こんにちは鳥巣です。11月18日のブラタモリは東京の目白が舞台です。目白といえば、かつて「日本列島改造論」で名を馳せ、ロッキード事件で名声が地に堕ちた元総理大臣の田中角栄の家があったことでも有名ですが、皇室御用達の学習院大学も目白にあります。そこで今回は目白や学習院の由来についてまとめてみました。
<広告の下に続く>
せっかく「ブラタモリ」なので、かつてタモリさんが出した通称”タモリのLP”をご紹介しておきましょう。
私が中学生の頃なので50年近く前のことですが、タモリさんはLPレコードを出していました。
こんな感じのふざけたレコード(LP版)でしたが、その中に「武蔵と小次郎”part1〜討入り前の蕎麦屋の二階”というネタの中で、タモリさんが田中角栄の声帯模写をやっていました。それにしても写真が若い!(笑)
SIDE A、SIDE BとなっているのはLPレコード時代のライナーノーツをそのまま印刷したからでしょう。
流石にもう絶版になっていると思いますが、中古なら今でもAmazonで手に入るようです。
<広告の下に続く>
目白の由来は「江戸五色不動』?!
江戸五色不動と言われ、江戸には目黒、目赤、目白、目青、目黄の5つの不動尊があることは割と有名です。目白と目黒はJR山手線の駅名にもなっているので知らない人は少ないのではないでしょうか?
江戸幕府3代将軍の徳川家光が大僧正・天海の建言によって江戸府内から5か所の不動尊を選んで、天下太平を祈願したことに由来するなどの伝説があります(諸説あります)。江戸五色不動とは現在の、
- 目黒不動 瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)
- 目白不動 金乗院(東京都豊島区高田)
- 目赤不動 南谷寺(東京都文京区本駒込)
- 目青不動 教学院(東京都世田谷区太子堂)
- 目黄不動 永久寺(東京都台東区三ノ輪)
- 目黄不動 最勝寺(東京都江戸川区平井)
の5種6個所の不動尊の総称です。この中の目白不動から現在のJRの駅名になったようです。不動とは密教の”不動明王”のことです。黒目が白いわけではないんですね。
<広告の下に続く>
学習院ってなに?
学習院は江戸時代後期、光格天皇が朝廷の権威向上のため教育を推進し、続く仁孝天皇の代に教育施設の設置が幕府により認められて、弘化4年(1847年)に開講した学校(?)です。嘉永2年(1849年)、孝明天皇により「学習院」と書かれた勅額が下賜され、以降「学習院」が正式名称となりました。要するに起源は皇族や公家の学校だったんですね。
現在でも京都御所には建物こそ残ってはいませんが、学習院跡の駒札があります。
明治になって天皇が東京に移った1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、大名や公家たちは華族と称することになりました。
この時(1871年・明治4年)、明治天皇から華族に向けて、(華族は)「国民中貴重の地位」にあるのだから一層勤勉に努めよとする勅諭が出され、華族の団体である華族会館は独自の教育機関の設立を計画し、明治10年(1877年)、華族学校が神田錦町に開設されました。
当時の生徒数は130人でしたが、開業式では、「明治天皇から校名を京都時代から継承して学習院とする」旨の勅諭があり、勅額が改めて下賜されました。現在の学習院は、この時を創立としているとのことです。(学習院大学HPより)
その学習院がどのような経緯で現在の目白に移ってきたのかというと、
明治27年(1894年)に東京を襲った大地震で、四ッ谷にあった学習院本館も大きな被害を受け、寄宿舎などを臨時教場として使用せざるを得なくなりました。そこで別の場所へ移転することになったわけです。
<広告の下に続く>
移転場所選考の段階では、現在の東京駅付近や荏原郡大森村(現在の大田区大森)、小田原など地方を含めて多くの候補が出ていて、富士山麓などもその候補地にあがっていたといいます。それらの中から移転先に決定したのが北豊島郡高田村大字高田(現在の目白)だったわけです。
今でこそ、目白といえば山手線の内側で交通至便な都心の一角となっていますが、かつて学習院がここに移転してきた当初は、まだまだ東京郊外の田畑が広がる「片田舎」という言葉がぴったりの場所でした。
<広告の下に続く>
目白のまとめ
目白の由来は「江戸五色不動」?!
目白の由来は、東京都内にある江戸五色不動と言われています。江戸時代に3代将軍・徳川家光公が大僧正・天海の建言によって江戸府内から目黒、目赤、目白、目青、目黄の5種6カ所の不動尊を選んで、天下太平を祈願したといわれています。
学習院ってなに?
学習院は江戸時代後期、光格天皇が朝廷の権威向上のため教育を推進し、続く仁孝天皇の代に教育施設の設置が幕府により認められて、弘化4年(1847年)に京都に開講した皇族や公家の学校を起源としています。