壊れたものは、元に戻せない。それでも日本では、壊れたことを理由に、終わりにしない選択が、長く続けられてきた。欠けた器を、漆でつなぎ、あえて金でその跡を残す「金継ぎ」。異なる器同士を組み合わせ、新しい姿へと導く「呼継ぎ」。使い込まれ、繕いを重ねた布「襤褸(ぼろ)」。
そこにあるのは、壊れる前の姿を取り戻そうとする美ではない。壊れたという時間を、消さずに引き受ける美だ。
NHK「美の壺」は、器、家具、布、そして住まいを通して、日本人が育んできた「繕い」の感覚に目を向ける。直すけれど、消さない。消さずに、使い続ける。そこに見えてくるのは、完成ではなく、続いていく美のかたちだ。
【放送日:2026年2月1日(日)23:00 -23:30・NHK-Eテレ】
割れや欠けを、めでるという選択 ― 金継ぎ
器が割れる。欠ける。形あるものはいつか壊れる。それは、日常の中では「失敗」や「終わり」として扱われがちだ。けれど日本では、その割れや欠けを起点に、もう一度、器と向き合う文化が育まれてきた。
金継ぎは、割れた陶磁器を漆でつなぎ、その継ぎ目を金や銀で装飾する技法だ。注目すべきなのは、修復の跡を隠さないこと。むしろ、あえて強調するように、光を当てる。そこには、「元通りに戻す」ことへの執着はない。
割れてしまったという事実を、そのまま器の一部として引き受ける。欠けは、傷ではなくなる。ひとつの出来事として、器の表情に加わっていく。金継ぎされた器を前にすると、人は自然と、割れた瞬間のことを想像する。
使っていた時間や、持ち主の手の動きまで、器の向こうに浮かび上がる。それは、完成度を高める美ではなく、時間を重ねた美だ。壊れなかった器より、壊れて、つながった器のほうが、雄弁に語りはじめることがある。
金継ぎは、失われたものを取り戻す技術ではない。壊れたあとも、使い続けるための覚悟を、静かに形にしたものなのだ。
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異なるものをつなぐ ― 呼継ぎという発想
金継ぎが、割れたものを元の形へとつなぐ技法だとすれば、「呼継ぎ」は、まったく異なるもの同士を結び合わせる繕いだ。
欠けた器に、別の器の破片を当てる。色も質感も、時代さえ違うことがある。一見すると、ちぐはぐで、不完全に見えるかもしれない。けれど、呼継ぎされた器には、元にはなかった緊張感と、新しい表情が生まれる。
そこでは、「元通り」という基準そのものが、意味を持たなくなる。失われた部分を、同じもので埋めるのではなく、違いを抱えたまま、成立させる。
文筆家・白洲信哉さんが愛用する呼継ぎの織部にも、そうした思想が宿っている。異なる時間、異なる場所、異なる手。それらが、一つの器の中で共存することで、器はただの道具を超え、物語を持ちはじめる。
呼継ぎは、壊れたことを修正する技術ではない。壊れたあとに生まれた関係性を、そのまま形にする行為だ。完全であることより、つながっていることを選ぶ。その姿勢は、繕いという文化が、単なる修復ではないことを、静かに教えてくれる。
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古家具と住まいに宿る、繕いの思想
繕いの美は、器の世界だけにとどまらない。長く使われてきた古家具や、時代を重ねた住まいにも、同じ思想が息づいている。
古家具は、新品のように磨き上げられることを必ずしも目的としない。傷や歪み、色のむら。それらは欠点として消されるのではなく、使われてきた時間の痕跡として残される。必要な部分だけを補い、使える状態に整える。それ以上は、やりすぎない。
鍋の取っ手を、身近な木の枝で代用する。壊れた箇所を、同じ素材でなく、今あるものでつなぐ。そこにあるのは、完成度を高めるための工夫ではない。暮らしを続けるための選択だ。
武家屋敷を再生した建築にも、同じ姿勢が見られる。新しくする部分と、残す部分を、意識的に分ける。すべてを整え直さない。過去を消さない。そのうえで、今の生活に合う形へと調整する。
古家具や住まいの繕いは、「元に戻す」作業ではない。時間を受け入れながら、これからも使い続けるための、静かな更新なのだ。
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究極の繕い ― 襤褸(ぼろ)という美
布は、器や家具よりも、さらに過酷な時間を引き受ける。擦り切れ、破れ、何度も繕われ、それでも使われ続けた布。それが「襤褸(ぼろ)」だ。
襤褸は、最初から美しくなることを目的としたものではない。寒さをしのぐため、体を守るため、暮らしを続けるために、ただ必死に使われてきた結果だ。
破れれば、当て布をする。糸が切れれば、縫い直す。同じ布がなければ、別の布で補う。そこに、色や柄をそろえる余裕はない。美しさを考える時間もない。けれど、繕いを重ねた布には、不思議な秩序が生まれる。
異なる布。異なる色。異なる時代。それらが層のように重なり、唯一無二の表情を持ちはじめる。千点以上の襤褸を集めてきた画家が語るのは、「完成された作品」ではなく、生き延びてきた痕跡への敬意だ。
襤褸は、壊れたから価値が生まれたのではない。壊れても、なお使われ続けたことによって、美へと変わった。これは、繕いの行為が極限まで突き詰められた姿だ。
元に戻すことを、最初から諦めている。それでも、続けることだけは諦めなかった。襤褸には、繕いの思想が、もっとも率直なかたちで残されている。
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襤褸を纏う ― 現代へ続く繕い
襤褸は、本来「着るためのもの」だった。寒さを防ぎ、体を守り、生活を支えるための布。そこに美を見いだす余裕は、最初からなかったはずだ。けれど現代では、その襤褸に強く惹かれる人たちがいる。
千点を超える襤褸に魅了された気鋭のデザイナーは、それらを素材としてではなく、時間そのものとして受け取る。破れも、継ぎも、色の重なりも、すべてが偶然の産物だ。意図してつくることはできない。
だからこそ、襤褸を使った服づくりは、新しくデザインするというより、すでにあるものと対話する作業になる。どこを残し、どこを補い、どこまで手を入れるのか。そこには、「きれいに仕上げる」よりも、奪いすぎないという判断が求められる。
完成したジャケットは、均整の取れた美しさとは違う。左右非対称で、色も揃っていない。それでも、袖を通したときに感じるのは、不思議な落ち着きだ。それは、誰かが生きてきた時間を、そのまま身にまとう感覚に近い。
襤褸は、過去の貧しさを象徴するものではない。むしろ、足りない中で続けてきた知恵と選択の集積だ。現代において、それをあえて纏うという行為は、便利さとは別の価値を選び直すことでもある。繕いは、終わった文化ではない。形を変えながら、今も、私たちのすぐそばで続いている。
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まとめ|消さずに、直すという美
繕いの美は、壊れたものを元通りに戻す技術ではない。割れや欠けを隠さず、異なるものをつなぎ、傷んだ部分だけを補いながら、それでも使い続けるという選択だ。
金継ぎの器も、呼継ぎの織部も、古家具や住まい、そして襤褸(ぼろ)も。そこに共通しているのは、「なかったことにしない」という姿勢である。
完全さを取り戻すことより、時間を引き受けること。整えすぎず、消しすぎず、これからも使える状態にすること。繕いは、過去を美化するための文化ではない。壊れたあとも、暮らしを続けていくための知恵だ。
便利さの中で、直す理由を忘れかけた今だからこそ、繕いの美は、新しい問いを投げかけている。消さずに、直す。直しながら、使い続ける。その先にあるのは、完成ではなく、続いていく美のかたちなのかもしれない。