、人の心の奥に眠る“古い記憶”をそっと揺らします。
それなのに、人はその前で心をひらき、祈りを重ね、物語を紡いできました。自然への畏敬、命への感謝、そして「時を超えてつながっている」という感覚。巨樹に宿る“美”とは、木そのものの姿だけではなく、人がそこに寄り添ってきた時間そのものなのだと思います。
人は巨樹を見上げるとき、そこに自然の圧倒的な美しさとともに、自分の人生の根っこに触れているような――そんな深い静けさを感じるのかもしれません。
悠久の命とともに歩んできた地域の人々の記憶、その足元に積もった季節の匂い、枝先に触れた風までも含めて──巨樹は、私たちに「生きる美しさ」を静かに教えてくれます。この記事が、そんな千年の美と人とのつながりをほんの少しでも感じるきっかけになれば嬉しく思います。