鹿児島で食事をすると、多くの人が一度は戸惑う。しょうゆが、甘い。最初に舐めたときは、思わず「ゲッ、甘っ」と声が出そうになる。
刺身に甘いしょうゆなんて、正直、ありえないと思う。ところが不思議なことに、何日か鹿児島に滞在していると、その甘さに少しずつ慣れてくる。気づけば、刺身も、煮物も、この甘さが自然に感じられるようになる。
九州のしょうゆが甘いことは、よく知られている。けれど、なぜ甘くなったのかまでは、あまり語られない。鹿児島の甘いしょうゆの背景には、砂糖の存在、そして薩摩藩と奄美の歴史が関係している――そんな考え方もある。
味覚は、好みだけで決まるものではない。土地の歴史や、人の暮らしと、静かに結びついている。鹿児島の「甘いしょうゆ」は、そのことを、一番わかりやすく教えてくれる存在なのかもしれない。
九州のしょうゆはなぜ甘い?鹿児島が特に甘い理由
九州のしょうゆが甘い、という話はよく聞く。福岡や佐賀、熊本あたりでも、関東の人が口にすれば「甘い」と感じることが多い。その中でも、鹿児島のしょうゆは、一段階、いや二段階ほど甘い。
同じ九州でも、「これは別格だ」と感じる人は少なくないだろう。実際、初めて鹿児島で食事をした人が、しょうゆを舐めて驚く場面は、珍しくない。この違いは、単なるメーカーごとの味付けや、最近の流行で生まれたものではない。もっと長い時間をかけて、土地の中で形づくられてきた味だ。
鹿児島は、江戸時代から明治にかけて、他の九州地域とは少し違う歴史を歩んできた。その積み重ねが、「しょうゆは甘いもの」という感覚を、ごく自然なものとして定着させていった。
九州全体が甘めだとすれば、鹿児島はその中でも、甘さを受け入れる土壌が特に深かった場所。だからこそ、外から来た人ほど、その違いに強く気づくのだろう。
鹿児島の甘いしょうゆは、奇をてらった調味料ではない。長い時間をかけて育ってきた、この土地の日常の味なのだ。
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砂糖はなぜ身近だった?薩摩藩と奄美のサトウキビ
鹿児島の甘いしょうゆを考えるとき、どうしても避けて通れないのが砂糖の存在だ。
江戸時代、薩摩藩は奄美大島を支配下に置き、サトウキビ栽培を強く推し進めた。砂糖は当時、非常に価値の高い産物で、薩摩藩にとっては重要な財源でもあった。奄美で生産された砂糖は、年貢として取り立てられ、藩の経済を支える柱となっていく。
その結果、薩摩では他の地域に比べ、砂糖が比較的身近な存在になっていった。もちろん、誰もが贅沢に使えたわけではない。それでも、砂糖が「特別なもの」から「使いどころを選べば使えるもの」へと少しずつ位置づけを変えていったのは確かだろう。
この環境が、味付けにも影響を与えた可能性は高い。煮物や揚げ物、そしてしょうゆにまで、甘さが自然に入り込んでいく。
鹿児島の甘いしょうゆは、突然生まれた味ではない。奄美の畑で育ったサトウキビと、薩摩藩の政策、そして人々の暮らしが重なり合った末に、静かに定着していった味なのだ。
砂糖の甘さは、単なる好みではなく、歴史の中で選び取られてきたもの。鹿児島のしょうゆに感じる甘さは、その名残を、今もはっきりと伝えている。
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奄美と沖縄、似て非なる味の道
地図を見れば、奄美大島も沖縄も、どちらも日本の南に位置している。気候も近く、サトウキビが育つ土地という点では、共通点も多い。
それなのに、味付けの傾向は大きく異なる。鹿児島や奄美では甘いしょうゆが定着した一方で、沖縄では、しょうゆが甘いという印象はあまりない。この違いを考える手がかりのひとつが、歴史的な立場の違いだ。
奄美は、江戸時代に薩摩藩の支配下に置かれ、砂糖生産を通じて藩の経済と深く結びついていった。その結果、砂糖は薩摩の食文化の中へと少しずつ組み込まれていく。
一方、沖縄は琉球王国として、独自の政治と交易の歴史を歩んできた。中国との交流が深く、食文化もまた、別の方向から影響を受けている。同じ「南」であっても、どこに組み込まれ、どことつながってきたのかで、味の基準は変わる。
甘いしょうゆが当たり前になった地域と、そうならなかった地域。その差は、気候や素材だけでは説明できない。奄美と沖縄の違いは、味覚が、土地の歴史や政治と無縁ではないことを、静かに物語っている。
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「最初は無理、でも慣れる」甘いしょうゆと味覚の順応
鹿児島の甘いしょうゆに対する反応は、多くの人が驚くほど似ている。
最初は、どうしても違和感が勝つ。刺身に甘いしょうゆなんて考えられない、舐めた瞬間に「甘すぎる」と感じてしまう。それまでの“正解”が、頭の中にしっかり出来上がっているからだ。
ところが、数日その土地で食事を続けていると、少しずつ感覚が変わってくる。煮物には合う、揚げ物にも悪くない、そして気づけば、刺身もこの甘さで食べている。
これは、味覚が裏切られたわけではない。書き換えられているのだ。その土地で日常的に使われてきた味は、
料理同士が前提を共有している。甘いしょうゆを前提にした出汁、甘さを受け止める素材、全体のバランスが、最初からそう組み立てられている。
だから、外から来た人も、しばらくすると違和感が消える。甘さだけが浮いて感じられなくなり、ひとつの味としてまとまってくる。旅の終わりが近づくころ、「自分用に一本買って帰ろうかな」そんな気持ちが芽生えるのも、この順応の延長線上にある。
味覚は、生まれつき決まっているものではない。時間と場所によって、静かに形を変えていく。鹿児島の甘いしょうゆは、そのことを、とても分かりやすく体験させてくれる。
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甘いしょうゆは、鹿児島の日常の味
鹿児島の甘いしょうゆは、観光客のために用意された特別な調味料ではない。あくまで、日常の台所にある味だ。刺身、煮物、つけ揚げ。どれか一つの料理に合わせて甘いのではなく、甘いしょうゆを前提に、料理全体が組み立てられている。
だから地元では、「甘いかどうか」を意識することはほとんどない。それが普通で、それが当たり前。話題にする必要すらない味だ。
鹿児島中央駅や空港の売店で甘いしょうゆが並んでいるのを見ると、「あ、やっぱり買って帰ろうかな」そんな気持ちになる人も多い。最初は驚いたはずの味が、いつの間にか“恋しくなる味”に変わっている。この変化こそが、鹿児島の甘いしょうゆが長く生き残ってきた理由なのだと思う。
無理に押しつけなくても、時間をかければ、自然に受け入れられる。甘いしょうゆは、鹿児島の歴史や暮らしが静かに溶け込んだ結果として、今も食卓に置かれている。味は、声高に語らなくても、ちゃんと土地のことを伝えてくれる。
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味は、歴史を覚えている
鹿児島の甘いしょうゆは、単なる味の好みではない。砂糖が身近だった時代、薩摩藩と奄美の関係、交易や支配の歴史、そして港町や城下町の日々の暮らし。そうした時間の積み重ねが、一本のしょうゆの中に溶け込んでいる。
最初は「甘すぎる」と感じても、その土地で食べ、その土地の料理に囲まれているうちに、違和感はゆっくりと消えていく。味覚が変わるのではなく、背景が見えてくるのだ。
甘いしょうゆは、主張の強い調味料ではない。声高に歴史を語るわけでもない。ただ、いつもの食卓にあり続け、使われ続けてきただけだ。
それでも、ふと立ち止まって考えてみると、そこには確かに、土地の歩んできた時間がある。味は、言葉よりも正直に、歴史を覚えている。鹿児島の甘いしょうゆは、そのことを、静かに教えてくれる存在なのかもしれない。
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まとめ|甘さの向こうにあるもの
鹿児島の甘いしょうゆは、「好み」や「流行」で生まれた味ではない。砂糖が身近だった時代の背景、薩摩藩と奄美の歴史、そして日々の暮らしの中で選び続けられてきた結果だ。
最初は戸惑い、やがて慣れ、気づけば「これでいい」と感じる。その変化は、味覚が弱いからではなく、土地の文脈が見えてくるから起こる。
甘いしょうゆは、観光のための記号ではない。刺身にも、煮物にも、つけ揚げにも寄り添い、鹿児島の日常を支えてきた調味料だ。一本のしょうゆをきっかけに、土地の歴史や人の営みへと思いが及ぶ。それだけで、食べ慣れた味は、少しだけ特別になる。