NHKスペシャル|椎葉 山物語──“のさり”という心

霞で煙る山を見る女性の後ろ姿 BLOG
良いことも、悪いことも。喜びも、悲しみも。それらすべてを「神さまからの授かりもの」として受け取る心を、この土地では“のさり”と呼ぶ。
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良いことも、悪いことも。喜びも、悲しみも。それらすべてを「神さまからの授かりもの」として受け取る心を、この土地では“のさり”と呼ぶ。

宮崎県・椎葉村。深い山々に抱かれたこの場所には、効率や正解では測れない暮らしの時間が、今も流れている。犬とともに山を駆ける猟師。ミツバチと語らうように向き合う養蜂家。人は自然を支配せず、管理もせず、ただ、与えられるものを受け取りながら生きてきた。

100年以上前、民俗学者・柳田國男はこの村を訪れ、「この暮らしは、いつまで続くのだろうか」と記した。そして今、NHKは一年以上をかけて、その“続いてきた時間”を見つめ直そうとしている。

“のさり”とは、いったい何なのか。それは説明できる言葉ではなく、人の姿や、山の気配の中に、静かに息づいている。この物語は、答えを探すためのものではない。読む人それぞれの心に、「私にとっての“のさり”とは何だろうか」そんな問いが残ることを願って。

【放送日:2026年1月18日(日)21:00 -22:00・NHK総合】

「“のさり”」とは何か?──言葉にできない受け取り方

“のさり”は、辞書の中にある言葉ではない。はっきりした定義を持つ考え方でもない。良いことがあったとき、それを「幸運だった」と言い切らない。悪いことが起きたときも、「不運だった」と切り捨てない。椎葉の人々は、それらすべてを神さまから授かったものとして受け取ってきた。それが“のさり”だ。

そこには、「意味を理解しよう」とする姿勢はあっても、「理由を突き止めよう」とする焦りはない。なぜ起きたのかを問うより、起きたことと、どう共に生きるかを考える。

山の暮らしでは、自然は人の都合に合わせてくれない。獲れる日もあれば、獲れない日もある。守られることもあれば、奪われることもある。それでも、どちらか一方だけを選び取ることはできない。だからこそ、良い・悪いを分ける前に、まず「受け取る」という姿勢が生まれた。

“のさり”は、前向きな言葉でも、諦めの言葉でもない。ただ、この世界と折り合いをつけながら生きてきた人々が、静かに身につけてきた受け取り方そのものなのだ。——それは、説明できるものではなく、人の立ち居振る舞いの中に、ひそやかに現れる。

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山が与え、山が奪う──椎葉の暮らしにある当たり前

椎葉の暮らしは、山から何かを「得る」ことで成り立っている。同時に、山から何かを「奪われる」こととも、常に隣り合わせだ。獲物に出会える日もあれば、何時間歩いても何も得られない日もある。天候ひとつで、予定は簡単に崩れる。

それでも人々は、山を責めることはしない。自然に「応えてもらえなかった」と考えるより、今日はそういう日だったと受け取る。

犬がイノシシを追い、猟師がその後を駆ける。その姿は、自然に挑んでいるようにも見えるが、実際には、自然の流れの中に身を置いているだけだ。山は、いつも同じ顔をしてはいない。恵みを与える日もあれば、容赦なく試練を差し出す日もある。

だから椎葉では、「良い日」と「悪い日」をきっぱり分けて考えない。どちらも、山と共に生きる以上、避けられないものだからだ。この土地では、自然は管理する対象ではなく、コントロールする相手でもない。共に在るものとして、ただ受け止められてきた。

そうした日々の積み重ねの中で、人々は、何かを期待しすぎず、何かを拒みすぎない距離を身につけていった。それが、椎葉の暮らしにとっての“当たり前”だった。

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犬と走る猟師、ミツバチと語る養蜂家

犬がイノシシを追い、そのすぐ後ろを、七十五歳の猟師が風のように走る。合図はない。命令も、号令もない。犬と人は、同じ山の気配を感じ、同じ瞬間を読んで、ただ前へ進む。そこにあるのは、訓練された上下関係ではなく、長い時間の中で育まれた信頼だ。獲れるかどうかは、最後まで分からない。それでも猟師は、結果を急がない。

一方で、九十一歳のハチミツ採りの名人は、今日もミツバチの巣へ向かう。防護服も身に着けず、慎重に、しし恐れすぎることなく。彼は言葉で指示を出さない。ミツバチを「管理」もしない。ただ、機嫌をうかがうように、話しかけるように、距離を測る。
蜜を分けてもらえる日もあれば、そうでない日もある。それを、「失敗」や「損」とは呼ばない。

今日は、そういう“のさり”だっただけだ。猟も、養蜂も、自然の中では人の思惑が必ずしも通用しないことを知っている。だからこそ、人は前に出すぎず、後ろに下がりすぎず、ちょうどいい場所に立つ。

犬と走る猟師も、ミツバチと向き合う養蜂家も、自然をねじ伏せようとはしていない。ただ、共に在る時間を生きている。そこには、成功も失敗も超えたところにある、“のさり”の姿があった。

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“管理しない”という知恵──山と共にある距離感

椎葉の暮らしを見ていると、「管理する」という発想が、ほとんど前に出てこないことに気づく。山をどう利用するか。獲物をどう効率よく得るか。自然をどう制御するか。そうした問いは、ここでは主役にならない。代わりにあるのは、どこまで踏み込まないかという感覚だ。

やりすぎない。取りすぎない。先回りしすぎない。自然は、人の計画通りには動かない。それを前提として受け入れるからこそ、人は山と距離を取りながら生きてきた。

管理しないというのは、放っておくことではない。無関心でも、諦めでもない。それは、「人の力が及ばない領域がある」という事実を、ちゃんと認めることだ。山の機嫌が良い日もあれば、そうでない日もある。それを無理に変えようとせず、今日はこういう日だと受け止める。

そこには、常に正解を求め続ける緊張はない。うまくいかなかった理由をすべて説明しなくてもいいという、静かな安心がある。“管理しない”という知恵は、自然のためだけのものではない。それはきっと、人が自分自身を追い詰めすぎないための知恵でもあったのだろう。すべてを思い通りにしなくていい。すべてに意味を与えなくてもいい。椎葉の人々が身につけてきた距離感は、世界をそのまま受け取るための、やさしい構え方だった。

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柳田國男が見た椎葉、そして100年後の私たち

今から百年以上前、民俗学者・柳田國男は椎葉村を訪れ、山の中に息づくこの暮らしを目にした。狩り、焼畑、養蜂。自然と切り離されることのない生活。そこには、近代化へと進みつつあった日本の中で、すでに失われ始めていた時間の流れがあった。

柳田は、この椎葉の暮らしを見て、「いつまで続くのだろうか」と記したという。それは称賛でも、楽観でもない。消えゆくものを前にした、静かな予感だったのかもしれない。

効率や合理性が価値とされ、人が自然を“管理する側”へと立ち位置を変えていく時代。椎葉の暮らしは、その流れの外側にあった。

そして百年後のいま。私たちは再び、この村の姿を映像で見つめている。それは、失われた過去を懐かしむためだけではない。便利さの中で、すべてを説明し、すべてを制御しようとする私たち自身が、どこかで息苦しさを感じ始めているからだ。

柳田が危惧したように、椎葉の暮らしは大きく変わってきた部分もある。それでも、自然と向き合うときの距離感や、良いことも悪いことも受け取る構えは、今も人々の中に残っている。百年前に向けられた問いは、いま、私たちの側に戻ってきている。この暮らしは、いつまで続くのだろうか。それは同時に、私たちは、どんな心で生き続けるのだろうかという問いでもある。

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良いことも、悪いことも──“のさり”が残したもの

椎葉の暮らしを見ていて、はっきりとしたメッセージを受け取ろうとすると、どこかで違和感が生まれる。
「こう生きるべきだ」
「こう考えるべきだ」
そんな言葉は、この村のどこにも見当たらない。あるのは、良いことが起きた日も、悪いことが重なった日も、同じように一日を終える人の姿だ。

山で獲物が得られた日。何も得られなかった日。蜂が穏やかな日。荒れて近づけない日。それらを並べて、意味づけをすることはしない。ただ、「今日は、そういう日だった」それだけで受け取る。

“のさり”は、前向きな言葉でも、我慢を強いる考え方でもない。状況を肯定するための道具でもない。それは、世界を無理に理解し尽くそうとしない姿勢だ。説明できないことがあるまま、それでも生きていくという選択だ。

良いことも、悪いことも、すべてを整えてから受け取るのではなく、起きた形のまま受け取る。“のさり”が残したのは、答えではない。方法でもない。ただ、人が自然や運命と向き合うときの、やわらかな構え方だった。

それはきっと、忘れてしまったとしても、完全には失われない。ふとした瞬間に、胸の奥から立ち上がってくる感覚として、静かに、残り続ける。

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まとめ|あなたにとっての“のさり”とは何だろうか?

“のさり”という言葉は、「授かる」を意味する動詞「のさる」に由来すると言われている。良いことも、悪いことも、人の力を超えたものとして、いったんそのまま受け取る――そんな感覚が、この言葉の奥にはある。それは、努力を放棄することでも、運命に身を委ねきることでもない。ただ、すべてを説明しきろうとしない心のあり方だ。

子どものころから耳にしてきたビートルズの「LET IT BE」。意味も考えずに口ずさんでいた若いころだったが、その言葉が、人生のある地点で、ふと胸に落ちてくる瞬間がある。「なるようになる」ではなく、「なすがままに…」。椎葉の人々が大切にしてきた“のさり”は、そんな静かな覚悟にも似ている。

この物語は、何かを学ぶためのものではない。何かを変えるための指針でもない。ただ、読み終えたあとに、「私にとっての“のさり”って何だろう?」そんな問いが、心のどこかに残ってくれたなら。それで、十分だ。

山の暮らしは、今も、静かに続いている。答えを急がず、今日という一日を、授かりものとして受け取りながら…。

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