江戸の町を北へ抜けると、やがて隅田川にかかる橋の先に千住の宿場が見えてくる。ここは日光街道最初の宿場町、江戸の北の玄関口として多くの旅人を送り出してきた場所だ。
元禄2年(1689年)、俳人・松尾芭蕉もまたこの町から旅に出た。弟子や知人たちに見送られながら千住を後にし、奥州へ向かう長い道のりを歩き始めたのである。
日光街道と隅田川が交差するこの町は、江戸時代には物流の拠点として栄え、商人や職人、旅人たちが行き交う活気ある宿場町だった。そして開宿から400年を迎えた今も、千住の町にはその歴史を受け継ぐ人々の暮らしが息づいている。江戸の北の玄関口・千住。旅人を送り出してきた宿場町の400年をたどる。
【放送日:2026年3月16日(月)21:00 -21:59・NHK-BSP4K】
【放送日:2026年3月17日(火)20:00 -21:00・NHK-BS】
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千住とはどんな町?日光街道最初の宿場
千住は、江戸の北の玄関口として栄えた宿場町である。江戸時代、日本橋を起点に北へ延びる日光街道の最初の宿場町として整えられ、旅人や商人たちが行き交う交通の要所だった。
日光街道は、徳川家康をまつる日光東照宮へ向かう重要な道でもある。将軍が日光へ参詣する際には「日光社参」と呼ばれる大行列がこの街道を通り、千住の町はその最初の宿場として大いに賑わった。

また千住は、街道だけでなく水運の拠点でもあった。隅田川や荒川を通じて江戸へ物資が運ばれ、野菜や薪、米などの生活物資がこの地域を経由して江戸の町へ入っていった。江戸の台所を支える物流の結節点でもあったのである。

こうして千住には商家や問屋が集まり、市場も開かれて活気ある町が形成された。江戸の町を出る旅人と、江戸へ物資を運ぶ商人たちが交差する場所。それが日光街道最初の宿場町、千住だった。
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芭蕉が旅立った町──奥の細道の出発点
元禄2年(1689年)3月、俳人・松尾芭蕉は江戸を発ち、奥州へ向かう長い旅に出た。後に『奥の細道』として知られることになる旅である。
旅の出発点となったのが、江戸の北の玄関口・千住だった。弟子や知人たちがこの町まで見送りに来て、別れを惜しみながら芭蕉を送り出したと伝えられている。そのときの心境を詠んだ句として知られるのが、次の一句だ。
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
春が過ぎていくように、江戸での暮らしとも別れを告げる。鳥も魚も涙を流しているように見える――そんな感慨がにじむ一句である。
当時の旅は、今のように気軽なものではなかった。長い道のりには危険も多く、無事に帰れる保証もない。だからこそ千住での見送りは、単なる出発ではなく、ひとつの別れの儀式でもあったのだろう。
江戸の町を背にして北へ続く日光街道。芭蕉はこの千住から一歩を踏み出し、奥州へ向かう長い旅を歩き始めた。
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江戸の台所を支えた町──千住市場と物流の拠点
千住は旅人の町であると同時に、江戸の暮らしを支える物流の拠点でもあった。
江戸時代の物流の主役は、陸路よりもむしろ水路だった。重い荷物を運ぶには船が圧倒的に効率がよく、江戸の町へ入る物資の多くは川を通って運ばれてきた。千住は日光街道と隅田川が交わる場所にあり、陸の街道と水の舟運が結びつく重要な結節点だったのである。
隅田川を行き交う船には、周辺の農村から運ばれてきた野菜や薪、米などの生活物資が積まれていた。これらは千住の市場に集まり、そこから江戸の町へと流れていく。こうして千住は「江戸の台所」を支える町として栄えていった。
中でも青物市場はとくに活気があり、野菜を扱う商人たちは「葱商(ねぎしょう)」と呼ばれた。千住周辺はネギの産地としても知られ、江戸の食卓にはこの町を通った野菜が数多く届けられていたという。
なお隅田川の流れは、江戸の治水とも深く関係している。江戸の町を洪水から守るため、荒川の水を分ける工事などが行われ、川の流れは時代とともに整えられてきた。こうした水のネットワークが、江戸の巨大都市を支える物流の基盤になっていた。
旅人が行き交う街道と、物資を運ぶ舟が集まる川。その二つの流れが交わる場所として、千住の町は発展していったのである。
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葱商の心意気──商人文化が育てた千住の気風
千住の町を支えてきたのは、旅人だけではない。江戸の食卓を支える青物商人たちの存在も大きかった。
千住周辺は古くから野菜の集散地として栄え、とくにネギを扱う商人は「葱商(ねぎしょう)」と呼ばれていた。江戸の町へ運ばれる野菜の多くがこの町を経由しており、青物市場には早朝から活気ある声が響いていたという。
こうした商人たちは、単に物を売るだけではなく、町の文化も育ててきた。江戸時代から続く商家の蔵には、掛け軸や屏風絵などの美術品が大切に残されている。しかし千住の人々はそれらを「しまっておく宝物」として扱うのではなく、普段の暮らしの中で使いながら受け継いできた。
文化は飾るものではなく、生活の中で生き続けるもの。そんな考え方が、この町の商人文化には息づいている。
日光街道を行き交う旅人、隅田川を上り下りする船、そして青物市場で働く商人たち。そうした人々の活気が、千住の町の気風を形づくってきたのである。
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変わり続ける町──若者とアートが作る新しい千住
江戸時代に宿場町として栄えた千住の町は、時代とともに姿を変えながら現在まで続いている。
近年の千住は、若い世代が集まる町としても注目されている。周辺にはいくつもの大学があり、学生たちが行き交う活気のある町になっている。古くからの商店街や市場の雰囲気と、若者の文化が混ざり合う独特の空気が、この町の魅力の一つだ。
さらに千住では、地域と学生が協力して取り組むアートイベントも行われている。町の商店や路地、空き家などを舞台にした作品展示が行われ、地域の人々と若い芸術家が一緒になって町の文化を作り上げている。
江戸時代から続く商家の蔵に残る文化財も、ただ保存されるだけではない。町の人々はそれらを生活の中で使いながら受け継ぎ、現代の文化とも結びつけている。
それは武家の”家宝としてしまい込む”に対して商人の、みんなで”文化を共有する誇り”みたいなものかもしれない。商人は、名物の茶碗や掛け軸は蔵にしまうより、客を招いて使うことで価値が生きると考えたのだろう。商人は客との付き合いの中で文化を磨いていったのだ。
宿場町として生まれた千住は、400年の歴史の中で何度も姿を変えてきた。しかし旅人や商人を迎えてきたこの町の気風は、今も若い世代の活動の中に受け継がれているのかもしれない。
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新日本風土記「日光街道 千住」の見どころ
新日本風土記「日光街道 千住」では、開宿400年を迎えた千住の町を舞台に、宿場町の歴史と現代の暮らしが描かれる。
江戸時代、日光街道最初の宿場町として栄えた千住。隅田川と街道が交わるこの町には、旅人や商人たちが集まり、独特の文化が育まれてきた。
番組では、江戸時代から続く商家の蔵に残る掛け軸や屏風絵などの文化財が紹介される。千住の人々はそれらをただ保存するのではなく、暮らしの中で「使いながら」受け継いできたという。
また、青物市場の伝統を引き継ぐ「葱商」の姿や、町と学生が協力して取り組むアートイベントなど、現在の千住に息づく新しい文化も描かれる。
江戸の宿場町として始まり、時代とともに姿を変えながら続いてきた千住の町。番組は、400年の時間を越えて受け継がれてきた人々の営みに光を当てていく。
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まとめ|江戸の北の玄関口だった町
江戸の町を北へ抜けると、日光街道最初の宿場町・千住があった。ここは江戸の北の玄関口として、旅人や商人たちを迎え、送り出してきた町である。
元禄2年、松尾芭蕉もこの町から奥州への旅に出た。弟子たちに見送られながら千住を後にし、長い街道を歩き始めたのである。
その後400年の時が流れ、千住の町は姿を変えながら今も続いている。宿場町の面影を残す商店街、商人文化の伝統、そして若い世代が作る新しい文化。さまざまな時代の物語が、この町には重なり合っている。
旅人を送り出してきた町、そして江戸にやってきた旅人を迎え入れてきた町、千住。日光街道のはじまりの場所には、今も変わらない人々の営みが息づいている。