四百年前の京都を、ただ眺めるのではない。この番組が差し出すのは、「屏風の中に入っていく」という、少し不思議な体験だ。
洛中洛外図屏風——それは、都を俯瞰するために描かれた絵画であり、本来は権力者の視線を前提とした、壮大な都市の記録だった。けれど、国宝「舟木本」は違う。金雲のあいだから現れるのは、将軍や大名だけではない。
商いに声を張る町人、立ち話を交わす女たち、子どもの手を引いて歩く家族、仕事に追われる名もなき人びとの姿が、ぎっしりと描き込まれている。
450インチの巨大スクリーンに映し出された屏風を、ゲームコントローラーで拡大していくと、視線は自然と「都市」から「暮らし」へと降りていく。そこにあるのは、四百年前の京都で、確かに息づいていた日常だ。
どこかでこのような屏風を見た記憶がある。場所も時期も、はっきりとは思い出せない。それでも、精緻に描かれた人びとの営みに圧倒され、しばらく動けなくなった——そんな感覚だけが、今も心に残っている。
この番組は、文化財を「解説する」のではなく、私たちの視線を、静かに屏風の内側へと導いていく。
【放送日:2026年1月26日(月)15:00 -15:30・NHK BSP4K】
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洛中洛外図屏風とは何か? — 京都を一望する“絵画のパノラマ
”洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)は、京都の都とその周辺を、ひと続きの風景として描いた屏風絵だ。視点は高く、まるで空から見下ろすよう。寺社や町並み、川や橋、そして無数の人びとの姿が、一枚の画面の中に同時に配置されている。
この絵が生まれた背景には、「都を把握する」という、当時の権力のまなざしがあった。誰がどこに住み、どんな場所に人が集まり、都市がどう機能しているのか——洛中洛外図は、京都という巨大な都市を可視化するための絵画だったとも言える。
画面を分ける金雲は、単なる装飾ではない。時間や距離、場面の切り替わりを象徴しながら、見る者の視線を自然に導いていく役割を果たしている。だから洛中洛外図屏風は、一部分だけを切り取って見るものではない。全体を眺め、視線を巡らせ、何度も行き来しながら読む——「歩くように鑑賞する絵」なのだ。
そして現存する洛中洛外図屏風は、百点を超える。その多くが、時の権力者の意図や理想を色濃く反映している。——だが、その中で、ひときわ異なる気配を放つ一双がある。それが、江戸初期に描かれた国宝”洛中洛外図屏風「舟木本」”だ。
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なぜ「舟木本」は異彩を放つのか? — 権力のための絵に、暮らしが入り込んだ
洛中洛外図屏風は、もともと権力者の視線から描かれた都市の肖像だった。誰がこの都を治め、どの寺社が力を持ち、どこに人が集まり、どんな秩序が保たれているのか——それを一望できること自体が、権威の証でもあった。
けれど、舟木本を前にすると、どこか様子が違うことに気づく。まず、目に飛び込んでくるのは、将軍や大名ではない。画面の大半を占めているのは、商人、職人、行商人、遊ぶ子ども、立ち話をする人びと——名もなき庶民の姿だ。
描かれている人物は、実に2700人以上。しかも彼らは、背景として配置されているのではない。それぞれが役割を持ち、それぞれの場所で、それぞれの時間を生きている。商売に声を張り上げる者。客と値を交渉する者。道の端で足を止め、何かを話し込む女たち。都の中には、無数の小さな物語が同時進行している。
舟木本が「一級の風俗資料」と呼ばれる理由は、単に人物が多いからではない。人びとの動き、距離感、関係性までもが描き込まれているからだ。そこには、「こうあるべき京都」ではなく、「実際に息づいていた京都」がある。
だからこの屏風は、権力を誇示するための絵でありながら、同時に、その足元で生きていた人びとのささやかな日常を、消さずに残してしまった。——それが、舟木本の決定的な違いだ。
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屏風の中にいる2700人 — 主役は、名もなき人びとだった
舟木本の洛中洛外図屏風を前にすると、まず圧倒されるのは、その人の多さだ。描かれている人物は、二千七百人を超える。しかしその数は、単なる情報ではない。視線を動かすたびに、人がいて、動きがあって、生活の気配がぶつかってくる。
通り沿いでは、商人が声を張り上げている。品物を前に立ち止まる客、値を探るような距離感、それを少し離れた場所から眺める別の誰か。一つの商いの場に、複数の視線と関係が描き込まれている。
橋のたもとでは、人が行き交い、道の端では、女たちが足を止めて言葉を交わす。仕事に向かう者、用事を終えた者、ただ歩いているだけの者もいる。ここには、英雄も、象徴的な主人公もいない。代わりにあるのは、それぞれの時間を生きている人びとの重なりだ。
注目したくなるのは、一人ひとりの表情や仕草だけではない。誰と誰が近く、誰と誰が距離を保ち、どんな場面で人が集まり、どんな場所で流れていくのか——屏風全体が、当時の京都の「呼吸」を伝えてくる。
だから舟木本は、都市の地図であると同時に、人間関係の記録でもある。権力の中心にいた人びとよりも、名も残らなかったはずの人びとの方が、はるかに多く、はるかに生き生きと描かれている。
四百年前の京都は、静かな古都ではなかった。ざわめき、交差し、人の声と足音が絶えない場所だった。舟木本が教えてくれるのは、歴史の裏側ではない。歴史そのものが、無数の名もなき暮らしでできている——その、ごく当たり前で、忘れられがちな事実だ。
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女性はどう描かれているのか? — 四百年前の京都に生きた女性像
舟木本の洛中洛外図屏風に描かれた女性たちは、決して「飾り」として配置されてはいない。彼女たちは、通りの脇に立ち、店先に腰を下ろし、あるいは誰かと向き合い、確かな重さをもって、その場に存在している。
目立つ中心人物ではない。けれど、消されてもいない。女性たちは、誰かの背後ではなく、生活の場の只中にいる。商いの場に立つ女性。人と人のあいだで言葉を交わす女性。家族の一員として、あるいは一人の大人として、自然な距離感で描かれている。
そこにあるのは、理想化された女性像でも、象徴としての女性でもない。暮らしの一部としての女性だ。服装や佇まいからは、身分や役割の違いが読み取れる。けれど同時に、彼女たちは皆、「見るために描かれている存在」ではなく、生きている途中の姿として描かれている。
男性の視線を強く意識した演出は、ほとんど感じられない。代わりにあるのは、日常の中での立ち位置、人との距離、その場にいる理由だ。四百年前の京都では、女性たちは静かに、しかし確かに、都市の一部として息をしていた。舟木本が残しているのは、歴史書にはほとんど現れない、「普通にそこにいた女性たち」の姿だ。
名は残らなくても、役割はあり、関係があり、生活があった。その事実が、屏風の中では、何ひとつ誇張されず、何ひとつ削られずに、ただ、そっと置かれている。——だからこそ、この女性たちは、今を生きる私たちの目にも、驚くほど近く感じられるのかもしれない。
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450インチの没入体験が変える「文化財の見方」とは? — 眺めるものから、入り込むものへ
洛中洛外図屏風は、本来、一定の距離を保って眺めるものだった。全体を見渡し、構図を味わい、都市の姿を把握する——そこには、鑑賞者と文化財のあいだに、目に見えない一線が引かれていた。けれど、この番組はその距離を、そっと越えてくる。
450インチの巨大スクリーンに映し出された「舟木本」。その前に立ち、ゲームコントローラーを手に取ると、視線は自由に動き始める。気になる場所へ寄り、人の姿を追い、一つの場面から、さらに奥へと入り込んでいく。
それは、展示室での鑑賞とはまったく違う体験だ。拡大された画面の中では、さきほどまで「背景」だった人物が、急に存在感を持ちはじめる。商いの声が聞こえてきそうな距離まで近づき、立ち話をする女たちの間に、自分の立ち位置を見つけてしまう。
ここで起きているのは、単なる技術の進化ではない。文化財との関係性そのものが、更新されているのだ。かつては、専門家の解説を通して理解されていた屏風が、今では、自分の好奇心と操作によって「読まれていく」。
どこを見るか。誰に注目するか。何を面白いと感じるか。その選択を、鑑賞者自身が引き受けることで、文化財は「教えられるもの」から、対話するものへと変わっていく。四百年前に描かれた京都が、最新の技術によって、再び「歩ける場所」になる。
これは、未来の展示の予告であり、同時に、文化財の楽しみ方が大きく変わる瞬間でもある。過去は、遠くに置かれるものではない。こうして、手を伸ばせば届く距離に、未来で400年前の京都が静かに迎えに来てくれる。
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どこで見たかは曖昧でも、感動だけは残っている ー 記憶は、未来に向かって書き換えられる
洛中洛外図屏風を、いつ、どこで見たのか——はっきりとは思い出せない。大阪城だったかもしれない。展示室の一角で、人の流れの中、ふと足を止めただけだったのかもしれない。それでも、精緻さに息をのんだ感覚だけは、今も体の奥に残っている。
無数の人物。細部まで描き込まれた町並み。一枚の絵の中に、とても一度では見切れない「時間」が詰まっていた。当時は、その感動に名前をつけることができなかった。なぜ惹きつけられたのか、何がすごいのかを、言葉にする前に、ただ圧倒されていた。
けれど、今回あらためて「舟木本」という屏風と向き合い、450インチの画面の中に入り込むことで、あの時の感動は、懐かしさだけでは終わらなくなる。
「ああ、だから惹かれたんだ」
「この人たちが、ずっと気になっていたんだ」
過去の体験が、今の視点によって、静かに意味を持ちはじめる。
記憶は、時間が経てば薄れていくものだと思われがちだけれど、本当は違う。出会い直すことで、深くなる記憶もある。四百年前の京都を描いた屏風と、現代の技術、そして今の自分自身が重なったとき、あの日の感動は、「思い出」から「現在進行形の体験」へと変わる。
だから、どこで見たかを正確に思い出せなくてもいい。大切なのは、その感動が、今もちゃんと呼吸していることだ。
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洛中洛外図屏風は、過去ではなく「今」を映している
洛中洛外図屏風は、四百年前の京都を描いた絵だ。けれど、舟木本を見終えたあと、私たちはもう、それを「過去の記録」と呼ぶことができなくなる。
屏風の中で息づいていたのは、特別な歴史的瞬間ではない。商いをし、話し、歩き、迷い、日々を重ねていた人びとの、ごく当たり前の暮らしだった。その姿は、今の私たちと、驚くほどよく似ている。忙しさに追われ、人とすれ違い、小さなやりとりを積み重ねながら、都市の中で生きていく。
時代も、技術も、環境も違う。それでも、人が集まり、関係を結び、生活を営むという本質は、ほとんど変わっていない。
450インチのスクリーンに映し出された屏風は、過去を拡大して見せているようでいて、実は、今を照らしている。文化財は、遠くに置かれて、敬意をもって眺めるだけの存在ではない。こうして視線を重ね、歩き、立ち止まり、誰かの暮らしに寄り添うことで、それは静かに、私たち自身の物語とつながっていく。
洛中洛外図屏風「舟木本」が映しているのは、失われた都ではない。今も続く、人の営みそのものだ。屏風の中に入って、そして外に出たとき、世界の見え方は、少しだけ変わっている。——それが、この文化財が、今も生きている証なのだ。