なぜ京都は「怨霊」を神にした?|死と穢れを清め続けた千年の都【新日本風土記】

千年の祈り BLOG
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春には桜が咲き、秋には山々が紅く染まる。寺の鐘が響き、石畳の路地には町家が並び、祇園では舞妓や芸妓の姿を見かけることもあります。世界中の人々を惹きつける、京都。けれど、その美しい都を少し違う方向から眺めてみると、もう一つの京都が見えてきます。死者の気配が残る京都です。

千年以上にわたって都であり続けたこの街では、多くの人が生き、そして死んでいきました。疫病が流行した。飢饉が起きた。戦があった。権力をめぐる争いに敗れ、無念を抱えたまま都を去った人もいました。

菅原道真も、その一人です。政争によって大宰府へ左遷され、都へ戻ることなく亡くなった道真。その後、都で災いが続くと、人々は道真の怨霊を恐れるようになったと伝えられています。

現代の私たちなら、偶然だと考えるでしょう。けれど当時の人々は、「恨んでいるのではないか」「怒っているのではないか」と、本気で畏れた。そこには、恐怖だけではなく、「あれほど無念な思いをさせたのだから、恨まれても仕方がない」という、死者に対する後ろめたさのような感情もあったのかもしれません。

そして京都の人々は、恐ろしい存在をただ追い払おうとはしませんでした。祀る。鎮める。祈る。怨霊として畏れられた道真は、やがて天神として祀られ、今では学問の神様として多くの人々が手を合わせています。不思議な話です。

恐ろしいものを消すのではなく、神様にしてしまう。そこには、この都が長い時間をかけて身につけてきた、目に見えないものとの付き合い方があるように思えます。

夏になると、その気配はさらに濃くなります。半年の間に身についた穢れを祓うため、茅の輪をくぐる。残り半年の無病息災を願い、「水無月」を食べる。そして京都の夏を象徴する祇園祭も、その始まりをたどれば、疫病が猛威を振るった時代、人々が荒ぶる神を鎮めようとした祈りへつながっていきます。今では華やかな夏の風物詩となった祭りの底にも、「どうか、これ以上災いが起こりませんように」という人々の切実な願いが流れているのです。

そう考えると、一つの疑問が浮かびます。京都は、なぜ清め続けるのでしょう。一度清めても、また翌年に清める。祓っても、また祈る。祭りは何百年も繰り返されてきました。もしかすると千年の都とは、千年間ずっと清らかだった都ではないのかもしれません。

人が生きるかぎり、悲しみも、争いも、病も、死もなくならない。だから穢れを無かったことにはせず、畏れ、祀り、そして何度でも清め直す。千年続いた都とは、千年間、何度も生き直してきた都なのではないでしょうか。

『新日本風土記』が訪ねるのは、そんな京都の夏です。死と穢れのすぐそばで、それでも生きる人々が繰り返してきた「清め」。その奥に残された祈りをたどりながら、華やかな京都の少し裏側にある、妖しくも静かな千年の都を歩いてみましょう。

【放送日:2026年8月24日(月)22:00 -23:00・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年8月25日(火)20:00 -21:00・NHK-BS】
【放送日:2026年8月30日(日)6:00 -6:59・NHK-BSP4K】

【放送日:2026年8月31日(月)17:00 -18:00・ NHK-BS】

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  1. 第一章 千年の都には、千年分の死がある──美しい京都に積み重なった「穢れ」
    1. 都には、人が集まり、そして病も広がった
    2. 飢饉、火災、そして戦乱
    3. 人の恨みも、都に残る
    4. 「穢れ」は、汚れているという意味だけではない
    5. 千年続いたから、千年清め続けた
  2. 第二章 怨霊は、なぜ神になった?──菅原道真と「畏れるから祀る」という京都
    1. 都の頂点から、突然大宰府へ
    2. 道真が死んでから、都で災いが続いた
    3. 「ごめんなさい」と言うように、名誉を戻していった
    4. 怨霊を倒すのではなく、神様にしてしまった
    5. 「畏れる」と「敬う」は、案外近い
    6. 死者を忘れず、生きている側が関係を結び直す
  3. 第三章 なぜ夏に「半年分」を清める?──茅の輪と水無月に込めた、生き直すための祈り
    1. なぜ「夏」を越す前に祓うのか
    2. なぜ、茅の輪をくぐるのだろう
    3. そして京都人は、清めを「食べる」
    4. 人間は、一度清めれば終わりではない
  4. 第四章 祇園祭は、何を鎮めている?──華やかな山鉾の下に流れる疫病への祈り
    1. 目に見えないものが、人を次々と死なせていく
    2. 66本の鉾を立てて、国中の穢れを祓う
    3. 怖い神様なら、追い出せばいい?
    4. 華やかさは、祈りを忘れた証拠ではない
    5. 「どうか、今年も無事でありますように」
  5. 最終章 京都は、なぜ清め続ける?──忘れないために、また今年も祈る
    1. 一度清めたのに、なぜまた清めるのか
    2. 怨霊さえ、忘れなかった都
    3. 祭りは、記憶を運んでいく
    4. 千年の都は、何度も生き直してきた
    5. また今年も、祈る
  6. あとがき|清めるとは、もう一度生きること
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第一章 千年の都には、千年分の死がある──美しい京都に積み重なった「穢れ」

京都を歩いていると、ときどき時間の感覚がおかしくなります。千年以上前に始まった寺や神社の歴史が、まるで昨日のことのように語られる。

平安京へ都が移されたのは794年。それから長い年月、多くの人がこの街で生きてきました。けれど、千年以上、人が暮らしてきたということは、それだけ長いあいだ人が死んできたということでもあります。美しい「千年の都」の歴史を少し裏返してみると、そこには数え切れないほどの災厄がありました。

都には、人が集まり、そして病も広がった

政治の中心である都には、多くの人が集まります。人が密集すれば、疫病も広がりやすくなります。医学が発達していなかった時代、突然広がる病は人々にとって恐ろしい存在でした。昨日まで元気だった人が病に倒れる。家族が亡くなる。町のあちこちで死者が出る。しかも、なぜ病気になるのか分からない。

目に見えない病原体の存在を知らない人々にとって、それは単なる医学上の現象ではありませんでした。

「何かが怒っているのではないか」
「誰かの怨みではないか」
「都に穢れがたまったのではないか」

そんなふうに、目には見えない世界と結びつけて災厄を理解しようとしたとしても、不思議ではありません。

飢饉、火災、そして戦乱

都を襲ったのは病だけではありません。日照りや長雨によって作物がとれなくなれば、食べ物が足りなくなる。飢えによって人が亡くなることもありました。木造建築が密集する京都では、大きな火災も繰り返されています。

そして、戦乱。なかでも応仁の乱では京都が長い戦場となり、都は大きな被害を受けました。けれど応仁の乱だけが特別だったわけではありません。長い歴史の中で、権力をめぐる争い、武力衝突、政変が何度も起きています。「千年の都」という言葉から想像するような、穏やかで美しい時間ばかりが流れていたわけではないのです。

人の恨みも、都に残る

そして京都には、自然災害や病とは違う、もう一つの「怖さ」がありました。人間の恨みです。

都は政治の中心でした。権力を得る人がいれば、失う人もいる。争いに勝つ人がいれば、敗れる人もいる。地位を追われる。都から追放される。無実を訴えながら失意のうちに亡くなる。

そんな死者が残した無念を、昔の人々は簡単には忘れませんでした。むしろ死後に災いが起きると、「あの人が怨んでいるのではないか」と考えることがありました。死者は、死んだからといって完全にこの世からいなくなるわけではない。そんな感覚が、都にはあったのでしょう。

「穢れ」は、汚れているという意味だけではない

ここで大切なのが、「穢れ」という言葉です。
現代の感覚では、「汚いもの」「不潔なもの」という意味に受け取ってしまいがちです。けれど日本の信仰の中で語られてきた穢れは、それだけではありません。死。病。災厄。人が生きているうちに避けることのできない出来事によって、日常の秩序が揺らいでしまう。そうした状態もまた、穢れと深く結びついて考えられてきました。

だからといって、穢れた人間を責めることが目的なのではありません。人間は生きているかぎり、どうしても何かを背負ってしまう。ならば、祓えばいい。清めて、また日常へ戻ればいい。その考え方が、京都の夏に今も残る「清め」へつながっているのかもしれません。

千年続いたから、千年清め続けた

桜の京都。紅葉の京都。寺社の京都。花街の京都。その美しさは、この街の一つの顔です。でも、その下には長い時間をかけて積み重なった死や悲しみがあります。

疫病。飢饉。火災。戦乱。政争。そして、無念を残して死んでいった人々。京都は、それらをすべて忘れることで千年続いてきたわけではないのでしょう。

畏れる。祀る。祓う。清める。そして、また暮らしを始める。そうやって何度も日常へ戻ってきた。だから、千年の都には、千年分の死がある。そして同時に、千年分の「もう一度、生きよう」という祈りもある。

その祈りをたどっていくと、一人の男へ行き着きます。政争によって都を追われ、遠い大宰府で亡くなった菅原道真。死後、都の人々が本気でその怨霊を恐れたという人物です。なぜ人々は、それほどまでに道真を恐れたのでしょう。そして、なぜ恐ろしい怨霊を追い払うのではなく、やがて「神」として祀ったのでしょうか。

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第二章 怨霊は、なぜ神になった?──菅原道真と「畏れるから祀る」という京都

京都には、かつて「怨霊」として恐れられながら、今では多くの人が願い事を託す神様になった人物がいます。菅原道真です。

学問の神様。受験生が合格を願って手を合わせる天神さま。現在の私たちが知る道真には、どこか穏やかな印象があります。けれど、その信仰の奥へ入っていくと、まったく違う顔が見えてきます。かつて道真は、都を襲う災いをもたらす恐ろしい怨霊だと考えられていたのです。

都の頂点から、突然大宰府へ

道真は学者の家に生まれ、その才を認められて異例の出世を重ね、右大臣にまで昇りました。ところが901年、人生は突然暗転します。醍醐天皇を廃し、娘婿の斉世親王を皇位につけようとしているとの嫌疑をかけられ、大宰府へ左遷されたのです。

右大臣から、一転して都を追われる身へ。そして903年、道真は京都へ戻ることなく大宰府で亡くなります。現在では、道真の左遷には政敵である藤原時平らとの政治的対立があったと考えられています。もし当時の都人の中にも、「あれはあまりにひどかったのではないか」という思いがあったとすれば、その後に起こった出来事は、どれほど恐ろしく映ったでしょう。

道真が死んでから、都で災いが続いた

道真の死後、都では不穏な出来事が続きます。政敵だった藤原時平が若くして亡くなる。皇太子が相次いで亡くなる。そして930年には、清涼殿に雷が落ち、朝廷の要人に死傷者が出ました。もちろん現代の私たちは、それぞれに別の原因があったと考えます。

たぶん道真が雷を落としたわけではありません。しかし、それを知らない当時の人々には違って見えた。「道真が怒っているのではないか」「あの左遷を恨んでいるのではないか」一つひとつの災いが、死者の怒りを証明するもののように感じられていったのでしょう。そして、ここで興味深いのは、「怖いから追い払おう」ではなかったことです。

「ごめんなさい」と言うように、名誉を戻していった

923年、朝廷は道真を大宰府へ左遷した命令を取り消しました。さらに死後、官位も贈られていきます。生きているうちには都へ戻すことができなかった人間の名誉を、死後になって回復していく。それは現代人の目には、どこか不思議な行為にも見えます。

けれど、「もし本当に道真が怒っているのなら、その怒りには理由がある」と考えれば、少し違って見えてきます。怖い。でも、ただ怖いだけではない。無念だっただろう。恨んでいるかもしれない。そして、その恨みを生んだのは生きている側だったのではないか?

そんな後ろめたさまで、人々の恐怖には混ざっていたのかもしれません。だから、道真を忘れてしまうことはできなかった。

怨霊を倒すのではなく、神様にしてしまった

やがて京都の北野に道真を祀る社がつくられ、現在の北野天満宮へとつながっていきます。北野天満宮。ここで、京都の「妖しさ」が顔を出します。災いをもたらすと恐れた存在を、倒さない。消さない。忘れない。祀る。そして祈る。「どうか、お鎮まりください」

恐ろしいほどの力を持っているのなら、その力そのものを否定するのではなく、神として敬い、こちら側との関係を結び直す。怨霊だった道真は、やがて天神として信仰されるようになり、学者として優れていた生前の姿とも結びついて、現在では「学問の神様」として親しまれています。
考えてみれば、ものすごい変化です。恐ろしい怨霊が、千年後には受験生の味方になっている(笑)

「畏れる」と「敬う」は、案外近い

ここには、現代の私たちには少し理解しにくい感覚があります。恐ろしいものなら遠ざけたい。危険なら排除したい。私たちはそう考えがちです。

けれど昔の人々にとって、目に見えないほど大きな力を持つ存在は、「怖いから近づかないもの」であると同時に、「怖いほどの力を持っているから、敬わなければならないもの」でもあったのでしょう。

「恐れる」と「敬う」が重なったところに、「畏れる」という感覚があるのかもしれません。そして、京都はその「畏れ」を祈りへ変えてきた。道真を神にしたという物語は、その象徴の一つなのでしょう。

死者を忘れず、生きている側が関係を結び直す

菅原道真は、もう千年以上前に亡くなった人物です。それでも京都では今も祀られ、人々が手を合わせています。死者を忘れたから、怨霊ではなくなったのではありません。むしろ、忘れずに祀り続けたから、怨霊は神になった。そう考えることもできます。

死者の怒りを無かったことにするのではなく、その存在を認める。居場所をつくる。祈る。そして生きている側も、もう一度日常へ戻っていく。それは、この都が長い時間をかけて身につけた「清め」の一つなのかもしれません。そして京都の夏になると、この考え方は歴史上の人物だけのものではなくなります。

半年のあいだに、知らず知らず身についた罪や穢れ。それを祓い、残る半年を無事に生きられるよう願う「夏越の祓」。人々は茅の輪をくぐり、「水無月」を食べます。怨霊を神にした壮大な物語から、私たち一人ひとりの暮らしへ。次は京都の夏に残る、小さな「清め」を訪ねてみましょう。

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第三章 なぜ夏に「半年分」を清める?──茅の輪と水無月に込めた、生き直すための祈り

六月三十日。一年が、ちょうど半分を過ぎようとするころ。京都の神社には、人の背丈よりも大きな輪が現れます。茅を束ねてつくられた「茅の輪」です。人々はその輪をくぐり、半年のあいだに身についた罪や穢れを祓い、残る半年を無事に過ごせるよう祈ります。「夏越の祓」です。

でも、どうして一年の途中でわざわざ清めるのでしょう。年末まで待って、一年分まとめて祓ってもらえばよさそうなものです。もしかすると半年分ずつにして、神様の負担を軽くしているのでしょうか?……というわけではありません。

大祓は古くから六月と十二月、年に二度行われてきました。半年を生きたところで、一度身についたものを祓う。そして、もう半年を生きる。つまり六月三十日は、単なる「一年の真ん中」ではありません。一度立ち止まって、もう一度歩き始める日なのです。

なぜ「夏」を越す前に祓うのか

現代の私たちは、暑ければエアコンをつけます。冷蔵庫を開ければ、食べ物も冷えています。具合が悪くなれば、病院へ行くこともできます。けれど、昔の夏はもっと危険な季節でした。

暑さで身体は弱る。食べ物は傷みやすい。そして疫病が流行すれば、なぜ病が広がっているのかさえ分からない。特に盆地で暑い京で、夏を無事に「越す」ことそのものが、今よりずっと切実な願いだったのでしょう。だから一年の折り返しで、それまでに身についた罪や穢れを祓う。

身体も心も清めて、「どうか、この夏も無事に越えられますように」と祈る。夏越の祓には、そんな人々の願いが込められています。

なぜ、茅の輪をくぐるのだろう

では、なぜ大きな茅の輪をくぐるのでしょう。その由来として伝えられているのが、「蘇民将来」の説話です。旅の途中で宿を求めた素戔嗚尊を、貧しいながらも手厚くもてなした蘇民将来。その後、素戔嗚尊から教えられたとおり茅の輪を身につけたことで、疫病から免れたと伝えられています。

小さな茅の輪を身につけるという伝承は、やがて大きな輪をくぐる形へ変わっていったとされます。輪のこちら側に、半年を生きてきた自分がいる。くぐる。そして向こう側へ出る。もちろん同じ自分です。昨日までの出来事が消えるわけでもありません。
それでも、「ここから、もう一度」と思うことはできる。茅の輪とは、そんな小さな境界なのかもしれません。

そして京都人は、清めを「食べる」

ところが京都では、祓って終わりではありません。六月三十日になると、和菓子屋に並ぶものがあります。「水無月」です。白いういろうの上に小豆をのせ、三角形に切った和菓子。なぜ、これを食べるのでしょう?

三角形は、氷を表しているといわれます。かつて宮中では、冬のあいだ氷室に保存しておいた貴重な氷を夏に取り寄せ、暑気払いをする習慣がありました。しかし、庶民にとって夏の氷など簡単に口にできるものではありません。そこで氷をかたどった菓子を食べるようになったと伝えられています。

さらに上にのった赤い小豆には、邪気を祓う意味が込められました。つまり水無月は、「氷がないなら、氷の形を食べよう」という、なんとも庶民の人間らしい工夫でもあります。

本物の氷は手に入らない。でも、願うことならできる。だったら甘いものに願いを託して、この夏を乗り越えよう。千年以上続く都の「清め」が、急に身近なものに思えてきます。

人間は、一度清めれば終わりではない

ここまで来ると、もう一つ気になることがあります。なぜ毎年やるのでしょう。去年、茅の輪をくぐった人も、今年またくぐります。来年になれば、また六月三十日がやって来ます。それは、人間が一度祓えば二度と穢れない存在ではないからなのでしょう。

生きていれば、いろいろなことがあります。病気になる。誰かと争う。悲しいことが起こる。後悔することもある。知らないうちに誰かを傷つけてしまうことだってある。だから、半年に一度くらい、「ここまでのものを清算して、一度置いていこう」という日があってもいい。

過去を消すわけではありません。なかったことにするわけでもありません。清めるとは、忘れることではなく、抱えてきたものを一度置いて、また生き始めることなのかもしれません。

茅の輪をくぐる。水無月を食べる。そして、残り半年へ歩き出す。とても小さな行為です。けれど京都の夏には、そんな小さな「生き直し」が今も残っています。

そして七月。都の祈りは、もっと大きな姿になって町へ現れます。豪華な山鉾。祇園囃子。大勢の人で埋まる京都の通り。祇園祭です。けれど、その華やかな祭りもまた、その始まりには「死」がありました。

人々が鎮めようとしたのは、都を襲った疫病。次は京都の夏でもっとも華やかな風景の下に隠れている、「どうか、これ以上死なないで」という祈りを訪ねてみましょう。

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第四章 祇園祭は、何を鎮めている?──華やかな山鉾の下に流れる疫病への祈り

コンチキチン。
夏の京都に祇園囃子が聞こえ始めると、今年も祇園祭の季節がやって来ます。豪華な懸装品で飾られた山鉾。提灯の灯りが連なる宵山。そして大勢の人が見守るなか、巨大な山鉾が都大路を進む山鉾巡行。今では京都を代表する、華やかな夏の風物詩です。

けれど、その美しさだけを見ていると、この祭りがなぜ始まったのかを忘れてしまいそうになります。祇園祭の始まりには、疫病がありました。

目に見えないものが、人を次々と死なせていく

平安時代。
都ではたびたび疫病が流行しました。もちろん当時の人々は、細菌やウイルスの存在を知りません。なぜ昨日まで元気だった人が突然病に倒れるのか。なぜ一人が病むと、周りの人まで次々と病んでいくのか。原因が見えない。けれど、人は死んでいく。どれほど恐ろしかったでしょう。

人々は疫病を、単なる身体の病だけではなく、怨霊や荒ぶる神の仕業とも考えました。目には見えない。人間にはどうすることもできない。ならば、その力を無理に追い払うのではなく、鎮まっていただく。そのために祈る。祇園祭の原点には、そんな切実な願いがありました。

66本の鉾を立てて、国中の穢れを祓う

869年、都で疫病が流行した際、神泉苑で御霊会が行われたと伝えられています。
当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、神輿を送り、疫病の退散を願ったとされます。それが祇園御霊会です。ここで面白いのは、祈りの対象が京都だけではなかったことです。六十六の国を象徴する鉾を立てる。つまり、「この都だけ助けてください」ではなく、国中の災厄が鎮まることを願った。

目の前で起きている疫病を、都だけの問題ではなく、もっと大きな世界の乱れとして捉えていたのかもしれません。現在の山鉾巡行とは姿も意味もそのまま同じではありません。それでも、今私たちが見上げる豪華な鉾のずっと遠いところに、「どうか疫病が鎮まりますように」という祈りがあったことは忘れたくありません。

怖い神様なら、追い出せばいい?

ここで、前の章まで歩いてきた私たちには、どこか見覚えのある考え方が出てきます。菅原道真です。道真の怨霊を恐れた人々も、彼を消し去ろうとはしませんでした。祀る。祈る。そして鎮まってもらう。祇園御霊会にも、それと似た発想があります。

荒ぶるほど強い力を持つ存在なら、その力そのものを否定するのではなく、きちんと祀る。そして「どうか私たちをお守りください」と祈る。恐ろしい力と、人間を守る力は、まったく別のものではなかったのかもしれません。

畏れるほどの力がある。だからこそ敬う。ここでも「恐れる」と「敬う」の間にある、「畏れる」という感覚が見えてきます。

華やかさは、祈りを忘れた証拠ではない

それから長い年月をかけて、祇園祭は姿を変えていきました。山鉾は豪華になり、町衆の文化や美意識が重なり、現在では国内外から多くの観光客が訪れる祭りになっています。では、華やかになったことで、疫病を鎮める祈りは失われてしまったのでしょうか。

そうとは限らないでしょう。むしろ人間は、恐ろしい記憶を「恐ろしいまま」では、何百年も受け継ぐことができないのかもしれません。音楽にする。美しいものを飾る。みんなで集まる。祭りにする。そうすることで、かつて都を襲った災厄の記憶を、次の世代へ渡していく。

だとしたら、祇園祭の華やかさは、祈りが消えた姿ではなく、祈りを千年以上残すために、人々が与えた美しい姿なのかもしれません。

「どうか、今年も無事でありますように」

祇園囃子が響く。山鉾が進む。沿道には大勢の人が集まります。千年以上前、この祭りにつながる祈りを捧げた人々は、現在の京都を想像することなどできなかったでしょう。

医学は進歩しました。疫病がなぜ広がるのかも、昔よりはるかによく分かるようになりました。それでも、人間にはどうすることもできない出来事はなくなりません。病。災害。そして死。だから私たちは今でも、願うことがあります。「どうか、今年も無事でありますように。」その願いは、869年に神泉苑で祈った人々と、それほど違わないのかもしれません。

華やかな山鉾の、そのずっと下。コンチキチンという祇園囃子の、そのさらに奥。耳を澄ませば、「どうか、これ以上人が死にませんように」という古い祈りが、今も流れているような気がします。そして祭りが終われば、京都の夏も終わっていく。

けれど「清め」は、それで終わりではありません。来年になれば、また茅の輪をくぐる。また水無月を食べる。そして、また祇園祭がやって来る。なぜ京都は、同じ祈りを何百年、千年と繰り返すのでしょう。最後はもう一度、この物語の最初に置いた問いへ戻ってみましょう。

京都は、なぜ清め続けるのでしょうか?

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最終章 京都は、なぜ清め続ける?──忘れないために、また今年も祈る

六月になれば、茅の輪が現れる。人々はその輪をくぐり、半年のあいだに身についた罪や穢れを祓います。

水無月を食べ、残る半年の無病息災を願う。そして七月。祇園囃子が聞こえ始め、山鉾が都大路を進んでいく。夏が終われば、それらの風景も消えていきます。

けれど翌年になれば、また茅の輪が現れます。また水無月を食べる。また祇園囃子が聞こえてくる。京都の人々は、なぜ同じことを何百年、千年と繰り返してきたのでしょう。

一度清めたのに、なぜまた清めるのか

もし「清める」ということが、穢れを完全に消してしまうことなら、一度だけ行えばいいのかもしれません。けれど、人間はそうはいきません。生きていれば病気になる。誰かと争う。悲しい別れもある。人を傷つけることもあれば、自分が傷つくこともあります。そして最後には、誰もが死を迎えます。

人間が生きるということそのものが、穢れと無縁ではいられない。だから昔の人々は、「二度と穢れないようにしよう」とは考えなかったのかもしれません。穢れたら、また清める。そして、また生きる。それを繰り返せばいい。

清めとは、完全な人間になるためのものではなく、不完全な人間が、もう一度暮らしへ戻っていくためのものなのかもしれません。

怨霊さえ、忘れなかった都

菅原道真は、無念を抱えたまま九州・大宰府で亡くなりました。その後に都で災いが続くと、人々は道真の怨霊を恐れました。しかし、京都の人々はその存在を消そうとはしなかった。

祀りました。畏れました。そして祈りました。やがて、恐ろしい怨霊として語られた人物は、人々が願いを託す神様になっていきます。

考えてみれば、不思議なことです。けれど、そこには京都が長い歴史の中で培ってきた、死者との付き合い方が見えるような気がします。忘れるのではない。無かったことにするのでもない。覚えているから、祀る。

そして祀り続けることで、生きている側も死者との関係を結び直していく。清めとは、過去を消すことではなかったのでしょう。

祭りは、記憶を運んでいく

祇園祭も同じです。現在の華やかな山鉾を見ていると、その始まりに疫病への恐怖があったことを忘れそうになります。けれど祭りは、毎年繰り返されます。鉾を建てる。囃子を奏でる。町を歩く。祈る。その一つひとつを次の世代が受け継いでいく。

もしかすると祭りとは、過去の出来事を保存するための、人間の知恵なのかもしれません。悲しい出来事を悲しいまま千年間抱え続けることは難しい。だから音をつける。美しく飾る。みんなで集まる。そして毎年繰り返す。悲しみを忘れないために、人はそれを祭りにした。

そう考えると、祇園祭の華やかさも違って見えてきます。美しさは、悲しい記憶を覆い隠すものではありません。むしろ、遠い未来まで祈りを運ぶための器なのかもしれません。

千年の都は、何度も生き直してきた

京都は、美しい街です。けれど、その美しさの下には千年以上の時間があります。疫病があった。飢饉があった。火災があった。戦乱があった。政争に敗れ、無念を残して死んだ人もいました。それでも都は続いてきました。

何事もなかったから続いたのではありません。何度も傷つき、何度も祈り、何度も清め、そして何度も暮らしを始め直した。だから、千年続いた都とは、千年間清らかだった都ではない。むしろ、千年間、何度でも清め直してきた都だった。そう考えたほうが、京都という街の姿に近いのかもしれません。

また今年も、祈る

夏が来ます。今年も茅の輪をくぐる人がいるでしょう。水無月を食べる人がいるでしょう。祇園囃子に耳を傾ける人がいるでしょう。そこに込められた意味を、すべての人が意識しているわけではないかもしれません。それでも、同じ営みが今年も繰り返される。

そして来年もまた繰り返される。それでいいのかもしれません。人は、忘れる生きものだから。だから形にして残す。祭りにする。食べ物にする。祈りにする。そして、ときどき立ち止まって思い出す。

かつて、この街で生きた人がいたこと。病に倒れた人がいたこと。無念を抱えて亡くなった人がいたこと。そして、そのたびに残された人々が、「それでも、また生きよう」と願ったこと。

京都は、なぜ清め続けるのでしょう。それは、穢れを永遠に消してしまうためではないのでしょう。過ぎた悲しみを忘れるためでもない。忘れずに、それでも明日へ進むため。死者の記憶を抱えながら、生きている人がもう一度、生きる側へ戻ってくるため。だから京都は今年も清める。

そして来年も、きっとまた清める。祇園囃子が遠くに聞こえる夏の都で、人々は今年も静かに祈ります。どうか、また一年、無事に生きられますように。

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あとがき|清めるとは、もう一度生きること

京都は、なぜ清め続けるのでしょう。
今回の旅は、その問いから始まりました。春には桜が咲き、秋には紅葉が都を染める。美しい寺社があり、古い町並みが残り、世界中から人々が訪れる京都。けれど「千年の都」という言葉を少し裏返してみると、そこには千年という長い時間を生きてきたからこその、たくさんの死がありました。

疫病。飢饉。火災。戦乱。そして権力をめぐる争いの中で、無念を抱えたまま亡くなった人々。京都は、決して穢れとは無縁の都ではありませんでした。

むしろ、穢れとともに生きてきたからこそ、清め続けてきた都だったのかもしれません。菅原道真も、その長い物語の中にいます。政争によって都を追われ、大宰府で亡くなった道真。その後に都で災いが続くと、人々は彼の怨霊を恐れました。けれど、追い払わなかった。忘れようともしなかった。

畏れ、祀り、祈る。かつて恐ろしい怨霊として語られた存在が、やがて人々から願いを託される神様になっていきました。そこには、怖いものを無かったことにするのではなく、その存在を認めて関係を結び直すという、京都の人々の目に見えないものとの付き合い方が見えるような気がします。

そして夏。人々は茅の輪をくぐります。半年のあいだに身についた罪や穢れを祓い、水無月を食べ、残る半年の無病息災を願う。一年分まとめて清めるのではなく、半年を生きたところで一度立ち止まる。ここまで生きてきた。いろいろなことがあった。それを一度置いて、「さあ、もう半年生きよう」と歩き始める。とても小さな儀式ですが、そこには人間が生きていくための知恵があるように思えます。

やがて都には祇園囃子が響きます。今では華やかな京都の夏を象徴する祇園祭も、その遠い始まりには疫病への恐怖がありました。なぜ人が次々と倒れるのか分からない。どうすれば止められるのかも分からない。それでも人々には、できることがありました。

祀る。祈る。そして、「どうか、これ以上人が死にませんように」と願うことです。その祈りは長い年月の中で、豪華な山鉾や祇園囃子という美しい姿をまといました。

悲しい記憶を、悲しいまま千年運ぶことは難しい。だから人は祭りにした。美しく飾った。音を奏でた。毎年みんなで繰り返した。そう考えると、京都の美しさは過去を覆い隠すためのものではなく、遠い未来まで祈りを運ぶための器だったのかもしれません。

そして、今回の旅の最後にもう一度思います。人間は、一度清めれば永遠に清らかでいられる存在ではありません。生きていれば、また傷つきます。誰かを傷つけることもある。病気になることも、悲しい別れもある。欲も、迷いも、後悔もなくなりません。だから、また清めればいい。

過去を消すためではなく、過去を抱えたまま、もう一度歩き出すために。千年続いた都とは、千年間ずっと清らかだった都ではありません。何度傷ついても、何度穢れても、何度でも清め直し、生き直してきた都。それが、京都なのではないでしょうか。

今年も夏が来ます。茅の輪がつくられ、水無月が店先に並び、祇園囃子が聞こえてくる。そして人々は、また祈ります。かつてこの街で生きた人々と同じように。どうか、今年も無事に生きられますように。

京都が清め続けるのは、忘れるためではありません。忘れずに、それでも明日を生きるため。千年の都の夏には、今年もそんな祈りが静かに流れています。


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