冬の日本海は、厳しい。荒れる海、冷たい風、命がけの漁。それでも人は海に出て、その恵みを、余すことなく受け取ってきた。
世界遺産に登録された佐渡島。この島でいま、ズワイガニの“身”ではなく、カニみそに光を当てた旅が始まる。香り、コク、そして奥行きのある旨み。かつては脇役とされがちだった部分が、料理人たちの手によって、まるで宝石のように磨き上げられていく。
命がけの漁を支える漁師。海洋深層水でカニの価値を高める仲卸。素材を引き算で生かす和の料理人。殻の奥に眠る旨みまで料理に昇華する洋のシェフ。それぞれの立場が重なり合い、佐渡ならではの「尽くし美味」が形になっていく。
これは、贅沢な食材を並べる物語ではない。使い切ること、無駄にしないこと、そして自然と向き合う覚悟の物語だ。食彩の王国が描くのは、ズワイガニの向こう側にある、佐渡島の海と、人の技。その一皿は、きっと“味”以上のものを語ってくれる。
【放送日:2026年1月17日(土)9:30 -9:55・テレビ朝日】
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世界遺産・佐渡島へ──冬の王様を訪ねて
冬の佐渡島は、やさしくない。日本海から吹きつける風は冷たく、海は日によって荒れ、漁に出ること自体が大きな覚悟を伴う。それでも、この島の冬には、どうしても人を引き寄せる“王様”がいる。旨みをたっぷりと蓄えた、ズワイガニだ。

世界遺産に登録された 佐渡島 は、豊かな自然だけでなく、厳しい環境と向き合いながら食を育んできた場所でもある。冬の海で水揚げされるズワイガニは、寒ブリや南蛮エビと並び、佐渡の冬を象徴する存在だ。
ただ、この旅が向かうのは、「高級食材としてのカニ」だけではない。身の奥に秘められた旨み、香りとコクを宿すカニみそ、そしてそれを余すことなく生かそうとする人の手と知恵だ。
荒れる海と向き合う漁師の仕事。その命の重みを受け止め、料理として昇華させる人たち。佐渡島の冬は、食材の豊かさ以上に、向き合い方の深さを教えてくれる。“冬の王様”を訪ねるこの旅は、これから、海・人・技が重なり合う場所へと進んでいく。
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命がけの漁が生む、アツアツの漁師めし
夜の海は、昼とはまったく別の顔を持つ。冬の日本海なら、なおさらだ。冷たい風と暗闇の中、船を出すのはベテラン漁師の 中務博史 さん。向かうのは佐渡海峡、水深およそ300メートルの深海に仕掛けた底刺し網だ。
荒れる冬の海での漁は、常に危険と隣り合わせ。中務さんはかつて、真冬の海に落ち、九死に一生を得た経験もあるという。それでも海に出る。それが、この仕事であり、この島で生きるということだからだ。そんな過酷な漁のあと、体と心を温めてくれるのが、家に戻って待つ“漁師めし”。
中務さんの妻・節子さんが作る料理には、豪華さよりも、命を労わるやさしさがある。茹でたズワイガニの身をほぐし、衣にといて天ぷらに。それをアツアツの鍋焼きうどんにのせる。さらに、カニの身をたっぷり使った一皿も並ぶ。派手な演出はない。けれど、その一口には、海と向き合った一日のすべてが詰まっている。
漁師めしは、“ごちそう”であると同時に、明日も海へ向かうための糧だ。ズワイガニは、水揚げされた瞬間から、すでに物語を背負っている。料理人たちが向き合う前に、まず、この場所で、この温度で、命として受け取られている。
ここから先、このズワイガニは、別の手へと渡り、さらに磨かれていく。次に登場するのは、漁師の苦労に報いたいと願う、仲卸の仕事だ。
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“おけさ蟹”誕生──海洋深層水が引き出す旨み
命がけの漁を経て水揚げされたズワイガニは、すぐに“完成”するわけではない。次にバトンを受け取るのが、仲卸という存在だ。佐渡島でズワイガニを扱う 佐渡商店 の土屋一彦さんは、漁師の苦労に、どう応えられるかを考え続けてきた。その答えのひとつが、海洋深層水を使った畜養という方法だ。
ズワイガニを、生息環境に近い海洋深層水の水槽で3日以上かけて畜養する。その間にカニは泥を吐き、身はゆっくりと落ち着き、味は角が取れていく。

急がせない。無理をさせない。“待つ”という仕事だ。こうして仕立てられたズワイガニは、身がなめらかで、味わいがまろやかになるという。土屋さんはこの極上のカニを、「おけさ蟹」と名付け、ブランドとして世に送り出した。いまでは東京や大阪の著名な料理店でも、この名が選ばれている。
ここで大切なのは、新しいことをしている、という事実だけではない。漁師が命をかけて獲ったカニを、その価値にふさわしい姿で届けたい、という思いだ。漁師の仕事を、流通の段階で台無しにしない。むしろ、もう一段、丁寧に引き上げる。“おけさ蟹”は、人の手が、命の価値を高めていくことができる、その証でもある。
このバトンは、さらに次の担い手へと渡されていく。料理というかたちで、旨みが完成する場所へ。
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和の引き算──日本料理「なかむら」のカニみそ
佐渡島で本格的な日本料理が味わえる店、日本料理 なかむら。ここで向き合うズワイガニは、豪華さを競うための素材ではない。
香ばしいカニの朴葉焼き。火にかけられ、立ち上る香りとともに、カニみそのコクが静かに広がる。余計な調味はしない。朴葉の香りと、カニそのものの旨みが、ゆっくりと重なっていく。
もう一品が、カニと湯葉のあんかけごはん。口どけのよい湯葉と、なめらかなカニみそ。出汁の温度、とろみの具合、すべてが主張しすぎないように整えられている。ひと口ごとに、旨みが“押し寄せる”のではなく、ほどけていく感覚だ。
日本料理の強さは、足し算ではなく、引き算にある。素材が持っているものを見極め、それ以上のことはしない。だからこそ、カニみその香りやコクは、隠されることなく、真ん中に立ち上がってくる。命を受け取り、手を加えすぎず、静かに送り出す。
「なかむら」の料理は、カニみそを主役にしながら、同時に、佐渡の海そのものを語っているようにも見える。この和の引き算を経て、次にバトンは、まったく異なる発想の料理人へと渡る。殻の奥まで使い切る、情熱の洋の世界だ。
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殻まで使い切る衝撃──スペイン料理「マノカミーノ」
佐渡島で若者を中心に支持を集めるスペイン料理店、マノカミーノ。ここでズワイガニと向き合う姿勢は、日本料理とはまったく異なる。和が「引き算」なら、こちらは徹底した“使い切り”だ。カニの身だけでなく、殻からも旨みを引き出す。
時間をかけて取られる出汁には、海の香りと、カニみその濃厚なコクが溶け込む。素材をきれいに整えるのではなく、奥に眠るものを呼び起こす発想だ。
スペイン料理は、もともと海とともに生きてきた料理。ムール貝やエビ、イカ。殻やワタにこそ旨みがあることを、経験として知っている。だからこそ、カニみそは“脇役”ではなく、料理の核になる。鍋の中で、殻から取った出汁とカニみそが一体となり、旨みは凝縮されていく。香りは強く、味わいは深い。一口で、海が近づいてくるような感覚だ。

和の料理が、素材をそっと前に出すなら、マノカミーノの料理は、素材を押し出す。でもそれは、乱暴さではない。「ここまで使ってこそ、命に報いる」という、まっすぐな誠実さだ。殻まで使い切る。旨みを逃がさない。この料理は、ズワイガニという素材が持つ可能性を、もう一段、外へ広げている。
そしてこのバトンは、いよいよ最終章へと渡される。佐渡の海が、一皿の“宝石箱”になる瞬間だ。
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佐渡フレンチの気鋭が挑む“海の宝石箱”
漁師から仲卸へ、和の料理人、洋の料理人へ――受け渡されてきた命のバトンは、最後に、ひとつの“完成形”へと向かう。
舞台は、佐渡島のオーベルジュラ・プラージュ。ここで腕を振るうのが、佐渡フレンチの気鋭、須藤良隆シェフだ。日本最大級の若手料理人コンペティションで優勝した経験を持つ彼は、島の食材と真正面から向き合い、“佐渡の味”をフレンチとして再構築している。
須藤シェフが選んだ主役は、海洋深層水で畜養された“おけさ蟹”。漁港に足を運び、漁師の中務さん、仲卸の土屋さんと対話しながら、その味わいの本質を探る。素材の背景を知らずして、料理は完成しない――そんな姿勢が、皿の上に表れていく。
さらにシェフは、同じく海洋深層水で畜養された黒アワビにも着目。佐渡の海が育てた旨み同士を重ね合わせ、一皿の中で響かせる。カニみそのコク、殻から取った出汁の深み、アワビの力強さ。それらが、過不足なく組み上げられていく。
完成した料理は、まさに“海の宝石箱”。見た目の華やかさだけではない。一口ごとに、漁の緊張、待つ時間、引き算と使い切り、すべての工程が立ち上がる。佐渡の海と人の仕事が、静かに、しかし確かに語りかけてくる。
この皿は、贅沢のための料理ではない。命を受け取り、磨き、次へと手渡すための料理だ。佐渡フレンチは、島の豊かさを“消費”するのではなく、未来へ残すための形を示している。
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まとめ|“尽くし美味”とは、使い切る覚悟のこと
佐渡島のズワイガニは、ただ「おいしい食材」として存在しているわけではない。荒れる冬の海で命がけで獲られ、時間をかけて整えられ、人の手によって、ようやく一皿の料理になる。漁師の覚悟。仲卸の工夫。和の引き算。洋の使い切り。そして、それらをひとつに束ねる料理人の技。
“カニみそ尽くし”とは、贅沢に使うことではなく、余すことなく受け取ることなのだと、この旅は教えてくれる。世界遺産として守られる佐渡島の自然は、ただ残されているのではない。人が向き合い、考え、磨き続けてきたからこそ、いまも生きている。
一皿の料理の奥にある、海と人の物語。それを感じ取ることができたとき、“美味”は、きっと記憶に残る体験へと変わる。食彩の王国が描いたのは、ズワイガニの向こう側にある、生き方としての贅沢だった。