行田はなぜ埼玉の始まりなのか?落城しなかった忍城の秘密は?出土した剣はなぜ国宝になったのか?【ブラタモリ】

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7/15放送のブラタモリは埼玉県行田市が舞台です。「埼玉」の名前の起源は?国宝の剣はなぜ有名になったのか?「のぼうの城」のモデルになった忍城はなぜ難攻不落だったのか?タモリさんが行田の街をブラブラ歩きながら解き明かしますが、その前に今回舞台になる埼玉県行田市について調べてみました。
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行田市がなぜ埼玉県名発祥の地なのか?

行田市は埼玉県北部の、群馬県との境の街です。取り立てて特徴もないところに見えますが、世界最大の「田んぼアート」があってギネスにも認定されているほどです。この田んぼアートは「古代蓮の里」内にある展望タワーから見ることができます。古代蓮の里では蓮の花だけではなくさまざまな水生植物や水生動物を観察できます。

田んぼアート
田んぼアート

また行田市には、東関東最大規模と言われる「埼玉古墳群」があります。周辺は「さきたま古墳公園」として整備されています。古墳時代にはこれだけ大規模な古墳群を作れるだけの権力を持った豪族がこの地にいたということで、埼玉のルーツにふさわしい土地だということもできるでしょう。

さきたま古墳公園
さきたま古墳公園

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「さきたま」とは先多摩・前多摩のことを指し、武蔵国多摩郡の奥にある土地という意味があります。また埼玉郷とは、現在の行田市付近にあたり、「さき(前)+たま(湿地のこと)」から「さいたま」と呼ばれるようになったとも、幸福をもたらす神を意味する「さきみたま(幸魂)」からさいたまと呼ばれるようになったとも言われています。

諸説ありますが、これが現在の埼玉県の県名の由来になったと言われています。現に行田市内には「埼玉(さきたま)という地名があります。現在、「埼玉」という地名は行田市の大字(おおあざ)の一つで、古墳群の近くには電柱の看板や信号機などに「埼玉」という地名を見ることができます。

交差点の表示
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電信柱の地名表示
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「のぼうの城」(忍城・おしじょう)はなぜ落城しなかったのか?

映画「のぼうの城」で有名になった忍城(おしじょう)は行田市にありました。現在では再現された天守が郷土博物館として公開されています。この城は戦国時代に、豊臣秀吉の一連の北条攻め(神奈川県小田原市)の際に、秀吉の部下の石田三成が担当して攻めました。

忍(おし)城
忍(おし)城

秀吉は北条攻めの前に備中高松城(岡山県岡山市)で、周囲を湿地に囲まれている備中高松城を攻めるのは、兵や馬が湿地に足を取られている間に狙い撃ちされると考えて、周囲に大堤防を作ってから、そこへ近くの川から水を引き込んで水責めにしました。この作戦を立てたのは秀吉の軍師、かの黒田官兵衛と言われていますが、その戦いの一部始終を見ていたのが石田三成でした。

忍城も周囲を湿地に囲まれていましたから三成は、「同じ手が使える!」と考えたに違いありません。早速、忍城の周囲に堤防を作って川の水を引き込んだのです。当初はさほど水かさが増えませんでしたが、梅雨の長雨で次第に忍城は水の中で孤立していきます。

映画「のぼうの城」
映画「のぼうの城」

「このままではマズい」と思った総大将の成田長親は、密かに堤防を破壊するという作戦に出ます。深夜、密かに破壊工作員を堤防に向かわせて破壊したのですが、その水は、攻めていた石田三成の陣に流れ込んで大混乱になってしまいました。いずれにしても忍城のまわりの湿地はぬかるんで泥沼になり、兵も馬も進めない状態になってしまったのです。

そんな折、秀吉から石田三成の元へ「もう攻めなくていい」という知らせが届きます。忍城の親分だった北条氏の小田原城が先に開して降伏してしまったのです。このことから「石田三成は戦下手」という悪評が立って、のちの関ヶ原の合戦でも味方がなかなか集まらなかったとも言われています。

石田三成が忍城攻めに失敗したのは、備中高松城の時に作った堤防が3キロ程度だったのと違って、忍城の周囲に作った堤防は地形の関係もあって28キロにも及んだ点でしょう。堤防が長くなればなるほど作りも雑になりますし、周囲の見張りも大変になって隙が出ます。そこに破壊工作員が付け入る隙が出たのではないでしょうか?

北に利根川、南に荒川が流れ、その間の距離が10キロ程度あるために、城を水没させるために必要な堤防の長さは、必然的に長くせざるを得なかったのでしょう。こんなところにも地形の妙があるのかもしれません。

国宝の剣「稲荷山古墳出土鉄剣」(いなりやまこふんしゅつどてっけん)はなぜ国宝になったのか?

1983年に行田市の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から1つの鉄剣が出土しました。「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」とも言われていますが、1978年に腐食が進む鉄剣の保護のためにX線検査が行われました。この時、剣の両面に115文字の漢字が記されていることがわかりました。このことから剣に金錯の銘があることで金錯銘鉄剣とも呼ばれるようになりました。

書かれていた銘文では、日本書紀にある大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となっていることがわかり、国宝に指定されたというわけです。日本書紀といえばほとんど神話のような世界の話なので、それが実在していたという証拠は日本という国の成り立ちにとって大きな意味を持つわけです。

稲荷山古墳出土鉄剣
左が表面、右が裏面

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「日光脇往還」と日光街道はどう違うのか?

いわゆる「日光街道」は、江戸と東照宮のある日光を結ぶ街道のことですが、江戸時代にはこれとは別に東京の八王子と日光を結ぶ街道がありました。これが「日光脇往還」と呼ばれるもので、忍宿(現在の埼玉県行田市)はこの街道の宿場町の一つでした。

一つ手前の吹上宿(現在の埼玉県鴻巣市)では中山道と交わる交通の要衝にも近い場所です。日光脇往還は、江戸時代に「八王子千人同心」が日光勤番の移動のために整備された街道なので、またの名を「千人同心街道」とも言われます。江戸から日光へ向かう日光街道と区別するために日光脇往還と呼ばれましたが、地元では「日光街道」と呼ばれているようです。いわゆる業務用街道といったところでしょうか?

日光の手前の今市宿で江戸に繋がる日光街道と合流して日光へ向かいます。

日光脇往還
日光脇往還
現在の地図
現在の地図

行田はなぜ足袋が名産品になったのか?

木綿の産地でもある行田市は、街道が近くにあったことから、旅行用や作業用の足袋の生産が盛んになりました。明治時代になると行田には忍商業銀行や行田電燈株式会社ができて資金力や電力が安定し、電動ミシンで足袋の大量生産が可能になったことで、日本一の足袋の生産地になったというわけです。

忍城の水攻めのところでも触れたように、行田は北の利根川、南の荒川に挟まれた土地です。これらの川によって運ばれてきた堆積物によって砂質の土壌になり、土地柄、夏の高温もあって綿の栽培に適していました。つまり行田はなるべくして足袋の街になったとも言えます。

行田足袋
行田足袋

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行田市のまとめ

行田市がなぜ埼玉県名発祥の地なのか?

もともと「先+たま(湿地)」は先多摩・前多摩のことを指し、武蔵国多摩郡の奥にある土地ということで「さきたま」と呼ばれていたものが、「さいたま」となったと言われています。

「のぼうの城」(忍城)はなぜ落城しなかったのか?

石田三成が水攻めしようとして忍城の周りに巨大な堤防を築きましたが、利根川と荒川の間の距離が離れていたため、堤防の総延長が28キロにもなってしまい、警備も行き届かなかったために相手の工作員に堤防を決壊されてしまったからと言われています。

国宝の剣「稲荷山古墳出土鉄剣」(いなりやまこふんしゅつどてっけん)はなぜ国宝になったのか?

古墳から出土した鉄剣をX線検査したところ、日本書紀にある21代雄略天皇の名があり、考古学的に雄略天皇が実在した実証となっていることがわかったため国宝に指定されました。

「日光脇往還」と日光街道はどう違うのか?

日光街道は江戸と日光(東照宮)を結ぶ街道ですが、日光脇往還は八王子千人同心が日光勤番に向かうために整備された街道でした。

行田はなぜ足袋が名産品になったのか?

土地柄、綿の生産が盛んだった上に、街道沿いで足袋の需要があったことから、江戸時代の武士の妻たちの内職として発展したものが、明治になって量産が可能となってますます発展しました。

放送当日にはタモリさんがブラブラしながら、他にもいろいろな秘密を解き明かしてくれることを楽しみにしています。

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