美の壺|京の味・冬――底冷えの町が育てた、あたたかな知恵とは?

京都の町並みを見つめる女性の後ろ姿 BLOG
京都の冬の味は、「特別な一皿」ではなく、寒さを前提に組み立てられた。
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冬の京都は、寒い。
それもただの寒さじゃなく、足元から、芯から、じわじわと忍び寄ってくるような「底冷え」だ。だからこそ、京都の冬の食は派手さよりも、あたたかさを選んできた。湯気の立つ通り。蒸された米の香り。とろりとした餡が、冷えた身体にそっと触れる感触。

京の冬の味は、「贅沢」ではない。身体をいたわり、季節をやり過ごし、無事を願うための知恵だ。ごちそうは、静かで、やさしくて、ちゃんと理由がある。蒸しずし、かぶら蒸し、大根だき、そして新年を迎える菓子。そこにあるのは、京都人が冬と向き合ってきた、長い時間の記憶。

さあ、湯気の向こうへ。「京の味 冬」は、ここから始まる。

【放送日:2026年1月28日(水)19:30 -20:00・NHK BSP4K】

底冷えの町・京都が育てた「冬の食」の考え方

京都の冬は、気温の数字以上に寒い。盆地特有の地形で風が抜けにくく、湿り気を含んだ冷えが、静かに身体に溜まっていく。だから京都の冬の食は、最初から「身体を温める」ことが前提だった。

豪快に脂で押すのでも、香辛料で刺激するのでもない。蒸す、包む、とろみをつける。熱を逃がさず、ゆっくり身体に渡すための工夫が、自然と選ばれてきた。

ここでよく語られる「おばんざい」も、本来は観光用の言葉ではない。日々の台所で、無理なく、無駄なく、季節を越えるための家庭料理。それを後から、わかりやすい名前でまとめただけのことだ。

京都の冬の味は、「特別な一皿」ではなく、寒さを前提に組み立てられた、暮らしの設計図みたいなもの。底冷えを知っている町だからこそ、料理は声高に語らず、湯気で語る。

この考え方があるからこそ、蒸しずしも、かぶら蒸しも、大根だきも、冬の京都では、あたりまえの顔でそこにある。

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湯気に誘われる、冬のごちそう「蒸しずし」

蒸しずしは、冬の京都で親しまれてきた、あたたかいお寿司。酢飯の上に、穴子、海老、錦糸卵、椎茸、百合根などを彩りよくのせ、それを蒸籠でふんわりと蒸し上げる。蒸すことで、冷えた酢飯はほんのり温まり、具材の香りと甘みが、湯気と一緒に立ち上る。

ちらし寿司の「出来立てのやさしい温かさ」、あれを冬仕様にきちんと仕立てた感じだ。口に入れる前から、身体がほどけていく感じがある。おもしろいのは、寿司なのに「冷たくない」こと。生魚の鮮度を競う料理ではなく、冬に“食べやすくする”ために姿を変えた寿司だ。

底冷えの京都では、冷たいご飯は身体にこたえる。だから寿司も、冬仕様になる。酢のきいた味はそのままに、温度だけを、季節に合わせて調整する。通りに漂う湯気に誘われて、「あ、今日は蒸しずしのある日やな」とわかる。

そんな冬の記憶と結びついた料理でもある。派手な主張はしないけれど、蒸しずしには、京都の冬の知恵と、やさしさがそのまま詰まっている。

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雪玉のような一品――聖護院かぶの「かぶら蒸し」

「かぶら」とは、そう、かぶのこと。でも、京都で使われるのは、丸くて大ぶりな聖護院かぶだ。

かぶら蒸しは、すりおろした聖護院かぶに、白身魚や百合根、卵白などを合わせ、ふんわり蒸し上げた料理。仕上げにかけられるのは、熱々の餡。

見た目は、まるで雪玉。白くて、やわらかくて、静か。口に運ぶと、まず感じるのは、「味」より先に来る、温度と質感

とろり、ふわり、ほろり。冷えた身体に、いきなり主張してこないのが京都らしい。かぶは、主役になりにくい野菜だ。ぬか漬け、味噌汁、付け合わせ。でも冬の京都では、その“淡さ”こそが強みになる。

脂も香辛料も使わない。それでも満足感があるのは、蒸すことで引き出された甘みと、餡が包み込むことで生まれる一体感があるから。

底冷えの夜に、静かな部屋で、湯気を立てながら出てくるかぶら蒸し。それはごちそうというより、「今日は、ちゃんと冬をやり過ごせそうやな」という合図みたいな料理である。

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願いを食べる――冬の風物詩「大根だき」

京都の冬には、「大根だき」と呼ばれる風景がある。寺の境内に大きな鍋が据えられ、白く透き通るまで煮えた大根が、静かに振る舞われる。これは、いわゆる料理というよりも行事に近い。

無病息災、健康祈願。一年を無事に過ごせますように——その願いを、大根と一緒に身体に取り込む。味付けは驚くほど素朴だ。出汁と味噌、あるいは薄い塩味。主張はないけれど、冷え切った身体には、これ以上ないほどまっすぐ届く。

大根は、冬の畑で甘さを蓄え、時間をかけて煮ることで、芯までやわらかくなる。噛まなくても崩れるほどのその食感は、「今年もよく耐えましたね」と言われているようでもある。

京都の冬の食には、おいしさと同時に、祈りの回路が残っている。神社や寺で手を合わせるのと同じように、食べることで、心身の調子を整える。

願いを言葉にせず、鍋の前に並び、黙って箸を伸ばす。そんな静かな共同体の時間が、今も冬の京都には息づいている。

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職人の町を支える、家庭の冬の味

京都の冬の味は、名店の座敷だけにあるわけじゃない。むしろ本番は、表に出ない家庭の台所だ。

西陣をはじめ、京都には昔から職人の町が広がってきた。早朝から手を動かし、身体を冷やし、黙々と仕事を続ける人たち。そんな日々を支えてきたのが、派手さのない冬の家庭料理だった。

決まった名前はない。特別な作法もない。けれど、出汁を効かせ、火を通し、身体を温めることだけは外さない。

例えば、炊いた大根を京都人は「大根の炊いたん」と言ったりする。例えば、根菜の煮物。例えば、前日の残りを少し手直しした一皿。京都の家庭料理は、「今日を乗り切る」ための料理だ。

明日もまた仕事がある。だから胃に重くせず、冷えを残さず、静かに力を渡す。観光で語られる「京料理」は、この日常の積み重ねの、ほんの一部を切り取ったものに過ぎない。

本当の京の冬の味は、声高に語られず、誰かの暮らしの中で当たり前の顔をしている。ええかっこは外ではする。でも家では、ちゃんと本音で食べる。その切り替えこそが、京都の冬を生き抜く知恵だったのかもしれない。

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新年を迎えるための甘さ――老舗の「干菓子」

京都の冬の終わりには、「新年を迎える」という大きな節目がある。その入口にそっと置かれるのが、干菓子だ。

干菓子は、生菓子のように瑞々しくはない。噛めばほろりと崩れ、甘さは控えめで、後に残らない。けれど、その軽さこそが、新年にふさわしいとされてきた。

年の瀬は、何かと重たい。寒さも、疲れも、一年分の出来事も。だからこそ、新しい年のはじまりには、身体に負担をかけない甘さが選ばれる。

老舗の干菓子作りは、驚くほど静かだ。派手な演出もなく、ただ淡々と、型に粉を詰め、乾かし、整える。十二年に一度しか登場しない意匠があるというのも、「売るため」ではなく、「時を守るため」の仕事だからだ。

干菓子は、祝うための菓子であると同時に、「整える」ための菓子でもある。一年を閉じ、心を軽くし、次へ向かう準備をする。京都の冬の味は、最後まで声を張らない。ただ静かに、「ここで区切りましょう」と教えてくれる。

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京の冬の味は、「あたたかさ」をつくる料理

蒸しずしも、かぶら蒸しも、大根だきも、干菓子も。京都の冬の味を振り返ると、共通しているのは「強さ」ではない。辛くない。濃くない。派手でもない。けれど、確実に身体に残る。冷えきったところに、そっと灯りを置くような料理ばかりだ。

底冷えの町で、人は寒さと正面から戦わなかった。受け入れ、やり過ごし、身体の内側から整える。その選択が、蒸す・煮る・包むという技になり、やがて京都の冬の味として受け継がれてきた。

京の冬の料理は、「おいしさ」を競わない。「どう生きるか」を、静かに示す。だから観光の言葉だけでは、なかなか掴めない。

湯気の向こうにあるのは、贅沢ではなく、暮らし。料理の奥にあるのは、見せない本音と、続けていく覚悟。京都の冬の味は、寒さに勝つ料理ではない。寒さの中で、ちゃんと生きるための料理なのだ。

まとめ

京都の冬の味は、特別な日のためだけにあるものではありません。底冷えの町で、毎日を無事に過ごすために生まれ、育まれてきた料理です。

蒸しずしの湯気、かぶら蒸しのやわらかさ、大根だきに込められた願い、干菓子がつなぐ年の区切り。どれもが、声高に語らず、身体と心を静かに整えてくれます。

観光の言葉や華やかなイメージを少し横に置いてみると、京の冬の味は、「暮らしの知恵」として、すっと輪郭を現します。寒さを否定せず、受け入れ、やり過ごす。その中で生まれたあたたかさこそが、京都の冬の料理が今も大切にされている理由なのかもしれません。

湯気の向こうにあるのは、ごちそうではなく、日常。そして、静かに続いてきた時間そのものです。

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