フロンティア|なぜ“わかってるつもり”が憎しみに変わるのか?──共感の光と影

共感していると思い込んでいる二人 BLOG
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人は「わかり合える存在」だと、私たちは教えられてきた。言葉があり、感情を想像する力があり、他者の痛みに共感できる。それは人間を人間たらしめる、もっとも美しい能力のひとつだ。

けれど現実を見ると、争いはなくならない。むしろ、「正しさ」や「思いやり」が語られる場面ほど、人は激しく対立し、互いを拒絶していく。なぜだろうか?共感が足りないからなのか。理解が不十分だからなのか。

それとも、私たちはどこかで「わかったつもり」になってしまっているのだろうか?

近年、心理学や脳科学の分野で、これまで善と信じられてきた「共感」に、思いがけない影があることが示され始めている。共感は、人を結びつける力であると同時に、分断を加速させる力にもなりうるというのだ。

この番組は、誰かを断罪するためのものではない。また、争いをやめるための簡単な処方箋を示すものでもない。ただ一つ、問いを差し出す。

——なぜ「わかろうとすること」が、ときに憎しみへと変わってしまうのか?

この問いに向き合うことは、他者を理解するためというより、自分自身の内側にある感情の癖を見つめ直すことなのかもしれない。答えは、すぐには出ない。けれど、問いを疑わずに持ち続けることはできる。この先に続くのは、そのための静かな思考の旅である。

【放送日:2026年2月16日(月)22:00 -23:00・NHK-BSP4K】

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第一章|共感は、人を結びつける力だった

人は、生まれながらに、他者と関わらずには生きられない存在だ。言葉を覚える前から、表情を読み取り、声の調子に反応し、自分とは違う存在の気配を感じ取ってきた。この能力を、私たちは「共感」と呼ぶ。相手の立場を想像し、感情を感じ取り、自分のことのように受け止める力。それは長いあいだ、人類が誇るべき美徳とされてきた。

共感があるから、協力できる。共感があるから、助け合える。共感があるから、社会は成り立つ。そう信じられてきたし、実際、それは間違いではない。だが、ここで一つ、立ち止まる必要がある。共感は本当に、常に人を結びつけてきただろうか?

私たちはこれまで、争いの原因を「共感の不足」や「理解の欠如」に求めてきた。もっと相手の立場を思いやれれば、もっと話し合えれば、きっと分かり合えるはずだ、と。

しかし現実には、「わかろうとする言葉」が飛び交う場ほど、人は深く傷つき、激しく対立することがある。それは、皮肉なほど、よくある光景だ。善意が善意のまま受け取られず、正しさが正しさとして通じない。もし共感が、ただの“量”の問題ではないとしたら…。もし共感そのものが、ある条件のもとで、分断を生み出すとしたら…。

この章ではまず、共感がどのように人を結びつけてきたのかを確かめる。そして同時に、なぜそれが「危うい力」にもなりうるのか、その入口に立つことにする。答えは、まだ出さない。ただ、問いだけをここに置いておく。

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第二章|共感が偏るとき、境界が生まれる

共感は、人を結びつける力だ。だがそれは、どこにでも同じ強さで働く力ではない。

私たちは無意識のうちに、「わかりやすい誰か」に強く共感する。自分と似た経験を持ち、似た言葉を使い、似た痛みを語る人。そこに共感が集まるのは、自然なことだ。

限られた時間と感情のなかで生きる私たちにとって、近い場所に手を伸ばすのは、ごく人間的な反応でもある。問題は、その瞬間に何が起きているのかを、私たち自身がほとんど意識していないことだ。

「あなたの気持ちはわかる!」
「私はあなたの味方だ!」

その言葉は、相手を支えるために発せられる。善意であり、誠実さでもある。だが同時に、その言葉は、話し手自身の立ち位置を静かに固定する。味方でいる、という選択。そこに立った瞬間、世界は一方向から見え始める。その立ち位置は、自覚されないまま続くことが多い。本人はただ、寄り添っているつもりでいる。共感している側にいる、と信じている。

しかし、いつのまにか――どこまでが相手の感情で、どこからが自分の判断なのか? どこからが「私たち」という立場なのか? その境目が、見えなくなっていく。ここで生まれるのが、境界だ。

誰かを排除しようとしなくてもいい。誰かを否定する意図がなくてもいい。共感が集まった場所の外側には、説明されない沈黙と、語られない視点が残される。

「私たち」「それ以外」。その線は、憎しみではなく、善意によって引かれることが多い。

この章で扱いたいのは、冷酷さではない。無理解でもない。むしろ、「ちゃんとわかろうとした人」、「味方でいようとした人」、その誠実さが、どのように立ち位置を固めてしまうのか、という話だ。

共感は、足りないから問題になるのではない。「わかったつもり」になったとき、動きを止めてしまうところに、危うさがある。

だからここでは、すぐに答えを出さない。誰かを裁かない。ただ一度、立ち止まってみる。その共感は、誰に向けられているのか? そのとき、誰の声が、聞こえなくなっているのか?

境界は、外から押しつけられるとは限らない。多くの場合、それは、私たち自身の内側から、静かに生まれている。

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第三章|ヘイトは“無理解”から生まれるのではない

私たちは長いあいだ、憎しみの原因を「無理解」に求めてきた。知らないから怖がる。わからないから拒絶する。だから、もっと説明すればいい。もっと対話すればいい。この考え方は、とても誠実だ。そして、ある部分までは正しい。

だが現実を見渡すと、奇妙な違和感が残る。ヘイトが噴き出す場所には、すでに大量の言葉がある。説明も、議論も、情報も、決して不足していない。それでも、憎しみは消えない。

もしヘイトが「知らないこと」から生まれるのなら、これほど多くの言葉が行き交う社会で、ここまで激しく燃え上がるはずがない。ここで、問い直す必要がある。ヘイトは、本当に無理解の産物なのだろうか?

むしろ多くの場合、ヘイトは「理解したつもり」の場所から立ち上がる。自分なりに調べた。話も聞いた。考えた末に、結論も出した。その結果として、

「もう十分わかった」
「これ以上、考える必要はない」
そう思ったとき、思考は止まり、立場が固まる。そこから先、違う声は「説明」ではなく、「ノイズ」になる。理解しようとしなくなったのではない。理解が完了したと思い込んだのだ。ヘイトは、わからなさの中からではなく、「もうわかっている」という確信の中で、育っていく。

第二章で見たように、共感が偏ると、境界が生まれる。第三章で扱うのは、その境界がどのように「正しさ」に変換され、どのように他者を押しのけていくのか、という過程だ。ここで重要なのは、誰かを悪者にすることではない。

ヘイトを生むのは、特別に残酷な人間ではない。むしろ、ちゃんと考えたつもりの人」「正しい立場に立っていると信じている人その誠実さの延長線上で、起きてしまう。

だからこの章では、「理解を深めよう」とは言わない。代わりに、理解が終わったと思った瞬間に、何が失われるのか、そこを見つめたい。

わからないままでいること。結論を保留すること。立ち位置を揺らし続けること。それらは、弱さではない。むしろそれは、ヘイトに変わらなかった可能性そのものだ。

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第四章|脳と心は、どう共感をつくっているのか?

ここまで、共感が人を結びつけ、同時に境界や確信を生み出してきたことを見てきた。では、そもそも私たちは、なぜそれほど自然に共感し、なぜそれほど容易に偏ってしまうのだろうか?

この問いに対して、近年よく持ち出されるのが「脳」の話だ。共感は脳の働きで説明できる。人は神経の仕組みによって、他者の感情を自動的に感じ取る。だから共感は、本能的で、避けがたい——そんな説明を耳にすることが増えた。

確かに、脳は重要だ。人が他者の表情や声色に反応し、感情を共有する土台には、生理的な仕組みがある。だが、ここで注意しなければならない。脳の話は、人間の振る舞いを説明してくれるが、それを正当化してくれるわけではない

「脳がそうなっているから仕方がない」
その言葉は、安心を与える。同時に、思考を止める。私たちの脳は、世界を正確に理解するためにあるわけではない。生き延びるために、素早く判断し、不安を減らすようにできている。そのため、脳は好む。

・単純な物語
・はっきりした敵と味方
・揺れない結論

曖昧さは、脳にとって負荷だ。わからない状態は、危険に近い。だから脳は、「これが正しい」と決めたがる

共感もまた、その流れの中で使われる。誰かに共感した瞬間、世界は少し整理される。味方ができ、立ち位置が決まり、判断が早くなる。それは、ラクだ。だがそのラクさは、同時に、考える余地を削っていく。

ここで起きているのは、脳が暴走しているわけでも、心が歪んでいるわけでもない。ごく普通の防衛反応だ。不確実な世界で、少しでも安心するために、人は共感を使い、結論を急ぐ。だから、「わかったつもり」になる。第四章で確認したいのは、この事実だ。

共感は、善意だけで生まれるのではない。不安を減らすためにも、生まれる。そのとき、私たちは何を得て、何を手放しているのか。

脳の話は、答えを与えるためではなく、自分を免罪するためでもない。ただ、「なぜ、そうしてしまうのか」その背景を、少しだけ理解するためにある。

ここから先は、共感を否定しないまま、それに飲み込まれない方法を探る。それは、脳に逆らうことではない。脳の性質を知ったうえで、立ち止まる余地を残す、ということだ。

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第五章|テクノロジーは共感を救えるのか?

共感が偏り、境界が生まれ、確信がヘイトへと変わっていく。この流れを前にして、しばしば期待が向けられるものがある。テクノロジーだ。

より多くの情報。より広い視点。より多様な声。それらに触れれば、人はきっと、わかり合えるようになる——そんな希望が語られてきた。確かに、テクノロジーは可能性を広げた。遠くの出来事が、すぐ目の前に届く。知らなかった他者の声が、簡単に可視化される。

だが、現実はどうだろう。分断は減るどころか、むしろ見えやすくなった。共感は拡張されるより、鋭く偏っていくように見える。ここで考えたいのは、テクノロジーが「悪い」のかどうか、ではない。問題は、それを使う私たちがどんな生き物なのか、という点だ。

私たちは、生き延びるためにできた存在だ。安心したい。危険を避けたい。仲間を見つけたい。その本能は、スマートフォンを持ったからといって、消えるわけではない。むしろテクノロジーは、その本能にとてもよく馴染む。

わかりやすい敵。共感しやすい物語。怒りや不安を共有できる仲間。それらは、生き物としての私たちに強い安心を与える。「無意識のうちに」画面をスクロールし、「無意識のうちに」同じ意見に囲まれ、「無意識のうちに」立ち位置が固まっていく。そこに、悪意があるとは限らない。ただ、生きているだけだ。

テクノロジーは、共感を救う力にもなりうる。だが同時に、共感を効率化してしまう。速く、強く、確実に。考える前に、感じる。立ち止まる前に、共有する。それは便利で、とても人間的だ。

だから第五章で言いたいのは、「テクノロジーを信じるな」でも「距離を置け」でもない。問いは、もっと地味だ。私たちは、どの瞬間に「考えなくていい安心」をテクノロジーに預けているのか。

共感は、増やせばいいものではない。拡張すれば救われるものでもない。必要なのは、速さではなく、だ。感じてしまったあと、共有してしまう前に、ほんの一拍、呼吸する余地。

テクノロジーにできることがあるとすれば、それは共感を代行することではない。共感の手前で、立ち止まる場所を残すことだ。生き物である私たちが、生き物のままで考え続けるために。

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第六章|それでも人は、争いをやめられるのか?

ここまで、共感が人を結びつけ、同時に境界を生み、確信がヘイトへと変わり、それが生き物としての防衛反応であることを見てきた。では最後に、この問いが残る。それでも人は、争いをやめられるのだろうか? もしこの問いに、簡単な「はい」が用意されているなら、人類はとっくにそこへ辿り着いている。

争いは、無知からだけ生まれるのではない。悪意からだけ生まれるのでもない。むしろ多くの場合、「正しさ」や「守りたいもの」から生まれる。それを踏まえたうえで、なお争いをやめられるのか、と問うことは、少し残酷ですらある。けれど、ここで一つだけ、確かなことがある。人は、争いを完全にはやめられない

生き物である以上、恐れ、欲し、守り、比べる。それは消せない。だが――争いを「当然のもの」として引き受け続けるかどうかは、別の話だ。

人は、自分がなぜ怒ったのかを、あとから考えることができる。なぜ安心したかったのかを、言葉にすることができる。なぜ「もうわかった」と思いたくなったのかを、振り返ることができる。それは、本能を超えることではない。本能を無かったことにしないまま、付き合い方を選び直すことだ。

機械の身体にならなくてもいい。完全に合理的でなくてもいい。感情に揺れ、間違え、立ち位置を見失いながらでも、問いを手放さないことはできる。

争いをやめるとは、感情をなくすことではない。正しさを捨てることでもない。「これは本当に、生きるために必要な確信か?」そう自分に問い返す時間を、何度でも取り戻すことだ。

答えを急がないこと。結論を宿題にすること。一生かけて考え続けてもいいと、自分に許すこと。それは、とても不器用で、効率が悪くて、ときどき孤独だ。でも――それこそが、人が人のままでいようとする最後の選択なのかもしれない。

争いはなくならない。それでも、争いに飲み込まれきらない生き方は、きっとある。

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最終章|共感と、少し距離を置いて生きる

ここまで、共感が人を結び、境界を生み、確信を固め、争いへとつながっていく過程を見てきた。では、最後に選べる生き方は何か?

答えは、「共感しないこと」でも「関わらないこと」でもない。ましてや、「もっと共感しよう」でもない。ここで置いておきたいのは、とても控えめで、少しズルい態度だ。

共感と、少し距離を置いて生きる

人は、生き物だ。安心したいし、守りたいし、味方が欲しい。だから、共感してしまう。わかったつもりになってしまう。正しさに座りたくなる。それをやめることはできない。でも、それに飲み込まれきる必要はない。

感じてしまったあとに、一拍、間を置く。「これは本能かもしれない」そう思い出す。味方でいたい気持ちと、考え続けたい気持ちのあいだに、ほんの少しの距離をつくる。その距離は、冷たさではない。誠実さだ。

人間らしさとは、まっすぐであることではない。ときに回り道をし、即断を避け、結論を宿題にすることだ。

それはズルい。でも、そのズルさがあるからこそ、人は完全な機械にならずに済む。共感しすぎない。切り捨てない。わかったふりもしない。「まだ考えている」その状態を、自分に許し続ける。

争いはなくならない。共感もなくならない。それでも、距離を置きながら生きることはできる。それは、人間というとても不完全な生き物が選びうる、とても人間らしい生き方だ。

答えは出さない。結論は閉じない。この問いは、今日で終わりではない。生きている限り、何度でも開き直される。——永遠の宿題として。

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あとがきにかえて

この本は、何かを教えるために書かれたわけではない。ましてや、正しい立場を示すためのものでもない。

ただ、「わかったつもりになる前の、ほんの一瞬の違和感」それを忘れないために置かれた、しおりのようなものだ。

共感してしまうこと。守りたくなること。確信に寄りかかりたくなること。それらはすべて、生きている証拠だ。だから、否定しない。誇張もしない。ただ、少し距離を置いて眺めてみる。それだけで、世界はほんのわずか、静かになる。

この本を閉じたあとも、きっとまた、怒ったり、肩入れしたり、「もう十分わかった」と思う瞬間が来る。そのとき、どこかで思い出して欲しい。あぁ、今、自分は生き物なんだな、と。それに気づけたら、それで十分だ。

答えは、今日も出なくていい。問いを抱えたまま、ちゃんと暮らしていけるなら。それができる人は、もう、考えることをやめていない。——では、また。同じ問いの、少し違う場所で…。

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