日本の「里山」は、かつて人の暮らしとともに息づいていた。田んぼの脇にカエルが鳴き、雑木林にフクロウが潜む。人が耕し、刈り取り、薪を拾うことで、森は更新され、生きものの居場所も保たれてきた。
だが都市化が進んだいま、そうした風景は少しずつ遠のいている。日本のすぐ隣、台湾には、いまも人と野生が隣り合う「里山」がある。
200年守られてきた棚田。果樹園の奥に現れるセンザンコウ。人家の近くを静かに歩くタイワンヤマネコ。そして森を舞う固有種ヤマムスメ。
そこでは、野生は“遠い存在”ではない。野生は、隣にいる。台湾の里山で、人と生きものはどのように境界を引き、どのように越えているのか。一年を通して見つめた、その記録をたどる。
【放送日:2026年2月24日(火)19:30 -21:00・NHK-BSP4K】
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台湾の里山とは何か?——日本と似て非なる風景
「里山」という言葉は、日本で生まれた概念だ。人の暮らしのすぐそばにある雑木林や棚田。薪を拾い、草を刈り、水を引く。人が手を入れることで、多様な生きものの居場所が保たれてきた空間。完全な自然でも、完全な人工でもない。そのあいだにある“緩衝地帯”が里山だ。
台湾にも、同じような風景が広がっている。だがその中身は、日本と少し違う。台湾は北回帰線が通る亜熱帯の島でありながら、中央には3000メートル級の山々が連なる。標高差が生む気候の多様性と、島という隔絶性が重なり、固有種の割合が高い。
棚田のあぜ道に現れるカニクイマングース。森の縁を歩くタイワンヤマネコ。夜の果樹園で昆虫を探すセンザンコウ。そして、山あいを舞う固有種ヤマムスメ。
日本の里山にも生きものはいる。だが台湾の里山は、その密度と“濃さ”が違う。人と野生の距離が、ほんの数十メートルしかないことも珍しくない。
それは偶然ではない。山が深く、海が近く、気候が豊かであること。そして何より、人の営みが極端に切り離されていないこと。台湾の里山は、「野生が残った場所」ではなく、「野生と共に更新され続けた場所」なのだ。
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野生はなぜ隣にいるのか?——センザンコウとタイワンヤマネコ
台湾の里山で驚かされるのは、野生動物の“近さ”だ。夜の果樹園に、全身をウロコで覆ったセンザンコウ(穿山甲)が現れる。センザンコウは、全身がケラチン質の硬いウロコに覆われた、アジア・アフリカに生息する哺乳類だ。山あいの田畑の縁を、タイワンヤマネコが歩く。どちらも希少で、警戒心の強い生きものだ。

なぜ彼らは、人の暮らしのすぐそばにいるのか?鍵は「断絶していないこと」にある。台湾の里山は、森・棚田・果樹園・集落がモザイク状に入り組んでいる。完全に森を切り開くのではなく、完全に隔離するのでもない。
センザンコウは主にアリやシロアリを食べる。農地や果樹園の土壌は昆虫が豊富で、餌場として適している。一方で、近くに身を隠せる森もある。タイワンヤマネコも同様だ。小型哺乳類や鳥を狩るために開けた場所が必要だが、同時に隠れ場所となる林縁も欠かせない。
完全な原生林よりも、適度に人の手が入った環境のほうが、多様な生きものを支えることがある。それは逆説のようでいて、生態学的には理にかなっている。
台湾の里山は、「人がいない自然」ではない。人の営みが、結果として野生の居場所をつくっている。だがその距離は、偶然保たれているわけではない。
農法の選択、森の扱い方、狩猟の規律。いくつもの要素が重なり、微妙なバランスが維持されている。野生が隣にいるのは、奇跡ではない。それは、長い時間をかけて調整されてきた関係なのだ。
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棚田と果樹園が育てる生態系——200年続く人の手
台湾の棚田は、単なる農地ではない。山の斜面に刻まれた段々の水田は、水をゆっくりと受け止め、流し、溜める。上段から下段へと落ちる水は、急流にならず、時間をかけて土地を潤す。この“ゆるやかな水循環”が、生きものにとって豊かな環境をつくる。
水辺には昆虫が集まり、カエルが繁殖し、それを餌とする鳥や哺乳類が現れる。棚田は単なる作物の場ではなく、小さな湿地の連なりでもある。
果樹園も同様だ。単一の作物だけを植えるのではなく、周囲に雑木林や下草を残すことで、多様な昆虫や小動物が生きられる空間が保たれる。農地と森のあいだが“切断”されていない。
日本でもかつては見られた風景だ。だが都市化と効率化の波のなかで、多くの里山は姿を変えた。棚田は耕作放棄地となり、森は放置され、逆に野生との距離が縮まりすぎる場所も生まれている。
台湾の里山がいまも機能しているのは、200年続く棚田の管理や、地域ごとの農法が維持されているからだ。人の手が入ることで、生態系は壊れることもある。だが、手を引きすぎてもまた、バランスは崩れる。台湾の里山は、その“中間”を保ち続けてきた。それは偶然ではなく、日々の作業の積み重ねだ。
草を刈ること。水を引くこと。森を使いすぎないこと。野生が隣にいるのは、人が隣で働き続けているからでもある。
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原住民族の森——境界を越えない知恵とは?
台湾の山深い地域には、古くから暮らしてきた原住民族の森がある。そこでは、森は単なる資源ではない。食料や木材を得る場であると同時に、祖先の記憶が宿る場所でもある。
狩猟は行われる。だが、獲りすぎない。森を使う。だが、壊さない。それは厳密な数値管理というよりも、「越えてはいけない線」を知っているという感覚に近い。
どの季節に何を獲るか。どの場所は入らないか。どこまでが自分たちの領域か。境界は、消されない。だが、固定もされない。人と野生は、はっきりと分断されているわけではない。かといって、完全に溶け合っているわけでもない。
森の奥へ踏み込みすぎれば、野生は退く。退きすぎれば、森は荒れる。原住民族の森に見えるのは、自然を“支配する”のでも、“手放す”のでもない関わり方だ。
それは、境界を越えない知恵。台湾の里山がいまも機能している背景には、こうした長い時間をかけて育まれた感覚も重なっている。共生は、理念だけでは成り立たない。日々の選択と、目に見えない線を守ることの積み重ねで続いていく。
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まとめ|野生は隣にいる
台湾の里山で見たのは、特別な楽園ではない。人が働き、森に入り、水を引き、そのすぐそばで野生が息づく風景だ。センザンコウも、ヤマネコも、森の奥深くに閉じ込められているわけではない。野生は、隣にいる。
だがその距離は、偶然ではない。棚田の水の流れ、果樹園の残された林縁、森に踏み込みすぎない知恵。境界を消すのではなく、境界を“調整する”営みが続いてきた。
効率を追い求めれば、境界は簡単に壊れる。壊れたあとに取り戻すのは、時間も、労力も、そして自然も、簡単ではない。
台湾の里山は、問いを投げかけている。野生は遠い存在なのか。それとも、私たちが遠ざけてしまったのか。里山とは、山の話ではない。人と野生のあいだに、どんな距離を選ぶのかという話だ。